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# ブログ開設にあたり

「美術教育の目的は?」「美術教育の到達目標は?」等について、美術教育が今まで充分に国民に説明してこなかったように思います。その説明責任として応える、果たせる事ができるのが、美術教育では教科内容学ではないでしょうか。

上記の金沢大学・松浦教授からの問題提起から始まったワーキングの為のブログです。


[ブログ使用解説]
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学芸大学・石井壽郎(臨時管理者)toshiwo@u-gakugei.ac.jp

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コメント
(少しだけ続きです)
先週からの3名は言わばクリーンアップという感じでしょうか。

先週は芸大恩師、動く彫刻の先駆者:伊藤隆道先生。(2回目)カルダー作品との運命的な出会いの話、良かったです。人の一生が「一冊の美術の書籍」で決まるのですから。
今週はグラフィックデザインの巨匠:勝井三雄先生。(初登壇)人の視覚の秘密とデザイン表現の話、為になりました。『色相環の絵の具』を見て下さり絶賛いただきました。
明日は芸大同期で昔からの友人、画家:千住 博くん(2回目)がアトリエと住まいのあるNYから、何と!日本迄の交通費支給無しでも…来てくれます。有り難いことです。

恩師東京藝術大学教授:尾登誠一 先生には、NASA「宇宙茶室」プロジェクトの壮大な話をお願いしており、学生の視野を宇宙空間にまで拡げられるようにと願っています。
展示デザイナー:木下史青くん(あの伊藤若冲の屏風絵等、プライスコレクション展示で行った画期的な照明で注目を浴びた手法)解説も楽しみです。恐らく、最近全ての国立博物館の国宝級の展示方法を解説してくれるでしょう。
彼は安藤 泉 さんと私共通の予備校時代の教え子で芸大デザイン科後輩助手になります。

そして、小澤基弘先生、山木朝彦先生(横国大卒)「教科内容学検討委員会」同志で締めていただきます。両先生、期待しております。よろしくお願いいたします。

毎週月曜日の午後、本学最大の教室は若い学生の熱気で溢れています。
本授業と通じ「芸術と社会の関係」について、大学全体の学生が興味を持ち理解が深まることを願っています。

横浜国立大 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2011/11/13 1:54 PM |

皆様へ 『芸術と社会』外部招聘講師10名を紹介します。

◯伊藤文人 先生/桑沢デザイン研究所グラフィックデザイン研究科卒業/イラストレーター、トリックアート作家/JAGDA神奈川地区代表幹事/M.C.エッシャー生誕100年に捧げる超感覚ミュージアム金賞受賞/著書 さかさ絵本『まさかさかさま』他
http://whoswho.jagda.org/jp/member/821.html http://prw.kyodonews.jp/open/release.do?r=200908034177 http://q.hatena.ne.jp/1261723418

◯安藤 泉 先生/東京芸術大学大学院鍛金専攻修了/多摩美術大学客員教授/鍛金彫刻家/第2回高村光太郎大賞展で優秀賞/第2回ロダン大賞展でエミリオ・グレコ特別優秀賞/他、箱根彫刻の森美術館・美ヶ原高原美術館・旧日本橋ツムラビル・横浜ビジネスパーク他、公共空間に彫刻設置多数
http://www.city.yamato.lg.jp/shakai/yib/at/andou/andou3.html

◯伊藤隆道 先生/東京芸術大学工芸科金工専攻卒業/東京芸術大学名誉教授/彫刻家/環境芸術学会元会長理事/第2回彫刻の森美術大賞展「廻る曲線のリング」大賞、彫刻の森美術館他、公共空間に動く環境彫刻設置多数/葛西臨海水族園展示設計/他
http://www.mov-art.co.jp/mov/index.html

◯勝井三雄 先生/東京教育大学(現:筑波大学)卒業/武蔵野美術大学名誉教授/グラフィックデザイナー/JAGDA会長/国際花と緑の博覧会シンボルマーク、文部科学省シンボルマーク/他、ニューヨークADC金賞、東京ADC原弘賞、毎日産業デザイン賞、通産大臣デザイン功労者賞、勝見勝賞、紫綬褒章受賞/他 〒151-0066 東京都渋谷区西原3-48-9 株式会社勝井デザイン事務所
http://whoswho.jagda.org/jp/member/296.html http://www.katsui.co.jp/

◯千住 博 先生/東京芸術大学大学院日本画専攻博士課程修了/京都造形芸術大学学長/日本画家/ベネチア・ビエンナーレ絵画部門最優秀賞/大徳寺別院襖絵、羽田空港、APEC横浜2010等の公共空間の絵画担当/著書『絵を描く悦び』『美は時を超える』『日本画から世界画へ』等
http://www.hiroshisenju.com/

◯栗林孝之 先生/神奈川県立神奈川工業高等学校産業デザイン科卒業/グラフィックデザイナー/JAGDA会員/NEW YORK A.D.C立体イラスト部門金賞/他、『EARTH=HEART』自然への優しい眼差しの自然・共生・環境をテーマに優秀作品多数
http://whoswho.jagda.org/jp/member/1477.html

◯尾登誠一 先生/東京芸術大学工芸科デザイン専攻卒業/東京芸術大学教授/日本デザイン学会副会長、公共の色彩を考える会会長/プロダクトデザイナー/道路・橋・駅・発電所・大学・サッカースタジアム等公共施設の色彩計画/商品開発プロジェクト多数/NASA「宇宙茶室」プロジェクト/著書『色彩楽のすすめ』
http://www.geidai.ac.jp/staff/fa050j.html

◯木下史青 先生/東京芸術大学大学院環境デザイン専攻修了/東京国立博物館学芸企画課デザイン室長/「プライスコレクション 若冲と江戸絵画展」「国宝 薬師寺展」「国宝 阿修羅展」企画展示等、画期的照明方法、国宝級の作品の美の本質を浮き彫りにする質の高い展示に高い評価/著書『博物館へ行こう』岩波ジュニア新書
http://www.mbs.jp/jounetsu/2008/03_30.shtml

◯小澤基弘 先生/筑波大学大学院芸術学専攻修了/埼玉大学教授、東京大学大学院教育学研究科客員教授/日本大学美術教育学会副代表/画家/ドローイング論・絵画論・絵画制作学・教科内容学/個展グループ展等多数/著書『絵画の教科書』『絵画の制作学』他 http://www9.plala.or.jp/kozamotohp/

◯山木朝彦 先生/横浜国立大学大学院教育学研究科美術教育専攻修了/鳴門教育大学教授/美術教育学・美術鑑賞教育・教科内容学/著書『美術教育の基礎知識』『美術教育学』『4本足のニワトリ』『緑色の太陽』『メディア時代の美術教育』『セルフエデュケーション時代』他
http://www.office.hyogo-u.ac.jp/jgs/member/kyouin_data/YAMAKI_A.html
| 渡辺邦夫 | 2011/11/13 1:37 PM |

金沢大学 松浦 昇 先生

神戸大学の鈴木幹雄先生にドイツの美術教育に関する分析の御紹介ありがとうございます。
あのバウハウスが、現代デザインの概念を形成するに至った根幹に位置する「ドイツ芸術教育学の伝統」が辿れること、その「教育の発想構造」が精緻に分析されており勉強になります。

この処、本ブログ投稿が滞っており申し訳ございませんでした。
宮城教育大学開催の先の宮城大会では兵庫教育大学/前芝武史先生と「教科内容学へのアプローチ1」と題し口頭発表させていただきました。ご協力を賜りました関係委員諸氏に改めてこの場を借りて御礼を申し上げます。
その発表にも有りました通り、今春、本委員会はA、B2つのグループに別れ再編成され、Aグループの論議をBグループが精査するという方針となっております。Aグループでは「創造」について闊達な論議が行われており、小澤先生がお纏めいただいた議事録を、是非、本ブログにupしていだけたらと思いますが如何でしょうか。

本学では、音美体3実技教科講座持ち回りで、3年に一度、教養教育授業世話人担当の責務が廻って来ます。本年は私がまたも世話人に講座選出され、以下のカリキュラムで授業を進行しております。

★授業名/『芸術と社会』  教養教育授業(全学共通)
・開講期/後期 ・曜日/月曜日 ・時限/3限(13:00〜14:30)1コマ90分

本授業の狙いは…
芸術や美術やデザインが社会に果たす役割やその実例を、現場の第一線で御活躍されている画家/彫刻家/デザイナー/論述家等を招聘講師として向かえ、御自身による作品の紹介や解説のお話を聞くことで、芸術と社会の関係について視野を拡げ理解を深める。 ということになります。

★カリキュラム表(最終決定)Webシラバス公開済
2011年
10/ 4(火)*代替月曜日授業  オリエンテーション:世話人担当
10/17(月)伊藤文人 先生担当 「トリックアートの驚き/まさかさかさま」
10/24(月)安藤 泉 先生担当 「鍛金彫刻の世界/手から生まれる生命の形」
10/31(月)伊藤隆道 先生担当 「動く彫刻/環境と芸術の関係」
11/ 7(月)勝井三雄 先生担当 「視覚とデザイン表現」
11/14(月)千住 博 先生担当 「芸術とは何か?絵画による挑戦」
11/21(月)栗林孝之 先生担当 「環境への眼差し/自然の命から作るポスター」
11/28(月)尾登誠一 先生担当 「プロダクトデザイン/機能と美の関係」
12/ 5(月)木下史青 先生担当 「国宝の美を捉え社会へ伝える仕事」
12/12(月)小澤基弘 先生担当 「絵画を描く意味/ドローイング論」
12/19(月)山木朝彦 先生担当 「芸術と社会の関係/美術教育の意義」
2012年
 1/16(月)世話人担当「眼の仕組み/色彩と視覚の秘密」
 1/23(月)世話人担当「錯視/視覚トリックの不思議な世界」
 1/30(月)世話人担当「近未来のデザイン/BIO-MIMICRY」
 2/ 6(月)最終レポート提出・総括:世話人担当
https://risyu.jmk.ynu.ac.jp/gakumu/Public/Syllabus/DetailMain.aspx?lct_year=2011&lct_cd=9003104&je_cd=1

初日、オリエンの時、本学最大の階段教室(360名収容)に入るのが困難で驚きました。
満席で通路にも壁にも学生が溢れ、教室に入り切れない学生が溢れていました。
助手に尋ねると…687名居たそうです。勿論、招聘講師のお陰です。
前代未聞の事態です。現在はようやく400名強に落着いて来ました。

今週、グラフィックデザインの巨匠:勝井三雄先生が登壇し無事に授業を終えて…
やや安堵した状態ですが、世話人は授業準備も含めて非常に大変です。

横浜国立大 渡辺邦夫 (続きあり)
| 渡辺邦夫 | 2011/11/13 1:27 PM |

(3、のつづき)



 4. 1960年代ドイツの芸術教育学的刺激と発想構造
 (1)ドイツ全州規模の戦後初回芸術教育シンポジウム(1962-64):戦後、1962年から1964年にかけ三年間、戦後西側芸術胎動の地、ノルトライン=ヴェストファーレン州レックリングハウゼン市で、ドイツ全州規模の戦後初回芸術教育シンポジウム「芸術と教育」が開かれた。音頭をとったのは、ミュンスター教育大学に勤めていたハンス・ロンゲ教授であった。第一回のシンポジウム「芸術と教育」では、芸術教育改革への道が暗中模索された。
 第2年度では、バウハウス出身の芸術教育学者シュヴェットフェーガーは、1963年の報告「現代芸術と学校」 と題して、芸術の授業における新しい可能性について次のように主張した。
 「子どもは触覚的、力動的な物質経験を集める。色彩との交流も、触覚的な材料体験というメルクマールを有している。授業の指導においては、これらの諸力を覆ってはならない」と。
 また、プフェニッヒは、制作過程の開放性に触れ、芸術教育に求められる開放性こそクレーが<造形的思考>と呼んだものを開花させる、と主張した。
 第2年度シンポジウムに於いて、プフェニッヒは「芸術教育における制作過程」と題した講演を行った。先ず彼は、自らの芸術教育観を次のように展開させた。
 「…偶然的なもの、即ち形作られ、平面の中に広がる材料と、材料を芸術現象へと形造る人間との間に今起こる格闘の中で、…人間は自立する」と。
 その際彼は、子どもの制作プロセスにおける「偶然性」とその意味への配慮の必要性について触れ、次のように語っている。「弁証法的なプロセスの中では、偶然(性)は促進的な原理であり、子どもの制作の中で偶然を活性させる可能性が豊富に存在する。…そこには、未知の材料との、できる限り多様な材料との格闘が存在する。」
 プフェニッヒは、その省察を通して、芸術教育の課題と可能性を次のように規定した。
 「芸術教育は、次のような…諸々の見解、経験、体験、認識を生徒に可能としなければならない。/未知のもの、偶然現れてくるものを制御し、変える能力/材料を還元し、作品の中に新たな記号として実現し、この世界の色彩、フォルム、材料との持続的な対話の中にこの世界を表現のアプローチを用いて修正し、人間的基準に基づいて秩序づけること。/制作過程を課題とすることは、…同時に生徒達に造形的思考を要求すると同時に、…諸力の開花を促させる」ことである、と。
 (2)ドイツにおける芸術教育学的コンセプトの伝統:以上のような芸術教育観を、プフェニッヒは「パッサージュ(子ども達の「自らの表現」への通路)」というカテゴリーで特徴づけた。そしてプフェニッヒは、1964年の第3回シンポジウムで、授業のパッサージュから個人的なパッサージュへの交替、この転換点を言い換えて、「前提的理解を崩すこと(修正Korrektur)」というカテゴリーで次のように語った。
 「低学年の子ども達の油彩画は、ここでは遊びの地平で興ってくる。大きい子の場合には、色彩はもはや遊びの意味で操作されるのではなく、反省、感情移入、目の前に起こる色彩の諸現象に対する反応の意味で操作される。素朴な遊びから、色彩の響応の意識的な修正としての造形的に思考する遊びが生じてくる。それ故に内的な体系の根拠づけの第二の端緒は、学業時の生徒の意識の変化から得られる。我々の教科に於いて…私はその変化を、生徒達の個人的パッサージュと呼ぶ。」
 「…授業における本質的な部分は、前提的理解を崩すこと(修正)である。前提的理解を崩すことは、生徒を―内側に引き込むので―助けてその関心へと導く。…前提的理解を崩すことは、意識の覚醒化に役立ち、自立と自由に役立つ。/個々の生徒に即してなされるこの崩すことは、授業における教育(学)的基準であり、…/根源的な才能は、受け入れられるべきものではなく、保持されるべきものである。才能は、教育の中で初めて明らかとなるものであり、課題として与えれられたものの実現の中で初めて明らかとなる。…」
(紹介のまとめメッセージ:相互に矛盾を孕みながらも、美術教育関係者と制作出身の美術・図工教育関係者との響応と支え合いが醸成される事を願います―筆者)


以上
| 松浦 昇 | 2011/10/20 12:48 PM |

(前項のつづき)


 彼はこの視点から、制作・表現が《動きのある空間》によって《生き生きとした空間》が生まれることにあることを明らかにした。最終的に彼は次のような芸術教育学的視点を学問的論理として提出した。
 -「固定的な空間が、…動きのある空間に変わると、今や自律的な表現手段との格闘が始まる」。
 -「この学習過程は、思考の中に変化を、それ故に人間の中に変化を引き起こす。」
 (2)ドレスデン芸術アカデミー芸術家にみる造形芸術上の遺産と芸術教育学的刺激
 本稿ではこれまで、主に抽象の領域にみる造形芸術上の遺産と論理構造を概観してきた。ここで、具象芸術の事例に目を向けたい。
 日本に例えれば「京都」に位置するかと思われる、古都ドレスデンの具象芸術家の事例は、比較的古いタイプの芸術アカデミーのスタイルを維持してきた、1960年代迄のデュッセルドルフ、ミュンヘンの事例を想起させてくれる。
 しかし、例えばドレスデンの芸術家ハンス・テオ・リヒター(1902-1969)、具象水彩画家・芸術教育学者アドルフ・ベーリッヒ(1933-)達は、1950-60年代と1990-2000年代、抽象の視点を取り入れることによって具象芸術の表現世界を拡大した。受け継がれた視点は、「造形的作曲法としての美術の表現」と言い表わせるもので、その仕事を通して具象における表現世界が現代アートとして拡大された。そしてまた、次のような芸術教育学的視点がもたらされた。&#9312;「クロマーティッシュな(chromatisch 半音階・色彩の、濃淡の魅力に関わる)」もの、というヨーロッパ芸術界の伝統的な視点の体験、並びに&#9313;ドレスデンの巨匠芸術家ハンス・テオ・リヒターによって切り開かれたリトグラフのアプローチ(「空間の芸術」による具象芸術の拡大)、そして&#9314;<テクスチャーによって空間を生み出す>という、同じくドレスデンの芸術家・芸術学者アドルフ・ベーリッヒ教授の視点。
 そのいずれも、本来きわめて古典的なカテゴリーに属するものであるが、これらの視点によって「行き詰まり」つつある現代の造形表現と表現教育の地平に風穴が開けられた。明らかにされたのは、「空間の力動性」へ至るパッサージュであった(筆者2011年大学美術教育学会発表「『空間を動かす』感動を模索する」レジュメ、参照)


(4、につづく)
| 松浦 昇 | 2011/10/20 12:44 PM |

(2、のつづき)

 3. ドイツにおける20世紀芸術と造形芸術上の遺産について
(1)ドイツにおける20世紀現代芸術とその造形芸術上の遺産について
 1)20世紀の現代芸術について以前筆者は次のように要約した。「日常の身近な言葉の連鎖の中にリズムやメロディーが入り込むと、響き合いが生まれ、詩や歌が発生する。現代詩や現代短歌は、このことを発見することによって、その「うた」の世界を豊かにしてきた。/…/20世紀ヨーロッパの現代芸術は、この発見を足掛かりとして、いわば芸術上の「現代詩」を創り上げた。」
 2)J・イッテンの芸術教育学とモダニズムの芸術観:芸術学校バウハウスで教育を行ったイッテンは、1920年代、同校で新入生に造形表現の教育を行った。彼はこの教育で、20世紀芸術の発想法を教え、造形芸術を教えた。 
 その骨格は20世紀芸術にとって芸術の中心的秘密がどこにあるかというものであった。
 後に彼は、《運動によって活気づけられる色彩とフォルム、色彩によって活気づけられるフォルム》というカテゴリーを発見した。この発見を通してイッテンは、制作・表現の中核的事柄を生き生きとした、《動きのあるコンポジッション》こそ、20世紀芸術の中心点である事を明らかにした。
 3)ベルリン国立芸術学校出身教授による分析的・構築的な現代的芸術教育学の伝統:1930年代初頭にベルリン芸術大学前身を卒業したR・プフェニッヒは、芸術史の研究を糸口に、芸術家修業の世界に入り、1948年から50年代にかけてニーダーザクセン州オルデンブルク大学で教職に就いた。60年代には、第二次世界大戦後の芸術教育学研究のパイオニアとなった。
 当初、彼は初期著作で次のような基本的概念を基礎づけようとした。
 「空間を創造する可能性」(1959年)/「生き生きとした動きBeweglichkeit」(同上)/「動的なバランス」、「動的なコンビネーション」(同上)/「空間的力動性」(同上)/「色彩的に動きのある光の空間」(同上)/「構造的な組み立て」(同上)/「「空間、運動、光、並びに色彩」からなる構成物」(同上)/「表現の高揚」「色面の高揚」(同上)/「作用する作品[絵画]空間」(同上)/「構造的な作用が発生する」(同上)。
 その後彼は、それら省察を次のような芸術哲学的考察に発展させた。
 「人間は、芸術表現によって、…自らの表現と自らの視点の自律的な世界を世界の中に設定する。」「…そこから、…外の空間から内の空間への、そしてまたその逆への流れを形造るような、空間を創造する可能性が得られる。」
 更にプフェニッヒは、1964年になるとその著書『造形芸術の現代−−造形的思考への教育』で、自らの芸術教育学的視点の凝縮的な部分を、次のように要約した。
 「偶然性を、…制作の意志決定の中に差し挟もうとする…ことによって、予感もしなかったような豊かさが生み出されてくる。それ故に、我々は、材料を、その材料がアクティブになるように制作に振り向け、…活用する。」((《材料をアクティブにすること》)
 「…作品とその発生過程は、共通の構造を有している。造形的思考はその際、変化するこの影響に対して、絶えず反応する中で生まれてくる諸力を知覚し、それら諸力を導き、秩序づけることである。この発生過程の中に…相互変化と造形表現との対話が反映され、その対話の中にこそ現代芸術の教育(学)的意味が明らかとなる」と。


(次項につづく)
| 松浦 昇 | 2011/10/20 12:43 PM |

((2)のつづき)


 3)工業州ノルトライン=ヴェストファーレンにおける遺産としての<造形芸術上の近代>:グローバリゼーションが叫ばれる現代社会の下、今日、教育的スタンダードの要請は現代の芸術系教科の教育にとって不可避な課題となっている。しかし、判断を単純化させた時、そこにはとかく、現実的要請や一般教育学的論理の「大命題」の下に、成長世代を造形表現の基礎へ柔軟に導き入れる努力を希薄化させてしまう危険性が生み出されてしまいがちである。
 そして、この危険性をいかに克服するかという事柄は、子どもたちにいかに豊かな制作・表現の世界を保障し続ける事が可能かという我々の芸術教育(学)的課題でもある。
 ところで、「生徒達は、コラージュや、結び付けることの中で、周知のもの、発見したもの、偶然的なものから…新しい表現形式を形造る」、「実験すること/好奇心と探索…こそ、創造性を促進する授業の構成要素である」―――― 一見何気ないこの命題の中に、戦後芸術大学と芸術教育学の遺産を見ることができる。例えばそこには、P・クレーの造形表現コンセプトやR・プフェニッヒの、表現のプロセスを<材料・素材-実験>と理論化したコンセプトを見ることができる。
 1930年代初頭にデュッセルドルフ芸術アカデミー教授に就任したクレーの存在と造形表現コンセプトは、戦後のノルトライン=ヴェストファーレン州における造形芸術上の遺産の形成に重要な貢献を果たした。クレーは、ドイツの造形芸術の世界に「人間の内面表出の世界」をいかに表現できるか、いかに伝達可能なものにできるか、その可能性を明らかにした(W・ハフトマン)。


(3、につづく)
| 松浦 昇 | 2011/10/20 12:41 PM |

(1、のつづき)


 2. 現代的要請と芸術教育学的遺産とのはざまに位置する図工・美術系教科カリキュラム
 1)数年前筆者は、ドイツにおけるバ−デン・ヴュルテンブルク州とノルトライン・ヴェストファ−レン州基礎学校当該教科のカリキュラムを調査する機会を得た。そこにかいま見た事例は、教育的スタンダードと現代的・現実的要請とを受け止める際の対応と知恵を、対照的コントラストとして教えてくれた。
 バ−デン・ヴュルテンブルク州では2004年、基礎学校のカリキュラムは「ビルドゥングスプランBildungsplan2004」に改定され、従来からあった「造形芸術」と「織物」は、連携教科「人間、自然、文化Mensch, Natur u. Kultur」に取って代わられた。そして同教科では、従来からあった「造形芸術」と「織物」という二つの芸術系関連教科領域は、「人間の生活」、「文化的諸現象と環境」、「自然現象と技術」という三つの領域に組み込まれた。このカリキュラムでは、「自己」という個から、開かれた世界、環境、文化へ拡がっていく一般教育学的コンセプトが貫かれている。しかし、子ども達が第3-4学年に至るまでに、例えば<時間の諸経験を様々な形で描写する>という運用能力をどのようにして身に付けていけるのか、その可能性の動態的プロセスは希薄であり、加えてその教育内容も並列的である。
 他方、ノルトライン・ヴェストファーレン州では、従来からあった教科名「芸術」は変更されることはなかったが、カリキュラムは、2003年の基礎学校のカリキュラム(暫定版)や、2005年の基礎学校のカリキュラム(確定版)に改訂されている。
 このカリキュラムでは、内容及びその配列は、教材や教科内容を並列的に描き固定化させることを避け、開かれた可能性の提示とする。教授者の視点は、第1-2学年から第3-4学年への授業の展開可能性とその可能性のダイナミズムに目が向くように提示されており、また授業の可能性が動態として提示されている。
 2)制作・表現の基盤を現実的要請にあわせ、一般教育学的に相対化する結果としてもたらされがちな<当該教科の教育観と指導力量の成熟度の低下>をいかに回避するかという課題は、教育の空洞化を回避する意味で、わが国の当該教科の今後にとって重要な意味を有しているように思われる。
 ノルトライン・ヴェストファ−レン州の場合、基礎学校における図工・美術系教科の導入の仕方は時代の要請についてばかりでなく、芸術系教科の授業に必要とされる事柄について芸術教育学的によく熟慮されたものとなっている。
 例えば、色彩を用いた表現を事例とした場合、特別なテクニークを必ずしも必要としない<純粋な色彩と混ぜた色彩を識り活用する>という第1-2学年の制作課題は、続く第3-4学年では<色彩を意識的に活用しその効果と相互影響効果を観察する>、或いは<色彩の塗装用具を用いた諸々の経験を拡大する>という次のステップの制作に導き入れられていく。
 教授者の視点は、授業の展開可能性とその可能性のダイナミズムに目が向くようにガイドされており、また授業の可能性が動態として提示されている。
 その際同州基礎学校カリキュラムでは、次のように説明されている。「[材料と道具を用いた実験:]生徒は、制作過程の意図的・実験的端緒の中で、材料と道具を用いた経験を体験する。/…芸術の授業では、…生徒達は、コラージュや、結び付けることの中で、周知のもの、発見したもの、偶然的なものから…新しい表現形式を形造る。」「実験/好奇心と探索…こそ、創造性を促進する授業の構成要素である。」


((3)につづく)
| 松浦 昇 | 2011/10/20 12:39 PM |


金沢大学の松浦です。

 前回、広島大学の中村和世先生にアメリカの美術教育、DBAEについて投稿していただきましたが、今回、神戸大学の鈴木幹雄先生にドイツの美術教育について投稿して頂きました。教科内容学を考える上で参考になればと思います。



戦後ドイツ芸術教育学の伝統とその発想構造
                                   鈴木幹雄

 1、はじめに
 1)フランス語圏や英語圏の思惟形式に対して、一般的にドイツ語圏の人々には、物事を動態や関係性として思考する傾向が比較的強くみられるが、この思考傾向は、とかく豊富な動詞を起点とした思考傾向と繋がっているように思われる。同傾向は、諸「現象」と「本質」との相関関係を弁証法的に思考するヨーロッパ的思考形式と同様に、多くの若者が早い時期から慣れ親しむ思惟形式でもある。
 これらの思惟形式は、過去の政治的現実や歴史の中では、現実の諸現象をリアリスティックな諸現象として把握する視点を妨げ、負の役割を果した事もあった(ナチズム時代)。しかし同時に、20世紀諸科学の中ではポジティヴな役割も果たしてきたことも事実であり、ワイツゼッカー大統領(1920-)の「ドイツ人の罪」に象徴される政治的良心への歴史的省察を確立することに貢献した。
 2)とりわけ芸術の展開の上では、上記思惟形式は造形芸術上重要な役割を果たし、私たちはその代表的な事例として、バウハウスとその「造形思考」をあげることができる。バウハウスの「造形思考」は、デザイン・建築の領域ばかりでなく、クレー(1879-1940)やカンディンスキー(1866-1944)達の貢献に見られるように、抽象芸術の領域で「造形的コンポジッション(作曲法)」の視点とアプローチを創り上げてきた。
 同思惟形式は、ナチズム時代に外国への亡命や国内山岳部での内的亡命に追われたバウハウス教師や学生達によって受け継がれ、戦後芸術アカデミーと芸術大学改革に貢献する一大原動力となった。
 3)造形芸術分野の場合、上述の通りフランス語圏や英語圏の発想構造に比して、ドイツ語圏の造形芸術上の発想構造は、動詞や動態に思考の起点を置く思考傾向が強い(例えば命題「実験することExperimentieren…好奇心と探索…こそ、創造性を促進する授業の構成要素である」のように)。芸術諸現象を動態として思考する傾向は、芸術諸現象を力動的関係として把握する視点をもたらした。
 芸術教育学の理論史の中では、例えばベルリン教育圏出身で、ハンブルク大学副学長を務めたG・オットーによる、教育をプロセスとして把握する視点、芸術教育の基本的特徴を「授業における過程としての芸術」として把握する視点、芸術教育における制作過程を<材料・素材-実験-組み立てることMontage>と把握する視点が代表例としてある。しかし、オットーの遺産は、元々単なるアカデミズムの理論であるのではなく、あるアーティストが切り開いた芸術教育学的遺産の「練り上げ」であった。その人物とは、彼の友人で、同じくベルリン教育圏出身であった芸術家・芸術教育学者、R・プフェニッヒ(1914-1991)で、彼によってもたらされた遺産によって1960年代のドイツ芸術教育学とその発想構造が確立された。この点を見抜けなかったことは、筆者を含めて1990年代中葉迄のわが国の研究の限界であった。
 以下では、筆者が約30年間ドイツ芸術教育学研究に関わる中で見えてきた、戦後ドイツ芸術教育学の伝統とその発想構造について簡単な紹介を行いたい。


(2、につづく)
| 松浦 昇 | 2011/10/20 12:34 PM |


ツヅキ
 彼はきわめて冷静に、(美術教育だけでなく、あらゆる)教育の内容というものは、その力点の置かれ方によって三つの性格のどれかを強める場合が多いことを、その著『美術教育と子どもの知的発達』のなかで示唆しています。それは、「子ども中心」「社会中心」「教科中心」の三つです。

 彼によると、子ども中心のカリキュラムにおける教育内容は、第一に、各々の子どもの潜在能力を引き出し、第二に、自己実現を促す道具的な役割を担い、第三に子どもの興味・適性を伸ばすことである。その三にかかわり、教師の役割は、子どもをよく知ることである。そのようにアイスナーは子ども中心のカリキュラムを整理しています。

 社会中心のカリキュラムとは何かというと、若い世代への文化的遺産の継承と地域社会のニーズに応える人材の育成に焦点を当てるものです。社会の現実のニーズに応え、科学者や技術者の育成を社会形成の基盤と考える社会においてはその要素を強める教育の在り方です。アイスナーはきわめて具体的なことをイメージしており、大気汚染や人種問題などの解決を求める社会では、そのような社会的な問題の解決を図る基礎的能力の育成を求めるカリキュラムの可能性を想定しています。

 そして、アイスナー自身が自覚的に自らの役割として引き受け、その必要性を論じたのが教科中心のカリキュラムの考え方です。彼は、美術というものを教えるという、そのこと自体に対して懐疑的な煩悶する感覚を持ち合わせません。彼はこれまでのアメリカの美術教育には、教育目的と教育手段について、その価値を選択する判断基準と方法が欠けていたといいます。

(解釈を交えて言えば、子どもの興味・関心に根差すことだけでは、また、社会的なニーズに応えるだけでは、美術というものの柱を支える価値の意識は希薄であるということでしょうか。)

 アイスナーは、美術を学ぶことが将来、社会的に有用な能力の一部を形成するからというような種類の教科成立の論拠だけでは満足していません。彼にとって美術は「人類の偉大な精神的所産」なのであり、そのこと自体をもって学ぶに値する価値なのです。

 このような主張は、冷ややかに見れば、きわめて教養主義的なモダニズムに近い考え方であり、しかも、美術の範囲を狭く括りかねないものとして、批判的に映るかもしれませんが、彼のこの著作の全体から浮かび上がるアート受容の姿勢は、多元的な文化を積極的に受け入れ、他者理解を積極的に促すものです。

 DBAEとアイスナーについて手短かに焦点化したい箇所の提示を行ないましたが、私自身は、アイスナーの3分類で言えば、これまでの日本の美術教育では、あまりに社会的なファクターが弱かったのではないかと考えています。

 先に採り上げた創造主義を巡る鼎談のなかでは、ミーイズムというものが、肯定的に捉えられており、違和感を感じます。たしかに、ミーイズムというものは、自己肯定の具体的な表れでもありますが、自らが社会的に寄与する何らかの力を持つと自覚できたとき、個人はよりいっそう輝きを増し、自己の充実感を味わえるものだと思うのです。その意味では、社会的なニーズというファクターも避けることなく、創造礼賛の思想と繋げていくべきだと思っています。

(文中、アート、美術、文化など概念が整理できないまま、書き込んでおります点、申し訳なく思います。)

| Asahiko YAMAKI | 2011/07/07 6:49 PM |

松浦 昇先生 渡部邦夫先生 小澤基弘先生

 松浦先生のご尽力により、中村和世先生のDBAEにかかわる総括的な開設が当ブログに掲載されました。
 DBAEについて言えば、現在もその影響力が、発祥の地アメリカ合衆国に認められるだけでなく、考え方の上では、肯定的であれ批判的であれ、日本の美術教育研究者がこの教科を考える上で参照する基本文献になっています。

(あいにく、DBAEにかかわる様々なシンポジウムや教材について、まとまった基礎的文献としてストレートに翻訳された資料は無いのですが、藤江 充、岡崎昭夫、前村 晃、中村和世、阿部寿文の各先生のほか、多くの研究者が、包括的あるいは部分的な考察や解説をしています。)


 中村和世先生がお纏めになり、当ブログに掲載された解説のうち、私は次の部分に着目しました。
「DBAEの普及を通して、美術教育者の意識には以下のようなイメージ転換がもたらされたと言えます。
 第1は、美術にかかわる能力は、才能ある一部の子どもに限られるのではなく、生涯を通して美術文化を享受するためにすべての子どもに対して開発されるべきであり、それ故に、学校教育の中で美術教科は必修として位置づけられるということです。
 第2は、美術の活動は感性・感情の働きのみによるものではなく、本質的に知性の働きが伴うものであり、美術の活動における知性とは、記号や言葉による思考とは異なり、色、線、コンポジションなどを媒介に質的に思考することを特徴とすることです。
 第3は、子どもの創造性は、生来的な要因にのみ左右されるものではなく、専門領域に根ざした学習によって伸ばされるのであり、そのためには、従来からの美術制作に加えて、美術史、美術批評、美術理論からのアプローチも必要とされるということです。」
(改行は引用者:山木)

 これらはDBAEの成果を公平かつ客観的に整理したものであり、きわめて妥当な評価として認めることができるものです。

 一見、(古めかしい)美術のための美術という硬派な本質主義(エッセンシャリズム)に見えるDBAEという運動も、俯瞰してみると、生涯教育と学校教育との滑らかな接点を探り、知的なアプローチの重要性(ただしそれは言語活動に回収されない色や形を機軸にする知性の重要性)を踏まえたきわめて現代的な枠組みのなかから生まれたものであるということをここから確認できます。

 運動としてのDBAEは排他的なものではなく、むしろ、美術教育に対するさまざまな捉え方をシンポジウムの形態や、DBAE推進者のテキストとその批評というかたちでの取り込んでいくものでした。

 DBAEについて本日、グーグルにて検索したところ、「美術による学び研究会」を主催され、積極的にVTSの研究と実践化に努めている上野行一先生がその会のブログのなかで、アメリア・アレナスとDBAEの関係性が詳述されており、たいへん興味を覚えました。

 また、佐藤 学の論文の趣旨を発展させるかたちで、そのなかで述べられている「ディシプリンを知識の構造としてのみ理解することはこの概念を矮小化するものであり、適切な実践を生むことにはならないだろう。DBAEの教育を検証するとすれば、教科内容の側面だけではなく、探求のディスコース、すなわち対話による問題解決の過程、共同体による学習という側面に注目する必要がある。」という主張もまた実践レベルの問題としてDBAEを捉え返すうえで重要な視点だと思いました。興味を覚えた方は、上野氏のブログをお読みください。
http://artmanabi.main.jp/pg100.htmlc

 ここで少し、教育課程や系統性にかかわる美術教育のカリキュラムの性質ついて考えてみたいと思います。

 基本的にDBAEを支持していたエリオット・アイスナーは、どちらかといえば、エッセンシャリズムに位置しており、(これも、どちらかといえば創造主義的な子ども中心の)ヴィクター・ローウェンフェルドを批判的に採り上げています。しかしながら、その批判されたヴィクター・ローウェンフェルドもまた、きわめて現実的に教育課程や題材について考え、ある種の系統的なカリキュラムをその著『美術による人間形成』のなかで提示していました。アイスナーは、それでもまだディシプリンとしての弱さをアメリカの美術教育に感じており、自覚的に美術という枠組みの教科内容を確立しようと努めました。
それは意識的・自覚的な選択であり、その方向しかないというような視野の狭さから来たものではありません。

 彼はきわめて冷静に、(美術教育だけでなく、あらゆる)教育の内容というものは、その力点の置かれ方によって三つの性格のどれかを強める場合
| 山木朝彦 | 2011/07/07 6:38 PM |

小澤基弘先生
全体として、精緻な概念規定が議論の混濁を避けるもっとも良い方法であるという示唆を与えて頂いたように思えます。ディスカッションの密度を高めつつ、混濁の無い明快な方向が打ち出されることを期待しております。
次の文献は、この段階で参照すべきなのかどうかわかりませんが、創造を巡る過去のディスカッションには次のようなものがあります。これらの文献の創造概念との異同を確かめる上では、有効かもしれません。もちろん、新たな創造概念の形成プロセスにおいては、あくまでも歴史的な参考文献として、限定的な意味を担う文献だと存じます。

金子一夫・藤澤英昭・柴田和豊:鼎談「戦後美術における”創造主義”の再検討」美育文化1997年 Vol47,No.10 pp14-29

永守基樹:「戦後美術教育の継承と超克―「金子/柴田論争」が示したこと」美育文化 1999年 Vol.49,No.1 pp10-19
 
| 山木朝彦 | 2011/07/06 9:56 PM |

(続き)

4.「アートとの脈路を見失ってしまうような学校美術の形成」に対するご批判、「現代社会における魅力的な造形的営為のバイタリティーとの接点を模索し、学校と社会との間の垣根を低くする必要もいまの図画工作や美術には求められている」とのご見解について、このあたりも「アート」の意味する射程の相違、そしてまた「造形的営為」にある「造形的」という語の射程、そのあたりの認識や見解の相違がきちんと話合われないとすれば、おそらくABグループの議論は平行線を辿ることでしょう。Aグループの中でもこの点、特に「アート」に対する規定やそれの意味する射程には温度差があります。そこはきちんと各自が見解を吐露し、そのなかから共通認識できる考え方を抽出していく必要が今後あります。それを前提としない限りは、アートと学校教育との脈略を云々することはできないと思います。私も当委員会3年目を迎え、内容学の構築が、その精度を高めようとすればするほど、そんなに容易いものではないということを実感しているところです。「美術」「アート」「造形」「創造」それぞれの概念認識が皆それぞれに微妙に温度差があるからです。ただ、その温度差を見て見ぬ振りをしていては、議論は確実に堂々巡りに陥ります。Aグループの毎月の議論では、そのあたり歯に衣着せぬ勢いで各委員がそれぞれの見解を述べ、温度差を限りなく近づけていく努力をしていきたいと思っております。

5.「教科内容学の熱源のひとつとして、そのような造形世界と学校教育をよく練られた教育的媒体を通じて結びつけるような教材開発への熱意を数えいれるべきだ」とされるご見解について、さきほど直接電話でお話しましたように、「教材開発」の段階では、また新たに現場の先生方を委員とした内容学委員会が今後継承されることが必要ではないでしょうか。確かに山木先生のご意見はごもっともと思います。教育学部の学生は教員になることが前提ですから、常に学んだことを教育の場でどう生かすべきかは、学生とともに教員も考えていく必要があります。この点に付いては、方図が構築され、内容学の構造が明確化してから、段階的に考えていく事案であると思います。

 以上、山木先生のご見解に対する、現時点での小澤の私見です。まだ具体性はありませんが、「創造」そして「創造プロセス」を標榜しながらマッピングすることは、そんなに困難なことではないと思っております。「中間まとめ」における第一章/第二章で既にその具体的内容に踏み込んでもいることはご承知の通りです。「ドローイング」という言葉は確かに問題がありますが、要は創造の際の発想の原点の問題、外界と自分自身との関係性、外部情報をどうインプットするか、それをどのようなプロセスを通して具現化していくか等々、日常創造や制作に携わっている人間にとっては、特別な研究や考え方を要するものではないと思います。これら一つ一つを今後Aグループではつまびらかにし、それを一つのフィールドにマッピングしていく作業をしていく所存です。

以上長くなりました。他にAグループの先生、山木先生のご見解へのご意見がございましたら、よろしくお願い致します。

小澤基弘
| 小澤基弘 | 2011/07/06 9:13 PM |

山木先生

ご意見を拝読しました。また先ほどはお電話もありがとうございました。私なりにご返答を申し上げます。ただし、ここで書くことは、Aグループ代表としての見解ではなく、あくまで小澤個人の見解です。

まず山木先生のご指摘の一つ一つをここで確認しながら、過去からの当委員会の経緯を想起しつつ、私見を述べさせていただきます。

1.〈「創造」というフィールドにこれまで教科が作り上げてきた中身を配置しなおし、誰が見ても分かる明快な地図をつくるようなものが内容学なのだと考える〉というAグループの共通見解と、渡辺先生の言われる〈美術の社会的な価値をより身近な視点で捉え直し、美術教育の価値そのものを「美術の基礎基本」の観点から再構築する必要性〉とが、本質的に同一の射程を想定しているのであれば、山木先生のおっしゃるように、何の問題もなく今後AB両グループの議論は展開するでしょう。ここは一度、渡辺先生そして山木先生に「美術の基礎基本の観点から再構築する」ことの概略をお伝えいただければと思います。
 ご承知のように、当委員会発足当初からこうしたマッピングの必要性は議論されてきました。今年度からAグループに新たな先生方が参画され、そのマッピングを「創造」という更に広い射程から行おうと現在しているわけです。「創造」という概念は、「中間まとめ」に既に提示されており、それは決して唐突でも飛躍でもない概念であります。私の感覚では、「中間まとめ」の段階では、「美術」と「創造」を、あるときは同一視し、あるときは分けて考えるというように、その概念の認識が委員のなかで曖昧であったと考えます。今年度Aグループでは、そのあたりを曖昧にせず、「創造」とは何かをきちんと定義し、そのなかで「美術」がいかに位置づくか、その関係性を明確にするために議論をしているところであります。

2.山木先生の述べられる「現実の図画工作や美術、そして、教員養成の大学の美術関連の授業の中の、最も良質な部分を掬い上げ、その敷衍化やモデル化に努める事」そして「同時に、問題の所在を明らかにし、その改善を図るというような底上げの努力にもある程度力を尽くすべき」というご意見には賛同致します。この件に関しても、段階的に実現をしていく計画でおります。ただ、単なる事例紹介的なかたちにはしたくありません。しっかりとした「そもそも論」がまずあり、その考え方を他者によりよく伝えられるような方策として、そうした授業実践例やその改善の方策は位置づくのだと考えます。

3.「外発的動機付け」つまり「造形的な思考力を持つ者の社会的有用性について、わたしたちの社会が深く認識できるよう促す何らかの戦略は必要」という山木先生のご見解にも基本的に賛同致します。ただ、ここで山木先生が想定されている「造形的な思考力」とは何かが、とても大事な論点です。これは私の見解ですが、おそらくAグループの他の多くの先生は、ここは「造形的な思考力」よりもむしろ「創造的な思考力」とお考えになるのではないでしょうか。おそらくそのあたりに山木先生のお考えと現在のAグループの先生方の見解の相違があるように思います。Aグループでは、この「創造」という概念を山木先生の危惧されるような具体性を欠くものと認識しておりません。今後「創造」というフィールドでマッピングしていく際に、それが山木先生にも伝わるものになっていくと考えております。(続く)

| 小澤基弘 | 2011/07/06 9:11 PM |

小澤基弘先生
Aグループの先生方が教科内容学という一つの仮設の概念に現実的な意味を吹き込もうと精力的にディスカッションなさってる旨を拝読し、要らぬ事を申し上げたという反省の気持ちを抱いております。

たいへん丁寧にお書き頂いた理論的構築としての基礎的思考過程を読ませていただいて、いちばん心に残った部分を抽出させていただきますと、− − − −

小澤先生の【「創造」というフィールドにこれまで教科が作り上げてきた中身を配置しなおし、誰が見ても分かる明快な地図をつくるようなものが内容学なのだと考えます。】というお言葉です。

まさに、渡部邦夫先生が【美術の社会的な価値をより身近な視点で捉え直し、美術教育の価値そのものを「美術の基礎基本」の観点から再構築する必要性】を述べておられることと響き合っていると思いました。

いま、わたしたちに必用なのは、突然の飛躍を目指すことではなく、結果的には突然の飛躍や飛翔に見えるような素晴らしい提言とプランにたどり着くような理想的展開の余地を残しつつも、やはり、現実の図画工作や美術、そして、教員養成の大学の美術関連の授業の中の、最も良質な部分を掬い上げ、その敷衍化やモデル化に努める事なのだと思います。同時に、問題の所在を明らかにし、その改善を図るというような底上げの努力にもある程度力を尽くすべきだと思います。

もちろん、私は、従来、美術教育にとってのタブーとなっていたようなことすべてについて、一度、真摯に向かい合い、検討してみてもよいのではないかと思っています。ほんものの理想的な教育の在り方を地道に実践的な題材へと具体化するには、理想から理想の反映としての実践という単線的なあり方だけではなく、あらゆる先入主(先入観)を吹き払い、現象としての他教科のありようまでをも、視野に入れて自らを検証するといった現実主義のスタイルも必用になるのではないでしょうか。

たとえば、わたしたちの教科では創造的な活動主体の充実感や楽しみ方に強調点を置くために、いわゆる内発的な動機づけのみを基本としてきました。しかしながら、社会的な有用性を実感し、そのことによって、自らの生活の向上や、より発展的な進路の拡張に実質的に役立つような、いわゆる外発的動機付けも、他の教科では積極的に展開しています。大学受験の教科に参入すべきだというようなことを意図したい訳ではありませんが、理想としていえば、造形的な思考力を持つ者の社会的有用性について、わたしたちの社会が深く認識できるよう促す何らかの戦略は必要だと思います。

少し話題を変えます。

学校と社会における造形文化との接点について考えを述べたいと思います。私もまた、小澤先生がおっしゃるように、「我々は学校教育の中で「アート」と称される作品群やその周辺の社会的様相そのものを直接に接続するべきではない」という意見に賛成です。しかし、それは、「直接に」という条件に関わって賛成なのであり、アートとの脈路を見失ってしまうような学校美術の形成を理想とするものではありません。

ダイレクトにアートと子どもの造形活動を一元的に同一視したり繋げていこうとする試みは、子どもたちの表現活動の根底に潜むファンダメンタルな表現意図を損ねる結果を招くからです。

しかし、同時に、現代社会における魅力的な造形的営為(デザイン、建築、写真、各種のアート、パフォーマンス、文化遺産の継承と修復 etc)のバイタリティーとの接点を模索し、学校と社会との間の垣根を低くする必要もいまの図画工作や美術には、求められていると思います。教科内容学の熱源のひとつとして、そのような造形世界と学校教育をよく練られた教育的媒体を通じて結びつけるような教材開発への熱意を数えいれるべきだと思うのです。

表現と鑑賞という枠組み的な認識に基いて、そのどちらかに重きを置くのではなく、もう少し有機的で柔らかな認識と表出の絡み合いを認めることが重要なのではないかと思います。

論点がずれておりましたら、小澤先生、どうか遠慮なくご指摘ください。


| 山木朝彦 | 2011/07/06 4:08 PM |

山木朝彦 先生 皆様へ

暫く書き込みが滞っていた本教科内容学検討委員会ブログへ、Bグループの頭脳=山木先生が鮮烈な書き込みをされました。ABグループ分けによる論議移行への重要な再確認であると認識しています。お電話も戴き、此処に文章化したい様な濃い内容のお話しができました。(少し後述さていただきます)

又、松浦委員長も続かれ、広島大学の中村和世さんの米国DBAE(ディシプリンに基づく美術教育)理論を紹介しれました。中村先生は実は私の福井大学時代の教え子であります。英語堪能で成績優秀な彼女は、米国インディアナ大学ブルーミントン校大学院教育学研究科 教育学研究科博士課程を修了され、インディアナ大で客員研究員、教務補佐員を歴任、広島大学大学院講師を経て現職におられます。福井大学に居た当時、本学会でも活躍された古田洋司先生に我が娘の様に可愛がられていた姿が思い出されます。DBAE理論は本稿にも有ります様に「子どもの自発的活動をベースに創造性を伸ばす教育」から「この型の美術教育に欠落していた美術教科の持つべき本質的な内容と方法の明確化と組織化によるカリキュラム改善と美術教育のイメージ転換による教育」への移行をを目指す活動であり、本教科内容学論議にも大きな示唆を含む理論であることは間違いありません。自分の教え子が「大切な苗木」から「立派な樹」となって多くの枝葉を茂らせ、更に「後続を育てる教員となっていること」に感慨の念を隠せません。彼女は現在、国際交流委員会で山口善雄委員長を助け献身しております。

又、小澤代表の長文の書き込みは、山木先生の問い掛けに対して真摯に答えられており、Aグループ若手中心の新たな論議が向かう方向性や立ち位置について責務を踏まえて述べられたものと解釈しております。『アートというものが抱える不可知論的な魅力や魅惑の力を、「創造」という観念に象徴させるスタイル』が1つの論点になっていますが、美術教育は芸術家を育成することが主目的では無く、美術教育によって成される国民全体の美術理解の深まりや価値表象の昂揚であるという考えに立てば、自ずと視野は開けましょう。所詮、人の造るものは「創造」という無から有を生む程の完璧に有らず。科学技術にしても、その1つの象徴であろう原発にしても、正に不完全であり、自然の様に「自ずから」「然り」周囲と共生する全生命や全地球規模の考えに於いて不可欠の価値に至ってはいないのです。

有史以来、数多先人の偉大な芸術表現を目にする時、完璧なる美を目指し、先人を越えようと挑戦し、不完全の中にも切磋琢磨する忘我の姿勢を感じざるを得ません。絵画。彫刻、工芸、デザイン建築もまた…数多先人の偉大なる挑戦の少しだけ先を見た者だけが、次なる目標たり得る…厳しい自己鍛錬と自己開放の果ての地平であろうと思うのです。
山木先生とは、美術の社会的な価値をより身近な視点で捉え直し、美術教育の価値そのものを「美術の基礎基本」の観点から再構築する必要性について話しをさせていただきました。実技教員が自分の表現世界の狭い殻に閉じ籠っていないで社会との関係の中で専門領域の価値を述べ、教科養育に実際面から関与して小学校中学校の実技課題の内容や教材開発にも関わるような、言わば新たに必要とされる教育デザインの視点であり教科教育との連携です。其処には必ずエッセンシャルな意味で、現状なり現実の授業や教科書や教材を批評する力が求められる筈です。その様な視点で今迄の膨大な論議を精査し纏めて行けば…必然的に教科内容学は、机上の空論ならず実践的な美術教育の指針=教科書
と成り得ると私は信じています。

宮城教育大学の大会テーマ「0からの出発」は、正に美術教育の価値を根本から再確認すべきという理念であると考えることができ、それは正に我々(教大協美術部門の会員をさします)の目標であると思うのです。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2011/07/06 12:55 PM |

松浦先生及び中村先生

DBAEについての簡潔なご呈示をありがとうございました。Aグループでの議論の参考にさせていただきたいと思います。

様々な先生方の知見をお聞きし、それを内容学の議論に反映させていくことはとても大事なことだと思います。次回Aグループ会議では埼玉大学の池内慈朗先生をゲストにお招きし、評価の問題について簡単な講義をしていただくことになっています。

核心を見据えつつ、視野を広げていくこと、その両軸が必要かと思います。各委員の先生方のご協力をお願いする次第です。

小澤基弘

| 小澤基弘 | 2011/07/05 12:30 AM |

(続き)

今後の見通しについていえば、ご指摘の中にあった『アートというものが抱える不可知論的な魅力や魅惑の力を、「創造」という観念に象徴させるスタイル』
『既成の知や学校という制度に対する根源的問い直しの必要性を唱えるスタイル』の他にも『芸術や芸術家が構築してきた社会(西洋美術など)における文化的有意性をよりどころにするスタイル』『芸術作品や児童の作品の表象が放つ感性的魅力に依って立つスタイル』などについて、我々は極めて懐疑的であることを前置きした上で、社会一般に「図工・美術」の教科としての役割を、少なくとも今まで以上に明快に定義していくために、多くの人が納得できる教科の中心概念として「創造」という問題を俎上に載せようと考えています。

重ねて申し上げますが、これはご指摘の「アートというものが抱える不可知論的な魅力や魅惑の力を、「創造」という観念に象徴」させようとしているものではありません。我々は学校教育の中で「アート」と称される作品群やその周辺の社会的様相そのものを直接に接続するべきではないと考えています。(このことはまだ結論に至った訳ではありませんが)少なくとも不可知論的な魅力や魅惑の力などを教科の問題として対象化しようとはしていません。

逆にこの指摘こそが教科が一般化されてこなかった大きな問題点であると認識しています。また、非常に重要な指摘として『「創造」を観念として〜』とありますが、まさに「創造」を観念のままに曖昧にしてきたことが、これまでの教科専門の誤りではなかったかと認識しているところであります。

多くの国民が、教科としての図工・美術が存在している意義は、「創造」という言葉の周辺にある感覚、たとえば「ものづくり」「発明」「好奇心」「興味」「関心」「感性」「機能」「安全」などなど、漠然と捉えられる子どもの可能性や社会を支えるに必要な教科であるという認識にあると思います。そうした事象に対して“有用”“有効”であり、幼児から引き続き「自らが表象する行為」を保証し、「自らが表象する行為」つまり、子どもが「創造」そのものを実際におこない、価値づけていく大きな特質を持つ教科であるという存在意義を、「創造」という言葉で収斂し、教科の存在意義を説明でき得るのではないかと考えているところです。

それには「創造」あるいは「創造プロセス」を出来るだけ客観的に捉え、その構造を見極め、その構造にこれまでの教科内容を具体的に丁寧に位置づけていくことで、これまでの教科内容との整合性を保ちつつ、教科の存在意義や価値をわかりやすく説明できるのではないかと考えているところです。大きな観点の転換があるとすれば、『結果としての「美」』に焦点化するのではなく、『そこにむかう「創造過程」を焦点化する』と考えていることでしょうか。しかしこのことは教科教育の世界ではずっと唱えられてきたことでもありますし、既に「中間まとめ」において、きちんと位置づけている内容でもあります。

重ねて言いますが、これまでの美術科教育でおこなわれてきた実際を否定しようなどと考えているものではないことをしっかりと前置きしておきたいと思います。いわば「創造」というフィールドにこれまで教科が作り上げてきた中身を配置しなおし、誰が見ても分かる明快な地図をつくるようなものが内容学なのだと考えます。教科という立ち位置である以上、当然「学校教育」や「美術」というこれまでのジャンルからはみ出していくことは出来ません。しかしその配置の過程でこれまで教科内容としてあったものがすべて残されるものではないことも想定しています。

こうした考え方の下でAグループの議論は進められております。「中間まとめ」における「序」をきちんと明確化し、各章を再検討して、既に提案された各内容が、これからAグループが考える大きな地図の中で位置づくか否かを判断致します。その議論の過程については、既に4月から議事録を作成してBグループにご提示してきたはずなのですが、、、。これまで2度議事録で提起してきた理由は、Aグループの新たなメンバーがどのような考え方をもっているのか、それをリアルに見ていただきたいという考えからです。次回Aグループ会議からは、こうした類いの議事録ではなく、議論の要点を簡潔に提示していく予定です。

以上、山木先生のブログご意見を受けて、Aグループの一部のメンバーで話し合いをもち、このような共通見解を述べさせていただきました。

Aグループ代表 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2011/07/05 12:13 AM |

(続き)

このようにAグループの議論の地平は、我々が直面している現実的な問題意識とその解決の方図を描くことに立脚しているのであり、逆に言えば、その現実に触れずに従来のような文脈で進めることを意識的にでも断ち切らなければ、問題はクリアできないとAグループのメンバーは考えています。

従来の文脈とは、「人間(社会)に美術は必要である」という前提に立って、「それはなぜ?」とか「それがなぜ教科に必要なの?」といった素朴な問いかけに、我々が共通認識としての言葉を持たないままに進めてきた文脈を意味しています。つまりAグループの4月からの議論は、「理念を唱導しようとする」ような高邁なものではなく、極めて現実的な問題認識から生じているものであると理解して頂ければと思います。中間まとめにある「ドローイング」から始まる4つの項目が、果たしてどのような具体的な教科の意義に基づいて構成されているのか、教科がどこに向かうために立てられた項目であるのかが不明であり、端的に言えば、そうした軸が見えないままではこれからの議論は進められないという判断でありました。

またアンケートについても、寄せられた内容のうち半分以上は、前述したような我々がおかれている現実に対する認識が薄く、従来通りの文脈で意見されていると感じられるものであります。(勿論、半分は貴重な意見として今後の議論に反映させようと考えています。)ご指摘のように中間報告の取り扱いとしては不適切と捉えられることは仕方がないと考えていますが、内容学を探る上でどのようにアプローチしていくかの違いにすぎないとも考えているところです。
大切なことは、既にあるものを大事に守るのではなく、問題があればそれを果敢に改変し、より本質的なものを導きだすことです。
(続く)
| 小澤基弘 | 2011/07/05 12:12 AM |

(続き)

これまでの議事録をご覧頂ければ、ご指摘のような「検討グループに属する各々の委員の芸術論や教育論」を戦わせるつもりではないことは明らかでありますし、そのような個人的な議論の応酬では、実りある結論を導きだせるとは思えません。

繰り返しになりますが、我々は(「我々」というのは教大協美術部門の会員をさします)図工・美術教科の厳然とした目的や価値といったものを、これまで社会に対してどれほどの説得力を伴った説明を果たして来れたのか?と振り返る時、甚だ疑問に思わざるを得ないという現実が、自身への反省も含めて共通した問題意識として浮上しているのです。

とりわけ、教科専門の立場で美術科教育に関わる者(Aグループには6名おります)として、その思いが一層強く、これまでこの立場の教員が、教科に“如何に”“どれだけ”コミットメント出来てきたかのか?ということが極めて大きな問題として自覚され、それぞれの分野の具体的な教育内容の事象を取り出して議論してばかりでも、本質的に現在の我々が立たされている状況を打破することにはつながらないと考えています。

その意味で、先般山木先生が御提起された極めて具体的なアプローチは、図工・美術教科の核心である存在意義とどのように結びつき、位置づけられるかについて理解することなしには、教科専門の教員が専門分野を背負っているかのような従来型の構図に見えてしまうこともあると考えます。Aグループは、「絵画」「彫刻」「デザイン」「工芸」「芸術学」をそれぞれ専門とする教員、そして「美術科教育」の教員で構成されていますが、誰一人として、それら各メディアに囚われることなく、教科の存在意義といった問題について、この4月から現在に至るまで議論してきました。(続く)

| 小澤基弘 | 2011/07/05 12:08 AM |

山木先生

Aグループの進め方、進めている内容に対するご意見をありがとうございます。
山木先生のご意見を受けて、Aグループの一部のメンバーが集まり、ご返答内容を検討し、以下にまとめました。ご一読ください。

今回、新たなAグループ委員のこれまでの議論の中で、共通して認められることは、「教科としての図工・美術がこれまでになく存在意義を問われているのではないか?」という認識です。時数の削減をはじめ、国立大学が独立法人化して以降、教員養成系大学の存続意義と相まって、我々が置かれている状況はきわめて危機的状況にあるという認識のなかで、ではそれにどう対処すべきか、この問題が教科内容学を構築する上でのベースになるものだという認識です。

その状況認識に従えば、教科の内容を考えていく前に、委員全員が考える教科の存在意義について一定のコンセンサスを得る必要があるのではないかと考えています。まずは教員養成大学に属する教員の立場として「図画工作」「美術」という教科の必要性を、社会に対しわかりやすく説得力ある説明が出来なければ、当然、内容学なるものも何の役割も果たせないのではないかと考えます。その核心的とも言える問題について、未だ明確な見解を我々は持ち得ていないではないかという認識です。 

「中間まとめ」は昨年度までの当委員会での大きな成果で、それをゼロにして考えているわけではありません。ただ、この教科としての存在意義を明確化するという作業が、昨年までの委員会での議論から抜け落ちていたという反省があります。それゆえに「中間まとめ」の「序」の部分の弱さになっているのだと考えます。そうした核心的な議論がないままでは、内容学のディテールに入ることはできないのではないかというAグループメンバーの共通認識を前提として、4月からこれまで議論を進めてきた次第です。(続く)

| 小澤基弘 | 2011/07/05 12:05 AM |

金沢大学の松浦です。

 4月10日付けのブログで報告しましたが、議論を深めるために、委員会メンバー以外の研究者から意見を聞くことを今年度の活動方針に掲げていますので、今回、アメリカの美術教育に詳しい、広島大学の中村和世先生にDBAEについて、簡潔に纏めていただきました。また、現在、ドイツの美術教育に詳しい神戸大学の鈴木幹雄先生にもドイツの美術教育について、ご紹介いただく予定になっています。今や美術教育における教科内容学は、島根大学や上越教育大学等で実践の段階に入ろうとしています。従って今年度3月に予定している教科内容学検討委員会の報告書が大変重要な意味を持ちます。教科内容学検討委員会におけるAグループの精力的な議論とBグループとの連携と纏めを中心に、より進歩的な外部の意見も取り入れる必要性もでてくるかもしれません。
 そのために、このブログを今まで以上に、外部に解放し、広く意見を取り入れる必要があります。その手始めとして、広島大学の中村和世先生のDBAEを掲載いたします。


      DBAEと美術教育のイメージ転換

                広島大学教育学部 中村 和世

ディシプリンに基づく美術教育(Discipline-Based Ar t Education、以下DBAEと略す)とは、美術制作に加えて、美術批評、美術史、美術理論の4つの専門領域に本質的である内容と方法を、幼稚園から高校までを通したカリキュラムに反映させることによって、学校教育における美術教育の充実と拡大を目指した改革運動です。DBAEの理論は、教育学に携わる研究者のみでなく、美術史、美学、美術制作、教育哲学、心理学など多様な領域からの専門家が協力して形成されています。1960年代から着手され、研究者のみでなく実践家も参与しながら約4半世紀を経て発展したこの運動は、アメリカでの普及にとどまらず、世界的な影響を及ぼすに至っています。
DBAEが現れる以前のアメリカでは、子どもの自発的活動をベースに創造性を伸ばすことを主目的とする子ども中心型の美術教育が主流でしたが、DBAEは、この型の美術教育には欠落していた教科に本質的な内容と方法の明確化と組織化を図ることでカリキュラムの改善と美術教育のイメージ転換を目指します。このことは、DBAEが教科に関する専門内容を重視するが故に子どもに本来備わっている創造性を軽視していることを意味するものではなく、子どもの全人的な成長を可能にするためには、子どもの生活と連続性のある美術の専門内容を整理していく必要性をDBAEの主唱者達が強く認識していたことを意味します。
DBAEの普及を通して、美術教育者の意識には以下のようなイメージ転換がもたらされたと言えます。第1は、美術にかかわる能力は、才能ある一部の子どもに限られるのではなく、生涯を通して美術文化を享受するためにすべての子どもに対して開発されるべきであり、それ故に、学校教育の中で美術教科は必修として位置づけられるということです。第2は、美術の活動は感性・感情の働きのみによるものではなく、本質的に知性の働きが伴うものであり、美術の活動における知性とは、記号や言葉による思考とは異なり、色、線、コンポジションなどを媒介に質的に思考することを特徴とすることです。第3は、子どもの創造性は、生来的な要因にのみ左右されるものではなく、専門領域に根ざした学習によって伸ばされるのであり、そのためには、従来からの美術制作に加えて、美術史、美術批評、美術理論からのアプローチも必要とされるということです。
 以上のような美術教育のイメージ転換を導いたDBAEは、精力的な出版活動を通して学校のみでなく社会全般にわたって人間形成にかかわる美術教育の意義と方法を広く伝え、専門家ではない一般の人々が美術文化を享受できる教育的な土壌づくりを進めた啓蒙運動としても捉えることができます。
| 松浦 昇 | 2011/07/04 1:16 PM |

【リセット以後の建設的提案の必要性】
A・Bグループへの編成替え以降の展望についてですが、ある意味では、中間まとめ(中間報告案)に対する学会会員の多種多様な見方を踏まえて、もう一度、教科内容学というものの概念規定から出発しようというモメントが強くなるのは当然のように思えます。
しかし、同時に、客観的に俯瞰しますと、多くの学会会員が中間まとめに対して前向きに捉え、これを前提に議論を展開していると思えるのです。完全否定や本質的な懐疑はほとんど無い、もしくは、きわめて少数だったのではないでしょうか。
本質論に立ち返って議論することは大切ですが、検討グループに属する各々の委員の芸術論や教育論まで遡って、議論を展開することは中間報告の取り扱いとしての選択肢として、理に適ったものなのかいささか疑問に感じます。
振り返りますと、わたしたちの教科には、素晴らしい理念を掲げることで、あるいは、本質的な懐疑主義を貫くことで多くの支持を勝ち取るカリスマ型の先導者は多かったように思えます。
例えば、前者には、アートというものが抱える不可知論的な魅力や魅惑の力を、「創造」という観念に象徴させるスタイルが、後者には、既成の知や学校という制度に対する根源的問い直しの必要性を唱えるスタイルが存在したと思います。
しかしながら、そのような唱導のありようは、結局のところ、教育内容としても教育方法としても具体性を欠く提言に陥る危険を秘めていると思います。具体的なものとの結びつきを提示しえたとしても、事例的であり、なかなか敷衍できない種類の提示となるのではないでしょうか。
たしかに教育科学を標榜する硬直化した研究方法を推奨するわけにはいきませんが、やはり、現在、他の教科でも進展してる教科内容学というトレンドを前向きに捉え、(括弧付きの枠組みであれ、)「美術教育」というものの質を高め、その内容を豊かにする具体的な取り組みが望まれると思います。
中間報告には、そのようなベクトルが感じられたのですが、議論が完全にリセットされてしまい、現代の芸術観や教育観から根源的な問い直しとして検討が行なわれますと、いったい、このプロジェクトは何を目指すのか、どこに行くのか、いささか不安に感じられます。
Aグループに属している俊英の先生方には、このようなわたしの不安を解消していただくために、今後の見通しについて、ぜひ、ご回答をしていただきますよう、お願いしたいと思います。A.Yamaki

| 山木朝彦 | 2011/06/30 3:38 PM |

金沢大学:松浦です。

「皆さまのお陰で、教科内容学検討委員会の中間報告案に関するアンケートについて、真摯なご回答を得ることができました。委員として感動するご回答もあり、ここにそのアンケートの集計を、ご報告いたします。当然、教科内容学検討委員会はこれらを参考に議論を重ね、纏めた報告書の作成に全力で取り組む所存です。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

平成23年4月7日              委員 長 松浦 昇


尚、本委員会の中間まとめに直接のご意見を抜粋致しまして、教科内容学検討委員会ブログ:連絡事項欄(ブログ1頁目)に掲載致しましたのでご参照下さい。

4月7日、緊急にグループ責任者の小澤先生、渡辺先生、 そしてブログ責任者の石井先生に集まっていただき、平成23年度教科内容学検討委員会活動計画案について話し合いました。東日本大震災がなければ、3月 15日開催予定であった教科内容学検討委員会で検討されていたのですが、中 止になりました。6月の拡大理事会に合わせた教科内容学検討委員会まで待っていると、活動が停滞すると判断しましたので、急遽、責任者の方に集まっていただき、議論しました。そして、以下のことを決めました。

●委員長の平成23年度計画案をもとに議論を重ね、Aグループ(責任者・小澤 基弘)は、1.学習指導要領(教科の目的等)について、議論の上で確認し、2.4つの章立てをふまえつつ、見直しを諮り、3.アンケートを分析の上、参考にして、全体をまとめる。
Bグループ(責任者・渡辺邦夫)は、Aグループからまとめられたものを精査し、報告書としてまとめる準備を進める。

●尚、議論上、必要な内容について、委員長がその研究者に意見を求め議論の活性化を諮るように努める。

●予定されている仙台大会には、全面的に協力し、学会発表に2〜3名をたてる。また、ワークショップや展覧会等も検討する。

以上

| 松浦 昇 | 2011/04/10 9:45 PM |

埼玉大学の石上です。松浦先生が島根大学を訪問されたことを伺って、私の前任地でもある島根大学で「授業構成研究」がスタートした当時の様子を思い返してみました。
島根大学は、平成16年に教員養成に特化した学部として改組すると同時にGPにも採択され(教員養成GP,h17〜19、特色GP,h19〜21)更なる学部教育の改善を目指した試みが様々実施されていました。

例えば、教育実習を含めた教育体験の充実を目的とする「1000時間体験学修」や、授業改善を目的とする授業公開の促進と、その成果としての積極的な中間領域(教科専門と教科教育の橋渡し)の構築などなした。

この中間領域というのが「授業構成研究」であり、当初は異なった専門性を有する複数の教員(基本、教科専門と教科教育の教員のペア)の「チーム・ティチング方式」を積極的に導入することで、教科内容の理解や教材開発力の向上を図るというものでしたが、実際には個々の教員の自主性に委ねられており、新井先生はお一人で「絵画授業構成研究」を開講なさっておられました。

私も新井先生の授業を見させていただいたことがありますが、絵画における様々な技法や、表現について一つひとつ丁寧に中学校の美術科において、どのように位置づけられているかを説明しながら紹介し、其々の技法表現の課題制作へ入るというものだったように記憶しています。

その後GPの期間は終了しましたが、授業改善を契機とした「授業構成研究」の取り組みは、学部の研究プロジェクトの一つに位置づけられ平成21年度以降継続していると聞いています。

その後、どのような発展をとげているかは、私にとっても大変興味深いところであり、ぜひ機会があったらお話を伺いたいと考えています。


| 石上城行 | 2011/03/31 6:43 PM |

学芸大学の石井です。

 皆様、お元気でしょうか?
 私は日本全国同じでしょうが、この震災関連の事象でバタバタと仕事をしつつ日々はなるべく平素な暮らしをと心がけて過ごしております。不慮の出来事に出会ってしまった方々には心よりお見舞い申し上げます。
 本年度本学に設立された「ものづくり教育選修」で毎月出されるニューズレターに昨年12月に掲載したコラムを下記に引用し、お見舞いの言葉に変えさせていただきます。



 創造について(ものづくりと教育のあいだ)

 自分をふくむ様々な事象を創意工夫で変化させ、暮らし(生きる事)に活かす。これを「創造」というとすれば、人間は太古から創造によって生き抜いてきたと言える。しかし、そんな人間が集まりただただ創造する事を繰り返し、今現在は創造物で溢れパンク状態になってしまった。一方的に創り出すコトが当り前になり、環境(自分を取巻く世界)に呼応した創造が行なわれていなかったのだろう。もはやモノを創り出す事が創造なのではなく、創らない事の方がより創造なのかもしれない。例えばエコという思想やアプリ等の方式が、現況に合った創造といえ、ただ物体を変化させるだけの創出をしない創造である。

 創造する時に大事な「創意工夫」とはどんな行為だろうか。複数の思考から選択したり繋げたりして新たな意味を創り出し、実現してゆく行為が創意工夫とするならば。創造という出来事の核心だといえるのではないだろうか。この「創意工夫」を発揮する為には、あらゆる既成概念、既存権威、固定観念などの既に存在しているコトを、一先ず隅に追いやらなければならない。その様な未知に踏み出す気持ちが必要なのである。

 これからへ向けての行為であるという事では、「創造」と「教育」は非常に近いところがある。「教育」という出来事も既に存在しているコトで、環境に合わせて進化しなければ、前述のように私達に跳ね返ってくるだろう。今現在、「教育」という出来事の中にある子ども達が大人になる未来は、誰にも正確には予測は出来ない。だからこそ、尚更に環境を見極めながら創意工夫によって更新していかなくてはならないのではないだろうか。

 創意工夫するコトはそんなに難しいコトではない。簡単なコトでもないが、時間軸に乗って前に進んでいくかぎり、未来はどんな人にとっても等しく未知である。未来が白紙であるのなら、折角だから自ら踏み出して創造していかなくては。


以上です。

 今週末3/25〜27の日程で札幌駅前通地下広場オープニングWorkshopで札幌に行って参ります。時柄で赤十字も馳せ参じるそうなので一層の盛り上がりを目指し、より多くの震災支援を目指したいと思います。
 戻りましたら、本ブログにふさわしい形でアンケート結果を掲載致しますので、しばらくお待ちください。

みなさま、
兎に角、取り敢えず、お大事に
| 石井壽郎 | 2011/03/20 8:56 PM |

一週間連続の東電職員等50名による決死の危機回避電源等復旧作業は…元論として原発賛否論を一旦別にして国家的核非常事態に於ける勇敢な任務遂行は当然の評価でありましょう。
本日、陸上自衛隊や東京都消防局の決死の放水は使用済み核燃料プールに相当料の冷却用水を補充して大きな成果を上げたようです。1号機〜6号機全てが摂氏100度以下になったという現状は…未だ楽観視できないものの核制御不能という最悪の事態回避に向け大きく前進したと言えます。水素爆発で建物上部が吹き飛んでもプールは損傷少なかったのでしょう。ようやく原発事故問題は少し光明が差して来た感があります。

もう1つ、とても怖い映像を見ておいて下さい。NHK特集『津波の凄まじさ!! 次に東京沿岸都市を襲う!』部分抜粋をYou-Tube上で見付けました。既に昨年3月に地上波でオンエアされた番組中、インド洋大津波やチリ地震津波は実際映像ですが…東海東南海南海連動巨大地震大津波はあくまで予想(シュミレーション)であって…直ぐ必ず来るという予想ではありません。唯、何時来てもおかしく無いという科学者による推論、つまりNHK制作による一つの警鐘です。今回の東日本大震災大津波シュミレーション画像と比較して見ると…あまりにも具体的で…背筋が寒くなります。日本列島の東側か南側かの違いだけに思えて来るからです。

*東日本大震災大津波(シュミレーション)東京大学地震研究所
http://www.youtube.com/watch?v=yhZfchYD4ww(13秒)

*『津波の凄まじさ!! 次に東京沿岸都市を襲う!』(3分20秒)
東海東南海南海連動巨大地震大津波(シュミレーション)映像含む
http://www.youtube.com/watch?v=Jt5Df10Ss-0&feature=related

そして最後に…世界中からの被災地応援の心温まるメッセージを探してみました。

日本の被災を伝え支援を呼び掛ける映像(涙、出てきます)
http://www.youtube.com/watch?v=VoAzVXn9NWE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=_wMnu1Mpj_0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=OTjJbnu1Ev4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=oLE40Uohhsg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=47Uh_kRnTpw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=i7DunrICm04&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vKZlcE3jWjI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=RxdqgtJnIsE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc&feature=related

世界中から被災地に集結する…救助隊、医師、ボランティア、援助物資、そして暖かい日本への応援メッセージ、義援金や支援を呼び掛けるメッセージ…善意と慈愛の心に深く感謝します。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2011/03/20 2:17 AM |

小澤先生 委員の皆様へ

御言葉ありがとうございます。叔母の孫は小学2年故、体重が軽く…津波の引き波で沖に持って行かれたか瓦礫の中に埋もれているものと思われます。朝晩、氷点下に冷え込む当地故に生存は諦めざるを得ず絶望視しています。今回、叔母の死、未曾有の巨大地震の災害規模の大きさに…己の気持ちを整理できず居ます。
悩んだ末、結論として…何時か再び起こりうる大地震の現実から目を反らしてはならない。この悲惨な現実を…「我々は直視し決して忘れないことが大切なのではないか」と思えるようになりました。被災地の方々の心痛を察しつつも…伝えねばなりません。そして、次の震災時に生き残る為の教訓にすべきではないかと思います。

地震発生前〜地震発生時 2011.3.11/14:46:42〜(8分20秒)首都圏TV各社(NHK/日テレ/TBS/フジ/朝日/TV東京)マルチ映像

http://www.youtube.com/watch?v=eOrAwvJLKxo&feature=related

世界中が日本の激甚災害に注目…ネット上はTV画像以外に迫真の投稿画像が存在します。

地震発生直後〜津波襲来時〜奇跡の生還劇 NHK/CNN/他
http://www.youtube.com/watch?v=cNBqBT3Hdpo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=qioNZpVglm8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3AIMkhqj6CA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3M7fiFep7WA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=zjHLeGYxdq4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cHiQUOyBCsQ&feature=fvwkrel
http://www.youtube.com/watch?v=V0i2Wui0q_w&feature=fvwkrel
http://www.youtube.com/watch?v=XQVnjf_BPrk
http://www.youtube.com/watch?v=wda6s7RS8ak&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=YAYdSZBCpyA&feature=related

被災地の緊急空撮画像 http://www.ajiko.co.jp/bousai/touhoku2011/touhoku.htm

*最後の砦(フクシマ フィフティズ)『天声人語:朝日新聞3/18』より
震災で大きな被害を受けた岩手県は、宮沢賢治が生まれ暮らした土地でもある。賢治の思想の結晶の一つとされる名作「グスコーブドリの伝記」は、一人の若者が自らを犠牲にして人々の命の糧を守る話だ。
きびしい冷害で飢餓が迫る中、火山島を噴火させて気候を暖かくする計画が立てられる。だが、仕掛けのために島へ渡った者のうち最後の1人は島から逃げられない。若いブドリがその役を買って出るーー。福島第一原発で続く必死の作業に、はからずも思い浮かんだ。
科学の創りだしたものが、生みの親の制御を超えて、のたうち、暴れる。人類の「滅び」の可能性を秘める核の、深刻きわまる暴走である。人体を脅かす放射能と闘い、恐怖を抑えて踏みとどまる原発従事者の、事なきを祈らずにはいられない。
米紙ニューヨーク・タイムズは16日付の1面で、苦闘する「無名の50人」を「最後の砦」と称賛した。触発された米テレビは「フクシマ・フィフティ(福島の50人)」と盛んに流している。だが、彼らは英雄である前に人間なのだ。
現場の夫を案じる妻が日本のテレビに語っていた。冷静ながら不安を隠せぬ口調に胸が痛んだ。しかし、誰かが怪物を封じなくてはならないのも、一方の真実。身を切られるような背反に私たちは立ちすくむ。
歳月と文明はさかさまには行かない。電気を知った我々は、もう灯を消しては暮らせない。今はただ、犠牲によって大勢が幸せになる賢治の物語とは、異なる結末を切に願う。必ずや家族のもとへ、全員無事に帰ってほしい。

福島第一原発空撮画像
http://www.youtube.com/watch?
http://www.youtube.com/watch?v=9JHU-PwoCHQ (続きあり)
| 渡辺邦夫 | 2011/03/20 1:51 AM |

松浦先生

 宮城での学会の発表の件、実現できればと思います。

島根大学の新井先生は私の先輩であり、私も個人の科研の研究の関係で一度島根大学を訪問したことがあります。内容学のことも
その折にお聞きしました。かなり以前から学部をあげて取り組んでいられるとのこと、今後私たちの議論のなかで登場していただく機会を設けるべきと思います。いずれにせよ、松浦先生のご訪問、ご苦労様でした。

石井先生、ブログへのアンケートの書き込み、膨大な量ですので、本当に大変と思います。ただ、もし書きこまれれば、委員の皆さまの今後の議論にとって、大きな参考になるものですので、よろしくお願いいたします。

横国大の渡辺先生の叔母さまの件、本当にお悔やみ申し上げます。お孫さん、どうかご無事でいらっしゃることを祈るばかりです。

小澤基弘

| 小澤基弘 | 2011/03/18 7:25 AM |

委員の皆様へ

松浦 昇 先生 委員会報告事項の書き込みありがとうございます。学会員からのアンケートを精査され委員長自ら島根大へ出向いての調査、頭が下がります。前任地福井大に9年半居りました頃から島根大の先進的な取り組みは良く耳にしておりました。出雲の国は…神無月に日本全国より神が集まるという伝説の地、そこが先んじて教科内容学を授業に取り入れ『内容構成研究』授業を実践しているということは誠に興味深く、延期されてた委員会での更に詳しい報告を楽しみにしております。
次期全国大会開催大学の宮城教育大学での本委員会からの発表について了解しました。委員長のご指示の元、委員協力して検討して参りたいと思います。
石井 寿朗 先生 あの膨大なアンケート結果をブログに掲載する作業に従事されているとのこと。纏めの中心となって尽力された小澤先生と共に、本委員会の進展の為の貴重な実行力に感謝いたします。

JAGDA会長:勝井三雄先生から「来年度事業計画で東北地域に集中して行く事業体制を組んで行くことを検討していきたい…」という内容を含む東日本大震災犠牲者を悼む全JAGDA会員宛の追悼お見舞いメールを戴きました。

この様な組織の動きと比し…我々美術教育学会は実は元々、東北の中心地宮城で来年度全国大会の開催を予定していた訳であって…被災地に全国から集結しエールを送るという観点からも宮城全国大会の意義は誠に大きいと思います。
今回の未曾有の大震災、最も其の震源に近い地、宮城で本学会の全国大会が開催されることは全くの偶然と考えるのではなく、宮城そして東北という地から『再生、美術で…人と人、地方と地方が、過去と未来が…繋がる』という様な…美術という教科が持つ特性をより大きなスローガンに掲げ、学会員多数が結集し、当地から『再生・協力・復興』の輪を広げられればと思います。委員の皆様、御協力お願いしたします。

是非とも秋には素晴らしい感動的な大会が開催できますよう…祈るばかりです。

被災地で懸命な救護支援活動に従事されている方、津波直撃の緊急停止した原発内で停電困難や放射能被爆の危険の中で必死に事態収拾の為に尽力されている方々には…寄付節電すれど行動せず傍観している我…唯、感謝するばかり。
*参照:ダモクレスの剣(王座の上に髪の毛1本で剣が吊るされている故事)『天声人語:朝日新聞3/16より』日本という地震国には54本もの剣(原発)が頭上に吊るされている。

以下、ご報告です。
行方不明だった松島在住の叔母ですが…本日、収容所で遺体となって確認されました。残念です。
近所で助かった人づての情報では…孫(小学校2年生)の「ばあっちゃん!早く!」の声を聞いたととのこと。地震の後、祖母も助けようと…迫り来る大津波から避難するよう…必死に叫んだのでありましょう…。
しかし、その子は未だ行方不明とのことです。
合掌

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2011/03/17 11:59 PM |

教科内容学検討委員会委員 各位


 15日開催予定であった第5回教科内容学検討委員会でご報告する内容がありましたので、ブログにてご報告させていただきます。
 ひとつ。昨年アンケートをとり、その纏めは各委員に小澤先生から送られていると思いますが、それをブログに掲載するために、今、石井先生にご準備いただいています。アンケートの全回答は読まれたと思いますが、その中に、島根大学教育学部の新井知生先生から「教科内容学授業を『内容構成研究』授業として取り組んでいます。」とあったので、具体的にどのようなことをされているのか、興味が湧きました。そこで、山木先生にメールでそれについてご存知なのか、問い合わせましたが、山木先生はご存知でないということでしたので、これは島根大学まで調査に行くしかないと判断し、急遽、3月7、8日、金沢から岡山経由で行ってきました。
 新井先生にお会いしたのは、8日でしたが、7日の夜は、埼玉大学石上先生の後任で、信州大学から転任された藤田先生と、9年前に上越教育大学から転任された小谷先生お二人と、酒を交わしながら本音を交えて議論し、島根大学教育学部のイメージを描きながら、翌日、9時頃に新井先生の研究室で聞き取り調査をさせていただきました。
 教師教育に特化した専門学部として、教科専門教員が行うべき研究・教育活動についての研究のひとつとして、教科内容学研究を捉えて、具体的に『教科内容構成研究』として、実践されている。ただ、教科内容学について各教員の判断にゆだねられていて、共通した理解でもって実践されていないようです。教科教育との連携はこれから検討されていくようです。私たちの委員会は、教科内容学とは何か、から始まり、教科内容学についての理解、考え方について十分に議論してきましたので、新井先生との議論の中で、少し噛み合ないところを感じましたが、ただ、教育学部として教科専門教員全員が係わり、実践され、また、改善もされているその実践力は、私たちの委員会として、今後、参考になるのではと思い、松江を後にしました。詳しいことは、集まった席上でご報告したいと思います。
 ふたつめ。ご無事なのか心配しているのですが、次期全国大会開催大学の宮城教育大学の立原先生から、宮城大会で教科内容学検討委員会から学会で2〜3名、発表して欲しい、詳しくは15日の拡大理事会で提案するので、まず、私に了解して欲しいと電話をいただきました。協力するのは当然なことなので、15日の委員会で相談しますとお答えして、電話を切りました。新体制が承認されれば、班長の小澤先生、渡辺邦夫先生等ご相談して、宮城大会での発表者を決めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 以上の2点ですが、藤江代表の指示があり次第、今後の活動につて、ご議論を求めたり、ご相談いたしますので、よろしくお願いいたします。
 東北地方太平洋沖地震の報道を見ていて、強く情報の共有の大切さを感じましたので、ブログでお知らせしました。
| 松浦 昇 | 2011/03/17 12:12 PM |

教科内容学検討委員会委員 各位

 被災に遭われた先生方には、お見舞い申し上げます。
 ただ、ただ、むなしい思いで一杯で、私はできることは行動で示したいと思っています。テレビを通して、被災者の方々から勇気を与えられているのは、我々です。町内、地域、大学を通して義援金は勿論のこと、美術を通してできることを、多くの先生方は考えられていることと思います。
 このような状況下で、教科内容学検討委員会活動を叫ぶのは、不謹慎だと思われるかもしれませんが、委員長の立場上、活動を停滞させる訳にはいきません。新体制で、この一年間で纏め報告書作成することが、藤江代表ら総務局から認められれば、非常時でなければ、15日の拡大理事会で議論されることになっていたのですが、決定することになります。その件について、早急に相談する必要がありますが、藤江代表からの指示があってからとなりますので、ご承知置きください。
| 松浦 昇 | 2011/03/16 12:23 PM |

委員の皆さま

 渡辺先生の書き込みを受けてしばらくぶりに書きこませていただきます。

 福島大学の渡邊先生はご無事の様子、なによりです。ただ、原発のことがあるので、ご心配は募っていることでしょう。原発は日本国民の禍になる危険性もあります。こちらも同じ不安な気持ちでおります。

 渡辺先生の御親戚の件、驚きました。中学生のお孫さんも不明とのこと、ご心痛をお察しいたします。私の妻も旧姓は名取と申しまして、先祖は名取市にゆかりがあるのこと、現在は知己はおりませんが、まさにそこでの震災に妻も言葉がありません。日本はせまいですから、誰かしら関係者が被災しているのですね。しかし、まだ一つの波が収まっているにすぎません。これから未曾有の予想だにしない出来事が起こらないことを祈るばかりです。心してこの難局を乗り切っていきましょう。

本当は本日学会の理事会等が開催される予定でした。また新たに本委員会も新体制で船出する矢先の惨事です。また、状況を見ながら、議論を進めていければと思っております。

義援金の件、本委員会というよりも、やはり各自がしかるべきところで寄付させていただければと思います。私もそのように致しました。しかし、なぜ物資が被災地に届かないのか、本当にもどかしい思いで一杯です。これからかなりの寒波が来るとのこと、毛布がなぜ届かないのか、本当に一体救援網はどうなっているのか、政府の対応に苦言を申したいです。なぜピンポイントでパラシュートででも物資を投入できないのか、わかりません。難しいシステムがあるのでしょうか?

部門に所属されていらっしゃる東北地方の先生方、特に宮城教育大学の関係の諸先生方、どうかこの難局を乗り切っていただくことを心より祈っております。

埼玉大学 小澤基弘



| 小澤 | 2011/03/15 7:32 PM |

委員各位 学会員各位

2011.3.11 PM 2:46 東日本大震災
M9.0 世界最大級の巨大地震。高さ10m以上の大津波。死者1,900人超、行方不明20,000人超。
http://mainichi.jp/select/today/news/20110314k0000m040059000c.html
この激甚災害に接し…唯、愕然としています。
明日の学会拡大理事会並びに本委員会の中止の報もやむなしと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=uWI49HJS5c8
http://www.youtube.com/watch?v=3xiT4baxDk4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=uyOyLeGMisU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bdmvCydsjC4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IlwetVea250&feature=related

当方、母の妹=叔母(松島市新東名在住)が帰宅途中の孫(中学生男子)と共に行方不明となっています。
新東名は仙台松島の東、石巻との間にあり…母や従兄弟からの連絡によると…家ごと大津波に見舞われたものと見られます。
齢80の母は妹の安否を祈りつつも…TV画面を見ながら泣きます。だから、今日は見れないと言ってました。
NASA画像でも日本の国土の形が変わる程の大津波だったことが解ります。
http://www.nasa.gov/topics/earth/features/japanquake/index.html
こんな書き込みは…
美術教科内容学に関係ない。非難されるかも知れません。

又、世の中は美術を…
美は寒さを凌げず、空腹を満たせず、命を救えない。
その意味に於いて…美術は毛布よりパンより救助隊や医者よりも、全く無力であるは明白です。

しかし、美とは「この世に生きた者、生きた命の遺言」なのではないでしょうか。
だからこそ…祖先は恐怖を越え洞窟の暗闇の奥に「生きている証」を残したのではないのか。
芸大大学院生時代、岡倉天心先生の五浦六角堂〜いわき市立美術館〜日本三景松島〜牡鹿半島へと友人とバイクで旅をしました…その記憶が風景が…頭の中で粉々に砕け散る感覚に襲われ胸が痛みます。

山木朝彦 先生
お電話ありがとうございました。横浜は大丈夫です。本委員会から再び声を上げましょう!
渡邊晃一 先生
携帯に返信ありがとうございました。奥様は勤務先倒壊の災難にも九死に一生との知らせ…ご無事とのこと何よりです。
美術教育に従事する同志として、この国家的難局に…互いに励まし合って頑張って参りましょう!

松浦先生、小澤先生、石井先生、前田先生、皆様へ
被災地お見舞い…救援物資送付…義援金活動等…我々に出来ること何か始めませんか?
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110311/index.html
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110312/index.html
http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110313/
被災地に居られる学会員の方々の安否を案じております。
次期大会開催地、宮城教育大学の方々を案じております。

誰か続いて下さい。よろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2011/03/14 11:26 PM |

平成22年度 第4回 教科内容学検討委員会議事録(その3)

◯第4章 フィールド・ワーク
神野先生から第4章の構想<配布資料(7)(8)>が説明された。その後、石上先生から第4章の構想の説明があり、その後川原崎から説明があった。尚、以下は岩上先生の説明の要約である。
『フィールド・ワークは3つの構造から成り立っていると思われる。1.制作の現場としてのフィールド、2.芸術品、美術品(絶対的価値)を鑑賞するフィールド、3.今の美術(学校)のフィールド、である。3.が含まれていた方が、現場の先生方は理解しやすいのではないか。図画工作展などもアート・プロジェクトであると捉えることができる。また、フィールド・ワークは学校現場の硬直感を払拭することができるという役割もある。』
◆出された意見
・ 社会に対してアートがどのように関わり合っていけるかという視座は非常に重要である。
・ 個人的な表現にとどまらず、どのように社会に繋げていくかが重要になってくる。「ドローイングは社会に繋がっている」というストーリーにしていかなければならない。
・ ドローイングを意識しすぎなくても良いかもしれない。フィールド・ワークの章は、これで既に成り立っている。

◯まとめ
・ 章立てについては、今回の検討委員会で話し合われたことや、教大協の会員の皆様から寄せられたアンケート結果を精査し、新たに立て直す。
・ 読み手を主にした分かりやすい言葉・キーワード=例えば「見る」「感じる」「考える」「描く」「創る」等により新しい章立て案を構想していくことも必要ではないか。
・ 各ページの構成については、ダイヤグラムなどを活用して分かりやすい教科書を目指す方向が望ましい。
                              
(文責:川原崎 知洋)
| 川原崎知洋 | 2011/01/15 2:21 PM |

平成22年度 第4回 教科内容学検討委員会議事録(その2)

◯第2章 創造のプロセスへの視座:そのドラマと振り返りの方策
 前田先生から創造のプロセスの説明があり、その後石井先生から説明があった。
『創造のプロセスそれ自体が「実現する」の意味があり、この「実現する」の目標をどこに設定するかによって異なってくる。(目標が見えるまでなのか、モノとして具現化するまでなのか、使われて評価されるまでなのか等)また、絵画、彫刻、デザインの領域間によってもプロセスは異なる。創造のプロセスの単元で区切って構想することはかなりハードルが高いことのように思える。』
◆出された意見
・ それぞれの領域によってプロセスが異なることはよく理解できる。(絵画、彫刻、工芸は名詞でデザインは動詞であるというイメージがある。)中国ではデザイン=設計であり、イギリスではアート&デザインというように分けられて考えられている。
・ 制作のプロセスについては説明していく必要がある。プロセスの説明がないと実感しながら制作、鑑賞することができない。

◯第3章 造形言語と批評する力
 渡辺邦夫先生から第3章の構想<配布資料(6)>が説明され、「視覚言語/ギオルギー・ケペシュ」と「デザインとヴィジュアル・コミュニケーション/ブルーノ・ムナーリ」が提示された。
◆ 出された意見
・ 絵画=油絵というような構図が常識となっているようで日本や東洋の精神が失われているように思われる。
・ 授業批評する力も弱まっていると感じる。
・ 音楽教育でも教科内容学が重要になってきている。(山木委員からの電話による情報)
・ 第1章と重複する部分がある。
・ 鑑賞について、有り難がりながら鑑賞すること自体がおかしなことなのではないか。美術の鑑賞は必ずしも芸術作品を見なくても良いのではないだろうか。一人の生活者として、どのように見るのか、どのように情報を捉えるのかというビジュアルリテラシーが重要である。
・ 絶対的個性など存在しない。他者との関わりの中で相対的に確立されるものである。しかし確立しきれていない個を、美術・図工は無理矢理引き出そうとしているところに少なからず問題がある。
| 川原崎知洋 | 2011/01/15 2:15 PM |

平成22年度 第4回 教科内容学検討委員会議事録(その1)

■日時:12月11日(土)13:30〜17:00
■会場:埼玉大学教育学部コモ棟5F美術教育第一演習室
■出席者(敬称略):
松浦 昇(金沢大学/デザイン)、渡辺邦夫(横浜国立大学/デザイン)、小澤基弘(埼玉大学/絵画)、石井壽郎(学芸大学/工芸)、神野真吾(千葉大学/美術史美術理論)、石上城行(埼玉大学/彫刻)、前芝武史(兵庫教育大学/彫刻)、前田英伸(北海道教育大/デザイン)、川原崎知洋(静岡大学/デザイン)
以上9名

■配布資料:
(1)第1章 美術表現としてのドローイング(小澤案)
(2)ドローイング <絵><画>―身体、視覚、言語―との関わ
   りから(渡邊案)
(3)小澤・渡辺の統合化(小澤案)
(4)ドローイングについて(前芝案)
(5)教科内容学アンケート
(6)『美術教科内容学』第3章「造形言語と批評する力」章立て
   /項目(案)
(7)フィールド・ワーク 美術/アートと社会の接点を考える(案)
(8)アート団体「WiCAN」(朝日新聞京葉版/2010.12.11)

■議事内容
これまで各章立てで話し合われてきたことと、各章の構想について、第1章の「創造の原点(核)としての〈ドローイング〉で考える」から、配布資料を基に説明された。また、各章の説明後、質疑応答がなされることとなった。

◯第1章 創造の原点(核)としての「ドローング」を考える
 小澤先生から第1章の構想<配布資料(1)>が説明された後、渡邊晃一先生の考える第1章の構想<配布資料(2)>が説明される。その後、小澤先生と渡邊先生の統合化<配布資料(3)小澤提起案>が説明された。前芝先生から第1章の構想<配布資料(4)(5)>が説明された。
◆出された意見
・小澤先生のドローイングの章の中には全ての要素が入っているよ うで、この章だけで1冊の教科書が完成するだけの内容が含まれ ている。
・前芝先生の案もそのまま本になりそう。彫刻の基礎的技法書、入 門書のような位置づけとして。
・モチーフを描き写すやものを見る姿勢、鉛筆の持ち方、基礎基本 的な項目もイントロにあったらよいのでは。
・渡邊晃一先生の絵画を<絵><画>と言葉の意味に分けて考えて いる視点が面白い。
→4つの柱を見直す必要があるかもしれない。
・美術・図工はインプットしてアウトプットしていく行為であるの で、やはり「見ること」から始まる。自分を見つけていく行為は プロセスであり、自己分析をしていくことで造形言語が獲得され る。
・人間の中身の話になっている。構造図でいうと人間から広がって いくようなイメーがある。美術・図工はオブジェクト中心であっ たが、人間を中心に考えていくべきなのではないか。
・制作学的な視点に偏り過ぎてしまっている気もする。制作学的な 視点からで良いのだが、そこで終わらせるのではなく、制作学的 視点や美術特有の造形言語を我々が一般化し、図工美術の専門で ない人(現場の学校教員、教員養成系の学生)にも伝わるよう 
 に、日々の経験に置き換えたりするなどして翻訳することが重要 なのでは。
・美術・図工は制作中心の授業構想になってきた経緯がある。一昔 前はそれで良かったかもしれないが、現在は「何のために制作し ている(学んでいる)のか」を説明しないと学生はついてこな  い。さらに悪循環なのが、絵画、彫刻、デザインの先生で言って いることが違っていたりする場合もあり、学生はさらに混乱して しまう。
・造形言語やフィールド・ワークは同じレベルに位置づけられない のではないか。
・今回提案する「教科書」は、ある程度の批判は覚悟して、「一歩 先を見た教科書」でなければならない。

| 川原崎知洋 | 2011/01/15 2:10 PM |

埼玉大学 小澤基弘 先生 始め委員の皆様

明日の埼玉大学開催の委員会で皆様に再会できますこと楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。

石井壽郎 先生

色々、有りましたが…
過ぎたことは仕方がありません。誰も気付かずに過ぎていたのですから。
アンケートについては積極果敢な教育に熱い志もつ諸氏の存在に期待しましょう。
ようやく時間が取れます。。。
これから、溜っていた思いを「造形言語と批評する力」に叩き込みます。

松浦 昇 先生

明日、上記、我々主担当章「章立て項目案」準備して参ります。時間的余裕が無く、当日、会議の席でご意見ご指南を仰ぐ結果と相成りました。よろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/12/10 5:57 PM |

小澤 先生

 ご苦労様です。
 4日の夜から出かけていましたので、先生のメールを今、確認しています。遠方の先生がお見えなので、午後1時30分からいかがでしょうか。最初の連絡通知には、午後1時30分となっていたように思います。であっても、北海道教育大学の前田先生は少し遅れる旨の連絡がありましたので、ご了解ください。 
| 松浦 昇 | 2010/12/06 11:06 AM |

学大・石井です。

 ご連絡遅れましたが、諸々の事情により少々遅れましたが、アンケートの発送を 11/26に完了させました。紆余曲折ありましたが、皆様のご反応を待ち致しましょう。発送のご報告せぬまま時間がたっていますので、早速、返信状況をお知らせしたいところですが、発送済ませ、推薦入試の準備・実施その翌日に中国出張に出てしまって帰国が12/8ですので、返信状況確認できません。悪しからずですが申し訳ありません。

などと、ご報告しなければならないと思いつつ上海でもみくちゃにされている最中、小澤先生よりお電話頂き我に返りました。
12/11の委員会の日程場所だけおさえ実施詳細が曖昧のままで申し訳ありませんでした。下記に小澤先生の示された件了解致しました。ご予想通り車で参りますのでどうぞご自由にご利用ください。

とにもかくにも12/11委員会で皆様とお会いすることを楽しみにしております。
一先ずという事で、


学会員の皆様どうぞアンケートに是非ご協力お願い致します。

上海外灘より
| 石井 壽郎 | 2010/12/05 12:53 PM |

松浦先生

ご連絡ありがとうございました。本日からしばらく出張しますので、あらかじめ人数を把握しておきたかったのです。急がせてしまい
すみませんでした。

昨日福島大学渡邉先生と会う機会があり、次回会議には残念だが欠席とのことでした。ですから今のところ9名の参加者ということで会場を考えておきます。当日夜は、大学前の行きつけのお店で夕食会でもいかがでしょうか?学生レストランなのですが、結構おいしいです。

埼玉大学へのアクセスです。私が送迎するつもりです、が、車には4名が限度です。石井先生は現在上海に出張とのこと、石井先生はたぶんお車でお越しでしょうから、帰国後直接連絡して、駅から大学までの移動方法を考えますので、追って委員の先生方にはご連絡させていただきます。

最寄り駅は、埼京線でしたら南与野駅、京浜東北線でしたら北浦和駅(西口下車)乗車されれば、一本で北浦和まで行けます。所要時間は約40分ほどです。埼京線の場合新宿からおおよそ30分程度で南与野駅(ロータリー側)に着きます。

遠路お越しの先生は本当にご苦労様です。その分充実した会議にできればと思います。

開始時間は午後1時でよろしいでしょうか?あるいは昼食時間を考えると(昼食は各自)、午後1時半くらいの方がいいでしょうか。松浦先生のご判断をお願いいたします。

またご連絡させていただきます。よろしくお願いします。

追記:石井先生のご尽力でアンケートが全国の先生方に送付されています。委員の皆さまはもちろん、他の先生方にも是非ともご協力いただけますように、ご依頼のほどお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/12/05 10:21 AM |

埼玉大学 小澤先生

 11日の出席者について6日ご連絡する予定でいましたが、急がれておられるようですので、ご連絡します。
 出席予定者は小澤先生、石井先生、横浜国大の渡辺先生、神野先生、前芝先生、前田先生、川原崎先生、石上先生、松浦の計9名で、ご欠席の連絡をいただいているのは、福本先生、大宮先生、古瀬先生、山木先生の計4名です。永守先生と福島大の渡邊先生からはまだご連絡いただいていません。よろしくお願いいたします。
| 松浦 昇 | 2010/12/04 3:46 PM |

委員の皆さま

 埼玉大学の小澤です。

来週12月11日土曜日の埼玉大学での内容学委員会にご出席される先生方、まだ正確にこちらは把握しておりません。ご出席の先生は、私のメールあるいはこのブログでご連絡ください。またご欠席の先生もご連絡いただければと思います。ご出席の先生には、追ってアクセス方法と集合場所をご連絡いたします。よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤 | 2010/12/04 8:10 AM |

(反響のお便り3)

7)実際の教育現場の実態や声を吸い上げデータ化し、それを分析して現場にフィードバックするプログラムを考えるような、より実践的で具体的なことが可能な人が集えるシンクタンクのような組織を創る、或いは現存するならば、その分野の強化をするようなことを提案します。(とても、実際の美術教育の現場では、国立大教育学部系の附属学校の生徒のようなレベルの集団はあまりなく、多くの現場の美術教師の具体的指針を示唆するには、現代社会の歪んだ現実に対応可能な存在が必要だからです。)

※以上長々となりましたが、追伸です。武蔵野美大の食堂付近でお会いして、「県立美術館のポスターさへ来なくなった」旨申し上げたかと思いますが、夏休み中に、ポスター配布担当を教務部から総務部に学校側が勝手に移して、私には何の変更連絡もないまま、担当教科の免許も持たない総務部長が自分で保管していたようです。先生に入らぬ実情を話してしまったとも思う反面、それもまた、生徒減少に苦しむ地方の私立高校の実際と認識していただけば有り難いことと思っています。
又、何よりも教科内容学検討委員会の皆様の努力と頑張りに期待いたしますことは言うまでもありませんので、文中失礼な表現があったらお許しください。更に、富山県の実情の一部をお分かりいただきたく「富山県高教研美術部会」へ提出の資料を同封いたしますので、現場の実際の幾つかと認識してお役立ていただけたら幸いです。

高岡第一高校美術教諭:松尾豊



(文末、「富山県高教研美術部会」への提出資料は、事情により本ブログへの掲載を控えさせて頂きます。:美術教育教科内容学検討委員会)
| 松浦 昇 | 2010/11/08 1:47 PM |

(反響のお手紙2)

4)滋賀大学大島先生の「子供の視点や身体性」発言について:「子供の視点や身体性」への眼差しは当然だれでも持っているわけですが、その点は大学の教員に言われるより余程現場の先生が考えて実践していると思います。大学教官の方が教え方が的確で優れているとはだれも信じていないと思います。逆に、大学教官が研修で一定期間に渡り、生活習慣や学習態度が幼少から身についていない児童・生徒の中で教えてみたらどうかと考えました。「現場の美術教師より上手くやれるのか?」と問い詰めたいです。大島先生の言葉への言葉による反論として、「一般的には、発達段階への認識やその子供を取り巻く環境を理解した上でのカウンセリングマインドの必要性」等を記しておきます。現場での効果的実践となると、同じ人間でも日にちを変えて、同じような対応をしてもその日によって違った反応を示すこともあり、同じ内容を違った教師が実践しても生徒は、違った反応を示します。ましてや、一部の教師や地域が政治的・組織的に児童・生徒を動かすような現実に直面した時に、大学教員は、そこを敏感に関知して的確な対応が出来るかと問いたいです。地方の現実として、或いはその学校の体質として、更に又、風土や県民性や民主主義への認識の違いから天と地との差があるのも事実です。
 5)新潟大学佐藤先生もアートプロジェクトに関する発言をしたと思いますが、お伝え願えたら幸いです。松尾は、決してアートプロジェクト等の実践は不要と申しているのではなく、むしろ逆に必要と考えていることは、これまでの拙稿でもご存知と思います。ただ、大学教員が、授業の一環で学生達の単位認定のため、或いは大学教官の授業のためだけでプロジェクトに関るとするならば、借り出される或いは関係する現場の教師は疲労感のみが残り、報われない虚しさで辞めていしまいたいと思う人もいるという事です。実際に、新潟時代に新潟市立濁川中学校で1年間一緒だった同年齢のS先生は、本年まで新潟市立内野中学校(昨年の「水っちパラダイス」の協力校)に在職していましたが、この8月末頃に年度途中であるにも拘らず、退職の案内をいただきました。公立学校の先生で、上越教育大学大学院に内地留学までさせられた先生が「教師に向いていない」等の理由で退職という事実を現代社会における真実として自覚しておいて欲しいのです。従いまして、大学教官や教育委員会は、立場の弱い教師が協力するのが当たり前などと勘違いせず、そのことの実際と意味を問い直ししてほしいのです。授業外で教師を使うならば、それに見合う教科や教師に役に立つことを、見返りという事でなく当然のこととして一番大切な人達への人間の心尽くしとして「させていただく」という事です。具体的に進言すれば、美術教育関連の場合は、学会や大学教員は、スローガンや外部からの掛け声で終わらせないのは至極当然で、現場の美術の授業時数を実際に増やすことや美術教員の増員等のために、実際に文科省や教育委員会に対しても直訴や要望書等を突き付ける程活動的なまでに現場の力に「ならせていただく」存在であるべきという事です。
 6)教科内容学検討委員会の皆様、及び「京都教育大学」?或いは茨城大学の「小泉」先生へ:結局、実際の教育現場に残された事実を見るならば、これまでの大学における美術教育は、私の発言した「(実践分野の」片手落ち」だけではなく、正確には、理論面でも実践面でも「どちらもダメだった」或いは「成果を上げていなかった」と言うのが事の真相と考えます。従いまして、「小泉」先生の発言には同感です。理論家でもない松尾が言うのもどれ程説得力を持つかは不明ですが、私はこれまでそれなりに美術教育やそれに関する周辺分野の文献を目にはしてきました。ただ、その範囲内では、学術的文献として一番まともで、大学における美術教育のバイブルになる様な書物は、茨城大学の金子先生の『美術科教育の方法論と歴史』(中央公論美術出版)と思っています。それを超えるものでなければ、或いはそれに近付けるのでなければ美術教育科の教科内容学は実践学としての方向性を強く打ち出した方がよいと考えています。

(以下、反響のお手紙3へ)
| 松浦 昇 | 2010/11/07 5:16 PM |

委員長の松浦です。

 本委員会の内容学検討に対し委員外の方よりお便りでの反響が寄せられました。
 直接のご対応は埼玉大学・小澤先生に対応して頂きましたが、この貴重な反響を学会委員の皆様、内容学委員の皆様、そして、内容学検討に注目されている方々と共有するべく、この検討ブログに反映させて頂きます。

 皆様お目通し程、宜しくお願い致します。


以下、お便りの内容です。



 さる9月19・20日と武蔵野美術大学を会場に開催された第49回大学美術教育学会東京大会に参加し、教科内容学に関連することに発言した高岡第一高校の美術教師松尾です。(かつて、群馬大学や埼玉大学の教官公募に応じたこともありますが、覚えておいででしょうか?)学園祭も終わり時間が取れたこと、現場の人間として教科内容学構築に関してどうしてもお伝えしたいことがあること、学会のURLを開きブログ投稿しようと試みても私のPC環境の悪さで投稿不可能なこと等の理由で、直接手紙を書くことにしました。判別しづらくなる可能性を避けるため、以下に箇条書きで記しますのでご対応いただけたら幸いです。
 1)小学校の図画工作科、中学校の美術科のみならず、高等学校の芸術科(音楽・美術・書道・工芸の各教科=主に普通科の学校で開講)や独立した専門性の高いコースの美術科・デザイン科や工芸科にも、教科性を高めるという点では絶対的に必要なことですので、完遂していただきたい。
 2)小澤先生が、検討委員会の「中間まとめ」でPC発表された理念「人間が幸せに生きようとする理想の実現に役割を果たす」が最も大切な視点であります。従って、実際に大学で教育を受けてきた上で各都道府県や私立学校の教育現場の教壇に立つ美術教師への「生きがい」や「やりがい」に寄与するものであるべきです。何よりも、感覚的に鋭敏で少人数であるが故に孤立化されやすい現場の美術教師が、粗末に扱われることで苦しみもがき、或いは命を削られながらも児童・生徒や学校や地域とも向き合わなければならないような現実を改善するようなものであって欲しいです。つまり、大学教育における美術科教育や美術の教科内容学が、文科省から研究費を取るためや大学の教官の単なる理論武装に終わらない、常に現場の具体的実情が汲取られそれをフィードバックすべき真の意味での実践的で具体的内容構築であるべきだと強く思います。
 3)そのためには、社会動向の変化も敏感に取り入れながらも、地域の文化的な状況とリンクする中で社会的認知、及び授業時数増加に繋がる様な実践的教科内容学にしてもらいたいです。従って、中間報告で位置づけられた大切な理念からしても、(地域や職場の状況により多少の優先順位の違いは生じますが)「4つの柱」の中でも「3造形言語と批評力」及び「4フィールドワーク」の部分の具体的実践やそのためのプログラムの開発等が、実際の教育現場で実践している美術教師には、より重要とさえ思えます。

(9月19日(日)の10:45分からのシンポジウムは、「プロジェクトとしての美術」の会場に出席したかったのですが、理由があり「教科内容学」の会場へ参加しました。30余年実際の教育現場にいて様々なことが思い出され、抑えきれないものがあり興奮して、再度発言してしまいまった感があります。進行の指名の問題もありましたが、以下、私が言いきれなかったことへの思いだせる範囲の大学教員への発言や、私の座席近辺で隣り合わせた現場の先生方の考えを含めた私の追加意見です。ブログでのやり取りが可能なら一番いいのですが、その点は、今後セキュリティの切り替えやその他の方法で可能になるよう努力いたしますので、今は、この文章でご確認、その後のご対応を願えたら嬉しいです。)

(以下、反響のお手紙2へ)
| 松浦 昇 | 2010/11/07 5:10 PM |

委員の皆様

後期授業が始まり皆様方もさぞや御多忙のことと拝察します。
当方も大学院改組「教育デザインコース」認可、教育実習時期変更に伴う学部を含めた時間割改訂、科研費申請、履修の手引き改訂に連動する教育実習の手引き改訂、共同研究と…正直、様々な仕事に追われております。
中々、書き込みが出来ず申し訳ありません。

小澤基弘 先生  

先の私目の個展に関して素晴らしい展評を戴きありがとうございました。
未だ未だライフワークとして完成というには程遠い作品群ですが…今回はポスターを1点1点で考えるのでは無く、思い切り対象を切って画面の外に繋がって行く構図、10点の連作が連続し呼応し対峙するよう配置を工夫し、生物多様性と全ての命の繋がり=連続性を表現したものです。初日に来場下さった宮脇 理 先生、佐々木 仁 先生の御言葉を励みに今後も精進努力を重ねて行きたいと思っています。この歳になって…色彩という観点、離合集散という観点、次第に「自己のデザイン=造形の核」が明確になったと自覚しています。神山 明 先生から戴いた御言葉の様に「(私の中に…)構成デザインが生きていた」という表現が或は相応しいのかも知れません。
又、同時に教材開発による教育デザインも私の大きな研究テーマとなって来ました。新しい教材を創造することは、次代の教育を創造すること、やり甲斐のある教師の仕事だと思っています。

本学横国大「色彩論」と和光大「色彩研究」は2大学同様に開講している色彩関連科目で、知識としての座学に留まらない演習課題を課して段階的に配色理論を実践的に育成することを授業目的に据え、独自のカリキュラムを創設したものです。たまたま、和光大の帰りで会場に学生作品を持参していたので…小澤先生にご覧に入れることが出来ました。
色彩は…正に美術が美術である所以。恐らく他教科では決して成し得ない多元性を持つ教養であり実技でしょう。つまり、色彩は科学的物理的生理的心理的認知的感覚的な学習、それは不思議で面白く且つ美しい、そして美術のみならず人間の生活全般に密接な極めて有益な学習であると…私は思っています。又、その辺り、じっくりと腰を据えて色彩教育についても述べてみたいと思います。
取り急ぎ。短文にて失礼します。

続いて書き込みよろしくお願いいたします。

前田先生 北海道は、雪、降りましたか?
もう早くも11月ですね。。。
| 渡辺邦夫 | 2010/11/06 10:52 PM |

横浜国大 渡辺先生 および委員のみなさま

長らくご無沙汰しております。渡辺先生の個展、拝見させていただきました。感想の記述が遅くなり、すみません。

色相環の絵具セットの開発にも表れているように、渡辺先生のポスター、色彩がとても印象的でした。私には使えないような配色です。動物の写真も上野公園で撮影されたとのこと、動物の表情がとてもよかったです。ゴリラなど特に。また和光大学での授業実践の学生作例も会場で拝見しましたが、まさしく内容学に使えるなあと思いました。会場も原宿の同潤会アパートの一室で、作品と相まって、とても瀟洒な雰囲気で、いい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
 作品も実践例も、渡辺先生のデザインおよびデザイン教育に対する誠実な姿勢が表れていたと思います。私はポスター展を個展で開催している例を初めてみました。いつも見ているのは絵画の展示ばかりなので、ときどきはこうした違うタイプの展示に触れるのも刺激になります。今後も益々ご活躍ください。

 個人的なやりとりになっており、失礼しました。現在、アンケートに関しては、学芸大学石井先生のご尽力で、やがて実施されるとのことです。今後の本委員会での議論が、それらのアンケート結果によってまた展開し、テキスト実現に向けて大きな力になることは必至だと思います。アンケート結果がある程度見えてきた時点で、一度また委員による会議を開催する方向で考えましょう。テキスト章建てのディテールに関しては、それぞれの委員の役割分担が決まっておりますので、少しずつでも各事項の具体的内容を、ランダムでもいいですから、列記し始めていただければと思います。私ももうしばらくしたら記入を始めるつもりです。

以上よろしくお願いします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/10/16 7:35 PM |

松浦委員長 皆様各位 シンポジウム参加学会員の皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。松浦委員長のご指示、了解しました。
埼玉大学/小澤先生に早速の書き込み御意見に同意いたします。

今回、東京大会シンポジウム会場で冒頭発言しました通り…
我々の本委員会は今迄の論議の成果を元に大きなターニング・ポイントとなるシンプジウムを行いました。まるでリングの様に周囲を囲まれた委員会委員の論議に、ご参加下さいました学会員の先生方から極めて鋭い質問が多く投げ掛けられ、教科内容学に関する感心の高さや委員以外にも実は非常に意識の高い方々が居られることを実感しました。

拡大理事会やシンポジウムで松浦委員長がご説明になった重要な点は…
今迄以上に我々の論議に関心を持ってもらうこと、更に、委員以外であっても今後実施するアンケートへの返答や、本ブログ論議に積極的に参加して貰い、小澤先生を中心に纏め上げ出版に至る美術教科内容学のテキストの執筆に多くの学会員の力を結集して行くことでありましょう。

その意味に於いて…大会前日/委員会の4章(案)それぞれの担当者選出、大会前夜/銀座での場外有志会議、そしてシンポジウムでの参加者を交えた意見交換、これら連続した今回の大会での全国からの集結は極めて有意義だったと思います。この私の感触は、参加された委員諸氏も同様でありましょう。
学芸大学/石井先生の長さ10mを超す本グログ論議の壁新聞的展示も…実は全体論議(7/1迄)のみであって、実は他に絵画・デザイン・工芸等の全学科目や章立て4項目は掲示されておらず、実はあの5倍以上の論議を我々は既に公開形式で行って来ました。
そこに、今回のシンポジウムで更なる闊達な論客が加勢することは必須であろうと思うと…自分の個展開催(9/29〜10/4)より増して、今からわくわくしている処です。

小時学語苦難円 唯道工夫半末全 至老始知非力取 三部人事七部天

この中国の偉大な先人の格言は…
人の出来る事は実は全体の三部しか無く何事も其の七部は天が決定する という短絡的な意味では有りません。

長い人生を振り返って見れば人の出来る事は其の僅か三部しか無いからこそ…努力を惜しまずに若い内に勉強しなければいけないという哲学的な意味だと上野の学生時代に学びました。
しかし最早50歳も過ぎ…私も人生の残り時間を考えることが有ります。自分の信じる『何かを遺す』こと。其れは『作品』『教材』『授業』『言葉』でも我々は有り得るでしょう。その価値を信じて頑張って参りましょう。

シンポジウムで発言された先生方、是非、論議参加して下さい。
本ブログ内の該当箇所、何処でも結構です。

PS.石井先生、アンケート案について意見あり、後で委員MLに叩き台を投げます。先ずは委員会内で論議し、返答し易い参加したくなる内容を固めて参りましょう。
| 渡辺邦夫 | 2010/09/23 2:40 PM |

松浦委員長および委員の皆さま

 学会お疲れ様でした。「中間まとめ」の公開によって、本委員会の目指す内容、着地点等が広く開示できたと思います。あとは、他の教員の方々の協力をいただきながら、テキスト化に向けて鋭意尽力していきましょう。アンケートが今後の議論にとって有意義に作用するような内容となるように、石井先生を軸としながら構想し実行できるようにしていきましょう。今後の議論は、各章の具体的事項を提起していくことだと思います。松浦委員長の言われるように、最低10項目はそれぞれ必要でしょう。しかし、各章が同じウエートになる必要はありません。そのあたりのニーズのウエイトが、アンケートからも図れるようにしたいと思います。「中間まとめ」についての意見を聞くこともまたアンケートでは必要だと思いますし、不足の部分、あるいはディテールについての意見も拾い上げられればと思います。そのあたり、石井先生どうぞご考慮頂ければと思います。私も微力ながらお手伝いさせていただきます。

あくまでもこの委員会の着地点は、テキスト化であります。それが「報告書」的なものになろうとも、あるいは「ガリ版刷り」になろうとも、部門の委員会の成果として、まずは一つの冊子というかたちにまとめることが必要です。その後、それを市販化することについては、さまざまなご意見がありますので、慎重に、しかし確実に実現する方向で鋭意模索しましょう。このテキスト化が、今後の大学における美術教科内容を考えるための、いい意味でもまた批判的な意味でも、一つの大事な布石になることが、最大の意味だと思います。分担された内容について、それぞれの委員の先生方のご意見ご記入のほど、お願いします。他人事と思わず、積極的な意見の記述をお願いいたします。

また、このブログを読んでいただいている委員以外の学会関係の先生方についても、参入して記述していただければ、大変参考になります。途中からだからと躊躇されず、ばしばしご発言ください。

小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/09/22 12:09 AM |

教科内容学検討委員会委員 各位


 18日の教科内容学検討委員会、そして、19日の全国美術部門総会、シンポジウム等、ご苦労様でした。
 皆様のご協力のお陰で、無事、それらを乗り越えることができました。それに浮かれず、当面、アンケート、章立ての項目の検討を進めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 当日欠席された先生もおられますので簡単にご報告いたします。
 アンケートについては、18日の委員会での検討を受けて、担当の石井先生が修正案を作成中です。今月中に作成し、10月に入って実施する予定になっています。
 協議会のシンポジウムでは、教科内容学検討委員会が今まで検討してきた経緯と、教科内容学をどのように考えているのか等、松浦が説明し、それを受けて、現在検討中の、教科内容学の章立てについて、小澤先生が丁寧に、しかも熱意を込めて説明されました。会場からいろいろな意見、質問がありましたが、教科内容学の内容についての説明が初めてということもあって、大きな反響を呼んだといえます。それらは、概ね好意的で、期待されている意見が多かったように思います。
 委員会ではそれを先取りして、章立ての担当者を決めて議論を進めることを決めていましたので、ご報告いたします。
 まず、委員会に理事会等の理由でご欠席された、福本先生、永守先生、大宮先生は、4章全体についてのご意見を、各章担当責任者にいただきたくお願いいたします。
『&#65533; 創造の原点(核)としての「ドローイング」を考える』の担当は、小澤先生(責任者)、前芝先生、渡辺晃一先生、
『&#65533; 創造のプロセスへの視座:そのドラマと振り返りの方策』の担当は、石井先生(責任者)、古瀬先生、前田先生、
『&#65533; 造形言語と批評する力』の担当は、
  渡辺邦夫先生(責任者)、山木先生、松浦、
『&#65533; フィールドワーク』の担当は、
  神野先生(責任者)、石上先生、川原崎先生、
 以上です。
 できれば、11月中までに、各章、10以上の項目をお考えください。当然、各章のイメージが具体的に浮かぶようにお願いいたします。

 
| 松浦 昇 | 2010/09/21 1:22 PM |

渡辺邦夫先生

 個展初日にわざわざお越し頂きありがとうございました。奥様素敵ですね!(すみません、個人的通信になってます)。展評もありがとうございました。さほど褒められる作品ではありません。まだまだこれからです。しかし、渡辺先生のお言葉、励みになります。
ありがとうございました。会議の件、私も私なりにできることをしたいと思っております。よろしくお願いいたします。

小澤基弘
 
| 小澤 | 2010/09/15 9:37 PM |

松浦 昇 先生、石井壽郎 先生、小澤基弘 先生、山木朝彦 先生 皆様

横浜国立大学の渡辺です。
委員長ご指示、了解しました。
会場の参加できる論議は既に決定している方針と理解しておりますが…
石井先生の最初からの意見に対し、小澤先生の当方論議から始めて様子を見ながら会場の皆様にも参加して戴くが私も良いと思います。

又、アンケート検討に加えて…何と!本当に本ブログ論議全てを掲示公開するとは驚きです。
よくやく秋の気配がする時節となりましたが…石井先生の熱さは継続中のようですね。

小澤先生の銀座の個展に行って来ました。
あの論者の上に…画家である。正に希有、マルチな才能です。ご本人には「ある瞬間の記憶を辿り描き壊し、そして、ある意味で本人にとって…写真よりリアルなタブローとして存在しているような感じですね」とお話ししました。作品は…グレーを基調に白、黒、時にやや蛍光がかったバーミリオンから煉瓦色迄、多様な赤系を繊細に用いて「作家本人の記憶の中に在る風景」を描いています。やはり、実技儀教員は…作家として表現者としても挑戦し続けなばならいという正に手本でありましょう。
すいません。評論家的なコメントになってしまいました。。。

土曜日場外論議が行われるようですが…
我々委員のリングは武蔵美です。大会会場をおおいに湧かせられるよう…前日会議から頑張って参りましょう。
| 渡辺邦夫 | 2010/09/15 11:38 AM |

松浦先生 石井先生 委員の皆さま

 松浦先生のご指摘の件、承知しております。19日は松浦先生に続き、4章の内容をパワポを使って手短に説明する手はずを整えております。

 19日のシンポの件、アンケート内容が拙速であるとのご指摘も承知しました。フロアを巻き込んでの会議進行についてですが、最初からそれをしてしまうと、司会としては収集がつかなくなる危惧があり(私は司会向きでないことは皆さまご承知のことと思います)、とりあえずは委員による会議から始め、様子を見ながらフロアを巻き込んでいくという形にしていければと思うのですが、、。それも当日の雰囲気次第で臨機応変に行きましょう。ただ、議論する内容については、18日の銀座会議で詰められればと思います。わざわざお越しいただき恐縮です!すみません。しかし、石井先生のブログプリントアウト掲示のパワー、頭が下がります。すごいインパクトとこの委員会のやる気(本気度)が伝わることでしょう。

それでは18日よろしくお願いいたします。

小澤基弘



| 小澤 | 2010/09/14 9:54 PM |

学大の石井です。
だいぶお久しぶりになってしまい申し訳ございません。

松浦先生のご段取り、了解致しました。
そのなかで考えまして、アンケートの件は18日に委員でしっかり議論して頂いた後、夕刻銀座の小澤先生をお尋ねし小澤先生交えて更なる精査をして頂ければ幸わいかと存じます。加えて18日大会初日のお疲れ様会を銀座で行なう事は、折角遠方から御出での委員の方々にとっても宜しいのではないかと、勝手に思っているのですが、如何でしょうか?

加えまして、19日の検討委員が全員参加するパネルディスカッションはパネリスト同士がディスカッションするよりも、むしろフロアを交えての議論展開を促進する事を是非希望したいと欲しております。なぜなら、パネリスト同士でしたら委員会と変わりません、今まで構築した検討具合を当日いらした方々にぶつけて更なる展開をねらった方が有益ですし、単純に面白い(真剣な意味です)。

関連致しまして、検討委員会ブログの「全体議論」部分をプリントアウトし会場に展示する件が決定され、準備しております。
全体でA4用紙に10ポイントの字で248枚です。サイズが1485×10500(mm)になり、シンポジューム会場の前に展示する予定に成っております。
既に全ての用紙張り合わせましたが、予想以上に大変なことでして、少々お見苦しい部分も無いとはいえませんが、日本画専門ではないので裏打ち技術に限界があるのだとお許し願う程度にはなりました。18日に何方かご協力願い展示致しますので宜しくお願い致します。

諸々、如何でしょうか?
大会当日を楽しみにしております。

一先ずです。
| 石井壽郎 | 2010/09/14 6:03 PM |

金沢大学の松浦です。

 小澤先生と渡辺先生の話が錯綜しているようですので、お伝えします。18日の教科内容学検討委員会では、石井先生から提案されるアンケートの内容について議論し決める予定です。そして、現在、検討している4章について、議論を進めるために委員の分担担当を決める予定です。アンケートについては、できれば拡大理事会で提案する予定です。19日の全国美術部門の総会終了後のシンポジウムは、時間が30分くらいと聞いていますので、最初に私から今までの経過のまとめを6〜8分で発表し、それを受けて小澤先生が今、検討している章立てについて残りの時間で発表することになっている筈です。小澤先生と前に打ち合わせたことになっていますが、いかがですか。18日、小澤先生は個展のため欠席とお聞きしていますが、19日はシンポジウムとパネルディスカッションには出席される予定だと思っていますが、いかがでしょうか。
| 松浦 昇 | 2010/09/14 3:57 PM |

渡辺邦夫先生

 すみません。シンポの日にち間違えていました。渡辺先生のご指摘の通りです。今、銀座での搬入展示を終えて帰宅しました。明日は午後6時あたりからささやかなパーティをやりますので、是非お時間がございましたら、お越しいただければと思います。また他の委員の皆さまも、お時間があれば是非!渡辺先生の個展も楽しみにしております。
 またシンポの件、お話できればと思います。もし可能であれば、石井先生、アンケートの内容について、現在どのあたりまでお考えなのか、お聞かせ願えないでしょうか?よろしくお願いいたします。

小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/09/12 9:51 PM |

小澤基弘 先生  皆様

横浜国立大学の渡辺です。
丁寧な個展案内状も賜り、ありがとうございます。
明日のオープニングに、はせ参じる所存です。

前日会議の内容についてシンポの冒頭で私から報告という御指示了解しました。
ところで、私の把握する処では…
9/18(土)14:30〜 前日会議/教科内容学検討委員会
      15:30〜 拡大理事会
9/19(日)10:45〜 開会式
      10:45〜 シンポジウム1「教科内容学は美術の未来を語れるか」
      13:00〜 パネルディスカッション「美術j教育の明日を考える」
      14:30〜 ポスター発表
      15:00〜 口頭発表
9/20(祝) 9:20〜 口頭発表
      12:30〜 学会総会
となっていますので…
小澤先生の文中、前日の委員会(19日)は(18日)の…
20日のシンポで司会…は、19日の誤りではないでしょうか。
準じて…
20日はシンポがあるので19日は会場に詰めるは…
19日はシンポがあるので20日は会場に詰める ではないでしょうか。
多分、日程数字に何か勘違いが有るのではないかと思います。
どちらにせよ…前日会議(18日)に私は出席しますので…
翌19日、重要なシンポジウムでの冒頭/露払い役、仰せつかりました。

松浦先生、山木先生、委員の皆様、猛暑もようやく納まりました。お元気ですか?
どうか、大会シンポジウムに向けて論議「秋の陣」再開しましょう!
よろしくお願いいたします。

PS. 私目も…表参道ヒルズ/ギャラリー同潤会で個展(9/29〜)を開催します。
渡辺邦夫 個展「地球の命 II」http://galleryd.exblog.jp/13211666/
此の夏、8月初旬〜作品制作にずっと没頭…今朝の概ね完成迄、一切、休み無し。
久々の右脳全開。理由も無く色が浮かびます。作品制作用の感覚脳になってます。
唯、制作は試行錯誤。産みの苦しみ。自己打破の繰り返し。流石に疲労困憊です。
でも、ある種の達成感というか…爽快な疲れなのです。
例えるなら…目指した峰を制した「登山の後の様な感覚」が「今」です。
今週中には体力復活します。
| 渡辺邦夫 | 2010/09/12 6:32 PM |

内容学検討委員会の皆さま

 その後皆さま方いかがお過ごしでしょうか?いよいよ今週末より学会が始まります。委員の皆さまにはシンポジウムで大変お世話になります。よろしくお願いいたします。

 シンポジウムは普段の委員会をライブで行うことをコンセプトとしています。ですから、当日お越しになる委員の先生は全員参加というかたちになります。わたくし小澤がコーディネーターを拝命しておりますので、司会進行をさせていただきます。
 当日の議論は、先日学芸大学の石井先生より提案のありました、教員へのアンケートについてになろうかと思います。アンケートの内容についての議論を中心として会議を展開させていきたいと考えておりますが、まずこの点について委員の皆さまはご承知いただけるでしょうか?

 ご承知いただけるとすれば、前日の委員会(19日)において、その布石的な議論をぜひともお願いしたいと思います。と申しますのは、私はその日は会議に出席できないからであります。ちょうど来週より個展を開催しておりまして、20日まで会期はあるのですが、20日はシンポの司会やらなにやらで個展会場にはいけませんので、どうしても19日には会場に詰めている必要があります。
 ですから、19日の会議で決まったことを、是非とも当日のシンポの冒頭で副委員長の渡辺先生から簡単にお話いただければと思います。司会として私がその件について渡辺先生に話をふってよろしいでしょうか?アンケートの議論をするとなれば、その叩き台的な内容になろうかと思います。渡辺先生、よろしくお願いいたします。
 シンポの進行イメージとしては、私が「中間まとめ」についてのレジュメを印刷してきますので、それをフロアの方々に配布します(冒頭で説明してもいいのですが、会議にむしろ時間をかけるほうがいいと思いますので、配布物で各自把握してもらうという形をとろうかと思います)。テキスト化に向けて、ディテールを考えていく際に、委員の考え方だけでなく、広く全国の教員の方々からご意見をいただくということで、アンケートを実施する趣旨を説明し、その後その内容の議論というかたちで進めたいと思います。
 約1時間ほどの議論ののちに、フロアからの意見を聞く質疑応答の時間を30分ほどもって終了ということになります。

 まず以上のシンポ内容でよろしいかどうか、委員の皆さまのご意見をお聞かせいただければと思います。

小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/09/12 1:22 PM |

誤字修正:〇おそらく(×おさらく)
| 山木朝彦 | 2010/09/01 8:53 PM |

美術部門の内容学研究は、他の教科教育におけるアプローチに比較しても、おさらく遜色の無い、同時代的かつ実践的な方向性を先取りしていると思います。それは、教員養成課程の授業改善に直接つながる方法を模索した結果、たどり着いたひとつの帰結だと思います。

同時に、わたしたちは次のような基礎的な観点も見失わないようにすべきだと思います。それは、各専門性(絵画・彫刻・デザイン・工芸・美術史/芸術学などのアート・セオリー、そして美術教育学)の思考方法およびその表現技能の習得方法の固有性を軸に据えた教育との関わり方です。もう少し、単純化して言えば、(各種別の名称の妥当性はともかくとして、) 上記それぞれの枠組みの研究者が自らの研究範囲と考えている造形世界の基礎・基本を整理して捉えなおし、たとえば、小学校と中学校の題材群のなかに潜り込んでいるエッセンシャルな学習の課題を明示的に炙り出し、その課題解決のための合理的な指導の内容を提示する必要性の自覚です。

成熟した議論の果てに、もう一度、ジャンルベースである、このように非常に単純な事柄について採り上げるのは、いささか問題なのかもしれませんが、あえて申し上げたくなったのは、私たち検討委員会が辿りついた同時代性と実践性を保証するのは、やはり、大学院設置基準に明示されたある種の独自性を保証された、絵画・彫刻・デザイン・工芸・美術史などの理論、美術教育というディシプリンだと思うからです。

内容学の現代的な刷新という観点からは、このブログ全体の冒頭に提示された複数の観点は、きわめて有効なのですが、各専門の枠組みにおける、易から難への系統的な課題およびその解決手法の提示については、まだまだ議論が未成熟な気がいたします。

そして、そのことがまた、現在、提示している枠組みがいわば方法論として誤解されかねない見え方となってしまう一因だと思うのです。要するに、ブログの右欄におけるカテゴリーと書かれたところの、美術科教育、絵画、彫刻、デザイン、工芸、美術理論・美術史という箇所が、いっそう小・中の題材をベースとして、議論活性化する必要があるということだと思います。
| 山木朝彦 | 2010/09/01 8:50 PM |

埼玉大学 小澤基弘 先生 そして委員の皆様

私目の目の病、優しく御気遣い戴きありがとうございます。
北海道教育大学 前田先生、お電話で暖かいお見舞いの御言葉ありがとうございます。
目は相変わらず『薄黄色い満月』が左目に見えますが…何とか大丈夫です。
石井先生からは「逆に面白いじゃあないですか」と素晴らしい御言葉を戴きました。。。

前田先生が埼玉大学開催の関東地区二部会での本委員会有志会へ参加できなかったことを気にされておりましたので他の委員諸氏も同様と思い…簡単に様子をご報告させて戴きます。

埼玉大学の先生方、二部会の準備及び協議会を運営実施下さいましたことに感謝いたします。最近の各大学の状況に関して…受験生志願者の推移、学部入試の内容、指導教員の決定方法、教育実習や附属との関係、教採対策キャリア支援、0免課程の動向、大学院改組の取り組み等…今回の集まりは貴重な情報交換の場となりました。
又、懇親会に於いては日頃、簡単には会えない他大学の先生との情報交換やお話の時間を共有することが出来て良かったと思います。

唯、小澤先生もご指摘の通り…懇親会の流れの中で我々教科内容学検討委員が有志会として議事開催する訳にも行かず…それぞれの意見交換はできましたが有志会という様な議事に残す類いの論議は出来なかったというのが実情でありました。ですから、参加できなかった委員の皆様方におかれましてはお気になさらずとも結構です。問題は…このまま夏休みに入ってしまい昨年度の様に論議停滞することの懸念でしょう。
故に本務佳境の折、恐縮では有りますが…暫くは出来る限り本ブログで論議を継続しつつ重要な秋の大会前には委員会を別途開催するのが良策ではないかと思案するところです。

全体論議であっても新設された章立てのそれぞれ委員の思い付く範囲での列挙にしても…ご多忙中と思いますが、委員各位の積極的な書き込みをお願いいたします。短文で結構です。

かく言う私も本務佳境ではありますが…本日、夜間大学院授業への合間を縫ってタイプしております。自分を追い込む為に敢えて書きますが…近日中に、自分の基礎デザインの授業に於けるドローインクの基礎=何故、デザインに於けるドローイングの学習はこうあるべきなのかについて、具体的な課題内容、指導方針を追って書いてみたいと思っています。
きっと前田先生が…その続編、図法・図学・製図に於けるデザインが必須とするドローイング(実は其れは絵画空間の理解にも欠かすことは出来ないのですが)やレンダリング技法等について書いて下さると信じつつおります。執筆準備、お願いします。

先ずは短文にて失礼いたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/07/13 5:33 PM |

横浜国大 渡辺先生および委員の皆様

 蒸し暑い日々ですがいかがお過ごしでしょうか?

渡辺先生、目の方大変ですね。かくいう私も、2001年に疲労性の網膜剥離を患い、手術しております。多分当時は微細なマティエールの画面を描いており、そのせいだと思います。現在も左目の上の部分の視野欠損です(網膜の下の部分が剥がれました)。しかし、今のところ無事に絵を描き続けております。半年ほどで完治とのこと、不幸中の幸いだと思います。お大事にしてください。

確かに渡辺先生の言われるように、章立て以降書き込みがややさびしい気がしております。委員の皆様、あるいはご興味のある関係者の方々、何かしらの発言をしていただければと思います。9月の学会でのフォーラムの際に、大方の各章の項目の提案ができることを目標にしていますので、是非とも書き込みの方、お願い致します。制作に関わってみえる先生方には、「創造のプロセス」に関して重要な観点を、それぞれの分野の先生には是非とも書き込んでいただければと思います。教科専門の教員のほとんどは制作者ですので、そこが強みなのだと思います。要は自分自身の制作に際しての実感から出発することが、一番説得力があるのだと思います。よろしくお願い致します。

小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/07/06 9:21 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

静岡大学/川原崎先生、議事録お纏めご苦労様でした。
この議事により本委員会の1年以上の論議のから得た具体的方向性が明確になったと思います。常に論議を推進させる為に中心となって来られた埼玉大/小澤先生始め学芸大/石井先生、鳴教大/山木先生、そして委員の皆様方に感謝いたします。

6月末に新設された4章立て案のカテゴリー、創造の原点(ドローイング)/創造の過程(プロセス)/造形言語と批評/フィールドワーク/その他 には…早速、小澤先生、私目、石上先生が書き込みをされましたが…私目同様、皆様方も本務佳境の時節故、中々、じっくり書き込む暇が取れないのかも知れません。

唯、委員であれば心掛けたいのは…毎日、必ずブログを見ること、新たに書き込まれた意見を読むことは必須ではないでしょうか。(実は私はネットに繋がると直ぐに此のブログが見える様に設定、そうしているのですが…)

そして、気張らず…短文であっても…全く構わないので…
寸暇を裂いて書き込みをして…委員相互の理解と協力を持って目的に向かって少しづつでも前進して参りましょう。委員諸氏の御協力をお願い申し上げます。

ちなみに私目、先週月曜日より左目に異変ありまして…
左目だけ黄色い◯が見えてます。◯の中は周囲と比べて、やや暗くピントがボケてハッキリと見えません。直ぐに医者に行きました。病名:中心性漿液性脈絡網膜症。眼球の奥の網膜の中心に水が溜り網膜が浮く症状、一種の網膜剥離だそうです。働き盛りの男性だけがなる目の病気で…原因は仕事上の過労や過度のストレスと言われているそうです。
目は我々美術に生きる教師に取って命と同じ。当初、自覚した時には不安になりました。が…約1割弱程度の確立はあるが失明に至る程の重病では無く、約半年で治癒する病気との医者の言葉を聴き一応、安堵しました。

梅雨の時節、皆様も…くれぐれも御身体を大切に御慈愛下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/07/06 11:03 AM |

平成22年度 第2回 教科内容学検討委員会議事録(その4)

-鶤フィールドワーク について-
 既に大学や学校現場で実践されていることであるが、再度自覚して行う意義について確認した。人と人との関わり合いを持つことや、学校と社会という接点を持つことで、美術・デザインは社会と密接に繋がっているという「リアリティ」を感じさせる重要性についての意見が多数あった。
◯具体的にはアトリエの訪問、街中の印刷物、広告、ポスターを見る、野外彫刻、パブリックアートを見るということがあげられるだろう。古美研のような活動も含まれる。
◯地域プロジェクトや地元の土を用いた陶器作りや環境色彩の収集、手づくり木炭でのデッサン等も含まれる。
◯大学から社会へ発信し、または社会での情報を吸収しようとする姿勢が必要。
◯美術を社会的に対象化させることが必要であり、これは社会的なドローイングとも言えなくもない。

-目的を明確にする重要性-
◯美術が生活の中に根ざしているヨーロッパ諸国がそうであるように、国家としてどう位置づけているか、日本の美術は何を大切にすべきか、何を目指しているかというところをはっきりとさせる必要がある。
◯自己実現、自己更新、自己尊敬、自己発見をする為に美術には必要であり、現代日本を自分なりに幸せに生き抜く為に、まず自己実現等の獲得が有効なのではないか。
◯美術は多様性が重要だと言っておきながら、日本がまだ多様性を保証していない時に美術教員はどのように発言していくべきかが問われているとも言える。社会全体の課題に対して、美術のとるべき姿勢も明確化していく必要がある。
◯一見、教科内容の中心部分ではないように見えるワークショップのような実験的な部分で美術科の新しい道を切り開こうとしている大学もある。つまりは自己刷新であると同時に、社会変革である活動が重要だという意識がいままでの教科の中には薄かったので、弱体化してきたと思われる。社会の中での多種多様性の重要さを理解して貰えるよう努力して行く。

■その他の議論
-東京大会でのブログ展示について-
◯美術科内容学のブログ(全体議論)は9ポイントで組み、250ページほどの分量になる。
◯展示スペースについては壁面が少ないため調整が必要である。
-今後の予定-
◯フィールドワーク内の文章修正を渡辺委員が、テキスト全体にかかる目的(序章)を山木委員がそれぞれ担当し、「美術科内容学テキスト章立て案」をブログ全体議論内にアップする。
◯教科内容学検討委員会のブログには全体議論とは別に、4つの柱の項目とその他の項目(4つの柱には入らない項目)を設置することとなった。そこへ教科内容学委員、または美術教育に関わる全ての人々が様々な意見を自由記述し、その中で徐々にコンセンサスをとっていくこととなった。
◯中間報告(今年度の3月)としての報告書は簡潔にまとめる。中間報告とは別に、今年度中には教科書の内容や項目を決め、担当者を決める必要がある。
◯部門、学会で予算をつけることはできなさそうであるので、出版となると科研費をとることも考えていかなければならない。
◯執筆の依頼の方法としては、内容のディテールを箇条書きで示す必要となる。また、シラバスを参考にして執筆依頼することになるだろう。
◯今まで教科内容学検討委員会に参加していただいていた委員の方々に幅広く執筆依頼をする方向も考えられる。

以上
文責:静岡大学 川原崎知洋
| 川原崎知洋 | 2010/07/01 1:14 PM |

平成22年度 第2回 教科内容学検討委員会議事録(その3)

-鶚視覚言語と批評の力 について-
 山木委員より、ご自身が執筆された「色と形の世界を言語化する果敢な挑戦」(平成22年度鳴門教育大学附属中学校研究大会紀要からの抜粋)が配布され、小・中学校で実践されている現状の鑑賞教育についての課題や問題点が指摘され、議論が進められた。
◯鑑賞教育は現場では大変錯綜している状況にあり、鑑賞教育の理解にも偏りもある。ある作品を見せてすぐに感想や気付いたこと言わせる鑑賞方法もあり、一方では長い時間をかけて感想文を書かせるという内省的、内向的、文学的鑑賞の傾向が強い鑑賞方法もある。鑑賞教育において、おさえなければならないことは何かということを整理しなければならない時期にさしかかっているように思われる。
◯学校現場では見た印象から入らずに、いきなりテーマから入ってしまうような鑑賞方法が多くなっている。社会的な知識を受容することは大切なのだが、もっと純粋に形や色の印象から語られる様な鑑賞授業があってもよいのではないだろうか。
◯次の5つの項目に沿って、様々な鑑賞授業を批評することは可能である。
1. 鑑賞はじっくり語り合い、各々の感じ方の違いに気付くこと。
2. 造形言語について再考すること。
3. すべてを言語に置き換えようとする流れは行き過ぎであるということ
4. 作品の歴史的な意味や意図(テーマ)と、作品に描かれている色や形の両方に着眼した鑑賞授業であること。
5. 饒舌な子どもを賛美するような方向が望ましいということ。
◯饒舌であり、言葉が鋭くもあり、同時に表現意欲も強い、そのようなスタイルの人間を育て上げたい。そのためには表現に繋がる鑑賞、鑑賞に繋がる表現、そして、両者が統合された活動を模索すべきだと思う。批評する力、視覚言語、ビジュアルの世界を有機的に関連させた授業が出来れば、教育の質をあげることにもなるし、鑑賞教育の混乱状態を緩和させることにもなる。
◯大学での鑑賞の授業実践の中では、見たものを言語化していくということを実践している。言語化したものと実際に見えるものとの間にズレがあった時に指摘し、確認し、共有していくという授業を実践している。
◯作品の講評会などもここに入ってくる。各々の先生が講評会をどのように行っているのかということも興味深い。教師の講評は、教師のキャラクターだけではなく、教師の作品とも関連してくる。そのズレが生じて講評会は面白いのではないか。
◯学校の先生達は学校教育の成功者であるが故に、何かを作りだそうという気持が希薄なように思える。よって、新しいメッソドを獲得すると早合点して、部分的、断片的に受け止めてしまうのは問題である。社会背景、教育のベースをしっかりと理解した上で対話型鑑賞を行えば、現場に合わせてアレンジすることができるのではないか。
◯私たちは「見ること」から始まっているとも言える。あくまでも見る為の対話である。対話はあくまでも手段であって、対話型鑑賞の目的はやはり「見ること」ではないだろうか。さらに最終的には作品を通して自分の内面を見ているのだということを自覚させることが大切である。だからこそ造形言語が必要である。
◯自分が見ている時計と、他人が見ている時計とは異なるように、認識のズレが生じていることを我々は自覚しなければならない。だからこそ言葉によるコミュニケーションが必要である。
◯日本の美術教育の中にも、いろいろな言葉による表現に基本的な専門用語を交え、現実の造形表現で何を表しているのか、ということを考えさせ、定着させていっても良いのではないだろうか。
◯感性の教育として美術は一義的に定義されてきた。ローウェンフェルド、デューイが述べているように、子どもは非常に豊かな感性で創造している。だから大人が高度な専門用語を教えることによって、その瑞々しい感覚を壊してはいけないという考え方があったが、改めて考え直す時期に来ているのではないか。
◯一般的には言葉が与えられて初めてその感覚が分かるという人たちが多い。子どもは全ての能力を持っていると理想化することも理解できるが、全ての能力を等しく持っている訳ではないのも事実。ということは言語を通して見るという能力を拡張することも考えられる。また同時に、言葉で説明できない時には新しい言語を開発しなければならない、あるいは言葉に縛られて他の要素が見えなくなってしまう可能性についてもメッセージとして伝えることが大事になる。
◯発信する側の厚みをもう少し付けたいところである。言葉にすることができないことがあり、発信したいことが溜まってくるからこそ、表現することの大切さがあるという視点は非常に重要ではないだろうか。

| 川原崎知洋 | 2010/07/01 1:13 PM |

平成22年度 第2回 教科内容学検討委員会議事録(その2)

-身体性について-
 石井委員より、「『美術の身体性』に関連する記述」が配布され、これまでのブログ議論の中に身体性に関する多くの記述がされていたことを確認した。
◯現場の先生や学生にとっては、身体性は受け入れ易いと思われる。
◯身体性という言葉だけで別の世界を切り開いていけるほどの幅を持っている。美術科教科内容学で身体性を扱うのであれば、「美術科における身体性とは」というように断らないと、認識が一致してこないのではないか。
◯21世紀に生きる私たちがどのような身体性を獲得するのかというテーマは、日本国民全体として求められていることでもある。過去に語られてきた身体性に縛られず、現代の国民的議論を喚起すべきでは。
◯大学組織で実技教科である美術、音楽、体育の各々の教科が連動していくような方向にあり、そういう意味で身体性というキーワードはしっくりくる。
◯さらに、次のステージとしては実技教科(音楽、体育、美術)の中で身体性をどのようなイメージで共有できるかという議論につなげないといけない。
◯そういう意味では、今回は美術ということで限定して、身体性を語ることは可能だと思う。

-出版する書籍のターゲットは?-
◯ターゲットを大学教員だけでなく、教員養成の学生、現場の先生にも向けるのであれば、現状の章立てを基本としながらも再考する必要があるのではないか。例えば身体性というキーワードを入れるなど。
◯現場で活用できることももちろん大切ではあるが、教員養成系の大学で美術は何を教えることができるのかということをきちんと明らかにすることが重要である。
◯読者は美術や美術教育の骨組みが分かり、それを受けて触発され、自分なりに肉付けしていける様な内容が望ましいのではないか。

■議事2 4つの柱の内容・項目の精査
 4つの柱におけるコンセプト部分に関して、議論を通して確認し合った。その中で、何故4つの柱が美術には必要なのか、そもそも美術は教科として何故必要なのか、ということを明確にしていく必要もあるのではという意見から、美術が教科として何故必要かを再考する方向へと議論は進んだ。

-鵯創造の原点(核)としての「ドローイング」を考える について-
 これまで「ドローイング」には明確な定義がなかったが、今回はこれを広く捉え直すことで、新たな創造の原点を見出せる可能性があるのではという意見があった。
◯通常、ドローイングとデッサンは違うものとして扱われるが、ここでの「ドローイング」は素描と呼ばれるあらゆるものが含まれる。デッサン、クロッキー、アイディアスケッチ、落書き、スクリブル等がある。また、色彩ドローイングがあるように、色彩概念も含まれるし、クロッキー粘土を使った立体ドローイングも含まれる。
◯大きく3つのカテゴリーにドローイングは分けられるのではないだろうか。
1. 形態のきっかけを導くようなもの→「創出」
2. ドローイング日記(ドローイング作品)のようなもの→「内省」
3. デッサンのようなもの→「観察」
◯泥団子遊び、てびねり、石や木などを「磨く」、「削る」という「行為による模索」のようなこともドローイングの概念の中に入れていきたい。手を使ったドローイングは立体分野では重要な観点である。
◯形からではなく、まず言葉によってイメージを増大させることもある。これは言語によるドローイングということができるのでは。
◯ドローイングという概念を肥大しすぎると、他の項目とのバランスが崩れていってしまう可能性も懸念される。ドローイング自体に多くの意味を詰め込みすぎないという観点から考えると、「ドローイングを考える」という姿勢ではなく、「ドローイングから考える」というスタンスの方が良いのではないか。

-鵺創造のプロセスへの視座:そのドラマと振り返りの方策 について-
 プロセスを振り返ることで、はじめて創造行為の意味が明確になることや、プロセスそれ自体に創意工夫することの必要性について確認した。
◯これまでトライアンドエラーによって飛躍するというプロセスに関する記述がされて来なかったので明確にしていきたい。記録する意味、振り返ることの意味を認知的な知見からも述べていきたい。
◯制作学的なカテゴリーである為、教科専門の先生には馴染み深い項目であり比較的賛同が得られるカテゴリーだと思われる。

(その3へ続く)
| 川原崎知洋 | 2010/07/01 1:12 PM |

平成22年度 第2回 教科内容学検討委員会議事録(その1)

■日時:6月13日(日)13:00〜
■会場:東京文化会館/応接室No.2
■出席者(敬称略):
◎松浦 昇(金沢大学/デザイン部会)、○渡辺邦夫(横浜国立大学/デザイン部会代表)、小澤基弘(埼玉大学/絵画部会代表)、石井壽郎(学芸大学/工芸部会代表)、山木朝彦(鳴門教育大学/教科教育部会代表)、大宮康男(静岡大学/美術史美術理論部会)、神野真吾(千葉大学/美術史美術理論部会)、石上城行(埼玉大学/彫刻部門)、前田英伸(北海道教育大/デザイン部会)、川原崎知洋(静岡大学/デザイン部会)
以上10名
■配布資料:
美術教科内容学テキスト 章立て案
『美術の身体性』に関連する記述
色と形の世界を言語化する果敢な挑戦

■議事1 提案された4つの柱の概要と検討 
鵯創造の原点(核)としての「ドローイング」を考える、鵺創造のプロセスへの視座:そのドラマと振り返りの方策、鶚視覚言語と批評の力、鶤フィールドワークの4つの柱として精査された「美術教科内容学テキスト 章立て案」が小澤委員より提示され、変更内容について説明があり、議論が展開された。
-章立て案について-
◯4つの柱はすべてのアーティスト、研究者に通底している不可欠なものであると思われる。
◯エディティングはプロセスを振り返る為の方法論であり、プロセスの手段の中に必然的に入るので1つの柱としてまとめた。また、視覚言語のところには、授業批評を入れた。また、ここには造形言語も含まれる。造形言語を発信する身体感覚というような切り口で位置づけていくことが出来るのでは。粘土を触る感覚とか、絵の具を触る感覚とかというように。
◯フィールドワークはアトリエ、現場などの訪問が入っている。ここについては現場の先生も身近なものとして捉えてくれるのではないだろうか。
◯4つの柱とともに、テキストの基本構成としては
1. コンセプト
2. 大学における授業実践(具体的実践例)
3. 学校現場による授業実践(具体的実践例)
 とした3つのセットとして内容をまとめたらどうだろう。このような構成にすることで、大学の教員だけでなく、現場の先生にも活用でき、実践の本質も理解することができるのではないだろうか。また、教育実習へ行く学生も活用することができる。
◯前提として、教科内容学は現場で活用することができなければならないので、基本構成は理にかなっている。基本構成は、4つの柱全てに反映させる方向である。
◯教員養成の学生には、大学卒業したあとでも活用できる様な最低限の基礎・基本は教えておきたい。その為には歴史や研究の方法などの理論的ベース、学校現場で用いる題材、題材を考える実践力が共に必要になってくる。
◯標準化された基礎・基本も大切だが、時代とともに変化していくアートの考え方、捉え方を柔軟な心で吸収し、授業題材に変換できる創造的な力を養うことも重要。
◯全ての教員は、個々の成功体験からものを語る。それにはもっともな面も多いが、そこから一度離れてみる必要もあるのではないか。今まで繰り返し行われてきたことと同じメッセージになってしまうのではないかという懸念もある。
◯これからの教員養成のあり方へのメッセージとしても発信していく使命もある。

(その2へ続く)
| 川原崎知洋 | 2010/07/01 1:11 PM |

委員の皆様

 最初に僭越ながら頭出しをさせていただきました。誤解を招いたとしたら正していただきたいのですが、この段階ではあくまでそれぞれの章において必要とされる「考え方」やそれに関わる事項の列記を、まず行うこととなっていたはずです。ある委員から、私の書き込みは、授業実践例を書き込むことを奨励するように読み取れるとのご指摘を受けましたが、それは誤解です。委員会でも話し合ったように、この段階では、まだ実践例の列挙は拙速であり、あくまでそれぞれの章に必要だと思われる「考え方」やそれに関わる事項の列記を行うことになっていたはずです。大学における授業実践、そして学校現場での授業例は、その後段階的に進めていく事柄だという私の認識ですが、それでよろしいでしょうか?もう一度確認させてください。なお、列記の方法は、各自の考え方に基づいて記すしかないと思っており、私は私なりの書き方で記しました。それが分かりづらいとすれば、そういうことも含めて、疑問点やその改善についての議論を、このブログ上で書き込んで進めていければよいのではないでしょうか。

小澤基弘
| 小澤 | 2010/06/20 11:52 PM |

委員の皆様へ

テキストのそれぞれの章のアブストラクトに従って、取り急ぎ「創造の原点」のなかでドローイングについて思いつくことを列記してみました。まだまだラフな案ですが、皆さんのラフな思いつきをとりあえず列記して、このブログ上で徐々に精度を高めていきましょう。
それぞれの内容の議論の経緯は、それがたとえ精度のないものであっても、そうしたラフな議論の積み重ねのプロセス自体も第三者に示す方がよいと思いますので、このそれぞれの項目の書き込みは、そんなに慎重にならず、ラフな考えのままどんどんと思いついたことを描き込んでいけばいいのではと思います。最初から精度を求めて慎重になりすぎることは、作業の進行を遅らせると思います。以上、とりあえず頭出しをさせていただきました。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤 | 2010/06/20 10:41 AM |

「教科内容学検討委員会中間まとめ」
―教科内容学のためのテキスト構想案として―

◎説明と解説

 この中間まとめは、大学の授業改善をめざすテキストの作成を視野に入れております。つきましては、教科内容学のためのテキスト構想を見据えたうえで、上記の内容についてご意見を賜りたく存じます。なお、ご意見の投稿はできるだけこのブログに直接ご投稿いただきますようお願いします。

※投稿解説
 向って右側、Categoriesボックス内に上記各章内ごとの新たなカテゴリー:創造の原点・創造の過程・造形言語と批判・フィールドワーク・その他(設定された章に当てはまらない要素や、新たな提案など)、を設置致しました。
 是非、各カテゴリーに下記章立ての解説をご参考に、ご意見列挙をお願い致します。
| | 2010/06/19 12:48 AM |

「教科内容学検討委員会中間まとめ」(その2)
―教科内容学のためのテキスト構想案として―


鶚 造形言語と批評する力

色や形で表現される造形世界のあり方は隠喩的であり、その意味で想像的である。図像全体のアナログ的なイメージを把握し、主体的に解釈した意味世界をもとにして「作品の仮像世界に遊ぶプロセス」が鑑賞には重要である。しかし、その表現世界のある部分を注視して叙述するという「分析的な次元」では,色,線,形,動きなど、いわゆる造形要素への着目が有効であり、見落としていた作品の意味を掘り起こし認識させてくれることも少なくない。また多元文化社会における空間認識の多様性などを知る契機にもなる。
制作プロセスにおいても,多種多様な視覚的な効果や造形行為の基本となる造形言語について適切に学ぶことは極めて重要である。ケペッシュなどが提案した「造形言語」という考え方は,様々なジャンルの表現および鑑賞活動においてベーシックな役割を担っている。こうした「視覚言語」の理解は、ノンバーバル・コミュニケーションとしての美術の役割を学習者に深く認識させることを可能とする。
同時に、言語の特性を理解させ、アートの世界を筋道立てて論理的に語り批評する教育も必要である。アート批評だけではなく、授業批評力の養成もまた教員養成の重要な教育用件である。視覚言語や造形言語の学習、そして、前述のドローイング論、プロセス論を踏まえながら、小学校・中学校等の学校現場での授業実践をどのように批評するか、特に教科専門に関わる教員がその具体例の提唱を行うことが重要である。

鶤 フィールドワーク

社会の動きにかかわる現代の学問では、フィールドワークやフィールド・スタディーと呼ばれる現地での調査がよく行われている。具体的には、研究対象となる集落に長期間滞在するようなものから、現代の増殖する都市機能を支えるいろいろな仕組みや公共施設、ある役割を担う集団や個人にインタビューをしたり、その活動を観察したり記録したりするものまで、いろいろな方法がある。
美術が社会の中で実践的な役割を担い,現代の文化形成に寄与するものであるならば、大学の美術の授業においてもフィールドワークという研究・学習活動は不可欠だと思われる。例えば、文字ではなく視覚的に絵で伝達するピクトグラム(絵文字)等、公共の場に存在するデザインの現場調査、CGやアニメ製作会社の制作現場等を訪問しクリエーターの話を聴くことも広い意味でのフィールドワークであり授業内容に質的な向上をもたらすことが期待できる。デザイン関係だけでなく、画家や彫刻家のアトリエ訪問や作品が設置された場の見学、そして伝統工芸作家の制作現場を見学する工房訪問、機能的・装飾的に美しい現代の建築物、いうまでもなく、仏像や寺院や庭等の優れた古美術を見学調査することもフィールドワークに含まれる。美術館での鑑賞も見かたを変えればある一定の限定空間におけるフィールドワークであり、子どもたちの表現活動を観察記録しに現場の学校に出かけることもまた、教師にとって根本的に必要なフィールドワークである。
教科内容学という新たな枠組みで,専門の教育内容の向上を考えるとき、フィールドワークというこの観点は美術という教科の極めて重要な柱となるはずである。

以上

(解説としての、その3有り)
| | 2010/06/19 12:44 AM |

「教科内容学検討委員会中間まとめ」(その1)
―教科内容学のためのテキスト構想案として―

序章

 長い歴史の中で社会が如何に変化しようと、人間が幸せに生きようとする理想の実現に美術は極めて重要な役割を果たして来た。そのような美術のもつ価値、そして美術という教科を教育する意義について、教科内容学検討委員会は協議を重ねた結果、それぞれの専門分野で培った研究成果を明文化し、それらをいかにして現実の美術教育に役立てるかという実践的な課題を提起する必要性を、認識するに至った。
 そこで、学校教育のみならず生涯教育へとつながる教員養成のための大学教育に焦点を絞り、その授業改善の為の具体的プランを提示し、実際に授業内容を構想するための指針を纏めることとなった。この試みが小中学校での図画工作科教育および美術科教育の学習内容の充実につながり、児童生徒の表現意欲の喚起と表現と鑑賞の能力の発展、養成する教員の質的向上に寄与するものと内容学検討委員会は確信している。
 具体的なコンセプトとしては、絵画・彫刻・デザイン・工芸・美術史および美術理論といった各専門研究領域の基礎・基本を見据えつつ、それらを通底し、過去から現在に至る美術教育の歴史を貫き、脈々と受け継がれている表現や批評の活動の中心的な柱となってきた次の四つの柱を軸に具体的な大学の授業を構想することになった。

鵯 創造の原点(核)としての「ドローイング」を考える

 美術教科専門、特に実技系教科専門(絵画・彫刻・デザイン・工芸)を「創造」という概念で捉えた場合、その全てに共通する原点=核となるものは、「ドローイング」である。
 ドローイングの定義は現在に至るまで日本において成されていない。従って、本テキストではドローイングを、デッサンやクロッキー、スケッチ等、客観的そして主観的なあらゆる種類の素描を総合した概念として、先ず明確に定義する。
 そのように定義されたドローイングは、あらゆる美術表現へ向う創造の出発点である。またそれは出発点であると同時に、それ自体で既に創造の本質を内包する自立した美術の表現でもあり得る。多方向の表現へと自在に展開するドローイングの可能性を内包すると同時に、それ自体で作品としての強さも有するドローイングについて、本テキストの冒頭で考えることは、教員養成系大学における美術教科内容学を構築するための礎と成り得る。

鵺 創造のプロセスへの視座:そのドラマと振り返りの方策

&#9312; 美術表現を「作品」という最終的な結果としてのみ捉えるのではなく、それが生まれるプロセスにおいて生起する諸々のドラマへの着眼という視座から、教科内容学を捉える。ドローイングとも深く関わる自己の内的イメージの表出の問題、そうしたイメージの具体的な表出との間のズレを解決するための常なる「試行錯誤(創造的破壊の繰り返し)」と、そこに生じるであろう「創造的飛躍(スパーク的結実)」、その際に感得される自己発見と自己実現に対する感動や高揚感、結果的に作品の「完成」をどのように判断するか等々、創造のプロセスで生起する諸事は、全てが自己と向き合い自己を知るための示唆に溢れている。こうした視座から、美術教科内容学を捉えることによって、従来の絵画・彫刻・デザイン・工芸・美術理論美術史という縦割りの垣根を超えた、より本源的な美術教科内容学の構築が可能となると考える。
&#9313;創造プロセスの諸事はその全てが自己実現(作品の完成)に向う目的のために必然的に生じる。その事実は、プロセスへの振り返りによって初めて自覚化(意識化)され、その意味が明確になる。従ってプロセスの「記録 Recording」、そうした記録の「編集 Editing」、編集されたものをどのように解釈するのか、つまり「反省 Self-Reflection」の方法論、を創意工夫することが、内容学をプロセスから構築するためには不可欠であろう。
 本章は、創造プロセスの諸事の意味と、それらを明らかにするための具体的方法が多くの実例により開示され、美術表現の時間系における実録によって構成される。

(その2につづく)


| | 2010/06/19 12:20 AM |

 前回の横浜国立大での研究討議の結果、きわめて建設的な方向性が見えてまいりました。(研究の)ジャンルという専門性に根拠を置きつつ、それらを横断し、それらに通底するエッセンシャルなテーマを捉えることができたと思います。

 小澤先生のご尽力に負うところが大きいのですが、前回の柱立てについて、概念の整合性と、シンプルかつ明解な思考の枠組みを目指して、改定案を小澤/山木の共同提案として、13日の東京文化会館における「教科内容学検討委員会」にて、提案させていただきたいと思います。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。簡単ですがお知らせまで。
| 山木朝彦 | 2010/06/11 8:18 AM |

委員の皆様

 委員の皆様におかれましては、ご多忙のここと拝察します。

5月の会議からしばらく時間が過ぎてしまいました。お約束の宿題(テキスト章立て案)を山木先生とともに原案を作成致しました。以前私が提案したようなかたちではなく(つまりディテールをまずは外して)、それぞれの章のコンセプトを簡潔に記したものとなりました。6月13日の会議において、それを配布し、会議のたたき台にしたいと思いますが、それでよろしいでしょうか?ブログ上にアップするというお約束でしたが、山木先生そして私ともども、公務に追われ、原案をまとめるのに今まで時間がかかってしまいました。

 石井先生、原案の中に「身体性」の章は入れてありません。この内容については、次回の会議で是非ご提案いただき、私たちの作成した原案とともに、揉んでいただければと思います。

 以上、取り急ぎご報告まで。当日の会議では、私は総会等への出席のため中座することになりますが、よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/06/11 8:04 AM |

(続き)
全国大会では、会議をライブで行うということになりました。ですから、委員の皆さんは是非ご参加いただければと思います。この6つの柱(あるいは7つの)については、議論を継続して行って、ちょうど全国大会の時に、それが白熱すれば、また会議の熱がフロアに伝わってよいのかもしれません。

横浜国大渡辺先生、以前お作りいただいたマップについても、是非ともポスター掲示致しましょう。そして必要に応じてテキスト編集の際に、あのマップで全体を俯瞰しながら作業を進めることが可能だと思います。ただ、テキストの中に具体的な形で組み込むことは、難しいのかもしれません。『絵画の教科書』的な、例えば『デザインの教科書』とか、そういう形式のテキストを想定すれば、あのマップは本当に重要な役を果たすと思います。ただ、今回のテキストは教科内容学のテキストとなりますので、あのマップを超えた先にある揉み込まれた内容を提起するものとなると思います。議論の経緯の中で、最初想定していた『○○の教科書』的なものから、徐々に目指される内容が変容してきております。それはすばらしいことで、まさに委員の皆さんの議論の賜物と思います。先日の武蔵野美大での会議の席でも、全国大会の全体シンポのコーディネーターである茨城大学の小泉先生もしきりに6つの柱は面白いと声を発してみえましたし、他の参加者の方々も異口同音にそのような感想を発してみえました。私たちの議論の方向性は間違っていないと思いました。

以上、それぞれの先生のご発案とご意見に対する、私小澤なりの返答です。山木先生、ご多忙のなか恐縮ですが、6つの柱の見直し、よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/06/01 8:36 PM |

学芸大石井先生・横国大渡辺先生 委員の皆様

 石井先生のご発案、先日私も武蔵野美大の会議に出席しておりまして、あの場でも賛同致しましたし、また他の参加者の先生方も強く興味を示されておりました。私ももちろん賛成です。

できれば全部を掲示できればという渡辺先生のご意見ももっともだとは思います、が、確かにデザインの委員の先生方のブログ上での議論は傑出しており(渡辺先生のイニシアティヴの所以と思います)、それに比して不肖私がリーダーを務める絵画部会、あるいは他の部会の発言が少なく、全体としてバランスを欠く見え方になってしまうと思います。そういう現実も含めて「全体議論」と「部会議論」とを同時に掲示することも、確かに現実をそのまま見せるということであれば、必要なことなのかもしれませんが。そのあたりは、会場の物理的スペースとの相関で今後考えていくということではいかがでしょうか?

「身体性」を新たな軸とするという石井先生のご発案、石井先生の発想されている「身体性」ということの意味を、もう少し具体的にお話を聞きたいと思います。私がイメージする身体性というのは、絵画を例にとれば、アクションペィンティングに見られる身体性(身体運動)と「痕跡」との相関とか、日々の身体コンディションと描画表現との相関とか、やはり道具論に結びつくような身体性の問題とか、そのくらいです。描画行為それ自体が身体性そのものですから、どのような絵画表現行為も「身体性」とともにあると言えると思います。福島大学の渡邊先生は、こうした身体性と表現との密接な相関を研究されていますので、是非ともこの石井先生のご発案に対してご意見いただければと思います。

6つの柱についても、今現在、山木先生とともに果たして6つの柱でよいのかということも含めて考えているところです。たとえば、〈プロセス〉という概念で組み立てる予定の章のなかには、必然的に「記録」「振り返り」等の〈エディティング〉の含まれる概念や方法論が、必然的に付随します。もちろん〈ドローイング〉の概念と〈プロセス〉もオーヴァーラップする部分があります。そう考えていくと、もう少し6つの柱をまとめられるのではないか、という思いに至っております。そう考えていくと、横国大渡辺先生がご指摘のように、それぞれの章の中に身体性に関わる内容が含まれていくとも考えられます。山木先生、いかがでしょうか?多分石井先生のご発案されているこの問題も会議で議論する内容だと思いますので、今後どうするかを前向きに検討する必要があると思います。(続く)
| 小澤基弘 | 2010/06/01 8:34 PM |

学芸大学 石井壽郎 先生 皆様へ

今回のご提案ですが…
◯内容学ブログの『全体議論』部分を武蔵美大会で展示
内容学検討に大会参加者が興味を促進して頂く意味での公開であり…私は良いと思います。私見としては…どうせなら全体論議だけで無く部会論議も…場所が有るなら全て展示しても面白いのではないでしょうか。まるで壁新聞みたいになりそうですが。

◯新項目案としての『美術の身体性』
先生ご自身も指摘されている通り…身体性は既に1. ドローイング 2.プロセスに入っているとも言えます。又、3.エディティング も身体性が関係するものも含まれそうです。5.フィールドワークに於ける実感は…鑑賞題材であっても表現題材であっても空気感、匂い、温度等、人間の身体が五感によるセンサーであることを活かした授業案開発にとって優れた新機軸であって…山木先生はその様な教室という特殊空間では成し得ない図画工作や美術の授業価値を問い直し、正に身体で感じることの大切さの見直しと問うているのだと思います。
私見としては…『美術の身体性』は手の延長としての道具、観察力養成から派生するデザインに於ける美の抽出、無意識と意識の関係、描くと線の関係、盛り上げると抉る穿つの関係、型と形の関係、空間認識の問題、刷り込まれていた教材の問題等、身体性と深く関わりのある美術教育の単元は多種多様に存在していると思います。『身体性』を章立て項目とすべきという意見に委員諸氏が賛同するなら増設も有り得るでしょう。

最後に私からの問い掛けですが…
松浦委員長提案で作成した『美術の基礎基本』に関わるマップは、このテキストの中で何処かに入って来るのでしょうか? 又、部会で論議した『デザインとは何か?』はデザインの教科書でも作る際には必要であっても…今回の美術教育の教科書では無用な論議だったのでしょうか?
これらは、松浦先生、小澤先生への問いでしょうか。
上記、石井先生提案の『身体性』、私の2点の質問に対して、本ブログ、又は6/13委員会で検討頂きたくお願い致します。

論議とは不思議なもので、私などは…論議の後で何回も録音を聴き込んで行って始めて解るというか解釈され納得する内容も含みます。又、今回の石井先生の様に…時が過ぎてから気付くことも有り得るものです。又、論議を継続して参りましょう!
教科の枠、大学の枠、学閥の枠や大学の柵を超えて美術教育の本質を論議できる場に居れることに本当に感謝しています。

山木先生 是非、書き込んで下さい。お待ちしています。
| 渡辺邦夫 | 2010/05/31 5:22 PM |

学大の石井です。
5/22内容学検討委員会、委員の皆様お疲れ様でした。
北教大・前田先生、議事録お纏めご苦労様でした。
重ね重ね今後とも宜しくお願い致します。

今回、以下2点の提案がございまして発言させて頂きます。

 まず1点目に提案させて頂きたいのは、大美教大会討論を盛り上げる意味とこの内容学検討に大会参加者が興味を促進して頂く意味で、内容学ブログの『全体議論』部分を武蔵美大会で展示してみたら如何だろうか、という提案です。

 本日5/30の大美・武蔵美大会の実行委員会に学生シンポの内容確認で参加し、大会全体の協議をうかがっていたおりに考えた事なのですが、我々の内容学シンポの会場形態など直接的な仕様は前回の委員会で小澤先生が皆様にお知らせしていた通り、会場を巻き込むべく全体で討論する意向で確認されていました。他のメニューでもポスターセッション等が存在し、展示形式でのプレゼンは効果があるのではないかと思い提案させて頂きます。もし、皆様のご賛同が得られましたらその方向で実行委員会と折衝して参ります。特に全体議論に参加された方はご意見頂ければ幸いです。


 そして、2点目ですが、今更で申し訳なく提案(もしかしましたら既に以下の6本柱の中に存在していましたらただの質問になってしまいますが)させて頂きます。宜しくご意見・御指南ください。
 既に提案された内容学の章立ての件ですが。
◯新たな6つの柱
これまでの議論のまとめとして、内容学における骨組み章立てに以下の6つの柱を立てる方針が確認された。
1. ドローイング 2.プロセス 3.エディティング 4.授業批評 5.フィールドワーク 6.視覚言語と言語化

以上の内容となっていますのは皆様ご周知ですが、この中に『美術の身体性』(皆様がこのワードで思いつく)に関わる事柄は含まれるのでしょうか?

 あらためまして、手元にある内容学検討関連の資料を確認し、私の目から見ると『ドローイング』『プロセス』の中に存在する様には思えるのですが、あくまで要素としてちりばめて書かれていくのでしょうか?
 もし、皆様がこの『身体性』に重要性をお感じになるのでしたら、思い切って章として確立してしまう事も考えられます。
 6本の柱にどこか寂しさを感じてはいたのですが、ここまでの内容的な満足感が際立っていたので、発言の遅れに繋がっていました。
ただ実体感に物足りなさを感じ始めていて、安楽に『材料学』系に繋げてしまうと技法等これまでの轍に陥る可能性が大きく思え、この系統の事も『身体性』から語られれば他の6柱には相応しいのではないかと考えました。私の目から見ると6柱全て『美術という事象』から始まる美術内容ではなく、『人いう事象』から始まる美術内容に設定されている様に思えていますので、尚更必要に感じております。
 本来ならこういった要素は『彫刻』『工芸』の者から主に推されるべきなのですが、うっかりしていて申し訳ありませんでした。『身体から始まる表現』は『道具論』等にも繋がり大切な要素なので、今一度ご協議願えれば幸いです。

 是非『美術の身体性』についてこのブログ、はたまた6/13委員会ででも揉んで頂きたくお願い致します。
| 石井壽郎 | 2010/05/30 11:58 PM |

(その3)
◯今後に向けて
・9月の学会に向けて,教科内容学のレジュメ、レポート、章立て「概要」をどう決めて行くか。「本」のイメージとして、執筆のメンバーを広く他の会員からも求め、人選を進めて行く。
・内容の原案として、先の6つの柱の1から4までを小澤先生が、5と6を山木先生が担当し、細かな項目立てをする。さらにそれらを全体議論のブログ上で揉んで行く。
・これからはブログに関しては全体議論に1本化して行く。
・筆者の厳選、これがこの次の課題である。また、すべての項目にわたって教科専門の人が入るべきである。
・タイムスケジュールをどうするのか。原稿依頼から執筆には時間がかかるし、費用の問題もある。
・渡辺先生が昨年試みた科研費申請も再び考えたい。海外での調査も必要である。
・レッジョ・エミリオ市はすでにたくさんの人が行っている、ドイツのカールスルーエにZKMがあってイメージ・リテラシーについて収穫が期待できる。
・教科内容学に関わる視点で、他の芸術教育先進国の教員養成はどうなっているのかが知りたいし、是非、調査は必要だ。
・ブログ上の議論については期限を設けて行なってはどうか。

以上

議論の流れを掴み易くするために各項目について複数の意見をまとめてあります。従って、前例には反しますが、私の責任で発言者名の記載を削除しました。また,同様の理由で先生方の貴重な発言を簡略化してあります、不足の部分はどうかこれよりブログ上にて補足説明をお願い致します。

文責:北海道教育大学 前田英伸
| 前田英伸 | 2010/05/29 12:57 PM |

(その2)
◯領域・専門性の問題(絵画、彫刻、デザイン、工芸、美術史・美術理論)
・現代美術の視点からは、表象文化論や認知心理学などの専門性も必要とされて来ていることから、領域の組み替えも見直しが必要ではないか。
・元々、小学校では領域の枠組みは無い。専門性が高いから高等教育の方が上だという認識が未だにあるし、小学校教育こそが重要だという観点が日本では未だ少ないというのが現状だ。
・そもそも小学校、中学校では、表現と鑑賞の2領域しかない。絵画、彫刻、デザイン、工芸、美術史・美術理論と言うのは教員養成の枠組みとしての領域であり、統合するよりも戦略的に足りないジャンルを提案することも必要なのではないか。

◯フィールドワークの必要性
・技術の鍛錬の中にフィールドワークを入れた方が良いと思う。学校の外に出て地域のことを調べるとか、例えばアトリエ訪問とか、そういうフィールドワークの手法と意欲を学校現場や教員の意識の中にもっと入れて行きたい。授業実践の中ですでにやっている方もおられるのではないか。
・実践例の開示として、それを見せて行くexample集があれば良いのでは。
・本のイメージとしてこれまでの絵画、彫刻、デザイン、工芸…ではなく汎用できるものとしたい。それには具体化することが大事である。

ここで小澤先生から再び「教科教育の要望を受けて教科専門が内容構築においてすべき事」「あらたな教科内容学の構築に向けて」2編の別資料が配布される。資料の内容は、過去のブログ上にも存在するが、あらためて後日、小澤先生よりブログにて全体に開示されることを確認した。

○骨組み章立ての再検討
・これまで挙げられた4つの内容学構築の骨組み(ドローイング、プロセス、エディティング、授業批評)に5番目として「フィールドワーク」も加えたらどうか。
・もしもまだ追加の可能性があるのならば,是非、「視覚言語」と「言語化」についても検討して戴きたい。視覚言語について触れることは、表現する場合に於いても創る過程にも役立つし、鑑賞する場合の評論にも役立つ。少し古い本であるが、ジョージ・ケペシュの著作『視覚言語』が役立つのではないか。「言語によらないメッセージ」と「言語によって得られるイメージ」なのだが、これらは対極の関係にある概念だと言える。
・視覚言語を言語化すると言うことは、エディティングの概念にくくられるのではないか。
・ブルーノ・ムナーリがハーバード大学で行なった講義記録であるこの『デザインとヴィジュアル・コミュニケーション』(現物を回覧)も視覚言語に通じる優れた啓示を含む書ではないか。
・今、この場で検討していることは、そのままイメージ・リテラシーについて語っているのではないか。
・教員が現場でこのことについてどのように段取りできるかが大切。
・ユイグとムナーリとケペシュを総括できる概念がイメージ・リテラシーであるが、それは言語によるコミュニケーション以外のものもある。この事について書いてもらうとすれば、絵画理論、デザイン理論のできる人か、或は美術史美術理論で柔軟で幅のある考え方のできる人が良いのではないか。

◯新たな6つの柱
これまでの議論のまとめとして、内容学における骨組み章立てに以下の6つの柱を立てる方針が確認された。
1.ドローイング 2.プロセス 3.エディティング 4.授業批評 5.フィールドワーク 6.視覚言語と言語化
・例えば、この6つの柱にそれぞれいくつかの項目を立てて行く、例えば小中学校での授業の題材化として挙げられるようなものにしたい。
・序の部分で、そもそもこの教科内容学がいかなる経緯でスタートしたかを述べる必要がある。
・感覚を如何に言語化するかと言う事が大切である。例えば、過去に議論した「創造の飛躍」あるいはスパークと言っても良いが、制作を通してあるとき突然飛躍的に見えてくるものがある。創造における自己実現と言っても良いこの瞬間、これを言葉にして伝える必要がある。
・デザインにも、今、考えている脳のある部分と今迄の記憶された脳のある部分が突然、繋がって閃くというか…深澤直人の言うような正に「来た来た」という感覚になる時がある。
・その感覚的なもの感性といったものを言語化しないと。

(その3へ続く)


| 前田英伸 | 2010/05/29 12:51 PM |

平成22年度 第1回 教科内容学検討委員会議事録

日時:5月22日(土)13時半〜16時半(3時間)
会場:横浜国立大学 教育人間科学部美術棟3階小会議室(教育人間科学部4号館)

議題:1.平成22年度教科内容学検討委員会委員について 2.教員養成における大学の美術教育について

出席者:松浦 昇 委員長(金沢大学/デザイン部会)、大宮康男 副委員長(静岡大学/美術史美術理論部会)、小澤基弘 先生(埼玉大学/絵画部会代表)、石井壽郎 先生(学芸大学/工芸部会代表)、山木朝彦 先生(鳴門教育大学/教科教育部会代表)、神野真吾 先生(千葉大学/美術史美術理論部会)、前芝武史 先生(兵庫教育大学/彫刻部会)、渡辺邦夫 先生(横浜国立大学/デザイン部会代表)、川原崎知洋 先生(静岡大学/デザイン部会)、前田英伸(北海道教育大/デザイン部会) 以上10名

本議論に先立ち、以下の4点について、協議の上、確認された。
1. 教科内容学検討委員会メンバーの見直し
 橋本前部門代表より会議出席率による委員数の見直し指示を受け、現在31名の委員を半数の15名程度にすることが松浦委員長より提案された。横浜国立大/渡辺委員より会議出席率のみならずブログへの書き込み数や内容なども考慮に入れるべきではないかとの意見から、渡辺委員作成の年間貢献度の提示資料を元に協議が行われた。各部門の委員数のバランスについての配慮、代表不在の彫刻部会は新代表を前芝委員にお願いしてはどうかと委員長提案もあり承認の上、慎重に協議があった。結果として選出された本年度の委員については、改めて藤江部門代表より委嘱の通達が行なわれることになった。
2. 教科内容学検討委員会の記録について
 ここ数回委員会記録が大変細部にわたって記録されており、書記の負担増や報告作成に時間がかかるなどの指摘があり、協議の結果、様々な意見、発言はあるが議論の方向性が見えることが重要であり、今回以降、要点を簡潔に要約する方向で記録を纏めることになった。
3. 本年度教科内容学検討委員会副委員長の人選について
 本年度は、委員長を松浦先生が継続、副委員長の選出について協議の結果、横浜国立大/渡辺先生に決定した。
4. 6月13日拡大理事会各種委員会開催予定(回覧資料)
 上記の回覧資料により日程、委員会開催時刻等が確認された。

これより本議論に入る。
 先ず小澤先生より、前回迄の議論の着地点を見定める必要から、4月3日に行なわれた有志による教科内容学検討委員会での議論(前芝先生よりブログ上での報告済み)の論点を要約した資料が配布された。11項目にわたる内容に各自眼を通した後、主として出版物を作ることを前提として、その構成をイメージしながら議論が開始された。特に成功した出版例として『絵画の教科書』が回覧されたことを申し添えておく。

◯ブログへの小澤先生提示の内容学構築の骨組み(ドローイング、エディティング、プロセス、授業批評の章立て)について
・ドローイングは各分野共通の認識でその意義の理解ができていると思うが、エディティングについては前々回においても委員によって解釈が異なっていた。各項目についてもっと議論が必要ではないか。
・旧来の価値観からの批判が予測される。どうやって現代的な感覚を先駆的な形で内容的に盛り込んで行くのか。
・これは、そのまま大学の教育内容にもなるものである。大学における教育は小中高とは違う事から取り敢えず新旧横並びでも良いのではないか。啓蒙的な要素が必要で、構造的なものではなく並列的にしてはどうか。
・体系的な視点も必要である。これについては章立てを工夫する事で解決できるのではないか。
・旧来の手法を現代的な見方で解説することも必要である。

◯「着目点」が必要
・教科専門の役割は授業批評のexampleを見せることである。
・授業批評については、研究授業などで教科専門の先生が自分の観点から色々と述べられて行くが、どんなに良いことを云われていても着目点に基づいた解釈や説明が無いと上手く現場で活かせないし、反映できない現状がある。授業批評における現場の着目点を培って行くことが内容学の重要な役割である。

◯造形遊びについて
・造形遊びについては教科専門と教科教育では考え方がまるで異なっている。否定的な意見と重要な意義を見出せると言う意見、大学によってもその立場によって評価は異なっている。
・むしろその方が現実であり自然な事ではないか。他の領域に比べれば、始まったばかりで歴史の浅いものであるので…これらを勘案しながら内容構築が必要だろう。

(その2へ続く)
| 前田英伸 | 2010/05/29 12:43 PM |

横浜国大 渡辺先生 委員の皆様

 渡辺先生、土曜日は見事なホスト役、ありがとうございました。お茶やお菓子を用意していただいたり、プリントのコピー、そして先生の教室や授業の紹介、大埠頭への小旅行、夜の宴席等、とても楽しく充実していました。もちろん会議も。まずは感謝申し上げます。

 会議も、「会議のための会議」ではなく、着地点を想定しての会議となり、今後はより具体的に「テキスト」実現を目指して進んでいける土台ができたと思います。何よりも委員の皆様が、遠路はるばる、それも手弁当で参加されており、その熱意が、会議にそのまま反映して、無駄なだらだらとした雰囲気が全くなく、こうした会議は稀です。熱意と緊張感がなせるわざと痛感しております。私自身、本当に勉強させられる点が多々あり、いつも何かを学んで帰ることができます。ありがたいことです。

6月13日の会議に向けて、その間にやるべきことは次の通りだったと思いますので、記しておきます。

1.新たに提起された山木案「フィールドスタディ」「視覚言語」をテキストの柱に加えるということが決定され、その案を山木先生が文章化され、小澤にメールする。
2.これまでの会議で議論されたテキスト化への4つの柱、つまりドローイング、プロセス、エディティング、授業批評、に新たな山木提案二つ(フィールドスタディ、視覚言語)を加えて、6つの柱をもう一度整理しブログ上にて提案する(小澤)。
3.提案された内容を更に委員で検討する(ブログ上で)。
4.検討されたものをもう一度整理してブログ上で最終提案。

以上の流れだったと思います。とりあえずまずは山木先生からのメールを小澤が待つということになりますので、よろしくお願いいたします。

 横国大渡辺先生はじめ、送迎でいつもお世話になる石井先生、また遠路お越しいただいた委員長の松浦先生はじめ各先生の熱意、そして今回の書記をしていただく前田先生、本当に皆様の情熱と内容学にかける熱意に、敬服いたします。私も微力ながら尽力させていただきます。素晴らしい成果を実現しましょう。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/05/24 8:00 AM |

委員会参加の皆様へ

昨日は…ようこそ横浜国立大学にお越し下さいました。
委員会では昨年度を振り返りつつ議事を進めることができ、積み上げて来た成果を元に論議も進展し、お陰様で本当に有意義で闊達な会議とすることが出来ました。議事録につきましては委員長が北海道教育大学/前田先生にお願いされましたので、記録をより簡潔にし審議内容を明確にして行くことを含めいずれ書き込みが有りますので本投稿では議事内容には触れませんが参加された委員の皆様には記録係/前田先生への協力をお願いいたします。

会議は特に前回前々回と比し論点が明確で速やかな時間経過の中で進行しましたので、懇親会まで余裕の時間が取れ、色相環の絵の具を見て戴き、教室の一部等をご案内し私目の平素の授業内容を学生作品を主に皆様方へ紹介する機会を得ました。デザイン室で全ての先生方にご覧戴きましたのは…デザイン部会|で授業内容を公開した書き込み| 渡辺邦夫 | 2009/04/30 11:50 PM || 渡辺邦夫 | 2009/05/01 12:05 AM |にある専「構成デザイン実技鵯」基礎デザインの「3つの立方体」「細密描写」、専「構成デザイン実技鵺」応用デザインの「自分の名前の立体ロゴタイプ」「地球環境ポスター」2年次専門必修の授業課題です。又、その後、一部の先生方に別室でご覧戴きましたのは| 渡辺邦夫 | 2009/04/30 11:57 PM |にある全学部対象授業:総「色彩論」の演習課題「異色下の同色」「四季」「対比的色彩」の色彩表現です。廊下のガラスケース内の小教専図工の課題の1つ「紙工作」上記書き込みでは紹介できなかった授業で寧ろ美術教育専攻以外の他教科専攻の学生達のものです。この様な美術専攻以外の学生=他専攻他学部の学生達の中に実は素晴らしい才能を見出すことが多く存在するという矛盾を感じつつも、寧ろその現実を嘆くのでは無く寧ろ活かし…美術専攻の学生達の専門とする自負自覚の形成に利用できないかと考え…授業を工夫しています。僅か定員十数名程度という少ない学生定員数、競争意欲の渇望しがちな状況、教員養成課程特有の実技初心者や経験の浅い者を…短期間で急激に成長させられるよう願い…大学教員特有の誰にも相談できず試行錯誤の結果として…到達した現状です。
皆様方の感想や御意見等…忌憚なき書き込みを戴けければ幸いです。

その後、お陰様で石井先生の美車にて港ヨコハマ見学というまるで学会二部会の様な一時を御一緒し…大桟橋見学〜横浜中華街懇親会でも非常に闊達な有意義なお話をしつつ懇親会をすることが出来ました。所謂、会議の様に議事録には載らない此の様な皆様との会話の中にこそ…我々、教科内容学委員会の同志が教科や大学や年齢や地域を超えて集結し意見交換情報交換が出来る素晴らしい学びが有るように思います。皆様は如何でしょうか?

一次解散後、二次会のジャズ・ライブ・バーでの話し合いでも非常に意義深いお話…二次解散後、更に松浦委員長、石井先生、私目は車の中で話になった非常に大切な方向性について確かなものにする為、更に場所を換え話し合い…大会に向けたゲスト招聘の妙案を見出すに至り…時刻は深夜0時と相成りました。詳しく松浦委員長からいずれブログに書き込みがあるかと思います。

小澤基弘 先生 山木朝彦 先生 石井壽郎 先生
今回の会議で仮題『美術教育の教科書』、いよいよ具体性を帯びて視界に入って来た感があります。先生の御経験と頭脳明晰なる編纂の手腕に…新年度委員、そして今後、慎重に検討して行く執筆者陣の力を結集し美術教育に携わる大学教員から学生達、更に現場の現職教員までを視野に入れた素晴らしい内容の本、出版へと本論議の成果を結実させて参りましょう。そしてこれからも…平素から本ブログを絶やすこと無く、情報交換や論議提案、様々な意思疎通の貴重な場として活用して参りましょう。
次回、再会する6/13迄、我々はブログで何を話し合うべきでしょうか?
時間のある時に書き込みお願いいたします。

前田英伸 先生
議事録お纏めご苦労様です。概ねの素案ができましたら…ブログにupする前に参加委員MLに送信戴ければと思います。よろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫

PS.前芝先生 夜行バスには間に合ったのでしょうか?心配しています。。。
| 渡辺邦夫 | 2010/05/23 5:11 PM |

皆様へ

平成22年度 第1回 教科内容学検討委員会 5月22日(土)13:30〜
於:横浜国立大学 教育人間科学部美術棟会議室 出席者は…
松浦 昇 委員長(金沢大学/デザイン部会)、大宮康男 副委員長(静岡大学/美術史美術理論部会)、小澤基弘 先生(埼玉大学/絵画部会代表)、石井壽郎 先生(学芸大学/工芸部会代表)、山木朝彦 先生(鳴門教育大学/教科教育部会代表)、神野真吾 先生(千葉大学/美術史美術理論部会)、前芝武史 先生(兵庫教育大学/彫刻部会)、前田英伸 先生(北海道教育大学/デザイン部会)、川原崎知洋 先生(静岡大学/デザイン部会)、私を加え10名と伺っております。

昨年度、積み上げて来た成果を振り返り、有意義で闊達な会議に致しましょう。

小澤基弘 先生
ご指摘の通り、最近の会議議事録は迫真のリアリティで会議に参加できなかった委員に論議の様子を伝えうる濃い内容となっており、言葉遣いや誤解も招く可能性を回避する措置等、本音で熱く議論すればする程、難しさも生じているのは確かです。唯、私は本ブログが遠距離からでも参加できる様に…議事録というものが単なる要旨の羅列であった場合には実感として失うものが多いと日頃から思う処があり…真摯に議論した内容=発言を描写してこそ…他者に伝達できると思っています。私が目指しているのは…ある意味、会議の文字によるドキュメンテーションなのでしょうか。
しかし問題は正に、記録係に指名された委員の会議での論議参加の劣化、会議後の議事録作成責務の重さでありましょう。前回前々回と…録音機から大まかな流れさえ迅速に再現されれば、参加者MLで数回のやりとりで相当に行ける感触を掴んだ感があります。それも、録音が途切れてしまった後半さえもです。
大学院生等の外部者の会議同席も経費が掛かる業者発注も様々な問題を孕んでおり難しいと思います。松浦委員長が言われる面と向かっての会議でこそ得られる意思疎通と論議進展は、既に我々が会議を重ねる度に実感するものであります。記録係は重責ですが…参加者が一致団結しMLでフォローすればより良い記録が出来るのは間違い無いのですから…その協力も又、我々委員の責務と言えるのではないでしょうか。
以上、私見です。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/05/18 8:28 PM |

横国大 渡辺先生 委員の皆様

 ブログ書き込みしばらくぶりです。ゴールデンウィークから上海に出張しておりました。

 22日の会議よろしくお願いいたします。記録の件ですが、今後こうした会議を継続していくということになると、これまでのように精緻に発言を再現していくことは、担当の委員にとって、大きな負担になることが危惧されます。確かに会議録の緻密な再現は、会議の内容をリアルに提示することができ、ある面では非常に有意義とは思います、が、発話の言葉使いの問題など、忠実に再現したことで逆に誤解を生じることにつながる危惧もあります。こうした点を考えた場合、今後の記録の残し方について少し考えた方がいいように思います。私は要点のみの記録でもいいのではないかと思います。ただ、要点をきちんとまとめることもまた、技術の要ることではありましょうが。記録専属の書記をローテーションで委員が担うとか、あるいは記録は外注するとか(これは予算の問題で不可能でしょうか)、あるいは大学院生に協力を願うとか、様々な方法が考えられます。いずれにしても、レコーダーの記録を委員自らが正確に議事録として残すということは、やはり負担があまりに大きいと思うのです。そのあたり他の委員の先生方はどのようにお考えでしょうか?

埼玉大学 小澤基弘

| 小澤 | 2010/05/15 11:04 PM |

横浜国立大学 渡辺邦夫先生
委員の皆様

しばらくご無沙汰しておりました。渡邊晃一です。
邦夫先生、メール拝受しました。呼水を賜り、有り難うございます。
また邦夫先生、何名かの委員の先生方には、渋谷のZen Foto Gallery の個展会場におこしいただき、本当に有り難うございます。
委員の皆様、個展や作品集の出版関係で、慌ただしくしておりました。委員会のコメントが滞ってしまい、申し訳ございません。

まず近況でしたが、個人的な内容で申し訳ありませんが、上記の作品集のご案内もさせて下さい。

『渡邊晃一作品集  テクストとイマージュの肌膚』青幻舎
寄稿/対談:大野慶人、奥岡茂雄、田中英道、谷川渥、平山素子、宮脇理、養老孟司
デザイン:小阪淳
http://www.seigensha.com/
今回の個展は、作品集の出版に際して、ギャラリーが企画して下さったものでした。オープニングは大野先生がダンスで御祝いして下さいました。会期中はご執筆頂いた関係者の先生に加えて、山下裕二さん、飯沢耕太郎さんなど、日本絵画や写真等、様々なジャンルを研究されている先生方が連日、おこし下さりました。様々なご批評を賜ることができ、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
御世話になった先生方、本当に有り難うございます。

さて、横浜国立大学での教科内容学の研究会ですが、当日、私は残念ながら仕事が入っており伺えません。第二、第四 土曜日は、仕事の都合上、動けない状況にありました。もし次回、可能でしたら、この日をはずしていただけると嬉しいです。(邦夫先生、先に先生のメールで御伝えした日程は間違っておりました。御修正を御願い致します。)
邦夫先生に福島大学で作成した「教科内容学」の冊子を御送りしました。今回、委員会に参加できませんが、皆様にご紹介頂きたく存じます。何卒宜しく御願い致します。

また今日は一つ情報を御伝えします。

美術科教育学会のなかで乳・幼児造形研究部会がはじまります。幼小の問題が討議される場が設けられました。先生方もご興味とお時間がありましたら、ご参加ください。

・・・以下・・・・・・・・・・・・

「乳・幼児造形研究部会」第1回研究会開催のお知らせ

 このたび美術科教育学会の研究部会に「乳・幼児造形研究部会」が仲間入りしました。児童以降の美術教育にとって、その基礎となる造形活動の意味研究や実践活動報告を行って研究を進めたいと思います。このような趣旨から、児童以降の美術教育研究者の皆様方にも非常に有意な会にしたいと思っております。ご多忙だとは存じますが、多くの方の参加をお待ちしております。(「乳・幼児造形研究部会」代表 関西学院大学 教育学部  清原知二)

 日時: 6月12日(土)午後2時より5時まで
 場所: 関西学院大学聖和キャンパス3号館 315教室(美術フロアー)
 内容: 基調講演 「教育要領と保育所保育指針を考える」
十文字学園女子大学 人間生活学部 幼児教育学科学科長 教授 平田智久先生      
 シンポジウム 「今後の乳・幼児の造形活動をとりまく諸問題について〜幼小連携を課題として〜」
 
 以上、宜しく御願い致します。
| 渡邊晃一 | 2010/05/13 7:09 AM |

委員各位

横浜国立大学の渡辺です。
既に連絡事項に松浦委員長が書き込まれました通り、5/22(土)本学美術棟にて平成22年度第1回教科内容学検討委員会が開催されます。先の有志会議参加者に松浦委員長が加わることを伺っておりますが、委員各位で参加できる方は会場準備等もございますので…私宛メールで参加ご連絡下さいますようお願いいたします。
一人でも多くの委員皆様の参加をお待ちしています。宛先/kuniow@ynu.ac.jp

先日、渋谷で開催されていた渡邊晃一先生個展に行きました。
渡邊晃一作品集『テクストとイマージュの肌膚』が出版されました。其処には美術論、身体論、自然科学、医学、そして絵画論、現代美術に至る新たな視点が含まれており…作家:渡邊晃一さんの軌跡、“その断片”宮脇 理 先生による玉稿、更に解剖学者/養老孟司 先生との対談も掲載されております。舞踏家/大野一雄氏の身体を型取り…その形とその形の型となった身体そのものを空間に対峙させる現代美術への氏の挑戦は…あのクラインやシーガルすら超越しようとする新たなる挑戦と私の目には写りました。それ程、意欲溢れる発表であったと思います。暫くぶりでお会いして作品についてお話をしましたが…この御本の充実ぶりからして本当に心血を注ぎ集中されたことは明白で…勿論、有志皆の意思を汲んで教科内容学検討委員会への復帰を強くお願いしたところです。

渡邊晃一先生
個展会場では色々とお話を戴きありがとうございました。先ずは本ブログへの書き込みで復帰を要請いたします。そして、次回委員会5/22本学にも是非、参加して下さい。

前芝武史先生
会議議事録お纏めありがとうございました。早いもので…もう1月以上の時が流れました。録音機持参でリベンジをと次回会議参加意思表明…嬉しく思います。唯、次回記録は?誰にしましょうか?

松浦 昇 先生 小澤基弘先生 各部門代表の先生方
新年度の忙しさに、秋の全国大会用の様々なグラフィックデザインを三澤先生より賜った御仕事も重なって…そのままGWに突入して…ブログへの書き込みが途絶えおり申し訳ありませんでした。次回会議での主要議題である平成22年度教科内容学委員会委員について、組織全体のこと今後の進行等、様々に勘案しながら皆で検討して参りましょう。そして、今迄、積み上げて来た貴重なブログ論議、および会議での闊達な論議を、更により良い方向へと継承発展して行けるよう努力して参りましょう。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/05/12 12:54 PM |

(その9)

◯ドローイングだけではなく、認識の仕方を科学的・客観的に把握する術を理解することも必要だと思う。私は現在、東大大学院教育学研究科で認知心理の院生たちと一緒に、いわば被験者として描画の臨床実験台になっています。ドローイングを10分ほどで描き、それを3倍以上の時間をかけて内観的に振り返ります。つまり、創造行為の対する自己反省の方法論を院生たちは構築しようと試みているわけで、彼らは芸術創造について、実感が極めて少ないので、そのあたりを私の経験値と臨床例によって、少しでも明らかにしていこうとしています。そうした研究成果もいずれこの会議において披露できたらと思います。(小澤)
◯表現の必須事項であるイメージの形象化にまつわる事柄も必要です。コミュニケーションという事がありますから。(石井)
◯美術は特別なものではない。我々の生活は既にデザインされたモノに囲まれている。その意味では既に美術は日常的なものでもあり、現代人にとって必須の教養だと言えるのではないか。(渡辺)
◯鑑賞教育の題材を絵画領域で関連して述べれば、絵画史の文脈は…理論の人だけにさせるのではなく、実技の人もその題材選択への見識を深めておくべきだと思います。(小澤)
◯広義な意味のデザインの世界の探究が重要ではないか。それは、視覚、環境に深くかかわる内容だと思う。もちろん、鑑賞・批評に関わる内容も、重要。これまでとは少し違う内容になって欲しい。(山木)


文責:兵庫教育大(彫塑)前芝武史
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:59 AM |

(その8)

ここで鑑賞教育に関連して…
渡辺委員より、平素の「デザイン概論」授業で学生に見せ自己が選択した理由を書かせるレポート課題の興味深い具体例/レモン搾り器(3種)現物が提示紹介された。
1. デザイナー:フィリップ・スタルク、イタリアALESSI社、アルミ製、7,800円
2. デザイナー:不明、日本製汎用品、ガラス製、280円
3. デザイナー:不明、日本製百均品、プラスチック製、100円 
◯この三択で学生達は大きく2つに分かれる、つまりデザインに必要なものは「美」と「機能」なのだが、外観的な「美」を優先する者、実質的な「機能性」を重視する者の二分化でとても興味深い。世界的に高名なデザイナー:フィリップ・スタルクのレモン絞り器は、まるで、未来から飛来した宇宙ロケットのように美しいが…実はアルミは、酸に極めて弱く腐食し易い上、表面が柔らかく傷つき易い。更に断面が丸い凸面の連続なので切れが悪く、種や房が下に落ちる。ところが、デザイナー不明(多分、何処かのガラス会社の職人)ガラス製汎用品は、断面が丸い凹面の連続なので切れが鋭く、外輪山状の堰で種や房が選り分けられる。周囲の淵に絞ったレモン汁が溜まり、注ぎ口があるので狙った場所に適量を垂らせる。百均一ショップで、機能面だけは一応は満たす商品すら更に安く買うことができる。この様な日常生活で人々が普段の暮らしの中で使うモノであっても…観点をしっかり抑え鑑賞する意義を捉えた授業をすれば、誰にでも、デザインの大切さについて考える機会を与えることが出来るだろう。現代人にとってデザインは必須の教養のではないか。(渡辺)
◯特に強調したいのは、この280円のガラス製汎用品のこの淵に飛び出した四角い取手でして、実はこの部分にプロの料理人は自分の手に合った木の枝を選んで、裂いて挟んでかしめ自分の手の延長として自分の道具に仕立てるオプション使用が配慮されている。実に奥が深い。(渡辺)
◯そもそも、何故「アート」という事が始まったのかってことなんですよ。なんだ、全て手の延長ではないかということですよね。(石井)
◯いやーいいですね。こうやって、実際に見せてもらうと。教材選択に対する渡辺先生の意図が実感として伝わって来る。(山木)→その場でレモン絞り器を写真撮影
◯褒めて頂いてありがとうございます。恥ずかしいです。(渡辺)
◯このことを工芸領域で考えると難しいこともある。教育領域で教科専門が取り上げる工芸要素は強く「伝統工芸」という権威色が強い面があり、本質的な事より様式要素が強くなり、もともとの「道具(手の延長)」という事が見失われがちである、様式要素で語ると「絵画」「彫刻」と本質的には同様である為、美術内の専門領域の敷居は低めにしたい。(石井)
◯この教材はとても魅力的だが、伝え方には慎重であるべきか。あらゆる物は絶対的な良し悪しを物自体が持っているわけではなく、その背景によって意味が与えられている。絶対的なデザインの良し悪しではなく、それを選ぶ自分の文化的背景を自ら知り、それを他者も理解するという事が大切ではないか。不便でも、形態的に美しい物に囲まれていたいと考える生き方もあるし、合理的に生きたいという考え方もある。そのどちらが正しいというのではなく、自分はどこに立ち、何を選ぶのかを知っていることが重要ではないか。(神野)
◯題材開発等に内容学の専門的な大学教員がかかわる機会を持つ方が良いということに関連して、現在、図工や美術の中で進んでいる鑑賞の学びということでいうと理論系のポストが少ないような気がする。美術史・美術理論という枠組みで一つポストがある訳だが、美術史一つとってみても、西洋・日本・東洋など専門が分かれている。そこに、更にいろいろな美学の基礎知識や現代ならば、認知の科学や表象文化論みたいなものも求められてくる。内容学といっても、こうした理論的な分野の充実についても、我々は考えていかないといけないと思う。(山木)
◯先日の美術科教育学会でもワークショップの成果測定を心理学の手法を使って測定するという研究発表を行った東大の博士の学生がいた。そうした科学的アプローチは絶対的ではないが、全てが曖昧なまま語られてきた美術教育においては必要なアプローチの一つではないか。(神野)

(その9へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:58 AM |

(その7)

◯それは、小・中で子どもに教えるものと、やはり関係の線が引けるほうがいいと思う。つまり大学生は予定調和的にこのくらいのことが出来るんだし、これをやっておけば、小・中では、役に立つというような期待感に満ちた言説ではなく、実際に大学教員が小・中の教材を批判的・批評的に見つつ、それを改善する為にはこういう力を養った方がいいという意味での、そして、その為に大学ではこのような典型的な授業を行うんだという意味でのティピカルなんです。これ迄は楽観主義的にそれぞれが表現者としての思考の柔軟性・精神性と技術を磨けば、実際の学校現場で豊かな教材を開発したり実践できたりという期待感はあったけれども、実証性という点で裏は取れてなかったと思う。前の議論の中で私が疑問に思い、少し注釈的にコメントを挟んだのはそういうことだったんです。(山木)
◯前回の議論の中で、永守先生と小澤先生がお話なされて、優秀な学生を作ればそこで授業改善が期待できるということに対して、それだと今まで通りと申し上げたのはそこだったのです。大学の教員も小中の教科書・題材などを見た上で、大学の授業で大学向きの授業を作るべきであると。二つに関係線をつけるのが内容学の先生の役割だと思います。そうしたときに、千葉での先生方の動き方、つまり、即戦力的に使えるパッケージ化されたものを欲しがる気持ちはよくわかるのだが、それをもっと開発できる力に変えていけるかが重要な部分でしょう。そういった、ネタを提供することも必要だがそこだけに終わらない何かが内容学の先生の指導には必要なのではないかと。その為にはどうしたらよいのかというのが課題として出てくると思います。(山木)
◯例えばこの間、ドローイングというのが出ましたが…これには二通りの意味があって、線を使った表現としての技術的側面とイメージを形にしていくという側面というのがあると思う。両方とも大事だと思うのだが、前者が重視されたのが、これまでの美術教育だと思う。で、後者は、前回お話したと思うのだが、多様なもやもやとしたものを形にしていくということには多様なアプローチがある訳で…
線を使って表現することもあれば、コンピュータということもあるでしょうし、ディスカッションしてということもあるでしょう。そこら辺が、あまりに表現的な方向に偏りすぎているがために、何かもっと構築的な論証を深めて行かないと。(神野)
◯前回に続いて2回目の本学開催の教育デザインフォーラムのリポートを書くとブログで言っていたのですが…ここで、かい摘んでお話しすると、青山学院大学/佐伯先生の講演が素晴らしく…人が何かを考えようとする時、同時に何かを考えないようにする…というのが有り、それは美術に喩えて考えた時、絵画/彫刻/工芸/デザインという学科目間の近親憎悪的な悪癖に繋がっていると感じた。又、佐伯先生は自分をコビト化して世界を自由に動き回る、まるで詩人の様にイマジネーションすることが大切だと説いた。最後に私が「何故、この日本という国は想像性を引き出す最も重要な教科である美術の時間数を減らし蔑ろにしして来たのか?」と質問すると…「私は頑張れ図工の時間という会を組織し、図工美術の必要性についてずっと応援して来た」という内容の答えを述べられた。(渡辺)
◯テキスト化の件ですが、現在はペンディングというここになっている。もしかしたら、ここでの成果は有志で…ということになるかも知れない。(小澤)
◯日本の近代における西洋美術の受容の問題が今なお色濃く残っている。例えば美術館には、難しいことをより難しく、簡単なこともより難しくという文化がある。それによって自分を高く見せたいということで、その結果、一般的な来館者、多数を遠ざけ、一部の少数来館者が、あたかも教会に礼拝にでも来るかのように来館する。美術作品を見る者には、まるで超能力が備わっているとでもいうような振る舞いで、まずいサイクルになっている。本来、美術はもっと一般的なものでもある筈なのに。(神野)
◯今、美術館の問題が出たが…以前、ブログに石井先生が欧州では鑑賞教育は美術の教師では無く鑑賞教育は美術館や学芸員がやるのが当たり前だという書き込みが有ったが、そうですね。(渡辺)
◯そうです。もう何時も同じ質問でこっちも答えようが無くて。(石井)
◯日本の美術教育の世界では鑑賞教育が隆盛しているように感じている。(渡辺)
◯鑑賞教育が大切なのは勿論そうなのだが、何故、その作品を鑑賞させるのか、何故その作品がいいのかについて、鑑賞させる側は実は充分に理解して鑑賞教育をして来ていない。その点が重要なのだと思う。(山木)

(その8へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:57 AM |

(その6)

◯大学に顔を出すような人は、志の高い人が多い訳だが、実際にはお土産を持って帰りたい先生達が多い。せめてその方々に(自ら題材開発する)入り口ぐらいは見せてやりたい。去年、大学提案枠で博士課程の学生がやったのは、自分の目線でサイズを図るというもので、いわば絶対的な基準は無いんだよというような、頭をほぐす内容のものでしたが、それがそのまま授業に結びつかないと思った先生は全く関心を示さない。だけど何か繋がるように感じる人もいる。そういうチャンネルを幾つか設けてやって次につながるところを連結してやる仕組みを作ってやれれば良いのかなと思いました。(神野)
◯先ほどのアートプロジェクトというのに関して、私ははっきり言うと今は半分位否定的です。それは今の話と全く同じで、使えるネタが欲しいと地域が言ってきて、それをアーティスト達がやりたいからそれに乗っかって…地域の課題や特性に関係無く、若手アーティストが安いお金で現場に入ってお祭りをやっているという風に現実的にはなっていて…。それでは結果的にアートを枯渇させていくのではないか…というのが私の持論です。先ほど話された創造過程の中で飛躍する瞬間というのは、それはプロジェクトに参加して、作品を作らずサポートする側にまわる人間にも起こりうる。自分はそれを信じてやっているのだが、しかし最近はそうしたものは期待されていなくて、わかりやすいイベントとして、このアーティストが来るとこういう面白いものが出来るからというような…新しい盆踊りを開催するような感覚。やはり創造性の飛躍する仕組みというところに…これは難しいことかもしれませんが…ここにどう繋げて行くかということなんだと思います。(神野)
◯繋がる可能性は多いにありますよね。(石井)
◯絵画でも他においても多分共通していると思う。(小澤)
◯そこが大事だと思う。核を外さないでやったものについてこられないという現場において実際の先生が何人もいる。あと教科書も。僕も教科書の著者をやっていますが、やはり現場寄りで、現場では時間がない。やはり短時間題材ですよ。ぜんぜん作り込まない。ちょっとやったものを参考作品として載せてしまう。それをどう捉えるか。現場では喜ばれる。ああこれをやればいいのか、みたいに。こんな短時間で出来ちゃう。果たしてそれでいいのかということも含め教科書批評というのが必要なんですよね。(小澤)
◯そうですね。まあ、実際のところは2極化していると思う。一つは、教科書の中から精選して行っているベーシック派のようなところ。もう一つは、小・中と研究会が盛んな地域などで、附属などで学んだものを自分でアレンジしてやっていくような、教科書から少し離れたようなタイプのところ。これらが図工・美術では、同時進行していると思う。本当は、関係線をつける必要もあるのだろうが、いずれにしても、両者ともにベストなものとも言えない。教材開発派に関しては、思いつきやアイデアに陥る可能性もある。今のアートプロジェクトと同じ感じでで、表現がどこに結びついていくのかということが深められて考察されないままに教材開発されて、子どもたちが熱心に取り組んだということが一つの論拠になって進んでいくという可能性もある。少し皮肉な言い方なのだが教科書の場合、複数あって、[そのどれを採択するかで内容が]変わっていくということもある。よかった題材があっても消えていく事もある。(山木)
◯あるモード(容態)というのがあるが、それに従って展開されている以上、良さもあるが、すくい取れない部分もある。だから、両方を複眼的に見ながらティピカルな題材を提示する必要がある。この考えは永守先生とも一致している。この時には、非常に活性化している教材開発の歴史を踏まえつつ、また教科書も見ながら、表現につながるのはこうあったらいいんだというのを提案していけば良い。(小澤)

(その7へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:56 AM |

(その5)

◯今、渡辺先生のおっしゃった視点が非常に大事で…。もしも今回、教科書のような大学改善を目指すための著作を出すのであるならば、目の前のことだけを考えるのでは無く、卒業後、5年〜10年後位のスパンで、彼ら彼女らが再教育か何かの機会で大学院に来た時のこと位迄を踏まえた内容にすべきだと思う。20年は想像がつかないので、卒業生が5年後10年後大学院に戻ってきた時に、もう一度、彼らの認識を更に深められるような内容にすべきだと思う。これは前から私が言いたかったことですが、今後の研修にも使えるといった視点を盛り込んだ方が、結果的に、質の高い、内容の深いものになろうと思われる。それが無いと、即戦力に特化する傾向が出てくるのではないかと…。(山木)
◯美術的価値というものを掘り下げて書くならば、その心配は無いと思う。大学生にも大学院生にも、10年後も、もっと先の生涯教育の人たちにも通じると思う。(小澤)
◯そうなのだが、言いたかったことは…5年とか10年とか現場で教えていると、教科書の題材を自分から改良したり改善したりそういう認識が定着してくる。では、教科書とは何かということに対し意識が届いているか、届いていないかということも重要だと思う。つまり、美術論としての表現論をどれだけ深く書けるかということだけでは無く、そういう人たちが現場で現実の小学校や中学校などの教科書を頼りに、或いは基点として自分の教材開発をするとするならば、そこら[つまり、教材開発と表現論と]の関係性まで大学の教員は目を届かせておく必要が当然ある訳で、逆に言えば教科書批評なり、教科書に対する認識の深め等も執筆者には求められてくるのではないだろうかと思われる。現場で用いられている教科書というものを見ている大学教員が今まで余りに少なかったような気がします。各大学によって違うかも知れませんが。(山木)
◯ここにこの教科の特性が一つ、如実に出ているところと思われるが、例えば、国語教育系の研究会なんかを見てみると、教科教育学系の研究でも内容学専門の教員が多数積極的に参画しているし、逆に内容学研究でも教科教育学専門の教員が多数参画しているなどといたことが挙げられる。その意味からすると、教科書の題材の意味や意義というものを内容学の先生も、もっと認識して、学んだり、批評したりするようなことがあってもいいのかもしれない。守備範囲を守るのも諍いが起きないことではいいのだが、これでは発展が余り期待できない。だから全ての大学の教員が、教科書を見て、それぞれの見識を言えるというようなことがベーシックに無いといけないのではないか。(山木)
◯それは、教科書の題材に関する日頃からの深い批評性を養わずには、公開授業や研究授業にいらっしゃった先生が自分の信念で語っても、実習生にも附属の教員などにも上手く伝わらないということがあろうかと思われる。普段から見識を深めておけばこのようなことは無いだろう。(山木)
◯普段から教科書や教育雑誌などにも目を配って戴ければ、恐らくものすごく説得力を持ってくるであろう。即ち、それこそ内容学だと思う。ところが研究授業で来て貰った時、色々おっしゃっていただくことが単なる方法論や技術論に矮小化して見えてしまうことがある。内容学というからには教科書に載っているような内容の題材についての見識を披露できるように日頃から、切磋琢磨していただいて欲しい。授業に関する「何故」という問題を深く考えているはずなのに、それが上手く伝わらないのは題材を介して言わないから。自分のアート観や表現が生の形で出てきても現場の先生や実習生には伝わらないことがある。(山木)
◯山木先生のおっしゃることは、その通りだと思っているのだが、その中で私が気になることを言うと…昨年千葉大学では千葉造形広場というのを始めた。現場の先生等に夏休み等に集まってもらって授業研究までは行かないが、幾つかのネタ提供みたいなことを用意した研究会。中心になっているのは、千葉大出身の小学校の先生で、大学も提供するコースもあるのですが、何時も議論しているときにひっかかるのは、現場の先生は使えるものが欲しいんだという話になること。忙しいので自ら題材開発など出来ないし、何故、というよりは、いいアイデア下さい、とか、これはすぐに使えるというものに飛びつく。
でも、自ら題材開発するには凄く高い能力が求められる。その能力を伸ばしてあげたいとは思うものの果たしてそれがどういう風に可能になっていくのかが問題。(神野)

(その6へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:55 AM |

(その4)

◯そうすれば石井先生がやられているドキュメンテーションとか、その途中のプロセスを記録公開していくというやり方が重要になって来る。この間、石井先生に見てもらったのは卒業研究のファイルを必ず出しなさいという私の指導法。私は、学生に途中のプロセスを必ずとっておけと何時も言っている。例えばマークを考えたときのエスキースさえも。結果としてこうなったというのはあるが、そこに至るまで途中の悩み紆余曲折を残させている。勿論、結果も大事だが…プロセスを明らかにしていくというのは無かった部分です。小澤先生の著書『絵画の教科書』にもプロセスが出ていますよね。(渡辺)
◯私の場合は、青写真→描く→嫌になる→壊す→イメージの芽→驚く…このプロセスが大切だと思う。創造の喜びの最たる部分だと思うのだが。この部分は記録をしていくとかプロセスに光を当てないと見えてこない、プロセスに光を当てないと解らないこと…こうしたことを私は「ジャコメッティ的アプローチ」と命名してかなり昔から言っている。学生には制作過程を各自写真に撮っておけと。最近、直江先生(筑波大学)がアートライティングについて論文で書いているように、科学的に検証されようとして来ている。
この時期だからこそ、この委員会でこの論議をするのは意義があるのではないか。(小澤)
◯鳴門教育大は非常にオープンなところもあり、作品批評会ではプロセスに関する批評会となる。美術理論の先生美術教育の先生も意見を言う。論文発表会でも実技の教員も厳しく発言する。それに対して教員同士のコミュニケーションの過程も深まっている。研究室毎に質の高いことを蛸壺的にやるのも重要だが、いざ実際、社会に出た時に総合力が問われるようなアリーナ的な場で議論を展開しないといけない。そういう時、役立つ力を我々はどう学生につけさせてきたのかという点に関する改善案を先ほどは申し上げたつもりです。教育学部の美術講座には、もう少し組織だって連携した地域の貢献の中心母体・セクターの機能も大事。普段からのコミュニケーションがあれば教員養成に関するコンセンサスも相互浸透的に広がっていくだろうと思う。だから、内容学の検討はある意味で組織論、これからの大学はどうあればいいのかという組織論でもある。(山木)
◯千葉大の場合は地域に関わる大学の役割が、有効に機能していている。これは恐らく、複数の教員が協力していかないと出来ないことでしょう。[千葉大学が実施しているような]アートプロジェクトはその意味からすると各大学の総合力が問われるものであるとも思う。しかし、アートプロジェクトだけでいいかというと、この企画の特性があるので限界もあるだろうとも思う。ではどうするか。先ほど申し上げた生涯教育としてのアートセンターとしての機能が人を介して人を育て、また人によってこそ瑞々しい表現が地域に定着するんだということに思いが行き着くと思う。即戦的に考えれば、学校教育を改善する内容学という発想が出るのだが、もう少し悠長に考えても結局は人を育てる、学校教育の中で今の見え方・見方を伝えるという処に辿り着くと思う。つまり二つの側面には見えるが、生涯教育・市民の啓発と学校教育の改善ということは密接に関わりあっていて、どちらかだけということは有り得ないし、その両方がこれまで余り直視されなかったのかもしれないとも思う。だから大学の役割ということと内容学ということは、ある意味とても密接な関係にあるのではないかと思う。(山木)
◯大事なご指摘です。ともすると我々は教員採用試験合格の数値だけを見たり…だけども、地方大学等を見てみると…大学院現職教員の枠があり、現職教員の再教育・そうした人たちがまたグレードを上げて、又、そういう人達が、卒業生達と関わってグループ展や県美点などに出品するなどという動きを…福井で約10年程、見てきました。そうした美術活動による人と人の繋がりは、地方の大学の方が地元の作家等と非常に強い繋がりを持っている。(渡辺)

(その5へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:54 AM |

(その3)

◯少しそちらの認識に矛盾するようなことかもしれないが、作家養成か教員養成かというところで、地方の美術の研究者を総括するのはいささか問題ではないか。やはり各大学が芸大美大である訳ではない。ということは、それぞれの大学で美術コースの教員が地域のアートセンターとしての役割を担わざるを得ない。地域のアーティスト達も含めそれらを組織として育て、様々な刺激を与えるという役割を担っている。教員養成と同時に社会市民への働きかけや影響力がある。専門的なアーティストに対する働きかけの役割もある。二分法で考えると、社会市民への働きかけが希薄になってしまう恐れもある。私の認識としては…教員養成系大学の各美術教育講座は、アートセンターとしての役割も果たしつつ、それが教育にとっても意味があるという重層的な心構えも必要ではないか。(山木)
◯これはかなり大きい役割で、過重なものかもしれないがやはり新しい考えと思う。今迄は自分の専門性を生かすことがこの国の文化発展に寄与するという認識だった。その認識が現実的に個人の活動に結果として終始してしまうという反省があるべきなのではないか。では個人ではない、もう少し広がった社会的な使命…それはやはり、地域のアーティストと交流をしたり、地域への貢献や生涯教育ということになる。その部分は従来の教員がある程度は担ってきたかも知れないが…自覚的意識的だったか、その部分ともっと具体的に教員養成を通じてこれからの次世代を育てていくということは大きな使命としては完全に一致している。(小澤)
◯少なくともあれかこれかでは無く、教員養成の部分を今まで以上に高めると共にアートセンターの機能を引き続き担いつつ、それを重要なものとして再認識して行きたい。大学の中に[少なくとも]1分野1人居るはずの研究者個人が研究室単位で動くのではなく、他の研究室と連携を深め、大学として組織的に教育へ、つまり、学校教育・生涯教育へと関わっていくことが出来れば美術分野も大きな役割を担っていけるのではないかと思う。わかりやすい例ではアートプロジェクトなどを動かすとか…これは一年単位とかいうものでは無くて、人を育てるという形で寄与しうるだろうと。そういう組織立った大学と地域の連携は、もっと深められる余地もある。その為には、各研究室の単位の個別性よりももう少し連携ができた組織力が大学としては求められているのだろう。いうならば、積極的に講演会を開くとか…そういったことで市民に働きかける啓発的な活動を行っていく。これが一つ重要な役割となるのかも知れない。(山木)
◯先ほどの[作家養成か教員養成かという]二分法だが、単純な形で整理してしまうと誤解を生む可能性がある。特に実技系の教員の方々は、[教員養成については]教科教育の人間に任せておけばいいものを、何故、そこまで我々が踏み込むのかという気持ちが出てくるかも知れない。そうではなくて、今まで通りのことを更にもう少し意識化し明確化して進んで欲しいと思う。(山木)
◯要は基本的に制作及び制作学。制作をどう体系化構造化していくかということだと思う。そこで終わるのではなく、それにプラス教材化ということを常に入れていくということではないか。だから何も二元的に考えていくのではなく、プラスアルファで考えられるようになってきたということ。だから今までのものにプラス、新しい視点を入れ込んでいくということです。(小澤)
◯私もそのあたりを考えてこのようにした。前回議事録の最後のところです。教師はもっとプロセスを見とれる、つまり評価できる教育できるようにならないという石井先生の発言があって…ポートフォリオ理論やプロセス評価など優れた新しい教育理論を一部に取り入れ、先取りする形…という風に表現した。つまり、それに全部するというAかBかどちらかに分けると…敵対されたり抵抗されたら困るわけですから。ここでこう言ったのは、新しい優れたものを一部に取り入れ先取りする形…教育的な新機軸を抑えた新しい大学美術の教科書のイメージに委員各位から賛同の声があった…としたのはそういうことです。つまり、成果主義は古い、というのでは無いやり方が必要ではないか。抵抗されたら困る。どちらが良いということは言わないで、プロセス主義等、こういう視点もあるということは明らかにされていない。そういう視点もあるんだよというスタンスで。そこを慎重にしていく必要があるだろうと。(渡辺)

(その4へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:53 AM |

(その2)

◯教科専門の我々がやるべきこと、教材内容研究の背景の部分、何故それをやるのか、何故それを鑑賞するのか、価値判断、深い認識…これらは教科専門の十八番。それから我々がやっている大学での授業…これは美術の価値を教材化することのプロトモデルとして機能しているのではないか、その認識に立つこと、教科専門が抑えていかねばならないところはそれらである。そこを具体的にどう考えていくのかが大切だ。(小澤)
◯その何故の部分が自分本位だったり、場合によっては今までこういう風にやってきたから等、短絡的であったり…そういうことがあったのではないか。何故という部分をもっと子どもの教育に視点をという発言があったが非常に示唆のある発言だった。(渡辺)
◯それには、順番があって…最初に子どもありき、最初に美術ありき、この2つの考えで少し違ってくるかも知れない。(小澤)
◯いやそれは同じ事であるのではないかと思う。これを他の人たちに説明する時に未だ立場上教科専門の話だが、単純に我々がやっていることを現場でどのように使うのかという事だと思う。それを実技側の人間がどのように捉えておけば良いのかということではないのか。現場についた学生は作家になるのではなく、授業は僕たちが行なっている発表の場にあたる。その視点で本音を言うと現場の先生は結構きつい。そのかわりに作家なんて食っていけないが、作家と同じ感覚でやってもらうと、恐らく一つやりがい(面白味)が出てくるだろう。その視点からすれば結局、作家も先生も同じ事になる。我々がやっていること(制作者として芸術家としてやっていること)をきちんとした形で渡してやらないとそのやりがいが生まれないのではないか。(石井)
◯学芸大ではドキュメンテーション(ポートフォリオ・実践課題研究ノート)で卒業というのを認めさせた。学科の中でピンと来ていない方々も居るのだが。文章を書くのもクリエイティブなこと。言葉で書く、絵画を描く、あくまで手法であって表象という事では同じことと考えないとおかしくなる。美術の一般化だとしたら少し作家目線から俯瞰、離れてみる必要がある。それが翻訳の感覚にあたる。これまで通りの考えでいくと、「美術の表現手法があって」の様な美術言語で話していかないとおかしいのだっていう…美術が何なのかはまだ霞んでいるまま、ルーティーンワークでただこれが美術だ、と伝わってしまう事になる。(石井)
◯この間も議題となった成果主義と過程主義というものを、我々が今回の議論の中で、新機軸として、新しい価値として、教師が評価すべき、或いは指導できるとか、教えられるとか、そうしたビジョンを入れていくことを考えた時、今までの美術界というのは、旧態依然と作品さえ出来ればいいという考え方がどうしてもある。それに対して我々は、どういう風に教員養成というスタンスで、これまでの芸大美大とは違った、教育の価値というものを見せていかなければならないのだが、必ず起こるであろう抵抗に対して、どういう風に持っていくのかということを先日も石井先生と話し合っていたところです。(渡辺)
◯横国大はどうなのかというと…学部の間はなるべく実技で卒業せよ、と。論文系はなるべく大学院以上で…みたいな、やはり成果主義というところは厳然とある。教員を養成しているというのと作家を作るという違いに行き着かねばならないだろう。駅弁大学…地方だと免許を取って教員になるという存在価値がある。しかし、中には中央の美大芸大に行けなかった人の受け皿的な言わば駅弁ミニ美大みたいな機能も持っているというか…大きな大学だとしても教員になるのは半分以下だが我々は文科省に対して教員採用率を上げるべく努力はしているのだが、根幹にあるものとやってきたことに少々のずれがあるのだと思う。(渡辺)
◯小澤先生が纏めてくれた資料は重要な意味がある。これに向けて、さあ、どうすべきなのかということですよね。(渡辺)
◯私も前回の会議まではこんな認識はなく、衝撃を受けた。そうなのかと。教材内容研究ということだが…教材というと、何か即物的な…要は、足場は我々の制作体験とか経験値・制作値…これが所謂、深い認識になっていく。それをどのようにして翻案していくかということだと思う。それを大学の中でプロトモデルとしてやっていく必要性がある。それから教員志向で行った場合、教員になった時にどのような教材を考えられるようになるか、与えられたものを即やるではなく、どのように考えていけるか、どのようなものを開発していけるか‥というところが分かって曖昧な所がクリアになった。(小澤)

(その3へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:52 AM |

教科内容学検討委員会有志会議録

日時:平成22年 4月 3日(土)14時半〜15時半(3時間)
会場:横浜国立大学教育人間科学部美術棟3階小会議室(教育人間科学部4号館)

議題:教科内容学検討の今後の方向性について

1. 出席者:小澤基弘 (絵画部会・埼玉大学)、石井壽郎(工芸部会・東京学芸大学)、山木朝彦(教科教育部会・ 鳴門教育大学)、渡辺邦夫(デザイン部会・横浜国立大学)、神野真吾(美術史美術理論部会・千葉大学)、前芝武史(彫刻部会・兵庫教育大学)

論議に先立ち前芝より兵庫教育大学実技教育指導センター発行『実技教育ガイドブック』の資料提示(提供)があった。
◯鳴門教育大にも、実技教育研究指導センター関係のグレード制というのがある。小学校教員のための実技力の育成ですが、今度、送ります。(山木)

前芝の提示(提供)した資料『実技教育ガイドブック』の内容を見て…
◯これはいい。楽しそうですね。構えずに気軽に出来そう。(委員複数から)
◯前芝の担当は13ページから19ページまでと29,30ページ。画家のデッサンとはやや異なるかもしれないが、塊をどう捉えるのか、というのがテーマです。彫塑の基礎的内容を無理やり詰め込んだのですが。(前芝)
◯余白があるのがデッサン、習作、場合によっては課題に使える。綴じてあるよりも一枚一枚、取り外せて使えたらどうだろう。フォルダにように閉じて使ったり、画用紙みたいに並べて壁に掲示して、そのまま鑑賞に使ったり出来るし、他者理解や個人的な内省の機会にもなる。(渡辺)
◯それはいい。画用紙に刷ったりしてもいいかも知れませんね。(小澤)
◯教員採用試験の実技検査では手をモチーフとしたものがかなり多い。例えば、手に想定による卵を持たせたり。手は身近にありながら観察力を見ることが出来る。教員資格認定試験で実際に卵は用意しないのだが、手は長い間試験で出題していた。(渡辺)
◯前回会議の議事録で後から読んでなるほどと思うことがある。その中で重要なところを抜き出し、教科専門の中でどのようなことを考えていかねばならないかということを一枚にまとめたものが「教科内容学構築に向けて」というプリントです。(小澤)
小澤委員から資料配布があった。
◯本当にエッセンスだけを抜いてくるとこういうことになるんじゃないか。(小澤)
◯前回の会議で確認したことや、今まで意識してこなかったことを踏まえ、色々なことが次第に見えてきた。問題提起は…大学教員は果たして育成してきた学生を現場で教師として大学での学びをどう生かしているのか検証してきたのか、その考えで大学の授業を自己チェックしてきたのか。大概そうではないし、謙虚にそれを認識することから始まる。(小澤)
◯色々資料、案いただきました。時間が過ぎておりますので論議に入ります。(渡辺)
◯新たな内容学の機軸として私はこう考える…教材開発、カリキュラム開発などを批評するような能力を育てていく内容学の機軸を作れないか。そのためにティピカルな教材や題材の具体的な提示が大事。それを子どもたちの視点、総合的な発達の観点から見直すべきである。(山木)
◯特に教科内容研究というのが大事。もっと積極的に教科専門の教員も参画してもらう必要がある。教材内容研究には教材の背景的な部分、例えばなぜそれをするのか、価値判断や深い認識が必要。実技系の教科専門の教員にはこうした視点が必ずあるはずである。教科専門の教員は、教えるべき美術の価値=題材、これを教材化するプロトモデルとして教育的に機能しているはずである。二人の意見をまとめると、内容学の中で盛り込まねばならないことを意識していかねばならない。教員養成大学で学生に培うべき最重要の能力は、第1に教材開発力、第2にカリキュラム批判力ということを、前回の会議で3人の教科教育の先生方から聞いて改めて思った。(小澤)
◯具体的なアプローチとしては、永守先生のおっしゃるドローイングから始まると思う。ドローイングは一番の基本。それから過程(プロセス)、編集(エディティング)そして授業批評という、この4つ観点を軸として新たな教科内容学が構築できるのではないか。そしてここで皆さんにコンセンサスを得ておけば恐らくブレていくことはないだろう。(小澤)

(その2へ続く)
| 前芝武史 | 2010/04/16 3:51 AM |

皆様

 前芝先生の議事録のお纏め、感謝申し上げます。またさっそく渡辺先生の修正も、完全を期される先生の常なる姿勢に敬意を表します。私も前芝先生の議事録を受けて、話合われた内容を要約して近いうちにまとめてみたいと思います。

 本日今年度大会開催校の三澤先生より、学会フォーラムの概要及びパネリストの確認のメールが届いております。先日もこのブログ上で私の文案で作成しアップしたおりますものを、もう一度委員の先生方に確認していただきたく思います。また、パネリストとしては、先日の有志会議のメンバー(神野先生は別のフォーラムのコディネーターですから参加いただけませんが)、つまり山木先生、渡辺邦夫先生、石井先生、前芝先生、そして私、それに委員長である松浦先生の6名での会議形式でのフォーラムでよろしいかどうか、もう一度確認させてください。4月25日が期限ですので、調整もありますから、4月20日までに4もしご意見ご疑義があればご指摘ください。以下概要文案です。

「教育系美術教科専門の大学教員は、自分が大学で養成した学生たちが現場の教師としてどのように大学での学びを活かしているかその検証をこれまでしてきたのか、あるいはそうした構えで大学の授業を自己チェックしているのか」という問題提起が、これまでの議論を通して本委員会の共通認識としてあります。そうした問題提起のなかから、教材開発力や優れたカリキュラム開発を批評できる能力を育てるための内容学の基軸を,子どもたちの視点から見直すべきであるという考えに現在至っております。特に制作や美術理論に軸をおき、それに深い認識と理解をもっている教科専門の教員は、「教材内容研究」に積極的に参加すべきであり、自身の立ち位置からそれに積極的に関わっていくべきだと考えます。しかし、おそらく特に実技系教科専門の教員にとっては、こうした考え方には様々なご意見があろうかと思います。そうした先生方は是非フォーラムにご参加いただき、積極的にご意見をいただければと思います。
ドローイング、プロセス、エディティング、反省、授業批評等が、これから内容学を具体化するためのキーワードとして浮上してきています。また視覚等の認識論、美術の知的理解、文化理解等々、そもそも論の明文化もまた同時にそこに加わります。今はまだ混沌とした中で議論が進んでおりますが、是非とも9月のフォーラムまでには具体的な内容が提示でき、当日の会議でそれがまた展開し、フロアの方々のご意見をそこに反映させてより内容の濃いものを目指して行きたいと思っておりますので、多くの方々のご参加を期待しております。

参加予定者:松浦昇(金沢大学)・渡辺邦夫(横浜国立大学)・石井壽郎(東京学芸大学)・山木朝彦(鳴門教育大学)・前芝武史(兵庫教育大学)
| 小澤基弘 | 2010/04/09 10:04 PM |

そこで氏は「アン・ラーンのすすめ」ヘレン・ケラーの言葉より「まなびほぐし」を取り上げられ(大江健三郎は「アン・ラーン」を以前から知っていいたが一般に「学び返し」と訳していた処を「まなびほぐし」という鶴見俊輔という記者の見事な訳語から知ったという逸話を紹介)…教室でIREを避けIREを変形する思考=Evaluation を Appreciation(鑑賞、味わい)にする「プロセス重視」型授業への転換を提起されました。つまり「おもしろい!」「なるほど!」といった生徒のInitiation を大切にする授業の提案です。寧ろ、生徒に疑問を出させる、生徒同士の「学び合い」「教え合い」を取り入れるべきだというのです。そして、学校生活での「問い」を日常生活の「問い」に近づけるべきだと講じられました。答えが解っている典型的IRE型の問いでは無く「答えが分からない」問いこそが必要だと説きました。

最後に、いよいよ、講義はあらゆる教科に「アート」活動を取り入れよ→「絵的シンボル」の活用という核心に至りました。そこでは「文字」的思考=分析(部分)から統合(全体)/論理、原理、秩序の重視/価値の一元性/カテゴリー的意味/客観(脱・個人的視点)と、「絵」的思考=統合(全体)から分析(部分)/配慮、関心、調和の重視/かちの多元性/非・カテゴリー的意味/間ー主観的(間ー個人)的視点の相違点を元に、認知心理学者:ユーリック・ナイザーの「統合による分析」:認知心理学のキー・コンセプトを解説され、所謂、分析による統合か 統合による分析か の視点論であり全体を予想するからこそ部分が分かるという思考法への示唆です。そして、学校の学習の中で学習者の能動性の消失を指摘され…根源的能動性の回復を提唱されました。
人は「根源的能動性を持って生まれる。佐伯「コビト」論とは…人は「分身」を世界に派遣する という考えです。
例えば…アインシュタインは「私は光の中を光と共に走っている自分を想像し、周囲を見た。」と16歳の時の体験を元にあの「相対性理論」の芽生えを得たし、マクリントックは「染色体の中に入り込んで私はその中の一部になり、染色体の内部の要素ーよく知っている自分の仲間ーに囲まれている感覚にひたった。」の言葉から染色体の本質を解明しノーベル生理学医学賞を得たという…奇想天外な想像力から得るインスピレーションに裏付けられるというのです。そして、根源的能動性は、同時に根源的受動性でもあると氏は説きました。

結論として…19世紀のイギリスの詩人:ジョン・キーツの言葉 Negative Capability=何者でもなく居られる力を揚げられ…彼の言葉「想像力が美として把握したものこそ真実であるに違いない。」から、あらゆる思考が通行できる通り道の必要性を指摘し…「様々なモノ、ヒト、デキゴトの中に自分の分身を入り込ませ想像力を働かせ多様な “If…” の元でメンタル・シュミレーションせよ。」その時に「美として把握したものこそが真実である」ことが実感される。」…と結ばれました。

非常な興奮が私の中に沸き起こりました。何故なら…此の佐伯先生の講義の核心に有ったものは…正に創造性、イマジネーションの大切さであって…それは、美術という教科の根幹に位置する特性に他ならなかったからです。同僚友人で一緒にUCLAサンタバーバラ校を視察した司会:有元典文先生が質問の時間を取ってくれましたので…私は思い切って手を挙げ、現在、本ブログで美術教科の必要性や教育的な意義を論議していることを述べてから「何故?この日本という国では…個性や他者理解、創造性や感性教育にとって最重要な図工/美術や音楽と言った芸術系教育を周辺教科、或は時に不要教科といって時間数を削減し疎かにして来たのか?」と尋ねました。

佐伯先生はにこやかに「私は…『頑張れ!図工の時間』という会を組織しています。私は学生時代、数学を専攻していましたが…数学に於いて素晴らしい公式もまた非常に美しいものであって…私は美術に於ける学びを非常に重要なものと考えています。ですから、是非、美術という教科を守るという考えでは無く…寧ろ美術という教科から全体に割って出るくらいの大きなヴィジョンで活躍して貰いたい。」とお答えになりました。この重要な答えは…先の会議で山木先生が示唆提示された…(提示資料1)正にPISAが求める能力論=単に数理処理や読解力といった単純なものでは無く…以下のキー・コンピテンシーが掲げられている【言語/シンボル/テキストを相互作用的に活用する能力】に通じているのだと解釈することができます。

皆様からの感想や忌憚の無い御意見をお待ちしています。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/04/08 4:59 PM |

講義は次にHorner &Whiten 実験に進みました。その非常に興味深い実験を簡単に説明すると…キャンディの入った箱を開けるのに、棒で2回叩いてから蓋を開けて中のキャンディを取出す手本を見せると…チンパンジーも人間の幼児も全く同様に棒で2回叩いて蓋を開け中のキャンディを取出して食べることを学ぶが…次第にチンパンジーは蓋を開けるのに棒で2回叩くことをしなくても実は箱の蓋は開きキャンディを取出して食べられると気付いて棒で2回叩くことをしなくなるのに対して、人間の幼児は何時までも一度学習した棒で2回叩いてから箱を開ける…言わば無駄な行為をずっと繰り返す…という面白い内容の実験結果です。この実験結果は、猿の方が賢いというより…速やかに食べる目的の結果を求めるからであり他者を真似しない、人はそれに対して模倣して擦り込まれ「学び」を伝言する…つまり人間だけが他者に「学習」させることの出来る生き物である証明だと言うのです。

 更に講義は「学校化された知とは」に進みました。ものを「知る」のはすべて“勉強”を通じてある…生徒はそれが現実の文脈の意味や関連性について〈目隠し〉されて、順次、修得されることが期待される…と言う知見を示されました。これはつまり…「勉強」の副作用と言うべきもので、佐伯先生は「考えないこと」を学んだ子どもたち の存在を提言されました。その証拠として「ある、ある」珍問奇問という実例を紹介され呆れ驚きました。小学校3年生に 4×8=32 を得る為の問題を作らせた処…「あめが4こあります。8人のこどもにあげたいのですが、4こしかないのでどうすればよいのでしょう。」3年、「あじが4まいありました。8をかけるといくらになりますか。」3年、「1こ8円のガムがあります。4人でわけるとなんこですか。」3年、「◯◯さんが4こあめを買いました。◯◯さんが8こガムをかいました。ふたりのねだんはいくらでしょう。」5年、ひろきくんがあめを8こかいたいのだけれど、4こしかありません。いったいあめのねだんはいくらになるでしょう。」6年…会場の笑いと共に、現在の学校教育の抱えている脆さに気づく瞬間でした。そうです!子どもたちは学校で…九九を念仏の様に唱え暗証して覚えても 4×8=32の本当の意味で実際の生活に根ざして理解していないのです。佐伯先生は「学校教育」は成功していない!…と現在の学校教育に対し警鐘を呈されました。
 これは算数ですが…図工に於いても同様なのではないかという感覚に陥りました。教科書通り紋切り型授業や形骸化した教材による繰り返し授業が行われて…ともすると「好きに描きなさい。」「大胆でいいね。」等の全く悲しい極めて無責任な教師の言葉に終止し…教師は、何故?描くのか、何故?作るのか?について意義を諭せず、児童生徒も意味を分からないままなのではないかと。そして佐伯先生は、近年のPISA調査で我国の学力低下が叫ばれているが…この想像力の欠如は実は子どもだけで無く、もしもPISA調査を大人に実施したら…日本は先進国で間違い無く最低であろう…と全くもって恐ろしくなる予想を言われ日本という国に対し警鐘を呈されました。
 では、何故?学校教育は成功していないのか という核心に講義は至りました。先生は「教室での会話の特異性」を揚げられ…通常の質問応答は「知らない人」が「知っている人」に尋ねて「答え」をもらったら礼を言うが、教室では「知っている人」が「知らない人」に答えをもらったら「評価」を与えると述べられました。つまり「今、何時ですか?」「2時半です。」「ありがとう。」が、教室では…「今、何時ですか?」「2時半です。」「その通り。」という具合です。
 これは、IRE(教師の発問(Intiation)―学習者の応答(Response)―教師の評価( Evaluation)という構造の制度化)として知られています。その変形版として…質問を出しておきながら生徒が答えても→「ただ聞いている」だけ→黙って黒板に生徒の言葉をそのまま書く→パッと視線を回答者からそらして他の子どもたちに向け「他に?」と問いかける…すると、回答者は、できる子は「評価」が欲しい、できない子は「評価」が怖い…となると説きました。又、ある授業での教師と生徒の典型的IRE型やり取りは1時間に実に1,000回近くもあり、この様な教師は「権威主義的」なのかというと、実はIREを頻発する教師は授業で強い「無力感」を感じている…との東大/佐藤学 教授による観察報告からの資料提示がありました。(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/04/07 10:02 PM |

皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
山木先生 有志会議の覚え書きお纏めありがとうございます。私は異議ありません。
小澤先生 基礎基本論、そしてイメージの関係性に於ける現在の大学美術教育の抜け落ちた点への鋭い御指摘、読ませて戴きました。示唆に富んだ御発言であると思います。やはり美術に於ける創造的な価値は…正にイメージが肝要でありましょう。しかし基礎基本を抑えないと教師の資質としてのベースが限られた時間内では体得できないというジレンマの中で…我々、実技教員は日々、悪戦苦闘しているというのが実情かと思います。それは入試という入口論として…美術の基礎力の乏しい入学者を合とせざるを得ないという教員養成系大学の実情=ジレンマとも深く関係していると思います。唯、現状を嘆いていても仕方なく…我々は改善に迫られているのもまた確かでありましょう。
山木先生 更なる小澤先生への応答にちょうど割って入る感じになってしまうのを危惧しますが…私はイメージの表出論として直感的に関係する論議かも知れないと思うので割って投稿します。

両先生の御指摘にも繋がるかと考えますので…先の有志会議でかい摘んで口頭説明させて戴きました本学での講演についてリポートしようと思います。4/3臨時委員会議事録を待つ間…暫し話題提供となることも期待して書き込みさせて戴きます。

本学では現在、大学院を中心とした改組計画が進行中で…
N系(教育学部改組時の0免課程/マルチメディア文化課程、国際共生課程、地球環境課程の3課)が学内の理工学部一部と合体し人間文化課程(芸術文化コース、社会文化コース)を新設し、残る教員養成系大学院は教育デザインコース/特別支援・臨床心理コースの2コースへ改組する案です。デザインといっても私の専門とする学科目:デザインのことではありません…カリキュラムの構築や教科を超えた総合的な教育システムを構想できる優れたデザイン力のある教師育成=教育そのものをデザインすることのできる人材育成と解釈すべき語で…ワークショップ形式のコア科目必修、教育実習中心の「教育インターン」と学術研究中心の「教育開発科目群」「教科内容学科目群」の選択科目を設け…教育科学、教科教育学、教科内容学の連携や専門能力を強化して行くという改組計画のようです。

その計画に添って、昨年、学校か養育課程内に教育デザイン研究会という組織が発足…
先の書き込み第1回教育デザインフォーラム| 渡辺邦夫 | 2009/11/18 4:14 PM |を受け…
去る3/17(水)第2回教育デザインフォーラム『教育の現在と未来』が本学講義棟で開催されました。演題/招待講師は「学校を『学校的』でなくするには」青山学院大学情報学部教授/佐伯 胖 先生、「公教育と私教育について」早稲田大学教育学部教授/安彦忠彦 先生の日本の教育界をリードする2名で行われました。(http://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯胖、http://www.weblio.jp/content/安彦忠彦 参照)会場は超満員。
素晴らしい講演会でした。

私が特に心に響いたのは…最初に登壇した佐伯先生の認知心理学からの知見に基づく「学び」の過程分析や鋭い洞察による講演でした。佐伯先生、曰く…人は常に何らかの世界でその世界固有の“わざ”(身体技法)を身につける…そして、人は何かを「考えよう」とする時、同時に別の何かについて「考えないように」している…と説きます。つまり、私見を加えるなら…我々は美術を選んだと同時に実は他の教科のことを考えないようにし、又、絵画を選んだと同時に実は彫刻等の他の美術領域のことを考えないようにし、又、具象的な風景画を選んだと同時に他方向の絵画表現をのことを考えないようにし、逆に現代美術を選んだと同時に他の伝統的絵画表現のことを考えないようにして来た…と解釈することが出来るのではないか…と内省的に感じた訳です。この感覚は先の会議で私が発言した美術という教科内の近親憎悪的な古くから存在する悪癖に繋がっています。(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/04/07 5:42 PM |

小澤先生
技能の修得と表現意欲の促進やイメージの喚起について、具体的な事例のもとに解説して頂き、ありがとうございます。整理していただいた内容をさらに単純化させて頂くならば、教育学部の学生には、技能の習得だけをセパレートして教える旧来の専門大学型教育方法ではなく、もう少し、内発的な表現意欲を高める枠組みのなかで、イメージや視覚的コンセプトを模索させる授業が望ましいということになりそうですね。

そして、おそらくイメージや視覚的なコンセプトを模索し、洗練させ、定着するプロセスに技能の獲得が密接に絡み合うような計画を練ることが、美術の内容学担当の先生方に求められているということになるでしょう。

それでは、まず内発的な表現意欲を高める工夫には、どのようなことが考えられるでしょうか。一つには、個的な世界の表出に重きを置いた日記的な内容の可視化。もうひとつは、社会的な変革を企図する環境形成の活動やマス・コミュニケーションの受け手・送り手としてのコンテンツ作成などが考えられると思います。大学生が主体的に参画し、企画するアート・プロジェクトは、両者を繋ぎ、特に後者での評価を受ける学びなのだと思います。

日記には、欧米で実験的に行なわれ、一部、定着してきているリサーチ・スケッチブック(リサーチ・ノートブックとも言われます)のようなものは、社会的な意識を内面世界の培養土として利用するかたちが多いと思いますので、やはり、自己と社会を繋ぐプロセスであると見做せますが、探究のプロセスはきわめて個人的な様相を呈すると思います。これについては、福島大学の渡邊晃一先生がお詳しいはずです。

アート・プロジェクトやリサーチ・スケッチブックは、その本質を完全に全うしようとすれば、かなり大掛かりで長期的な展望をもった教材になりますが、教員養成の大学のなかで実現可能なコンパクトなありように加工して、提示することが、現実的な提案に繋がると思います。

小澤先生が事例に出していたように、もとろん、各ジャンルのなかで、技法を優先して教える旧来のスタイルを改め、学生が主体的に表現したくなる学習内容を考案していくことが必要なのだと思います。そのとき、実は、これまで積み上げられてきた、小学校・中学校における造形教育題材の豊富なアーカイブを利用できると思うのです。
以上、小澤先生のお考えを受けて、考えたことを纏めてみました。
(YAMAKI,Asahiko)
| 山木朝彦 | 2010/04/07 2:52 PM |

(続き)

例えば現代の画家であるサイ・トゥオンブリの作品を例にとりましょう(彼の作品は皆さん周知のことと思います)。おそらく今の教育系大学の絵画教育では、この画家の真価を理解できる学生は育ち難いと言えるのではないでしょうか。彼の作品にはいわゆる一般的な意味での(デッサンを基盤とした)技能や技術というものは見受けられません。ほとんどの学生(そして一般の人たちおよび美術教師の多くも)にとって、彼の絵は学校教育を受ける以前の子どもの絵と同様の見え方をしていると容易に予想できます。しかし、彼の絵はすばらしい!(こんな感傷的な言葉を使ってしまいますが)まさしく技能とイメージが見事に一致している現代の表現です。例えて言えば、彼の絵の価値、その意味、そこに見られる技能とイメージの見事な調和を、きちんと児童生徒に伝えられるような学生を育てることこそ、教育系大学の絵画教育においては必要なのだと私は思います。サイ・トゥオンブリの例は一例にすぎません。

巷ではルノアールだのマネだのという展覧会がマスコミをにぎわせてますが、例えば今ワタリウム美術館で開催されているジョン・ルーリーのドローイング展などは、全く話題にすらなっていません。彼はかつてミュージシャンでした。大学で美術の専門教育を受けた画家ではありません。しかし、病を得てミュージシャンをやめ、絵を描き始めます。彼の絵にはサイ・トゥオンブリと同質の、技能とイメージの見事な調和があります。出色の展覧会ですが、話題には全くなりません。それが日本の現在の美術受容の現実です。

技能とは一体何か。技術とは何か。デッサンとか油絵とか版画とか、美術表現をそのようにとらえてしまうと、まずはじめに技術の習得が必要、などというくだらない発想になってしまいます。要は自分に表現したい何かしらのもの(動機や衝動、イメージやコンセプト)があるかどうかということ、それに気づくこと、それが肝要です。もしそれに気づいていないとしたら、子どもたちの心を(大学生も含まれます)それに気付くよう発火させてやること、それが美術教育において最も重要なのではないでしょうか。その際に、何かを用いて発火させるしかないので、例えば水彩絵の具を使わせたり油絵の具を使わせることになるのですが、それらはあくまで発火のための道具にすぎません。ただ、道具の最低限の使い方は知っていないとうまく発火しないから、その指導をする必要がある、そういうことなのだと思います。最低限の指導でよいのです。

私は大学3年生を対象にして、ドローイングの授業をしています。ドローイング日記を課題にして、毎週それを皆の前で発表します。それを半年続けます。そうすると、学生たちの心に表現へ主体的に向き合おうとする灯がともり始めます。それを続けていけば、彼ら彼女らはほおっておいても絵を描き始めます。そして多分サイ・トゥオンブリの絵がなぜいいと思えるのか、漠然とでも分かり始めます。あるいは分かろうとし始めます。今回の内容学で重要なファクターの一つとして挙げられているドローイングの問題について、私はそれこそがまさしく技能とイメージとの一致を教育現場に伝えるための非常に有効な方策と考えています。それは上記のような理由によります。

以上、山木先生のご質問の答えになっているかどうかわかりませんが、私なりに答えさせていただきました。

小澤基弘
| 小澤 | 2010/04/06 10:38 PM |

山木先生

先日の有志による会合について、山木先生のお纏めはとても分かりやすく、自分の中で議論を整理することができました。ありがとうございます。

山木先生のご質問を受け、私なりの考えたことを書き記してみます。

山木先生のご指摘とおり、技能や技術はイメージやコンセプトと不可分に結びついています。美術表現は本来そうあるべきと思います。ですから、技能や技術のみを教育現場で指導することはナンセンスですし、意味がありません。常にイメージと一体で技能や技術は指導されるものです。しかし、現在教育系大学において一般的に行われている技能や技術習得は、イメージやコンセプトと一体として指導されているかと言えば、そうではないように思われます。
私の領域の絵画において見渡すに、イメージやコンセプトを深めるという美術表現において最も本質的問題は、大学教育において(教育系大学では特に)先送りされているように思えます。絵画(おそらく彫刻もそうかもしれませんが)では、始めに技能や技術ありきで、まずそこだけをイメージやコンセプトと切り離して指導されるケースが実は極めて多いのではないかと思います。デッサンの描き方、油彩の技法、版画の技法等々、その表面的技能や技法が先行していき、一番大事なそれぞれの学生のもつ内的イメージやコンセプトが常にそこに必然的に付随させているかと言えば、そうでないことが殆どではと思うのです。

安直にヌードモデルを描かせたり、身の入らない静物モティーフを描かせたりするのは、学生の本来発揮したい主題性やイメージ・コンセプトをとりあえず括弧に入れておいて(実はこの部分の指導が最も重要であるにも関わらず)、そうすることが技能技術だけを教えるには一番手っとり早い方法だからではないでしょうか。芸大や美大の学生にとっては、たとえそうした限定的な指導であっても、学生自体に主体的な探究心がある場合が多いので、無理に大学教育でイメージやコンセプトの問題を言わずとも、必然的に技能や技術とイメージとは結び付けられると思います。私も大学時代、ただの一度も授業において内的なイメージの問題について指導を受けた記憶がありません。ただひたすらヌードモデルを描かされただけです。

しかし、教育系大学ではそうはいきません。危険なことは、技能や技術だけの教育が学生に与える影響です。教育系大学の美術学生は、美大芸大生ほどには主体的に自己のイメージに向き合っていないケースがほとんどだと思います。ですから、そういう学生が大学で技能技術中心の指導を受けた場合、それがそのまま彼らの美術観になってしまうという重大な危険性を孕みます。そういう学生が教員になる、そうするとその価値観をそのまま教育現場で展開してしまいます。そうした教育では、児童生徒の個々がもつそれぞれのイメージや考え方を引き出すような契機は全く与えられません。図工美術において最もそこが重要であるにもかかわらずです。
(続き)
| 小澤基弘 | 2010/04/06 10:34 PM |

追記:振り返り、思い出したことが2件。そのうちの1件につきましては、教科内容学にかかわる皆さまに問いかけてみたいことがありますので、そのことも書かせていただきます。

私は、大学院等の設置基準に関わる専門性の配置について、理論系の学問の窮状(たとえば、美術史ひとつをとってみても、地域別/年代の幅のなかでの研究対象の各時代別の研究者を用意できない窮状)を申し上げました。これに関連して、ある委員から、現実的に対処するには、例えば、絵画専攻の人間は絵画史の概説ぐらいは自分の仕事のうちに含んでいると自覚してもよいし、他のジャンルも同様だとする考えが出されました。

私も同感です。なお、この問題は内容学が押さえるべき「範囲」ともかかわるものですので、ここに記載させていただきます。

もうひとつは、技術をめぐる問題です。技法や技術は、それだけを抽出して教えるのではなく、表現したいイメージやコンセプトと不可分に結びついています。

前芝先生から、兵庫教育大学の実技教育指導センターのワークブックが配布され、簡潔な技能の習得に焦点化された内容に、一同、感心したことも、技法や技術、技能が教員養成の中心的な課題であるという認識が共有できたと思います。

同時に、コンセプトやイメージを表現する方法を開発していかなくてはならないという認識も共有できたと思います。

そこで、私が問いかけたいテーマが派生してきたわけです。教科専門の、特に実技指導にかかわる先生方は、技法や技術を学ばせ、たしかな技能を学生に習得させる流れと、その技能をどのように教育現場で生かせるのかという問題をどのように結びつけて考えているのか、そのことを教えていただけないでしょうか。安定した共通の認識というものがないのであれば、すこし論議していただければさいわいです。

大学での技能の獲得がどのようなかたちで教育現場での指導に繋がるのか、頭を整理したいので宜しくお願いいたします。抽象的な説明がふさわしくないとお考えの場合には、事例を出して教えてください。
(YAMAKI,Asahiko)
| 山木朝彦 | 2010/04/06 4:52 PM |

2010年4月3日の協議は前回の路線をさらに広げ深める方向での展開になったことで、ご同席されておられない委員の方々の賛同も得やすい内容になったと思います。
自由討議のスタイルでしたので、会議後に振り返りつつ、纏めるプロセスが必用になりましたが、今回は、ディテールの掲載よりも、テーマを探し出し、明示するような概略の形態での報告掲載がよろしいのではないかと提案させていただきます。いくつか、参加者全員が確認できたことがあるのではないかと思いますので、前芝先生による記録をもとにした報告の前に覚え書きふうにまとめておきたいと思います。
1.広義のデザイン思考が教育課程全体のなかで重要なのではないか。それは、過去・現在・未来の造形表現世界を見据えて、環境形成に有用な思考力を養うことである。そのためには、ネームバリューや一時期の流行などに捉われずに、ものの成り立ちや有用性について、自ら主体的に考え実験する精神の涵養が必要である。
2.ハイアート/生活のなかでの美的造形/ポップカルチャーなどの別を設けて、どこかに価値を置くのではなく、人類がつくりだしてきた、さのまざまな時代、さまざまな地域の造形表現に触れさせる機会をできるかぎり用意することが必要なのではないか。
3.創造的表現にたいする過剰な期待によって成り立ってきた美術教育については、その功績をみとめたうえで反省期に入っている。チームワークによる造形表現や、いままで存在する表現方法をうまく利用する造形手法がいっそう積極的に認められるべきである。
4.教科の独自性を主張すると共に、人間の文化的形成物であるさまざまな「知」へと回路を開き、学習者の知的好奇心を刺激する方向がもっと模索されても良い。美術というジャンルのみに回収されるような方向ではなく、人文・社会系諸学や科学にさえ道を拓く内容学のあり方があるはずである。
5.教育学部の美術コースは、地域の造形文化の質を高めるセンターとしての役割も担っている。地域の優秀な人材との交流によって自らを高めると共に、地域の文化形成に寄与する役割も担うであろう。そのような使命と、教員養成の充実を図るという内容学の深化・展開はけっして矛盾するものではなく、むしろ、両者は密接かつ有機的に絡み合っている。

私なりの纏め方なので、当日にご参加いただいた先生方のなかにも、上記の五点についてご異議があるかたがおられるかもしれません。その場合には、当ブログにてお知らせください。

以上、簡単ですが、記憶が曖昧になる前に、備忘録として書き留めておきます。(YAMAKI,Asahiko)
| 山木朝彦 | 2010/04/05 6:41 PM |

松浦 昇 委員長 および委員の皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
去る3/14(土)開催の熱気溢れる第3回委員会(投稿7通を参照)終了後、松浦委員長より…この論議を受け、より具体的な内容について春休み中に集まれる委員有志で臨時会議を開いて欲しいとの御指示がありました。

先の委員会出席メンバーを中心に呼び掛けました処、絵画/小澤基弘(埼玉大学)、工芸/石井壽郎(学芸大学)、教科教育/山木朝彦(鳴門教育大学)、彫刻/前芝武史(兵庫教育大学)、美術史美術理論/神野真吾(千葉大学)、デザイン/渡辺邦夫(横浜国立大学)の各部会から6名が参加し、一昨日4/3(土)臨時委員会が本学横浜国立大学美術棟で開催されました。先の会議内容を受け、午後2時半〜5時半、約3時間に及ぶ極めて闊達な論議がありました。出席委員諸氏からは持ち寄りの貴重な資料等も提示され、具体的な内容の論議は勿論、教科内容学の方向性に関する元論、教科専門教員のあり方論、教科専門と教科教育の教員相互の連携のあり方論、過程主義をどの様にしてに提示すべきか、美術の教科書の受手は何処なのか、育成する教師レベル(教材開発能力、教科書批評力等)、出版物の内容/章立てやネーミングについて、教員養成系大学の地域との関わり方、鑑賞教育と美術館のあり方や現状の問題等…論議は平素と比しより本音の発言が多く、各委員の発言に他委員が呼応しながら深化して行く論議であり非常に意義深い内容であったと思います。
尚、具体的な内容/章立てについては…寧ろ未だ決定するに至らず…今回の論議を受け総ての教科内容学検討委員の御意見も戴きながら本ブログ上で更に論議をして行くのが良い…という決定となりました。

先ず簡単に経緯について此の場でご説明せさて戴き…
皆様の御理解を賜りたくよろしくお願い申し上げます。

小澤先生
熱意ある早速の書き込みありがとうございます。重複する点もございますが…前後しても…委員各位に経緯説明があるべきと判断し書き込みさせて戴きましたのでお許し下さい。公開形式の論議、そして其の場に居る委員有志の挙手による執筆への意思表明というスタイルは…本論議の中から当日、自然と沸き上がった提案であり…今からわくわくするような画期的な提案だと思います。今後共、教科内容学論議及びテキスト出版の中核として増々の御指南御尽力よろしくお願いいたします。

松浦先生
ご依頼の次回会議日程につきまして…戴きました候補日の内、今回の参加委員に於いては5/22(土)が最も最適ではないかとの仮合意を得ましたので早速ご報告いたします。よろしければ、連絡事項に御提示下さい。

尚、本会議議事録に関しましては…兵庫教育大学の前芝先生にお願いしてあります。

前芝先生
流れを抑えた骨子の状態で…出席委員MLに送信下さればと思います。大変な仕事ですが…どうぞよろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/04/05 6:37 PM |

皆様

 昨日はお疲れさまでした。昨日の議論もとても有意義だったと思います。特に神野先生、前芝先生がご参加されたことによって、議論もまた新しい展開を得たと思いました。前芝先生、議事録大変でしょうがよろしくお願いいたします。

 ところで、昨夜の会食の折にも話しましたように、9月の学会のフォーラムは、本会議の公開というかたちで進めたいと思います。どういうわけか私がコーディネーターになってしまっているので、当日は私が議事進行役を務めます。本日三澤先生よりフォーラムの概要についてHP上に掲載したいので簡単に書いて送ってほしいとのことでした。以下とりあえずざっと概要を書いてみました。委員の皆様のご指摘をお願いいたします。本来は昨年からのメンバーの先生方全員がフォーラムに参加していただくことが一番いいのですが、限られた時間とスペースなので、本フォーラムに関しては昨日の委員の先生(渡辺邦夫先生、石井先生、前芝先生、山木先生)に参加していただき、会議を進めていきたいと思っております。できれば松浦委員長にも参加願えればと思います。神野先生は別のフォーラムのコーディネーターなので参加いただけず残念です。

以下概要の文案です。問題をご指摘いただければと思います。三澤先生に送付するのは4月25日が締め切りなので、4月24日までにお願いできればと思います。

本フォーラムは、教科内容学検討委員会の会議をその当日に設定し、それをそのまま公開するという形態をとります。そして会議後フロアからの質疑応答というかたちをとる予定です。
まず、昨年3月より主にブログ上および会議形態で継続して議論してきた本委員会の内容を簡潔に紹介し、フォーラムの場でその後の議論を継続して行っていきます。現在(2010年4月時)はまだブレインストーミング段階ではありますが、教科内容学の構築に向けて教科専門そして教科教育の教員が何をなすべきか、どう連携すべきか、その基軸が徐々に見えてきた感があります。本委員会では報告書を単に議事録的なものにとどめず、大学生や教員そして広く一般の人たちにも使えるものにしたいと考えております。つまり議論を議論のまま終わらすことなく、教科内容学テキスト化を想定して、具体的な章立てや項目を考え、それに従って今後教育系大学で美術を教える多くの先生方、特に教科専門の先生方に参画していただこうと企図しています。
今年度は、内容学構築の主軸をまず共通認識し、そのうえで今後の会議で具体的な内容案を議論し明文化していく予定でおります。おそらくフォーラム当日までには大きな骨子と項目立てが見えてきているものと思います。

「大学教員は自分が大学で養成した学生たちが現場の教師としてどのように大学での学びを活かしているか、その検証をこれまでしてきたのか、あるいはそうした構えで大学の授業を自己チェックしているのか」という問題提起が、これまでの議論で本委員会の共通認識としてあります。そうした問題提起のなかから、教材開発力や優れたカリキュラム開発を批評できる能力を育てるための内容学の基軸を,子どもたちの視点から見直すべきであるという考えに現在至っております。特に制作や美術理論に軸をおきそれに深い認識と理解をもっている教科専門の教員は、「教材内容研究」に積極的に参加すべきであり、自身の立ち位置からそれに積極的に関わっていくべきだと考えます。しかし、おそらく特に実技系教科専門の教員にとっては、こうした考え方には様々なご意見があろうかと思います。そうした先生方は是非フォーラムのご参加いただき、積極的にご意見をいただければと思います。
ドローイング、プロセス、エディティング、反省、授業批評等が、これから内容学を具体化するためのキーワードとして浮上してきています。また視覚等の認識論、美術の知的理解、文化理解等々、そもそも論の明文化もまた同時にそこに加わります。今はまだ混沌とした中で議論が進んでおりますが、是非とも9月のフォーラムまでには具体的な内容が提示でき、当日の会議でそれがまた展開し、フロアの方々のご意見をそこに反映させてより内容の濃いものを目指して行きたいと思っておりますので、多くの方々のご参加を期待しております。

参加予定者:渡辺邦夫(横浜国立大学)・石井壽郎(東京学芸大学)・山木朝彦(鳴門教育大学)・前芝武史(兵庫教育大学)他
| 小澤基弘 | 2010/04/04 11:25 AM |

横浜国大 渡辺先生

実に臨場感のある議事録をアップしていただき、ありがとうございました。ここでの議論は、今後の本委員会の議論の方向性を決定づける実に記念的な意味があると思います。この議論をベースにしつつ、テキスト化実現に向けて具体的な議論を今後展開できると確信しております。会議に参加されなかった委員の先生方も、どうかこの議事録を読んでいただき、今後の委員会の議論に対して積極的にご発言いただければと思います。

テキスト化に向けては委員の有志が集まってたたき台を作成する予定ですので、また逐次その経過をこのブログにて報告させていただきます。今後の執筆について、なにとぞご協力いただければ幸いです。

取り急ぎ渡辺先生にお礼まで。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/03/26 12:14 AM |

第3回委員会議事録(その7)

更にドローイング以降の章立てについて様々な論議があった。
◯こういう教科書を作るとか、報告書を纏めるという行為には責任の所在が必要となって来る。だから集まったメンバーでやって行くしかない。しかし、我々の中に合意を得られる部分と合意を得られていない部分がある。[矛盾するようだが、]皆が関わって納得が出来るというスタイルに落ち着くよりも、このように学んだら、次の時代をと担う表現者として資質・能力を持てるという提案型・提言型の方がいいのではないか。(山木)
◯導入はいいが…何処に落とし込むのかが問題になって来る。(石井)
◯落とし込み…そこですよ。そう云うものが無い。落とし込んで無い。(小澤)
◯寧ろ作品、完成形は、私の価値観から言うとある意味、抜け殻でしか無い。そういう言い方も出来るのではないか。(石井)
◯作品のプロセスを記録したり言葉で分析したり…夫々の先生が提言して行けばいい、色んな方法論が有っていい。それはそのまま授業批評に繋がる。(小澤)
◯「造形遊び」を従来の成果主義見ると…唯のゴミとなる。更にその価値を解らない絵画も彫刻も実は従来の成果主義しか頭の範疇にない他人から見たら不要で価値のないゴミとなる…だから、教師はもっとプロセスを見られる(評価できる教育できる)ようにならないと。(石井)
ポートフォリオ理論やプロセス評価等の優れた新しい教育理論を一部に取り入れ先取りする形、教育的な新機軸を抑えた『新しい大学美術の教科書』のイメージに委員各位から賛同の声があった。

最後に松浦委員長から教科内容学『大学に於ける美術教育の教科書』作成について出席委員の賛同戴けた、具体的な中身の構成については…今後、更に検討して行くと確認があった。

又、委員に関しては基本的には次年度も継続。今年度は年3回の全体会議開催だったが…次年度は年6回の全体会議開催で行きたいとの方針説明があった。

文責/渡辺邦夫

以上です。

尚、本議事録は録音された各委員の発言を元に委員各員への伝達目的を基本として再現しております。

議事録を書く作業は大変なことでありましたが…何度も御発言の意味を理解することが出来ましたので…最後には感謝の念が沸き上がって参りました。本委員会が増々意義深いものとなるよう願っております。

既にML上に返信を戴いた委員皆様の感想等は…実は本ブログには反映されておりませんので…今、一度、本論議を振り返り忌憚の無い御発言をお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 12:05 PM |

第3回委員会議事録(その6)

◯今、大学が卒業制作展や修論発表会に代表される様に完全に[結果の]評価主義になっている。つまり成果主義だが、現代に於いて注目されている過程主義=プロセスを我々が内容学の新機軸となる観点であるとして、その教科書に入れてはどうか。そうすれば、新たにプロセスを我々が導入し、改革を導いたということになる。小中学校では既にポートフォリオ作成や過程主義の授業や評価が行われつつある。しかし大学教育や美術教育では遅ればせながらということもある。(山木)
◯日本の中の芸術大学でも少ない。現代美術系では作品が出来たら終わりで…その間のドキュメンテーションはどうなのか…偏っている筈だ。これはだから、芸術大学に対してこちら=教員養成系のスタンスを示すことになる。(石井)
◯経過を見せて行く大学の美術の教育が無かったのは、成果主義の中で途中過程を編集するという概念が無かったからではないのか。その意味で編集という概念も1つの新機軸として出してもいいのではないか。その編集の概念は様々なジャンルの理解にも繋がると思う。たとえばアニメーションとか映画とか。編集の概念が無く創造だけで突っ走って来た処に、大学の教員養成の美術教育の中身と現代・同時代の美術との乖離があったのではないか。(山木)
◯編集の概念というのは反省の方法論(と捉えてもいい)か。(小澤)
◯そうですね。それとコミュニケーションの見え方=フィードバック・システム=観た側の相手にどう受け取られるか…という観点ですか。(山木)
◯なるほど。他者理解だ。(石井)
◯正にプレゼンテーションでもある。(小澤)

◯例えは…
1.ドローイング
2.プロセス
3.エディティング(編集)
4.フィードバック(批評力育成)という様な章立案は有り得ないか。
この章立てで行くとすれば、ひょっとすると従来内容学が見落としていたものを取り上げたもので、[惰性的な考え方に対する]アンチ的な変革の強さを持っているかも知れない。(山木)
◯私はドローイングを揚げたが…他の2〜5のプロセスとかエディティングとかは1のドローイングにはそぐわない感じがする。並行的に並べられる概念とは思えない。(永守)
暫く各委員によるこの章立て案について意見が交わされる。

◯永守先生のお考え…ドローイングと他の章が整合していないという御意見ついて、もう少し詳しく伺いたい。(小澤)
◯ ドローイングはアートのエッセンシャルな方法として挙げたのですが、プロセスとかエディティングとかは余りに汎用的な概念で、アートのエッセンシャルな方法ではないように思えます。エッセンシャルでファンダメンタルな美術の始まりにある方法論としてのドローイングを捉えると、他に例えば「イメージ」とか「平面性」とか「機能」とか、それぞれの美術の分野が持っている美術のエッセンシャルな方法が挙げられるように思います。でなければ、科内容としての論議に反映できないように思えます。ドローイングに繋がるのに相応しい項目なり章立ては、慎重に吟味しなければならないんじゃないか。(永守)
◯ドローイングが有って…在る種、結晶化という様なことですか。(小澤)
◯ 一番、最初の方法、人間の思考や或る形が生成される方法。そこから様々なものが始まる…。大学において美術の最初に行われる授業を想定している。(永守)
◯整理したいので永守先生に伺いたい。先程からのプロセスの重視と評価、編集能力、批評力は、現代デザインや今迄の見落しも含めて今日的美術のエッセンシャルなものたり得ると考えていたのですが。(山木)
◯ 私見では絵画教育のエッセンシャルな部分は、例えばポロックとかロスコの絵画に在ると感じているのですが、例えば彼らの絵画をプロセスやエディットの概念で捉えるには無理があります。在る種の現代美術とかには当てはまるものも有るが…教科内容学として学会全体のコンセンサスが得られるのかとい点で、少々疑問かな、と。(永守)(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 11:54 AM |

第3回委員会議事録(その5)

◯この3つを通じて考えられるのは、自己をどのように社会に対し浸透させ自己の表現をいかに社会に還元し、また、社会に埋め込まれている複雑な表現を逆に自己の生き方に反映させることができるかということになる。これは人間として、教育として、相互浸透的に実現可能なこと。単に美術という文化だけを極めようとするスタイルとはちがう。現代が求めている教育論に繋がる考え方だ。つまり、現代のPISAを支えるキー・コンピテンシーの概念は包括的な教育価値形成に繋がるから、是非、今回の教科書に意識的に活用してはどうか。(山木)

(提示資料2)フィンランドの教員養成課程では教師の卵は「探求者」および「支援者」として育てられる
◯「探求者」とは、文化や教材について自ら積極的に情報化社会の中で探求する人のことであり、大学の授業に置き換えて言えば、大学教員に与えられた教材で学ぶという受身型の学習では無く、教材を自ら作り出すとか、改良するとか、教材の背景にある文化的理論を自ら学ぶといった高度に知的な資質・ 能力が、フィンランドの6年間の教師教育では、求められている。(山木)

(提示資料3)教材研究/教材内容研究と授業方法研究の関係性について
◯教材研究といえば、授業の中での導入/展開/纏めの授業の流し方の方法論のことだと考え、そこに終始してしまっている教師も多いのではないか。結果として、方法論ばかりが突出してしまい、生徒には制作をさせるが、自分では制作ができない。鑑賞でも自分では絵の感想が言えない等の問題を抱えている。つまり、自分自身は同じ学びを体験しないで、させようとする。これは絶対にいけない。その意味で、教材内容研究は非常に重要だと思う。だからこそ、本来の教材研究ということを追究するならば、既に教科教育の教員がしなくてはならない指導の内容は限界に来ている。教材内容研究にもっと積極的に教科専門の先生方にも参画して戴きたい。教材の背景的な部分、例えば、何故、この制作をするのか、何故、これを鑑賞するのかについて、価値判断や深い認識が必要。それが無いまま授業をしている教育実習生や新人の教諭も多いのではないか。(山木)

この後、論議は再び教科内容学構築の為の方向性に戻り…闊達な論議が続いた。
◯だからこそ「大学に於ける美術教育の教科書』編纂の意義や必要性は大きくなって来るのではないか。(松浦)
◯フォーラム後、その話が出たが…編集者側は非常に乗り気だった。やはり中身をしっかり考えていかないと。(小澤)
◯その企画に理論のパーツはあるんですか。例えば典型的なカリキュラムとか、今回の図とか、内容学の歴史的経緯とか、そういう理論編はあるのか。(山木)
◯もっと平易な大学生が使えるものを考えている。教材開発の観点も我々の実技教科専門の視点からの内容をきちっと入れて。(小澤)
◯それが出来たら凄いですね。つまり、内容学の色々なジャンルが総合して何処の大学でも使えるとなれば、それらの授業者数は非常に大きい。(山木)
◯だからこそ内容が重要になって来るし、正しいことをきちっと伝えて行かなければならない。(小澤)
◯私はドローイングから入ればいいと思う。「ドローイングから始まる」というのは、それが一番基本であるからです。例えば、原初的な線の魅力を見せるドローイングとか、デザインなら初期段階のアイデアスケッチだとか、或は(彫刻の為の)クロッキーとか、基本的なものがドローイングの中に幾つか発見できます。しかもフォルマリズム的な美術史の中でも、ある種の最終的なかたち、ある種の根源的なかたちを見せていますこれは、近代美術教育での児童画と教育との出会いを更に深めた、幼児美術と教育との出会いとも言えるわけです。そのような事柄を背景に、例えば5点くらい掲げて、手で描くことは美術全領域に関わると。このあたりから書き出したらどうでしょう。(永守)
◯素晴らしいですね。正に今…ドローイングに関する本を書き終えたばかりで…ドローイングはいいですね。何かを描きとめることは絵画でも他の領域であっても全部に繋がる基本的な問題だと思う…最近はノートがブームとなっているのを踏まえても非常にタイムリーな発想だと思います。(小澤)
◯それは教育学の方で言えばエスノグラフィーで…本人が外向けに描くものでは無く、自分向けに描いてもの…の方が評価も読み取れる。単純に言えば…日本の中の大学の美術系の評価は卒業制作の展覧会のみで…経過は何も見ない。(石井)
◯反省性というものが正にそうだと思うんですよ。(小澤)
◯成果主義は美術に嵌ってしまう。だから、造形遊びの評価の仕方が解らないというのは当然となる訳だし、現場の教諭は困る筈なんですよ。(石井)(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 11:53 AM |

第3回委員会議事録(その4)

◯例えば絵を描いて展覧会をやって…絵が好きな人とコミュニケーションするのは凄く簡単だが…全然、絵が好きでない人だと困る。子どものことを考える意味で絵画という共通言語を待たない他者の側を考える必要がある。子どもは異文化人であって…我々が持っている知識経験を解るように説明し教えてあげなければならないということであって…子どもも他者も同じことだ。(石井)
◯今回、示された図は…実はこうなっており(デザイン/工芸map(案)の上にアートのツリー図(案)を垂直に立てて見せながら)…縦と横で再構成が出来ると思います。これから、どう進めればいいのかと云うと悩みますね。(内藤)
◯例えば、石井先生が工芸というジャンルを背負っているんじゃなくて、一人の表現者として教えればいいという趣旨のことを言われたが、夫々がご自分の探求してきたことに照らして構想したことを教育されればよいのではないか。近年、注目されているOECD加盟国が行うPISA調査等は、我々がもっと意識して活用すべきではないか。(山木)

松浦委員長から自己紹介を兼ねて神野委員に発言が求められた。
◯千葉大学の神野です。美学・文化社会学が専門です。一般に美術理論・美術史の先生方はあまり教科内容学には関心が無いのではないかなと感じている。この分野も含めて美術教育で問題とすべきなのは…文化としての美術を伝えるということと、感性的な思考力認識力を開発するという点が、一緒くたにされている点で…それぞれの共通認識をもてる部分を教科内容とすべきではないか。本会議の議論は非常に古典的な正統的な話題で…個々の優れた個性的教員が芸術創造を通して到達した境地を学生に伝えるというのは確かに理想的だが…はたして大学教員が全てそうした存在と言えるのか、そうした境地に簡単に到達することが難しい、又、そうしたものを学生達に求めることが大学教育の中で本当に可能なのか…ということが問題とされるべきだ。例えば鑑賞教育も混乱は有って、取り上げる作品が果たしていい作品なのかといった疑問もある。この会議の論議レベルを、学生達は実は理解できないのではないかという思いがある。かつて美術は建築やデザインに大きな影響を与える存在であったが、現代ではデザイナーや建築家の方が…大きく社会を変容させる力を持っているように見えるし思われている。最近では、ネット上で何の美術教育も受けていない素人でもいきなり凄い作品を作り投稿する者が現れる状況だ。そうした時代状況下では「作る」という意味も変わりつつあるのではないか。伝統的なものづくりにばかり拘泥していては美術の社会的な価値や必要性は増々危うくなるのではと思う。(神野)
◯全くその通りだ。PCやソフトの急速な進化によって…先程からの熱い基礎からの実技教育的な修練とは大きく変容しつつあると認識せねばならないのは確かだ。(渡辺)
◯時代の変化で制作感が変わって来たとしても…制作中の瞬間的な飛躍や充実感=喜びの感覚こそが大切であって、制作を通して学び手が変化し成長することの本質は変わっていない…そこが無ければ作品を作る意味が無い。(小澤)
◯文化としての美術の中に手間を掛ける…例えば、何時間、石に向かって制作をしていたかが評価されるべき価値だ…の様な誤解がある。寧ろ石から離れて始めて見えるし解るという瞬間さえあるのではないか。多様性としてのアプローチする方法や学びの本質的理解を教員が見せられる能力も必要だろう。(神野)
◯そこをそれぞれの指導者は自分の中に落とし込んでいても…人に示して行けない。教育の中でそこを敢えて強く言っていない。きっちと明文化されていないように感じる。そこやると…全部に繋がる人間学になる。先程の…Self-respectの感覚『自分自身に対して尊敬できる感覚』がそこに抱ける…に繋がる。それが制作者には勿論必要だが、教育にも必要になって来ると思う。(小澤)

ここで山木委員から、別件で用意していた資料の中から教科内容学にかかわる参考資料スライドのプロジェクター提示が行なわれた。
◯PISAが求める能力論は、単に、数理処理や読解力といった単純なものでは無くて、簡単に整理すると次のようなキー・コンピテンシーが掲げられている。
(提示資料1)
1. 3つの枠組み
1-1. 多様な集団に於ける人間関係形成能力
1-2. 核心: Self-respect 思慮深さ(反省性)
1-3. 相互作用的に道具を用いる
2. 言語/シンボル/テキストを相互作用的に活用する能力
3. 特定の状況下で(技能・態度を含む)心理的・社会的な資材を引き出し動員することにより、複雑なニーズに応じる能力を含む(山木)(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 11:48 AM |

第3回委員会議事録(その3)

◯フォーラムの話しとしては…絵画であれば、絵画制作学と絵画学(客観的知)の2つが両軸両輪として回って始めて学問として成立している。それは、他の領域、彫刻/工芸/デザインでも必ず繋がっていて共通している筈だ。(小澤)
◯大学で高い次元の教育を受けた現場教員が中学校や高校のレベルの美術であれば、確かに地域の中で指導者として活躍することも有り得る。実は私もその実感を持っている。しかし、小学校で考えた時、大学で従来行なわれていた教育が優れた指導者を輩出してきたという認識は…実は危うく、私たちも担保できない認識なのではないか。過去の成果を否定するつもりは全くないが、内容学の立場から教材開発力や優れたカリキュラム開発を批評するような能力を育てて行く内容学の新たな基軸を作れないか。(山木)
◯教員養成大学・学部で学生に獲得させるべき最重要の能力は、第一に教材開発力、第二にカリキュラム批判力であろうと思っています。大学における教科専門の先生方の授業は、題材(教えるべき美術の価値)を「教材化する」ことのプロトモデルとして教育的に機能しているのではないでしょうか。「教材化」するということが、クリアーに学生に伝えられれば良いわけです。とは言え、学生はもちろん大人であるのですが、美術の世界を教育へと志向させていく時、その美術と教育との出会いのビジョンの中に「子ども」が視野に入っているか否かと云う点は、教科内容学としては、問われるのでしょう。(永守)
◯今、子どもや幼児の世界観の話があったが…その辺りは小学校の「造形遊び」とはどう関連があるか。(松浦)
◯ティピカルな題材や教材に関する提示が大切になるのではないか。典型的なものでもいいから具体的な教材の提示が必須になって来るのではないか。(山木)
◯小澤先生の示したツリー状mapは文科省あたりが教科教育を示す図に非常に近いものを感じる。例えば彫塑関連で云うと小学校低学年では粘土を使い「4つ脚の動物」、中高学年になると自立させるのが困難な「2本足で立つ人物」、中学校になると「心材を使った人間像」と…段階的に高度になるように構造化されたカリキュラムがあったが…近年、新開発された新素材、例えば軽くて強い紙粘土の登場によって大きく様変わりしている。そのような変化の中で…教科専門の教科教育化、教科専門と教科教育の連携モデル、教科教育の教科専門化…が考えられる。それは…子どもの論理を優先して考えて行くのか、造形世界を優先して考えて行くかなのだが…実は双方共に大切になって来るのではないか。(福本)
◯小学校教育では特に単なる図工のみならず、他の教科における学びが、それぞれの教科と連動して子どもたちが発達し成長するというカリキュラムや教育方法が大切だとみなされている。そのような観点からも、図画工作や美術はその教科内容を子どもたちの視点から(総合的な発達の観点から)見直すべき時期に入っているのではないか。(山木)
◯我々は少なくとも上から目線でいるつもりは無いが…子どもの論理と云うものに一体、どうやって立つのか?立てるのか?或は確証的に子どもの論理に立って考えているという実感が持てるのか?そこが解らないし知りたい。(小澤)
◯その質問は…教科教育の論理とは何か?になるのだが…教科教育は現場教師の教育、授業観察、子どもたちへの接近、関わりの経験値が必要になる。(福本)
◯表現者が教育者になる時…子どもたちはお客さんなんです。子どもたちにとっては…教科専門も教科養育も関係はない。子どもにとってはダ・ヴィンチだって全然、関係ない。そんな人のことは全く関係ない。子どもを教える時…石井壽郎は何が専門とかではなくて単なる石井壽郎でしかない。人間にとって自分以外は他者だし自分以外は世界でしかない。我々、委員になった者は皆夫々の専門家でしかない。だから、我々で教科内容学を作るしかない。子どもが成長することは社会化することで美術という教科こそが自己を確立して行く為に最も必要な教科だと思うし、美術は教育界の牽引者と成り得る。例えば画家が絵を描く…それは一体、何かというと…社会が要求してない必要じゃないのに絵を描いてる…それが絵描きなんです。さっき実技力の有る人は良い教師たりえるとか云う話があったが…だからこそしっかり制作し、御自身と向き合っている人間は良い教授をする可能性があるので…本気でしっかり翻訳する気になって頂きたい。(石井)
◯積極的に教育現場に出て行って子どもへの美術教育の経験値を積んで…教材の批判とか批評を構造的に出来るようになる能力を高めて行くことが実技教員の我々に求められていると云うことになるのですかね。(小澤)(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 11:45 AM |

第3回委員会議事録(その2)

以下、発言順に時間系を追って論議の推移を要約する。

◯今、説明のあった基礎基本map(案)への質疑や補足説明等があればお願いしたい。そして、出来れば教科教育と教科専門の接点を大切にしながら論議を進行して貰いたい。(松浦)
◯実は私には疑問がある。この会議の意義について私自身がよく理解できていない。この委員会=会議の意味について明らかに説明して貰いたい。(小澤)
◯私が一番興味を持ったのは、石井先生がご提示の自己を中心として、社会へと発展する図だ。それは、ローウェンフェルド『美術における人間形成』に掲載されている図に通じるものがある。各ジャンルのティシプリンを持ちつつ美術全体を見通す美術教材のmapも作れるのではないか。しかし、歴史的経緯の中で、教科書や指導要領の変遷が生み出し、成果として蓄積したなかなか変えようの無い基礎もある。今回、示された3つの図を見た印象では、全体的に大学で学ぶべき基礎基本と想定されているレベルがあまりにも高度過ぎる。小中学校の教育現場で実際の教諭が行う授業や教材レベルとあまりにも乖離し、飛躍し過ぎているのではないかという危惧を感じた。(山木)
◯この図を高度なことと捉えられては困る。このツリーはあくまで項目を列記した図に過ぎない。この項目には未だ描ききれない様々な内容が含まれている。それぞれの実技分野の本質を知ることは→表現すること→試行錯誤すること→成育・飛躍こそが学びや教育にとって大切なのではないのか。(小澤)
◯大学で学んだ学生(学習者)達は、教師として教育実践を行なう際に、はたして大学で学んだことを十分に活かしているといえるのだろうか。これまで、大学教員は自分が教員養成大学で養成した学生達が現場の教師として、どのように大学での学びを現場で活かしているのか、検証を怠らなかったのだろうか?そのような構えで、大学の授業を自己チェックしてきたのだろうか。(山木)
◯実技教員がより高度なレベルの教育を目指したい気持ちは…よく解る。それによって…より高い次元の美術教育を現場教師が出来るようにと願って来たのだから。だが一方、例えば教育実習にしても研究授業にしても、又、育てた教員が教育の現場でどのように悩み、或は、成長して来たのかについて、我々実技教員は教科教育の先生方に任せっきりだったのではないか。実技教員は、まるで鳥が雛を育てるように大学で実技は教えても…自分で餌を取れるようになったら放ったらかしにして来た反省に立つべきではないか。これは愛知大会で発言…我々は直接社会を教育しておらず育てた教員によって間接的に社会を教育していると自覚せねばならない…に繋がるのではないか。ここで教科専門と教科教育の接点を失ってはいけない。まるで(相撲の)行司みたいだが…教科内容学というこの共通の議論の場で…折角、論議している意味を我々は新たに考え直してはどうか。(渡辺)
◯ 近年、教員養成系の定員削減で、いくつかの大学では教科専門と教科教育の兼任が増えているようです。教員の少ない私学の場合などでは、以前よりそうだったのですが、教科専門vs教科専門の図式は、あまり意味が無くなりつつあります。互いの領域の連携や相互浸透は、これからの必然的な流れに思えます。経験的にも、教科専門の能力に長ける教員は、教材開発能力にも長けているし、又、教え方、話し方、授業の組立て方も上手い方が多いようです。実技系などの教科専門と教科教育の関係はとても密接ですし、将来は「二足のわらじ」が当たり前になるかも知れません。そういう意味でも教科内容学の論議を深めていきたい。(永守)

◯先に提示説明した図は一般論化した図であって…此処に別資料があるので皆様にお示ししたい。(小澤)
『美術教科内容学の構築の方向性(案)』
1.「創造性」という観点→各分野の制作学→全分野に共通する内容学の明確化へ
2.各分野の夫々の「◯◯学」的観点
3.各大学での教育実践例の紹介
4.学校教育への可能性 の4つの側面からのアプローチ案が示され解説があった。

◯個と制作、或は、美術全体デザインのように人間/社会/自然等、 とても広大なジャンルを捉えなければならない領域もある。絵画/彫刻/工芸/デザインそれぞれの領域の持つ特性や存在価値を明らかにし…且つ4つの実技教科専門領域の関係を明らかにし…(教科教育を含めた)美術教育の全体性について、一番、今から話し合って行かなくてはならない課題なのではないか。(永守)(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 11:42 AM |

皆様

お待たせしました。横浜国立大学の渡辺です。
3/14(土)開催の第3回委員会議事録が出来ましたので…upします。
非常に意義深く且つ要約しても長い内容ですので…何回で書き込めるか解りません。
回数毎に(  )で通順を頭に付記します。是非、ご通読をお願いいたします。

日本教育大学協会全国美術部門・教科内容学検討委員会

第3回委員会議事録
日時:平成22年 3月14日(土)13時半〜16時半(3時間)
会場:東京学芸大学美術棟2階・美術教育演習室(芸・スポ学系研 究棟4号館)

議題:各分野/基礎基本map(案)及び教科内容学検討の今後の方向性について

1. 出席者:松浦昇(委員長・デザイン部会・金沢大学)、小澤基弘 (絵画部会・埼玉大学)、石井壽郎(工芸部会・東京学芸大学)、 古瀬政弘(工芸部会・東京学芸大学)、山木朝彦(教科教育部会・ 鳴門教育大学)、永守基樹(教科教育部会・和歌山大学)、福本謹一(教科教育部会・兵庫教育大学)、神野真吾(美術史美術理論部会・千葉大学)、前田英伸(デザイン部会・北海道教育大学)、内藤隆(デザイン部会・鳴門教育大学)、渡辺邦夫(デザイン部会・横浜国立大学)

2. 議論に先立ち松浦委員長から、池川 直(彫刻部会・鹿児島大学)の本委員会委員辞退のお話があった。欠席の彫刻部会を除く実技教科専門各部会の基礎基本map(案)の提示および説明の指示があった。


◯絵画部会/小澤部会代表から資料に基づき説明があった。
図は…アートを頂点、或は始点とし次第に分岐し枝分かれして行くツリー状の系統図でアート〜受信者、発信者に先ず2分岐し、受信者は鑑賞者として受動的鑑賞者と能動的鑑賞者へ2分岐後、更に詳細に分岐している。一方、発信者は、つくるとは何か/何をつくるのか/何故つくるのか(目的)/どうようにつくるのか/どのように見せるのか5分岐〜詳細に分岐する『絵画の教科書』編纂時の基本概念図であり、所謂一般的な絵画領域のみならず彫刻/版画/写真/アニメーション/映画/インスタレーションにも分岐し、多様化する現代アートの概念形成と構造の実際を受信者/鑑賞側、発信者/制作・発表・方法論を網羅しており図の作成意図が解説された。


◯デザイン部会/渡辺部会代表から資料に基づき説明があった。
図は…観察力/表現力/思考力の3つの基礎概念を3つの楕円の重なりでデザイン(特に基礎デザイン)の位置や内容を示す。観察力 には…美的感性、イメージ、アナログ、描画/彩色画/イラストレーション、客観写生を主とするデッサン、彫塑/模刻がある。表現力には…透視図法、写真、デジタル、レンダリング、モデリング、CAD・CG、プレゼンテーションがある。思考力には…デザイン概論、コンセプト、サーベイ、ブレインストーミング、発想力がある。そして、観察力と思考力の重なりに『色』色彩理論/配色、思考力と表現力の重なりに『形』図法製図/作図、観察力と表現力の重なりに『造形』色彩構成/立体構成があり…それら3つがデザイン実技を中心に支える。図の外側には…人間/自然/社会の3つの座標軸、更に学問/美術=基礎となる純粋美術領域/技術の3つの座標軸があり、社会的背景となる関連各分野が付記されており図の作成意図が解説された。


◯工芸部会/石井部会代表から資料に基づき説明があった。
図は…自己を中心に、外側に過程、その外側に社会(世界)、その外側に時間(運動)がある同心円で工芸領域を表している。自己には…実感/想像力/創作根拠(必要性)/手から始まる表現/触覚/気づき(自発的な)/配慮/手の延長/意味の構築/勘所/見る(認知)が、過程には…素材/手がかり/身体性/仕事中の学び/創意工夫/改良性/修練/道具/思考錯誤/技法/アフォーダンス/状況論/行為/工程/道理/まねぶ(試行)が、社会(世界)には…無垢な創造性(自己の介在しない)/物体を基にした自己の対象化/仕事/自然/日常性/生活/機能/場/手がかり/素材/価値表象(意味)の語彙が入れられており図の作成意図が解説された。


3. 領域の提示した基礎基本map(案)説明の後、教科内容学委員会による一冊の本、例えば『大学に於ける美術教育の教科書(仮称)』という具体的な到達目標についての話があった。具体的目標があって始めて方向性や手段も明確になるとの指摘もあった。しかし、論議は其処へ至る為の教科内容学構築の基本理念が問われ…2時間以上に及ぶ極めて闊達な議論があった。(続く)
| 渡辺邦夫 | 2010/03/25 11:38 AM |

(続き)

テキストのための台割叩き案作成のための会合の日程を3月末あたりから4月の新学期始まる前あたりに一日設定したほうがいいと思います。

まず委員長の松浦先生のご都合のよい日をお知らせください。このブログ上でお教えいただき、その日程で参加できるメンバーの先生方に集まっていただいて、具体的な台割プランの草案をある程度かたちにできればと思います。

また、横浜国大渡辺先生におかれましては、今回まとめられ参加されたメンバーの先生方のチェックを経た議事録を、ぜひこのブログにアップしていただければと思います。欠席のメンバーの方々に対して、議論の経緯と着地点をお知らせしておくべきだと考えます。なにとぞよろしくお願いいたします。

こういう活動(テキスト化)は、勢いのあるうちにある程度の算段を立てておいたほうが、その後の作業進行の速度が違ってまいります。実際に会合で議論を進める前に、私のたたき台を、ぜひとも叩いていただき、加筆修正していただいて、より具体的で普遍的な内容構成を目指したいと思いますので、よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤 | 2010/03/16 12:16 AM |

皆様

 昨日はお疲れさまでした。3時間に及ぶ議論、あっという間の出来事で、実に熱のこもった有意義なものだったと思います。参加していて充実感がありました。
 横浜国大渡辺先生、議事録をありがとうございます。テープの声が小さかったとのこと、御苦労さまです。しかし、ざっと目を通しましたが、会議のあらましをきちんと記述されていて、その時の議論の様子がよくわかります。記録として貴重ですし、最終的な着地点の合意も明確に書かれていて、確認の意味でもとても有効だと思います。

 渡辺先生の最後にまとめられた記録の内容に基づいて、本日、議論の内容を忘れないうちに、私なりの視点で今後のテキスト化に向けての議論内容の道筋を考えてみました。これはそのままテキストの章立てとして考えています。是非とも今回会議に参加された皆様、そして欠席されたメンバーの先生方も含めて、十分に揉んでいただければと思います。これはあくまでも先日の議論を踏まえての章立て構成の叩き台ですので、さらに具体性を各先生方のお考えによってそこに加えていければと思っております。

「大学生のための美術の教科書」(章立て案)
作成 小澤基弘

序 

第一章 美術表現の原点:ドローイングを考える、ドローイングから考える。

第一節 創造の原点:「ドローイングとは?そこに創造の核心がある」
1)痕跡的側面(線や色彩を用いたスクリブル表現)
・自己の無意識領野の表出という観点から(シュルレアリスム的アートマティズム)
・そこから何かが生み出される気配感(「発生」の感覚)から
2)思考の手段としてのドローイング
   峇兒 廖Цること、見ている対象を知る手だてとして→他者・ 世界理解へ
◆崙眈福廖Ъ分自身を見つめるための手立てとして(自己理解)
「創出」:目的実現に向けての思索の手立てとして
3)自律した表現としてのドローイング→現代絵画表現の典型的あり方として

第二節 ドローイングをどのように活かすか
1)日々描くこと:
日記をつけるようにして毎日ドローイングを描く。自己の振り返りと自己認識の深化の
ために。自己の創造の核を探る。
2)たくさん描くこと:
「うまく描かなければ」というような間違った自己拘束を捨てて、思いつくままにたくさんドローイングを描くこと。その集積を自分に対して開示する(ファイリングや壁に貼る等)ことにより、自分の表現の核心が自ずと把握できる可能性がある。
3)自律した表現(作品)として描くこと:現代美術表現の一様態として

第三節 大学におけるドローイング実践と学校教育への活用可能性
1)大学における教育内容としての「ドローイング」の意味と可能性
2)大学におけるドローイング授業実践例の紹介:その方法・目的・成果
3)学校教育におけるドローイング実践の活用可能性:具体的実践事例から

第二章 創造のプロセスから美術表現を考える

第一節 試行錯誤と創造の飛躍・完成の判断
1)試行錯誤の意味(心的イメージと実際の表象との相違・隔たり、形成と破壊、創造的破壊等);大学における学生実践例から捉える。
2)創造の「飛躍」について(表現の質的変容)→自己発見・自己実現等;大学における学生実践例から捉える。
3)「完成」について
どのようにして完成を判断するのか;大学における学生実践例から捉える。

第二節 学校教育における図工・美術の指導へのプロセス論の活用について

第三章 「反省」の概念から美術を考える;自己理解から他者理解へ

第一節 「反省」の様々な方法
1)スケッチブックとその活用、リサーチワークブックとその活用
2)写真や映像による記録とその整理法:ポートフォリオ論
3)「反省」をどのように行うか;その方法論と意味→自己理解から他者理解へ
 critic(批評)
 art-wrinting
 presentation

第二節 学校教育での「反省」の方法論を踏まえた授業実践の可能性

第四章 学校教育へのフィードバック;授業批評を考える
ドローイング論・プロセス論・反省の方法論を踏まえた、小学校・中学校での授業実践例の批評(その意味と展開について):具体的授業実践例10ケースのケーススタディ

まとめ
| 小澤基弘 | 2010/03/16 12:04 AM |

委員会の皆様

 デザイン部会、工芸部会のマップ作成の勢いに圧倒されております。デザインは、そのまま内容学の立派なテキストになる勢いですね。横浜国大渡辺先生、北海道教育大前田先生、工芸の石井先生、古瀬先生他メンバーの皆様の熱意に敬意を表します。

 絵画については、『絵画の教科書』における内容構成がやはり思考の軸となります。絵画・彫刻・デザイン・工芸という実技系教科専門の内容学テキスト作成のためには、全体の筋書きを統一する必要があると思います。まずは教育内容の網羅的羅列があり、その後交通整理をして、必要最低限(つまりそれが基礎・基本となると思います)の構造ですきっと提示できれば良いのではと思います。
おそらく本委員会の議論の着地点はテキスト作成ということになると思いますので、それを想定して具体的な作業(内容構成と執筆者の想定も含めて)を進めていけば、とても生産的で有意義な今後の議論展開が望めると思います。3月14日の会議ではそのコンセンサスが得られるとよいですね。

絵画については(彫刻にもかかわることですが)、全体の内容構造ツリーを考えています。それは『絵画の教科書』編集の際に考えたツリーを基にして、そこに彫刻分野も含めて現在考えているところです。そうした構造ツリーがしっかりとしていれば、諸々の内容が位置づけられます。14日の会議にはそれを作成してまいります。

では当日よろしくお願いいたします。
| 小澤基弘 | 2010/03/11 7:23 PM |

埼玉大学 小澤基弘 先生 及び皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
当方やっと入試と単位認定等が終わり…
本学は今日これから(土曜日なのに…)大学院修士論文最終発表会です。

先生のデザイン部会纏めへの暖かい御言葉を読み…励まされております。
又、フォーラムの発表を読み…把握することができ先生の御尽力に敬意を表します。石井先生も含め本当に御苦労様でした。

将来的に本ブログ論議を元に一冊の本に纏めるという構想は…橋本理事長は前回の全体会議の折に既に提言されておりました。『大学生のための美術の教科書』(仮題)のような大学テキスト編纂は…正に我々の必須の目標であり責務とも捉えることが出来ましょう。その為には『絵画の教科書』『絵画の制作学』を編纂された小澤先生の御力こそ…本当に肝心要、必要であります。

今後共、何卒、よろしくお願いいたします。
用件のみ…短文にて失礼します。
| 渡辺邦夫 | 2010/03/06 2:49 PM |

横浜国立大学 渡辺 先生および皆様へ

 デザイン部会でのお纏め、そのままデザイン教育内容学になるくらいの密度だと思います。工芸も含めて、デザイン・工芸はすぐに内容学構築はできますね。心強い限りです。
 昨日のフォーラムの件について、ご報告いたします。私と石井先生は前半に出場しました。私については、このブログでも予告した通りの内容を、お話いたしました。またこれまでのシラバス分析の結果もざっくりと話しました。石井先生のご発言については、「子供に接すること」をしないでは全ては始まらないという、私自身にも耳の痛い率直なお話をされ、会場の賛同の空気感を得ていたように思います。ただ、質疑の時間があまりなく、フロアとの議論が十分に取れなかったことが残念でした。
 アートプロジェクトの発表については、ここでは割愛させていただきます。それぞれの発表者の先生方の実践には、とても興味をひかれました。
 最後の橋本先生と松浦先生を囲んでの飲み方で、むしろ今後の内容学検討委員会の方向性が見えてきたような気がします。具体的な着地点を、一冊の本にまとめるという提案です。このまま議論を進めるだけではなく、落とし所をあらかじめ決めて議論を展開していくこと、それがたとえば『大学生のための美術の教科書』(仮題)のような大学テキストとなれば、より具体的な議論展開が得られるのではないかという、非常に未来に対して希望の持てる提案です。そうしたテキストの制作を想定すれば、その章立てや項目設定がそのまま内容学の構造の構築とつながりますし、そこでの議論がそのまま文章化されることは、難しいことではありません。そのような射程を持ちながら本検討委員会を進めていくことは、実に生産的だとの皆さんの意見の一致がありました。このことはあらかじめ渡辺先生にもお伝えしておきたいと思います。またこのブログを読まれているメンバーの諸先生方の念頭にも入れておいていただければと思います。実際にどこの出版社がこの企画を受け入れてくれるか、まだ不明ですが、できる限り実現を目指して考えていく価値があると思います。
 以上、手短ですがご報告まで。

小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/03/01 9:09 PM |

フォーラムについて
 石井先生 個人メールアドレスを教えていただけますか。学大で調べたのですが、載っていなかったので、よろしくお願いします。
 教科内容学と教科教育の連携の課題については、もちろんご自由に考えていただいていいのですが、どうしてもということであれば、教職大学院が多くの大学に設置されるに伴い、教育実践やリフレクション科目、初等の教科指導法の充実が謳われてより教育実践に特化した動きがでてきています。それによって、教科内容科目の位置づけの相対的な低下が予想されるので、こうした状況を踏まえてどのように考えていくのか、本質論を重視するのか、より教育実践を見据えた形に変容させていくのかなど、課題は多いと思います。このような点で考えていただければいいかと考えています。
 直前まで入試やら連合大学院の行事等で十分打ち合わせができませんが、よろしくお願いいたします。また翌日より海外出張のため、会議が終わり次第帰りますので、フォローアップもままなりません。ともかく、第3回のワーキングにつながるよう議論できればと思っております。
| 福本謹一 | 2010/02/22 1:44 PM |

学大・石井です。

 大変助かりました、小澤先生、福本先生、有り難うございます。前とその内容が見えて動きやすいです。先ほどやっとの思いで大学後期の判定を提出したとはいえ、まだまだ学年末の仕事が山積み。この雑多な中でやっと纏めた原稿でしたが、フォーラム当日がかえって不安になっていたところです。デザイン・工芸併せて10分、このままでは無理ですね。今後予定していたのは、工芸部会の反応を見て、フォーラム直前に国大・渡辺先生と打ち合せをする予定ですので、この枠で纏めてまいります。

 さらに福本先生にうかがっておきたいのですが、「(2) 教科内容学と教科教育の連携の課題(石井)10分」ですが、どのような観点でお考えでしょうか?これもだいぶ広い範囲の話になり、何か取っ掛かりやヒント、イメージをいただければそれに沿って纏めて参りたいと思います。宜しくお知らせください。
 
 それにしても16日一日でこの段取り心強いかぎりでした。
一先ずです。
| 石井壽郎 | 2010/02/17 12:48 AM |

福本謹一先生および皆さま

 さっそくフォーラムの構想案をいただき、ありがとうございました。これで大方のイメージが湧きました。提示された時間配分に見合うような内容を考えて発言させていただきます。

 絵画に関しての発言については、これまでの議論を踏まえつつ、10分という時間の中で話せる内容にまとめて発言する予定でいます。

 彫刻については、これまでの議論の経緯、そして議論の現在を私自身が正確に掴んでおりませんので、無責任な発言は控えたいと思います。絵画と彫刻、いわば、従来のファインアートという文脈の中で、彫刻を位置付けつつ、総じて要約する予定です。前芝先生のご発言も参考にさせていただきます、が、具体的には3月の委員会において、内容の詰めをご提起していただければと思います。
いずれにしましても、彫刻からの発言が始まったことは喜ばしいことと思います。

 福本先生へ:フォーラムに際しては、シラバス分析について(まだまだ分析というには遠く及びませんが)の発言の際に、分析結果の資料をプロジェクションしたいと思っておりますので、プロジェクターのご用意をお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘

| 小澤基弘 | 2010/02/16 10:38 PM |

 ブログの使い方がよくわからずコメントが遅くなりましたことをお詫びいたします。28日のフォーラムで先のコメントで記述したような案で考えてみました。少し時間を圧縮する必要があるかもしれませんが、ご意見をお伺いできれば幸いです。
小澤先生、以前お送りいただいた冊子ありがとうございました。御礼が遅くなり誠に申し訳ありませんでした。
 小澤先生、石井先生、必要に応じて資料提供していただけると幸いです。当日の機器使用についてもお知らせください。
| 福本謹一 | 2010/02/16 3:03 PM |

2月28日フォーラムの進行と内容について
 以下にフォーラムのプロット(案)について示しておきますので、ご検討ください。

フォーラム挨拶及び内容の概略説明(福本)5分程度
  教科内容学構築の緊急性と課題
表現の論理と教育の論理の親和性の確立
 教員養成における資質や能力設定
 教員養成カリキュラムの全体構想など
   課題設定:教科内容の立場からの教員養成への取り組み
        教員養成におけるコンピテンシーを見据えた教員養成のあり方
       
各分野(領域)における討議の方向性
(1) 絵画・彫刻(小澤)10分程度
(2) デザイン・工芸(石井)10分程度

教科内容学からの学校教育現場へのアプローチ
教科内容関連授業におけるアプローチ
(1) 教員養成系大学における実技科目のシラバスに基づく分析と私見(小澤)10分
(2) 教科内容学と教科教育の連携の課題(石井)10分

教員養成における教員の資質能力の担保
美術教育における学力論について(コンピテンシー論から考える)(藤江)15分
教員養成スタンダードの動向と課題(福本)10分

教員養成のカリキュラム構想の課題 (全員)15分
質疑応答 フロアから 10分
第3回教科内容学検討委員会に向けて(予告・案内)
   教員養成における美術科の基礎・基本とは何か?
| 福本謹一 | 2010/02/16 2:50 PM |

皆様

 フォーラムに向けてこれまでの議論が積極的にまとめられていること、絵画としてまだそれができていないことを予めお詫びします。
 現在提携校のアメリカの大学の先生が一週間公的にこちらにみえており、日々そのために行動しており、来週からこのフォーラムへ本腰を入れたいと思います。

 フォーラムの際に、絵画・彫刻の代表である小澤と、デザイン・工芸の代表である石井先生が発言することになっております。デザインの渡辺先生、工芸の石井先生のブログ要約に対するご尽力には敬意を表します。ただ、フォーラムにおいては、それらをどう限られた時間内に発表するか、見ていると膨大な内容が含まれておりますので、同じことを絵画や彫刻でもやるとすれば、あまりにも多岐の内容を同時に発表することになり、議論の核心が見えにくくなる危惧も感じます。

 ここは、まずコーディネーターである福本先生が、全体のディレクション構想を最初にこのブログで提示していただき、それに沿ってこれまでのブログでの議論内容を代表が要約し、できるだけ簡潔に軸が見せられるように、予め考えておいた方がよいように感じます。その際には、最終的にはどうしてもまとめる代表それぞれの個人的な判断が介在してしまうかと思いますが、それはご容赦いただければと思います。

 要は、これからの教科内容学についての考え方(理念や具体的な構築の方法等)に対する発言と相互議論が、フォーラムの中心主題となるのではと思います。内容学の具体的ディテールは、それぞれの分野での部会で作業的に詰めていくことになろうかと思います。

 一時間余という限定された時間のなかで、議論を散逸させないために、まずは福本先生のコーディネィトの構想と、進行のイメージをお聞かせいただければと思います。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2010/02/16 10:54 AM |

横浜国立大学 渡辺邦夫先生
 
兵庫教育大(彫塑)の前芝です。長らくご無沙汰にて申し訳ございませんでした。大急ぎで発言をまとめ、掲載していきたいと思います。彫塑分野のページにコマ切れに掲載していきたいと思います。どうかよろしくお願い致します。

兵庫教育大学 前芝武史
| 兵庫教育大学 前芝武史 | 2010/02/16 5:37 AM |

学芸大学 石井寿郎先生 埼玉大学 小澤基弘先生 皆様へ

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

石井先生、だいぶ待ちましたよ。基礎基本について私は会議前に既に書き込んでいたので…会議当日は全く意味不明な挨拶をしてしまい悔いております。
私も経験があるのですが…録音から議事録を起こすと話し手の言葉の集積になってしまいがちで…所謂書記の語彙にオーサライズしないと全体像は出席していない読み手には伝わり難い感が否めません。唯、尽力に敬意を表します。議事録ご苦労様でした。小澤先生全く同感なのは…これらの多岐に渡る論議や提案の内容を一つの方向に纏めていくことは至難の業だということです。結論を急がず、委員全体の意見や今回の議論を踏まえながら、やれることを一つずつ目的に向かって前進するしかないでしょう。

石井先生の3つ目のコメントにあるように、先ずは、松浦委員長から提示された3つの御指示に従って各部門毎の作業に邁進せなばなりません。頑張りましょう!

正月の特番で養老孟司と宮崎 駿の対談があり…養老さんが子ども達と一緒に『虫採り』をするのですが…虫の居場所も虫を採る方法も彼は一切「教えない」と断言します。何故ならそんな事を教えてしまったら子ども達自身の成長も無いし、所謂、生きる力は育たないと彼は言っていました。私は若い頃、どちらかと言うと教え魔的な教師であって…手取り足取り制作を手伝ってさえしまう質でした…しかし、経験を重ねる内にそんな効果を急激に望む指導は実は学習者本人の為には成らないと気付き…時に突き放して敢えて悩ませ自分自身が納得する打開策を学生自ら発見する力を育てるようにと務めて来ました。

美術に於ける学力の元=基礎基本は先の書き込み| 渡辺邦夫 | 2009/12/11 10:51 PM |にあるように…座学のみならず実体験を伴う制作や実践によって培われるものであるのは明らかなのです…『自ら美を理解し解釈し自ら美を生み出す喜びを体験として知る学習者に育てるための教育』を達成することの実際の困難に我々は日々直面しています。
私が此処で言う美は美学で定義される様な美ではなく人間に共通して感じられ且つ個人的な生理や感覚の中にも存在する美を感じ取る理解力のことです。先の会議で石井先生が私の美という語の連発を揶揄しておられたように感じたの敢えて弁明説明しておきます。
この美を…理解する感じる力が最近の若い世代が非力になって来ている傾向は…正に人間の自然との乖離に比例していて…宮崎 駿は幼児期の実体験の大切さを説き屋根の上に草が生える様な自然に囲まれた幼稚園を自ら設計し土や草を裸足で駆ける教育の場を実現しようとしていました。

感性、感動、昂揚、揺すぶられる魂、理由も無く頬をつたい流れ落ちる涙
そんな効率的でも経済的でも機能的でも無い一見すると現代人にとって無益とさえ思われている時にこそ…我々が惚れ研鑽する美術という学科は実は根を降ろして居るのではないでしょうか。とりとめも無い文章ですが年始の挨拶とさせて戴きます。

横浜国立大学 渡辺邦夫

PS.なかなか書き込みが進展しない彫刻部門に…是非、兵庫教育大学/前芝先生!あの会議での御発言をまんま書き込んで下さい。誰かが書き込みをしないと動かない誰かが引っ張らないとブログは進展しませんので。。。
| 渡辺邦夫 | 2010/01/06 2:45 PM |

学芸大学 石井先生および皆様

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

石井先生、新年早々議事録をありがとうございました。これだけの多岐にわたる内容をテープ起こしされたご尽力に敬意を表します。箇条書きの記録をたどることで、当日の議論の全体像が思い出されてきます。これらの濃厚な内容を、一つのかたちにまとめていくことは、至難の業だと改めて感じました。

一気に結論に急ぐのではなく、こうした議論を踏まえながら、今やれることを一つずつかたちにしていくしかないのかな、つくづく思います。

理念や理想というある意味では彼岸からの視座、そして現実の授業内容やそれぞれの教員の現在の美術観という此岸からの視座、その両面から考えていかなければならないと思います。

新年に際して、少しずつ正月ぼけの頭を醒まして行かねばと、石井先生の議事録書き込みに感嘆しつつ、改めて気を引き締めた次第です。

内容のない発言ですみません。取り急ぎまずは石井先生に敬意を表しつつ、皆様に新年のあいさつをさせていただきました。

埼玉大学 小澤基弘

 
| 小澤基弘 | 2010/01/04 10:05 PM |

第2回委員会議事録(その3)

 この第二回委員会を受けて、重複致しますが、下記のご要請を委員長が成されましたので、再びご確認ください。


金沢大学の松浦です。
 12日、開催された第2回教科内容学検討委員会に出席された先生方、お疲れさまでした。今までブログで充分発言されなかった先生方からの発言は力強く感じられ、今後の教科内容学検討委員会の展開に大いに期待できるものと確信しました。この纏めは東京学芸大学の石井先生にお願いしていますので、詳細については、石井先生から後日、ご報告いただけるものと思います。
 会議の中で、今後、議論を展開していく上で、各部会で議論を進める項目に着いて確認したいと思います。

1) 各分野(領域)におけるマップの制作を始める。チャートのように段階を追って纏めることではなく、各分野の重要となるキーワードの羅列、抽出を始め、それらを参考に美術教育における各分野(領域)の基礎・基本について、3月上旬までに部会代表者が纏めます。その羅列・抽出は本ブログ各分野項目・Mail・その他連絡にて進めてください。集められた材料を基に3月に開催予定の第3回教科内容学検討委員会で議論し、纏める予定ですが、これによって教科内容学検討は次のステップへ進む事になります。

2) 2月28日開催予定の『明日を創る美術教育』研究集会に、教科内容学検討委員会から代表で埼玉大学の小澤先生と石井先生に出席していただくことになり、それまでに、ブログで議論してきたことを各部会代表者が纏め、絵画・彫刻部会の纏めは小澤先生へ、デザイン・工芸部会の纏めは石井先生へ報告していただき、それをもとに小澤先生、石井先生が研究集会で、教科内容学について発言をしていただくことになっています。よろしくお願いいたします。

3) 今後の教科内容学検討に多くの部門・学会の会員の意見を聞く必要があると思われますので、アンケートを実施することになりました。
 そのアンケートの質問項目について、教科内容学検討委員会委員から募りますので、ブログの「全体議論」にお寄せ下さい。

以上、宜しくお願い致します。


 以上ですが、議事録提出が遅れまして誠に申し訳ありませんでした。文字通り師走の中、努力したのですが内容的にも濃厚で、このような前回の議事録を踏襲した形式に落ち着きましたので、とにかくお納めします。ボイスレコーダーから起こす為に数回今回の討議を振り返る事になり、貴重な時間にもなりました。
今後、ご希望がありましたらCDR化してお渡しする事も可能です。宜しければお声をおかけください。
 
 とにもかくにも、謹賀新年 今年も宜しくお願い致します。

東京学芸大学・石井壽郎
| 石井壽郎 | 2010/01/03 7:09 PM |

第2回委員会議事録(その2)

◯現実に起こっている現場での方法論に偏る教育内容などの事を考えると、「教える」「学ぶ」の境がなくなる事は理想だが、「教える」という事は歴然として存在するのではないか。
◯各領域の内容列挙で浮かび上がる、各領域の落としてはならない役割に期待がもてる。
◯方法論的でも概念論でも全体とディテールは双方大事ではないのか。
◯技法論ではなく、創造性の生成が各領域の重なる部分にこそ出現してくる。
それは実技の人間が実感を持って伝えていくべきではないか。
◯大学美術教育学会に所属される各領域の方々すべてから内容列挙を募る事は可能か。
◯現実的に限られた時間でないが教えられるか、精選をいかに行うべきか。
◯仮にこの委員会でまず手始めに『教員養成』に焦点をあわせるとしたならば、対象者は大きい方からか、小さい方からか、可能なところから手を付け始めるのか。
◯自分たちが大学生だった時、美術のすべてのサブジェクトを習った記憶はない、骨格になる要所要所を摘出出来れば幸いだろう。
◯本質論が大切であるのは明確であるが、これまでの教員養成の流れも歴然とあり、ともすると再編問題に繋がってしまう事も懸念して頂きたい。
◯今後この委員会を進めていく時に「教員養成」に重心をおくとして、複眼的に大学というものの役割の変容も踏まえられた検討であるといい。
◯養成される学生側の質の変容も見逃せないのではないだろうか。
◯養成される側の学生の時間的制約はさらに深刻なものがある。
◯初等としての専門性を追求して行く事は今後大きなテーマになって行くだろう。
◯既存の領域の枠をはじめ、構造改革の方法論はないのであろうか。
◯まずは現状の足下から各領域の(教員養成を念頭に置いた)基礎基本の収集・集約から始めませんか。
◯教科専門の方の今までのご自身の中の自己形成の中で教育領域の要素に当てはまるモノが有るのではないか。
◯専門家教育と一般教育は分けて考えねばならない。
◯そこを分けて考えると教科専門が教育に関わる意義性が半減するが、手続き的に其れがあっても構造的にその線引きを認識しておかなくてはならない。
◯それぞれの原体験からの基礎基本と言い換えられないだろうか。
◯複眼的に社会性・現代性への焦点も抑えておいて頂きたい。
◯教育領域の現実を考えると対外的に戦略的姿勢も忘れてはいけない。
◯教員養成との接点を考えながら領域の基礎基本を各領域ごとに列挙する。
◯基礎基本には定数としての基礎基本と変数形の基礎基本があるので、まずは集約が必要である。



                       以上、3時間27分52秒

以下、その3につづく。

| 石井壽郎 | 2010/01/03 7:08 PM |

日日本教育大学協会全国美術部門・教科内容学検討委員会
第二回委員会報告

日時:平成21年12月12日(土)14時〜(2時間程度)
会場:東京学芸大学美術棟2階・美術教育演習室(芸・スポ学系研究棟4号館)

議題:主として大学・学部改革期における教科内容学の在り方等

1. 出席者:松浦昇(委員長・デザイン部会・金沢大学)、池川直(彫刻部会・鹿児島大学)、小澤基弘(絵画部会・埼玉大学)、石上城行(彫刻部会・埼玉大学)、岩村伸一(絵画部会・京都教育大学)、山木朝彦(教科教育部会・鳴門教育大学)、石井壽郎(工芸部会・東京学芸大学)、内藤隆(デザイン部会・鳴門教育大学)、川原崎知洋(デザイン部会・静岡大学)、福本謹一(教科教育部会・兵庫教育大学)、前芝武史(彫刻部会・兵庫教育大学)、前田英伸(デザイン部会・北海道教育大学)、渡辺邦夫(デザイン部会・横浜国立大学)
2. 議論に先立ち自己紹介かたがた、それぞれお考えになっている美術教育の基礎基本にまつわるご意見をうかがう。以下、討議に上がったご意見を列挙というカタチで表す。

◯討議に先立ち松浦委員長からあくまでも『美術教育』についての内容のご考慮を促されて全体討議が始めら、まずは作品主義・制作主義の関係について投げかけられた。
◯あくまでも個の制作主義から始まって、其れが集積され普遍化がなされるのではないか。教育の枠組みから一方的に制定されず、双方向で行われるものなのではないだろうか。
◯とはいえ、教科専門側からの教育スタンダードが今後必要になってくるのではないか。
◯教員養成への着目(大学の問題)、教育現場への着目(指導要領・教科書・題材開発など)があり、この両方を総合的に検討するのは出来ない事はないが、大変困難である。大学においての教科専門の有り様に焦点をあて進めては如何だろうか。
◯教科専門の方々が実施されている事が『教員養成』の中のどの部分に機能していて、どんな効能があるのか、などの説明責任がうまれはじめている。(教科専門の内容のマップ化)
◯見える学力と見えない学力があって、「美術」の場合見えない学力の方が多く締めている。結果十人十色になっていく。
◯教科専門・教科教育の人間が期待される教師像、望ましい教員のイメージを共有する事から始めるのも一案である。その上で教科専門7領域がイメージを共有する。
◯7領域の表現のマップを制作し、そこから期待される教師像が見え、教員養成への関わりも分かってくる。教員養成への関わりから考えると表現のマップが見えづらくなる。
◯中学校以上の『美術』の教員は高度化が望まれていると思うが。初等以下の教員の有り様が難しい。
◯初等の『図画工作』、中等以上の『美術』も変わりはなく、個から始まる表現と考えれば難しいという事はないのではないか。
◯『イメージリテラシー』『ファインアートリテラシー』という事で考えれば個から始まる表現として『イメージリテラシー』という概念は理解できるが、あまりにもその下地になる前例・型が存在せず現実性が感じられない。
◯『ファインアートリテラシー』でさえ、しっかり教育上で成されてきていないのではないか。
◯美術・図画工作の指導要領は『ファインアートリテラシー』よりむしろ造形あそびをはじめとする『イメージリテラシー』系に傾倒しすぎている感が有る。
◯『造形あそび』という概念は教育上で「教える側」と「教えられる側」という構図を否定したのではないか。
◯美術の各領域のマップを作ったとして、其れを手本にしてその再生産をねるのだとしたら、それこそ美術という概念には当てはまらないのではないか。
◯マップという概念というよりも事項の羅列、『構造』といった方が良い。
◯出来うる限り羅列したとして、各領域の羅列は限りなく重なってしまうであろうが、それでも作成した方が今後の内容学構築にとって良い。
◯1年を目処にこの内容学構築の現時点の集約をしていく。大学美術教育学会・日本教育大学協会全国美術部門合同2月フォーラムにて、委員会代表として、小澤基弘、石井壽郎、2名が報告する。さらに3月の拡大委員会で最終報告をする。
◯何れにしろ、教員養成の問題と教育現場の問題はそれぞれ影響し合っている事ではあるが、現実的に重点的に教員養成の方に焦点化していかれたら如何でしょうか。
◯6年性の教員養成をはじめとして教育現場の現状と未来も見逃せない。
◯だからこそ、現場の教員の資質と教育内容の双方を視野に入れて内容学構築がのぞまれる。

以下、その2に続く。
| 石井壽郎 | 2010/01/03 7:04 PM |

金沢大学の松浦です。


 12日の教科内容学検討委員会に出席された先生方、お疲れさまでした。欠席された先生方にお願いですが、NEWS(報告事項)に今後検討する内容について説明していますので、是非、ご覧ください。アンケートの項目について、積極的な提案をお寄せください。
 尚、12日の教科内容学委員会で議論された内容の纏めは、東京学芸大学の石井先生お願いしていますので、今しばらくお待ちください。
| 松浦 昇 | 2009/12/17 1:39 PM |

山木朝彦先生 皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
山木先生 書き込みありがとうございます。明日会議に向け議論の方向性を示して戴き感謝しております。直感的に感想を言います…何かこの書き込みを読むと先生が語りかけて下さっているようで御顔が目に浮かびます。その意味で本来ブログならではの効能が働き始めている感覚があります。互いに同時的空間を共有できる会議と本検討委員会の書き込みによる論議には同時的空間の共有に於いて当然のことながら不利があります。しかし、夫々が責務に多忙である故、会議時間を頻繁に共有することは困難です。だからこそ上野文化会館で開催された第一回本委員会(当時はWG)に於いて提案され学芸大/石井先生によって実現した此の学会グログ論議の立ち上げは極めて画期的な美術教育を全国規模で論議する場となったのです。寸暇に読み書き込みをすれば相互理解が深まり、例え委員同士が空間や距離が離れていても継続的に議題が進行ができるし、今回の様に会議に向けて今後のの課題を紡ぎ出すこともできます。これは素晴らしい進歩ではないでしょうか。

今回の山木先生の書き込みで重要な特に御言葉は『学力という概念に我々がどのような力を想定するかという捉え直し』また『教育の内容と内容の繋がりやすさを保証する視点』だと思います。学習とはその受けてである学習者にとって、吸収され蓄積される知識と捉えられる場合が日本では殆どですが…実技実践や学習経験が自分の身に付く教科である図画工作・美術科では先生の言われる『学習者に育つベクトルを学力』と考えるのが重要であって…自ら美を理解し解釈し自ら美を生み出す喜びを体験として知る学習者に育てるための教育にはなりません。

百回、描く技法について或は色彩の素晴らしさについて座学で講義を受けても…描く学習修練や色彩を用いて配色や彩色をする学習修練を実践しなければ…深淵なる創造への道は誰も切り開くことは出来ません。その創造への道は…知識として解っていても身体的に出来ないことすら多く、更には深淵な美の表現者としての優れた先人の作品を深く理解すればする程、自己の至らぬ修練との隔たりを痛感するものであり…美術に於ける切磋琢磨に到達点や終わりはありません。

表現者研究者としての実技実践を美術教育という責務に如何にして有効に教科内容として学習すべきエッセンスを抽出し、学習者の達成目標を定め、何処から何処まで高め、その達成度合いを次の何処の高みへと向かわせるのか。教育者として最も重要な構想力は正に授業案=カリキュラム構想力と授業に於ける指導力に有ることは間違いありません。それが実は今迄は全く誰にも相談できない類い…担当分野は自分一人という各大学最低人員1名の世界で…我々は長く悩み続けて来たのです。
だからこそ、この教科内容学検討論議は全国規模の大学教育に携わる教育実践者の相互の責務再認識の場として画期的であり…学科目の枠を超えた美術という教科そのものの意義再認識の場となりうると私は信じているのです。

今後の指針を見出す意義深い会議となることを期待しています。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/12/11 10:51 PM |

みなさま、あしたはよろしくお願い申し上げます。
さて、流れでは私からのプレゼンが求められている感じではありますが、むしろ、各個人および各分野で、これからの課題を紡ぎ出す会になればよいのではないかと考えています。

学力についての論議では、渡辺邦夫先生の感じ方・捉え方はよくわかります。おそらく学力という言葉の根底になにかアートやデザインの創造や美術史の探究や美学の考察を根底で支える力と相容れないニュアンスが隠れているから、わたしたちは学力という問題にそのままのかたちでは取り組む機会を自分からは求めてこなかったのではないでしょか。それゆえに、この問題を一度、真剣に検討する必要があると思っています。

そして、学力という概念にわたしたちがどのような力を想定するかという捉え直しも必要なのではないでしょうか。学力という問題と、教育課程上の図画工作や美術の内容の吟味は、有機的に絡んでいて、セパレートできないものです。

内容学の検討については、それぞれのジャンルでそのジャンルの制作や学を支える基礎的な内容は、つきつめると何なのかということになります。ある意味で、それはエッセンシャリズムへの方法的回帰といえるかもしれません。しかし、その内容を構想するときには、学習者サイドが、その内容を学ぶことで、つぎの段階の何にたいして理解が進捗し、アクセスしやすくなるのかという見通しを考えてあげる必要があると思います。

言い換えますと、教育の内容と内容の繋がりやすさを保証する視点は、何を学んで、どのような関心や意欲が育ち、何にトライしようと考えるのかという学習者の思考や感情について、丁寧に見ていくことだと思います。そのような、学習者に育つベクトルを学力とみなす流れが現代の学力論の基本にあります。

ですから、他の教科等を眺めましても、ほんとうに楽しい授業をつくりあげて、学習者の知的好奇心に火をつけ、探求力を導き出そうという現場の先生方がたくさんいらっしゃいます。それは、子どもたちの能力を短期的に測定するかつての方法論とは異なっているように思えます。

結論を申し上げると、学力という言葉の堅い響きを問題視して、学力をめぐる検討を避けるのではなく、学習者にどのような力をつけてもらえるように心がければ、基本を習熟し、高度な探究にまでたどりつけるのか、皆で検討したほうが内容学の充実に寄与しうると思います。

わたしは、わたしたちの内容学検討は、現実の図画工作科と美術科の内容を批判的に吟味するところまでたどり着くのではないかと思っています。教育の内容に関する検討の場面では、いかなる遠慮も、いかなる線引きも必要ではありません。それぞれの歩んできた表現者・研究者としての経験の蓄積と信ずる価値観に基づいて、現行の教科内容について少し詳しく吟味してみる必要があると思います。

(もちろん、ここで述べたシンプルな図式とは異なる構成的教育観に基づく教科内容の捉えなおしということも考えられますが、これはかなり複雑になりそうな予感がします。むしろ、昨今話題になっているPISA型学力の中心概念とアートのかかわりなどを複眼的に見据えた検討のほうがアートの内容学の構想に有益だと思います。)


| 山木朝彦 | 2009/12/11 5:37 PM |

金沢大学の松浦です。


 明日の教科内容学検討委員会は、静岡大学の川原崎先生も参加されることになり、12名の参加予定者となりました。
 参加者の皆様、風邪などひかれませんようにお気をつけください。
| 松浦 昇 | 2009/12/11 2:28 PM |

皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
松浦先生 書き込みありがとうございます。本委員会の時間的経緯と議論内容を纏めて戴き此れ迄の経緯を振り返ることができます。又、土曜日開催の次回会議に向けて議論の方向性を示して戴き感謝しております。
石井先生 ドイツから近況報告ありがとうございます。土曜日の会議ではお世話になります。山田先生にもよろしくお伝え下さい。

露払いとして何も学際的な裏付けの無い持論になっていまうかも知れませんが端的に思いをコメントさせて戴きます。

先ず、和歌山大学/永守先生ご提案の「美術教育における基礎・基本とは何か」ですが…

・美(つまり人体や生命や風景等の自然、そして人が造った都市等の人工物の場合もある)=有機的な生命(ミクロ的には細胞からマクロ的には宇宙の形状色彩に至る)から幾何学的図像(結晶や微生物、LSI基盤から宇宙ステーションに至る)に対する感受性を備えること
・それらの美を見て自己の記憶に留め、且つ在る種一定レベルで絵に描き留める基本的な技量(ドローイング、スケッチ、デッサン、図法等)を身につけること
・それらの自己が描いた美の要素を…絵画、彫刻、工芸、デザイン等の諸表現領域で作品として表現する技量を身につけること
・それら多岐に渡る美術に於ける様々な表現を鑑賞し理解し、先人の技や美を作品として表現する心と対話できる素養を養うこと
・それらの全てを教育対象とする児童生徒学生の年齢や発達度合いに応じて授業案を構想し指導するための方法を考え有効に実践する基礎的な経験を積むこと
勿論、皆様方の中に異論もあると思いますが、私は…この様な内容だと考えます。

次に、山木先生のご提案による「美術の学力とは何か」ですが…

先の小澤先生によるノートによる学習方に対して書き込みをしましたが…美術という身体的な実技学習を伴う教科は座学による学問の言う処の所謂「学力」と比し本音を言えば「学力」という言葉を使うのが相応しくない教科のように…実は私は感じてしまいます。
つまり、定量的な計測(例えば…走り高飛びの高さ記録、ある種の方程式を解く早さ等)と比し、美術に於ける描く力(所謂、デッサン力という様な古い語)は前述の様に美術の基礎基本にあると私は思っていても…その評価=数値化は極めて曖昧な要素(時に主観や好み)を含む場合が有り得ます。まして、基礎的な描画より絵画、そして塑造や彫刻はより高度な知識と技量が必要であるのは言う迄も無く、描画やスケッチ案を元に制作される工芸やデザインも又、同様であり…その評価はベテラン教師であっても難しいものです。デザインという学科目にその「学力」を絞った時、基礎基本の教授法やカリキュラム論は既に論議にもある様に一定の共通項を見出すことは出来ると思います。しかし、グラフィック、プロダクト、環境等、多岐に領域分野の及ぶ夫々の専門的なデザイン領域に於いて必要とされる「学力」は実技面/教養面の双方に渡り多様です。学力論はデザイン部会内でも…其れ其れ異なる観点からの議論が展開されると予想されます。何れにせよ前述の「美術教育における基礎基本」とデザインに於ける「学ぶ力」は密接であると私は考えています。

先の私の書き込みにも有ります様に…
感覚/感情/芸術的創造を担っている右脳の「学力」とは単なる記憶蓄積のみならず…時に長い観察や模索や実験的制作の果てに…「解る/気付く/閃く/悟る」様な「学び」であると思うのです。美術で養われる学力は一元的知識や記憶や修練の達成量では計れない、深淵な技量なのではないでしょうか。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/12/09 11:44 AM |

学大・石井です。

 只今渡独中でミュンスターにおります。12/12には皆様を事務局・山田先生と共に迎入れ致します。

 連日、山田先生もご一緒して新学科立ち上げの議論が盛んにかわされ充実した出張になっております。このままの熱を保ったまま皆様とお会いしたいと願ってはおりますが、忌まわしい時差ぼけがどのよう影響を及ぼすのか思いやられます。ともかく、学芸大学にて皆様をお待ちしておりますので、宜しくお願い致します。
| 石井壽郎 | 2009/12/09 7:08 AM |

金沢大学の松浦です。


 12日の教科内容学検討委員会に出席される予定の先生方は11名です。

 絵画部会  小澤先生、岩村先生
 彫刻部会  池川先生、石上先生、前芝先生
 デザイン部会 渡辺先生、前田先生、内藤先生、松浦
 工芸部会  石井先生
 美術科教育部会 山木先生

 よろしくお願いいたします。
| 松浦 昇 | 2009/12/08 3:55 PM |

金沢大学の松浦です。


 昨年11月に開催された日本教育大学協会全国美術部門高知大会で、教科内容学の検討ワーキングの設置が認められ、今年の3月13日には第1回『美術教育における教科内容学検討ワーキング』が開催されました。その後、ブログで議論が進められ、6月13日の第2回ワーキングでは、教科内容学の検討対象を『0歳児から(生涯教育を含めた)大学教育まで』とし、ワーキングから『教科内容学検討委員会』に名称変更され、美術部門として教科内容学の検討が重要な課題であると確認されました。そして、9月25日に開催された第1回教科内容学検討委員会においては踏み込んだ議論が展開され、今日に至っています。
 今までブログにおいて多くのご提案やご意見をいただき、教科内容学の考え方や捉え方について、議論が深まってきているように思いますが、いかがでしょうか。特に議論をリードしていただいた福島大学の渡邊先生、埼玉大学の小澤先生、東京学芸大学の石井先生、横浜国大の渡辺先生、北海道教育大学岩見沢校の前田先生、そして鳴門教育大学の山木先生のご意見は、今後、具体的な各論を議論する上で活きていくものと思います。
 ところで、今後の具体的な教科内容学の議論が、大学教員(改革者)と現場の実践者との隔絶が大きくならないように意識したいものです。今日の美術の世界は伝統的な概念ではくくりきれない複雑で多様な広がりを見せています。美術教育でも従来の絵画、彫刻、デザイン、工芸、美術史・美術理論という分野でくくりきれない、分野をこえて考える必要があるという認識はブログをとおして共通理解されていると思います。
 そこで、12日の第2回教科内容学検討委員会では、
1)和歌山大学の永守先生ご提案の「美術教育における基礎・基本とはなにか。」
2)山木先生ご提案の「美術教育における学力とはなにか。」
を、中心に議論を進めたいと思います。特に、山木先生は出席されますので、山木先生から詳しいご説明とご意見がいただけるものと期待しています。
 基礎・基本に関しては、まず各分野の考えから始め、分野をこえてまとめることができないのか、議論を進めていきたいと思います。最終的にどのような形で意見がまとまるのか、今までやっていないことなので予測がつきませんが、出席される先生方、よろしくお願いいたします。
| 松浦 昇 | 2009/12/07 2:57 PM |

山木先生 小澤先生 委員の皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
山木先生のご提案による『美術の学力論』議論の方向性について私も考慮しているところです。

先ず小澤先生、ノートによる学習は非常に理にかなった学習態度でありましょう。観察/気付き/発見/考察/推考/実験/省察/思考/創作等…美術に於けるスケッチは時に図面や描画であり、つまり先生の探求される「手によるドローイング」に希求します。人類史上最高の天才と賞賛されるレオナルド・ダ・ヴィンチが遺した『ダ・ヴィンチ手稿』は正に小澤先生の提唱するノート、それも世界で最も価値の高いノート…それは誰かに見せる為のものではなく…上記の自己の研究を書きとめる正に学習ノートであったのではないでしょうか。小澤先生、如何でしょう。
解剖学、天文学、流体力学、航空工学、建築学に至る彼の思考は…最先端の研究であり驚くべき知力の結晶です。当時の宗教会からは危険思想として弾圧さえ受け…鏡文字で書かれている1つの理由とも言われています。又、ドローングとして絵を見た時、その観察眼は実体としての対象を3Dで描くという現代のCADともいえる迫真のリアリスムを持ち見る者に迫って来ます。自転車も自動車もパラシュートもシューノケルも彼が人類史上最初に発明した事は明らかです。
左脳は知識/記憶/論理的思考を担い、右脳は感覚/感情/芸術的創造を担っているのですが…彼はその両方に於ける思考を芸術に結実した偉大な希有な人物です。

美術に於ける学力を論議する時、私は大切になるのは…この左脳と右脳のバランスの良い使用法に至るのではないか…と考えています。「好きに描きなさい」「自由で伸び伸びしていていいね」「この色の使い方が素晴らしい」等の現場教師の言葉だけでは…美術という教科の本質にある何か本当に大切な学びは失われていると感じることがあります。それは何なのか。自然という素晴らしい美の本質、それを対象として産まれ出る絵画/彫刻、そしてそれを手本として応用され産まれ出る工芸/デザイン…勿論、自然を手本にしない現代美術も存在している訳ですが…人間は自然の一部であるから、その命から生ずる美もまた自然の一部でありましょう。

美術に於ける学習の神髄は…科学とは真逆に位置する直感でや閃きであり…ある種、理論的では無い感覚的な喜びであろうと私は思っています。何故、その形が生じたのか、何故、その色を置いたのかが…自分でも説明ができないのです。勿論、絵画やデザインを論理的に解析して…其処に何故、美を感じるのかを論説する学問も存在しています。しかし、創造的行為=造形とは非常に身体的で美として自己の内部に生じる喜びに近づく為の困難な作業の連続であって…作家自身はなかなか説明することの難しい行為でしょう。だから言語野の有る左脳に障害を持った場合にこそ「素晴らしい想像力や造形性の高い芸術が生まれるという脳科学者の説」が話題となり…左脳に知識を詰め込む学習=答えを「知っているかいないかだけの短絡的な評価基準のみの教育の限界」が叫ばれているのではないでしょうか。

人間以外の動物は左脳と右脳は同じ働きをしており、どちらか一方が損傷しても…そう変わらない状態で生きることが可能です。では何故?人間は左脳と右脳を別の働きを持つ脳として進化して来たのか?
左脳と右脳の相互協力による独創的な発想を新たな価値の根源と考えられるような教育…他者を尊重し認め合える友愛の精神…唯一無二の正解だけを求めない寛容の心…それこそが美術で養われる学力なのではないでしょうか。

皆様の闊達なご意見をお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/12/04 4:05 PM |

みなさまへ
私の、広義の学力論をテーマ化してみては如何かという提案について、積極的に思考を展開して頂き、ありがとうございます。本日は無理なのですが、近々、私も考えを纏めてみたいと思っています。もう数回、それぞれの分野での事例やご存知の国際的な観点、あるいは時評的な関心など、多角的に各自の主張を展開していただければ幸いです。
| 山木朝彦 | 2009/12/03 7:39 PM |

金沢大学の松浦です。

 11月1日付けの前田先生の纏められたご意見に、続こうと思っていたのですが、時間が取れず11月末になってしまいました。ブログに書き込もうとすると、私の場合、どうしても構えてしまうというか、きっちり意見をまとめて書かなければと思ってしまうので、合間に所用が入ると書けなくなってしまいます。そして、委員長という立場上、全体に眼を向ける、声なき声にも耳を傾けなければならないので、自分の意見よりも、各委員の意見を引き出すためには、どのように状況分析をすれば良いのかを考えてしまいます。
 山木先生が指摘されておられる学力の問題ですが、私も最近、学生や現場の先生方に、美術教育が周囲の人々からみえる学力として考える必要があるのでは、と言っています。私は見える学力が、美術教育の基礎・基本になるべきではと思っています。
 今日もこれから推薦入試があり、その前に早く大学へ来て書き込んでいますが、書き込もうと思った理由は、12月12日の第2回教科内容学検討委員会に彫刻部会から3名の先生が出席いただけると、昨日、ご連絡いただいたからです。
 委員会に出席された先生方は実感されておられると思いますが、委員が顔をあわせて議論することは、凄く議論が進展します。だから、第1回教科内容学検討委員会での議論も凄く生産的であったように思います。翌日の短時間でしたが、シンポジウムもまとまっていて凄くよかったように思います。
 12日に委員会での議論を生産的に進めるために、5日前に議論する内容を提示したいと思いますので、それについて、ご意見ください。
| 松浦 昇 | 2009/11/28 9:45 AM |

(続き)
 今、「何々ノート」がブームです。東大生のノートはあまり感心しませんが、たとえば「中村俊輔のサッカーノート」とか、野村監督の野球理論を書いたメモとか、言語として表現されない行為(造形創造もその一つです)を、言語的(理論的に)省察することの重要性に、現代人は気づき始めているのではと思います。私は、「図工ノート」あるいは「美術ノート」が充実し、それが次の造形活動の活力になるような、そういう図工・美術教科の学力構築が必要なのだと思います。それは感覚的という以上に知的なものであるはずです。造形と言語との相関が常に図られる必要があると思います。だからと言って、私にその総体を思考する力はありません。山木先生が許容されているように、これはあくまで理想論です。
 何度もこのブログで書いていますが、私はミクロ的に思考を進めています。なぜなら自身の制作は自己の内側へとどんどん深化していくからです。自分が絵を始めた端緒となったドローイング日記の意味を、今思考しているところです。いずれその考え方を理論書としてまとめるつもりでいます。それはまさしく今ブームの「ノート」的思考と同質であり、描いて振り返ることの連続によって、自分を掴んでいくことの重要性の主張です。私の個人的なこの視座が、ドロセン・プロジェクトの際のように、もし小学生の心に触れる何かを醸し出しているとすれば、それはそのまま図工教科の内容を思考する一要素となり得ます。大学の教科専門の、とくに実技系教員は、各自がこうした創造への足場をもっていると思います。そこから始めるしかありません。それらの結集が、結果的に説得力のある教科内容の構築を導き、図工美術において目指されるべき学力を顕在化させるのではないでしょうか。
 以上、何も具体性がなく、かつ変わり映えしない発言ですみません。

埼玉大学 小澤基弘 
| 小澤基弘 | 2009/11/27 11:35 PM |

「図工・美術を通して身につけてもらいたい学力について」に対する私見

山木先生のご提案を受けていろいろと考えました。

横浜国大の渡辺先生が言われる「喜び」や「幸せ」を伴う創造的な学習であるということは、究極的なこの教科の目標だと思います。ただ、この目標は全教科に通底するものと思います。私は、やはり図工・美術という教科としての視座からの「学力」を、具体的に考える必要があると思います。

 先日、埼玉県立近代美術館で『ドローイング1000枚プロジェクト〈通称ドロセン〉』のインストラクターとして、主に高校生を対象にして、ドローイングを沢山描き、それを振り返って自己を知るよすがとするという主旨のワークショップを行いました。私はそのための前提講義をしっかりとしました。そもそもドローイングとは何か、デッサンとはどう違うのか、作例やそれらの作品の主旨等々を、系統的に講義をし、その後活動に入らせました。30名の参加者が2時間ほどで総数607枚のドローイングを描き上げました。そこには小学生も参加していました。中学生もいました。私は彼らの存在を意識しつつも、高校生に語りかける内容で講義をし、話をしました。当然内容は高度です。そもそもこの内容は、私が大学3年生の学生に対して行っているものと同質のものです。それにもかかわらず、小学生が本当にいい作品を沢山描きました。「話の内容は分かった?」と尋ねたところ、「わかりました」と皆しっかりと答えました。中学生も同様でした。私は普段こうした小学生・中学生に対して授業をすることはまずないので、とくに小学生の理解力の高さに驚いた次第です。そこで思ったことは、「小学生だからと言って、目線を落として語りかける必要などないんだ」ということ、「彼らは私たちの想像を超えた理解力をもっている」ということ。そういう視座で現行の小学校の教科書を見ると、あまりにも目線が低すぎると感じざるを得ません。中学生の教科書もです。他の教科と図工・美術が違う点は、なんだか子供たちに遠慮して、あまりに目線を下げ過ぎているということです。確かに児童・生徒間に学力の差異はあるでしょうが、教科の目指す学力は、その設定を低めてはいけないと思います。
 私には見当もつきませんが、理想を言えば、図工・美術を9年間義務教育で学ぶための知的教育内容が、やはり必要だと思います。確かに「幸せ」や「喜び」をその究極の目標として据えますが、そこに至るための「道のり」を考えねばなりません。渡辺先生が言われている「痕跡を残すこと」に対する子供の心性、あるいは「見ること」と「表わすこと」の相関とその階梯、「表現」と「振り返り」の階梯、「工作」と「創造」との差異、空間概念の形成の階梯等々、いわゆる絵画・彫刻・デザイン・工芸・鑑賞の枠をある程度考慮しつつ、図工・美術の本質論を、いろんなキー概念を軸として段階的に想定していく必要があると思います。
(続く)
| 小澤基弘 | 2009/11/27 11:33 PM |

鳴門教育大学 山木朝彦先生 委員の皆様

先生のお考えを察して有り難く思っています。確かに今迄の本ブログ論議は其れ其れに意義深いものでありますが…委員長提案を受けて春に始まった論議を振り返ってみると…論議が盛んに進んでいる部会、全く進行していない部会と残念ながら足並みは揃っていません。又、全体論議に書き込みが集中し始めた時期に「0歳児からの美術教育」の論議提案が成されましたが、中々我々の平素責務である大学に於ける教育への連動性を見出す議論には至っておりません。先の会議では、実際的な観点として各専門分野の教育内容の構造化(体系化)を具体的に進めていく必要性から具体的カリキュラムやシラバスを照合する提案もなされていますが、既にデザイン部会では完全では無いにしろその提案は既に実行論議されています。

山木先生の提案される…『どのような基本的なものの見かたや思考力・探究力・表現力を次世代を担う人々に期待するのかという観点』で学習者としての子どもの学力へ視点を置き…美術という教科の本質論を論議する意義は高いと思います。それが美術という教科の核でありますし論議の方向性を定める観点となりましょう。

私は2つあると考えています。
・美術という学びは「喜び」や「幸せ」を伴う創造的で身体的な学習でありること。
・唯一の解答を求める学問と決定的に異なる夫々が全く異なる回答が有り得ること。

何故?人が幸せを…何時?感じるのか。自己という命そのものの存在を何らかに痕跡を残した時だと思うのです。洞窟の壁面に手形を残すのも獣を描くのも、石で刃物や斧を…角で銛や釣針を…粘土で土器を造り出すのも、獣の皮で衣服を…骨で楽器を造り出すのも…自己が新しい何かを造ることで自己の価値は投影され実体となるからです。絵画/彫刻/工芸/デザインは既に人間が生きる歴史と共に存在し美と機能をこの世に形成して来たと考えることが出来ます。それらの創造行為は生活に「喜び」や「幸せ」を与えて来たに間違いありません。
例えば数学の様に答えが1つしか無い学習は…記憶していることや計算が早いという価値基準で一元的な評価しか出来ません。それは証明していく学問世界であり科学は正にその側に存在しています。しかし、美術は周囲の環境や採取できる材料、見える風景や咲く花に美を感じて生じる…地域性、地方性等の特殊性を持ち時代と共に変遷して繰り返し美による「喜び」や「幸せ」の存在を追求して来ました。解答(*唯一の答え)は求めても…逆説的に存在せず、個による回答(*複数の答えが存在)が有るだけです。だからこそ他教科で成し得ない「個性尊重」「他者理解」という多様性を認め合うという人間としての基本的受容力をが養成できる教科であると捉えています。

小学校の学級に於いて国語や算数は重要であっても美術が軽視されているのは、特に実社会で必要な無いと蔑視され理解されていないからで…実は美術にこそ「生きる力」が内包されていること、他者を尊重する「友愛の精神」が養われることを自覚して教鞭を取りたいと願っています。創造することは人間にのみ与えられた崇高な能力でありましょう。美術には生涯継続可能な学びとそれに伴う幸せが有ると私は信じています。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/11/27 12:47 PM |

学力や評価というと、それぞれ現実的な運用の実態と照らし合わせて、考えを纏めなくてはならないのではないかというお気持ちを抱かれる先生方が多いと思いますが、そのような運用実態の改善策や問題点の洗い出しではなく、それぞれの表現分野や理論分野において、どのような基本的なものの見かたや思考力・探究力・表現力を次世代を担う人々に期待するのかという観点から、お考えをお聞かせいただければ幸いです。

私の意識の中では、内容学研究は学校教育や次世代を担う学習者としての子どもを常にイメージしながら検討しなくてはならないのではないかと思っておりますが、おそらく、ここに集う先生方はもっとマクロな視点から市民に働きかける研究成果の展開を指向されているのではないかと感じています。

前節の、前者・後者どちらの観点からでも結構ですので、次世代を担う人々に期待する能力や学力について、お考えを展開して頂きたいと思っております。
| 山木朝彦 | 2009/11/27 11:40 AM |

 内容学の検討を行なうとき、いままであまり俎上に上がらなかった、硬いテーマについて考えて頂きたいと思います。それは、造形教育を通して、子ども達にどのような力を身につけて欲しいかという問題です。もう少し、学校教育に焦点を合わせると、このテーマは「学力」という言葉に収斂すると思います。
 学校という組織は、好むか好まざるかを問わず、学力を身につけ、その学力が評価される場です。
 私たちが検討している内容学が学校のなかでの教科と結びついている以上、やはり、このテーマを避けるわけにはいかないと思います。この点について、いわゆる理想論も含めて、各専門のお立場から、自由に議論を展開していただくと有り難いと思います。
| 山木朝彦 | 2009/11/26 6:27 PM |

学芸大 石井先生 および皆様へ

スペインからの貴重なご報告ありがとうございます。
私はグラナダでアルハンブラ宮殿を見てM.C.エッシャー同様にイスラムの充填文様に感激し…これはイスラム文化も見ておかねばならないと決意…ジブラルタルを渡りモロッコへカスブランカからマラケシュ迄、若き日に旅しましたので…当時の事が鮮明に思い出されます。美術に於ける描写は「自然の美に始まる」訳ですから…リアルで具象的な再現や観察眼が基礎であるのですが…描写を排除した(つまり偶像崇拝の禁止)は幾何学的な装飾美を得たのです。私は構成デザインというバウハウス教育に発する基礎デザイン(幾何学的形象のデザインへの活用を研究していた講座)を専攻していたので…直感的に幾何学的な美は実は自然の美の核心に潜む「もう一方の自然の美の真相」であると悟ることになりました。それらは現在の『色相環の絵の具』や『鳥の無限連続パズル』に繋がっています。

今回の石井先生の文の中に「Image literacy」の話しがあり…大変、興味深く読ませて貰いました。その概念が既存の美術教育「Fine Arts literacy」と対峙する概念という点に非常に興味を持ちます。欧州の美術教育の価値観「見る」「再現する」という2大テーマは美術の基礎的な段階であろうと思われます。それに対して日本の美術教育は「表現」「鑑賞」であると有りますが…「表現」の中に「見る」「再現する」は内包されているでしょう。問題は「鑑賞」を何処に置くかでありましょう。近年来ずっと、美術教育界では鑑賞教育が注目され重視されて来たように思います。それが、欧州では美術館つまり学芸員の責務であると考えるのは…「美術館に代表される文化的施設を単なる人寄せや興行収入の場」として来た日本と、「市民や国民の文化的財産として守り愛して来た学びの場」として来た欧州との決定的な「国民意識や政治行政の芸術美術に対する考え方の差」では無いでしょうか。

「Image literacy」の「Image」とは人の内なる思考や発想でありましょう。
人間にしか出来ないとても重要なものだと思われます。
其処に欧州の美術教育の先進的な視座を強く感じます。

「見る」「再現する」と比して…
「想う」「創造する」人間にしか成し得ない最も崇高な行為であります。
再現する…ある一定の訓練や修練とは乖離して…次の次元に存在します。

短文ですが…最も強く感じたことが有りましたので書きました。
本教科内容学論議に関係する日本の美術教育の自覚となればと思います。

週末には全国枠推薦入試面接試験館の仕事があり…
いよいよ『色相環の絵の具』がPCT(海外特許)出願となり…展開例の図面化や申請書類の文章作成で実は大慌てです。

石井先生 次はドイツですか…世界中を飛び回ってますね。授業は大丈夫なんですか。ちなみに時差ボケ解消法は私はただひたすら寝て起きず務め定時に起きます。ご自愛下さい。

皆様 論議に参加せず見ているだけでは…折角の機会を失うことに成りかねません。
寧ろ話しや流れが少々飛んでも…螺旋的に目的に向かえば構わないと私は思います。
引き続き闊達な論議、皆様からの書き込みを望みます。

松浦先生、山木先生、池内先生、如何でしょうか。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/11/20 7:39 PM |

学芸大・石井です。

 帰国後3日目になります。前回同様時差ぼけ激しい中通常の授業をこなしやっと本日休業でしたが、4時に目が覚めまた早すぎる起床かと思いきや16時だったという始末です。
 渡辺先生・小澤先生、大変面白い目にお会いになっているご様子、うらやましい限りです。

 国大・渡辺先生ご所望のスペイン報告ですが、この出張は科研費によるスペイン美術教育調査で、昨年に続き2回目の渡航でした。スペインでの詳細は今後だされる報告書にお任せして、個人的に一番の収穫は西洋南限(これより下はモロッコ)・グラナダ大学においても「Image literacy」の潮流があり、西洋北限(これより北は北極圏)ウメオ大から西洋全土に近くこの「Image literacy」の思想は存在していて、普遍的な事象になりつつあるという事でした。
 この「Image literacy」とはどうゆうことかと簡単で申し訳ありませんが説明すると、既存の美術教育を「Fine Arts literacy」と例えるなら、其れに対して「Image literacy」が存在し、美術の実質的機能面を強調しています。
 さらに、西洋の地方都市(南の端という意味で)グラナダのあるアンダルシア自治区に於いてさえ指導要領にあたるもので大きく『見る』『再現する』の2代テーマがあり、対して日本は『表現』『鑑賞』となっています。
 加えて、調査で此処数年西洋の様々なところにてのやり取りの中で「なぜ指導要領のテーマに『鑑賞』が入っているのですか?」と聞かれます。続けて「『鑑賞』は美術館が取り扱う事柄ではないのですか」といわれるのがきまりです。当然うまく返答できず、当惑するのが落ちになっています。個人的には「◯◯◯ complex であるから」と返答用意があるのに苦渋に沈黙するのみです。

 このお話、いきなりご理解して頂くのは困難だと思います。この件も含めて、12月12日学芸大学で開催される委員会にて、委員の皆様と直接お話し出来る事を楽しみにしております。
 
 短文で申し訳ありませんが、時差ぼけの中という事でお許しください。後2週間後にはGPの件で渡独致します。キーボード大きめのPCを持参して参りますので引き続きこの委員会ブログに参加しています、帰国次日が12/12になりますので、またもや朦朧としてしまいそうですが、宜しくお願い致します。
| 石井壽郎 | 2009/11/20 12:01 AM |

横浜国大 渡辺先生 および皆様

 先週土曜日にアメリカから帰国しました。本学姉妹校である西オレゴン大学で私を含め3名の教員が招聘され、私が個展を、書の教授がワークショップを、そしてピアノの教授がリサイタル講演をしてきました。本日久しぶりにブログを開いたところ、渡辺先生のご報告があり、こうして書き込みをしている次第です。

 先の学芸大学石井先生の貴重なご指摘や、今回の渡辺先生のご発言にもありますように、美術の教科内容学をひとつの統一した総合体として志向していくことの難しさを、今改めて感じています。お茶の水女子大の内田先生のご講演内容、非常に心に深く入ってきました(渡辺先生のご報告のリアリティの賜物です)。美術を専門としている私たちが今から俄かに心理学を学ぼうとしても、それは限界があるでしょう。石井先生が言われるような大学外での様々な人たちとの美術を通しての関わりの中から、実証的に心理と表現との関係を結びつけ、そこから総合的知見を丁寧に一つづつ浮上させていくのも、重要な手立てと思います。また、美術表現の内側をまさぐりながら、そこから見えてくる自分自身の心理メカニズムと表現との関係を反省的に洗い出していくことの中から、普遍的な表現のありようが浮上することも、同時に重要と考えます。石井先生が軸足を置かれているプロジェクト系活動からも、また渡辺先生の言われる心理学と美術との直接的スパークからも、また自分自身の制作を深く見つめ思索することから等々、想定できる様々な角度から、同時に各自が模索していくしなかいのだと思っています。全てのメンバーが、同じ一つの角度から志向することは、先のブログでも書きましたように、やはりかなり難しいと思います。今回渡辺先生が出された科研の研究は、その一つの角度を皆が共有する機会を得るという意味では、きわめて貴重なチャレンジと思います。採択の折には、一から勉強する意味で私も研究協力を惜しみません。

 個人的には、来春から某大学の認知心理学コースの連携併任教授を、昨日仰せつかりました。心理学分野では私はずぶの素人ですが、私の個人的な制作分析に共鳴をいただいたようで、つまり、個人的な分析にすぎないと思われるような制作所感(私はこれを「制作学」と自身で定義しています)が、実は認知心理学的には実に貴重な知見であったりするということを、今あらためて感じています。やはり制作を「学」にまで至らしめるためには、自己表現プラスアルファの要素(つまり心理学的知見、神経生理学的知見、その他諸々)を、制作者の足場に身を置きながらも、少し背伸びをして無理ない程度に学んでいく努力が、少なくとも今の私には必要なのだと感じております。その大学での教授としての指導は、もちろん制作者側からの率直なものになりますが、心理学を学ぶ学生たちの場に確実に生じるであろう異分野間のスパークをこそ、当該大学からは期待されているのだと思っています。それは私自身の学びでもあります。来春から与えられたこの学びのチャンスを活かしながら、私なりにその点を深めることによって、美術教科内容学の構築のための一助となれればと思っています。

 埼玉大学の池内先生、そして石上先生、ぜひともご発声いただければと思います。特に彫刻分野のご発言がほぼ皆無であることは、寂しい限りです。鹿児島大学の池上先生、よろしくお願いいたします。横浜国大の渡辺先生ともども、期待しております。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/11/18 9:55 PM |

横浜国立大学の渡辺です。少しだけ続きです。

内田先生の講義は…最大の指摘=「教育レベルの危機」「教員の待遇の危機」「質の劣化の危機」「教師教育制度の問題構造」へと次第に結論に向かいました。内田先生は、日本の教師教育に最も欠落しているのは…専門家教育であって…教師の仕事は誰にでもつとまる仕事=easy workと見なされていること自体に日本という国の問題が有ると指摘されました。最後に本学の取り組みを提示され「自立した研究者として教育の専門家としての教師を養成」「教育―共育―恊育へ」というスローガンを提示されました。

内田先生は…発達心理学、認知心理学の専門家ですが…埼玉大学/小澤先生が過去の書き込みで御指摘の様に、学際的な他学問から美術という教科がどの様に人間の発達に有効に機能しているのか考察する必要がありましょう。又、福島大学/渡邊晃一先生が御指摘するように0歳児からの美術造形教育の可能性を本教科内容学が視座とする上でも、発達心理学、認知心理学、脳科学等の諸科学との関連性についても重要になって来るものと考えます。

講義終了時、内田先生が…まるで学生を相手にする様に感想レポートを配布されましたので…今迄、何処でも見たことのない完璧なパワポ技、綿密なデータ、講義準備、授業後のHPへの授業内容の開示、勿論、北欧視察で感じた文化的芸術的に幸せに暮らす国フィンランドの話しの中で…内田先生が言われた「日本は1つの正解を見つける能力は有っても独創的な発想や応用力思考力に欠ける…全体の20%と削減されて来た図画工作美術等の芸術教科を疎かにしている」と話されたことを起点に本教科内容学のことも少し書きました処…内田先生の目に留まり…講義の後のシンポジウム(多分、この間に読まれたのだと思います)終了後…課程長を介して紹介され…個人的にお話をする機会を得ました。
驚きのパワポの使い手/内田先生が実は平素はMacユザーであること、実は憧れつつ未だ行ったことの無いフィンランドを私が先に視察した時の話、等々…話しが尽きず…取り巻きの他先生方を待たせる事態と相成りました。

小澤先生 学会誌の先生の取り組みや先の書き込みを読んでも…我々が教科内容学論議で成し遂げようとすることが…如何に大変であり、且つ価値のあるものだということが解ります。是非、私の書き込みに返信を下さい。
石井先生 もう戻られましたか?私の最も憧れる国、スペインの美術教育事情等、書き込み下さい。
内藤先生 そう言えば…貴方もスペインでしたね。是非、論議に復帰して下さい。

最後にもう一回…未だ委員で発言されていない先生方、書き込みお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/11/18 4:41 PM |

委員の皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
松浦先生のお考えを察し彫刻部会からの書き込みを心待ちにしつつ居りました。前回の会議には出席できませんでしたので信州大学/藤田先生から送信戴いた纏めを読み議論の方向性について考慮しているところです。

先ず提案です。委員長を差し置いて誠に僭越ですが…
新規委員に選出された方に先ず部会に自己紹介というか挨拶の書き込みをお願いしては如何でしょうか。埼玉大学/教科教育/池内内慈朗先生、埼玉大学/彫刻/石上城行先生が該当します。又、委員で未だ書き込みをされていない方、兵庫教育大学/教科教育/福本謹一先生、愛知教育大学/美術史美術理論/高鷲 純 先生、山梨大学/教科教育/栗田信司先生、富山大学/彫刻/長谷川総一郎も同様に先ず各部門へ書き込みをお願したいと思います。

松浦委員長の2つの議題による論議再開の御意思は…
1.美術教育を国民に判りやすく明確にする 教科専門の構造化(体系化)と教科教育との連携
2.「0歳児からの美術教育」「地域社会とのかかわり」について検討する 美術教育に於ける『基礎・基本と総合性』基準を模索する になると思います。
先の科研費申請に於いて…私は『0歳児からの生涯教育「美術が人間に与える幸せ」に基づく美術教科内容学の研究』と題して要求書を作成しました。全体論議| 松浦 昇 | 2009/06/30 12:28 PM |の書き込みにある「レッジョに調査行きたいですね。科研費とれないでしょうか。」の委員長の御言葉を忘れず…本委員会から抜粋視察団によるイタリア/レッジョ視察、『Art for Life : Authentic Instruction in Art』著者 T.アンダーソン(フロリダ州立大学教授)への米国/ヒアリングを予定、本論議を纏め学術書としての出版費用の捻出をも含んでいます。熱く語ったのは、日本が経済最優先に走り企業中心の科学技術立国に邁進する中、美術教育の価値である「個性尊重他者理解」「独創性創造性」の教育を周辺教科として軽視して来た結果を糾弾し、美術教育こそが幼児期から老齢期に至るまで国民に幸せを与えうる教科であると結んでいます。山木先生、小澤先生の貴重な助言を賜り…取らぬ狸の皮算用ですが…此の場を借りて御礼申し上げます。

過日、本学でホームカミングデーが有り…併せて先の私書き込みデザイン部門| 渡辺邦夫 | 2009/07/15 8:43 PM |に有る『教育デザイン研究会』第1回大会「未来の学校現場を創る教育デザイン」―研究・指導・実践の連携―が本学大教室で開催され参加しました。教員養成課程が今迄の教科による縦割りでは無く教科相互に連携し附属校の教員や教育委員会とも連携してより学部大学院6年による
高いレベルの教員養成を目指しての本学の取り組みが開示されました。お茶の水女子大学大学院教授/内田伸子先生(発達心理学、認知心理学、言語発達学、幼児教育、保育学)が講演者に招かれ「未来の学部教育のデザイン」―認知発達型から臨床創生・交流型への転換―という招待講演が有りました。「創意工夫」では有りませんが…内田先生の講演は「考える力が弱い子ども」から始まり…PISA調査に元づく日本の生徒の「数学科学的な応用力/読解力の低下」が指摘され…2007年全国学力学習状況調査に元づき「自分で考え判断する力・知識技能を活用して思考し表現する力に課題がある」…2008年同調査では「自分で考え判断する力・知識技能を活用して思考し表現する力にに欠如がある」と深刻になったと続きます…更に「言語力重視」「交流型授業」による全教科が考える力・言語力に集約する授業提案…ハーバード大学「問題解決交流ゼミ/ニューパスウェイ」スタンフォード大学「心理学入門」の解説…「書くこと考えること」の構造的理解…「新しい知の構造」「教師教育の課題」―フィンランドの教師教育―教師−「国民の蝋燭」へと進みました。特にフィンランドが学力世界一となった要因として「児童期〜思春期の読書活動」「父親の読み聞かせ」「芸術科と他教科との恊働」があげれていました。欧米諸国では1980年代に教師教育レベルは学部から大学院レベルに既にグレードアップ…フィンランド=修士号、米国=半数が修士号、フランス等=大学院レベルとの報告も有りました。
特に衝撃だったのは…世界と比較した教育予算の格差でした。2005年GDP比に於ける諸外国の教育予算は…1位アイスランド7.2%、2位デンアマーク6.8%、3位スウェーデン6.2%、4位フィンランド5.9%、仏、英、カナダ、オランダ、韓国、伊、豪…日本はOECD加盟国中…14位と最低なのです。
(少し続きあり)
| 渡辺邦夫 | 2009/11/18 4:14 PM |

金沢大学の松浦です。


 9月25日に開催された第1回教科内容学検討委員会の議事録(纏め)が信州大学の藤田先生から送られてきましたので、学芸大の石井先生に全体議論に掲載をお願いしましたが、スペインからということで簡単にはいかなかったので、横浜国大の渡辺先生にお願いしました。石井先生と渡辺先生、ありがとうございました。
 藤田先生から修正箇所があれば指摘して欲しいと言われていますが、時間的なこともあって私ひとりが意見を述べるよりも、全体議論で紹介して、思い出しながら議論を深めていったほうが生産的ではないかと判断し、掲載いたします。
 藤田先生、ご苦労様でした。
 
 ところで、ポーランドのワルシャワ大学を訪問して、EU加盟大学間の交流システム等のダイナミックな改革は、大変、興味を引くものでした。しかし、今回は金沢大学とワルシャワ大学間の交流協定締結にむけての話で、ワルシャワ大学を訪問しましたので、そのことについて詳しく調査できなかったのが残念でした。
 ベルリンの壁から20年ということで、その後のドイツやポーランド等の東欧諸国の改革の成果が問われています。私がみてきたポーランドの20年は、まずまずではなかったかと思います。
 ポーランドの教育制度が初等教育8年、高等教育4年制が、6、3、3制に改革されたとワルシャワ大学の教授から聞いた時これもEU加盟の影響と思いました。EUの教育政策に眼が離せないと強く思って帰国しました。
 全体議論の話に沿ってはいませんが、今後、日本の美術教育もEUの教育政策から学ぶことがあるかもしれません。
| 松浦 昇 | 2009/11/09 1:50 PM |

教科内容学検討委員会報告

日時:平成21年9月25日(金)14:30〜17:30  
場所:ナディアパーク国際デザインセンタービル(6F共同研究会議室)

1.  出席者:松浦昇(委員長・デザイン部会)、渡辺晃一(絵画部会)、池川直(彫刻部会)、藤田英樹(彫刻部会)、石井壽郎(工芸部会)、鷹巣純(美術史・美術理論部会)、山木朝彦(教科教育部会)、永守基樹(教科教育部会)、池内滋朗(教科教育部会)
2.

 討議に先立ち、委員長から本日の議論の方向性について、福本謹一副委員長(兵庫教育大)から各委員に送付のあった教員養成としての教科内容学の視座を参考に議論を進めて欲しいという要望があった。
 以下、本討議の中で出た意見を項目としてあげる。


・ 各専門分野の教育内容の構造化(体系化)を具体的に進めていく必要性がある。方法として ○具体的カリキュラム(各大学のカリキュラムを参照し合う)○複数の部会で関わり合う部門のシラバスを出し合ってみる。○社会教育の接点を探る議論。など。
・ 抽象的議論より調査から始めてはどうか。調査項目を決め、地区会等で取りまとめたらどうか。
・ 絵画部会ではすでに絵画教員のシラバス調査など基礎的な調査を行った報告はあるが収集したデータをどのようにまとめるかなど課題もおおくある。
・ 教科内容をどこまで教えるかではなく、美術を教えるときの領域をまたいで話せる部分もあるのではないか。教科の枠としてまとめる必要があるのか。
・ シラバスを出していくのは大切、美術という教科内容を大きなまとまりで考える。
・ 今後に向けて視点を提示するのは大切である。
・ 美術の基礎教育を考えていくことで領域を超えた討議が可能ではないか。
・ 各教員の専門性によって応用できる今までの枠でないものを見つける。
・ 各ジャンルのシラバスから大学における本来の基礎教育とはという大道について討議できる枠組みを作る。
・ 個々の専門が具体的に教科書とつながっている部分を考える。
・ 現代性のあるテーマの授業(トピックのある授業)についてモデルの例示、教員養成大学の参照枠の提示。切実な課題は何かという現状を把握。
・ 現代とは何かという課題による考え。
・ 非美術系の小学校課程の学生を取り込んでいけるか。
・ 現代社会のトピックに基づいた授業。
・ 伝える相手がどことリアリティーを持っているかによった大学教育。
・ 各領域の基本基礎部分とは何か。
・ 美術はなぜ必要かということを、美術を専門としない人たち(学生)にどう届けるか。
・ 大学で教える内容が小中高と同じではだめ。
・ 非美術系の小学校の学生は取り込んでいけるか。
・ 小中高の中で全ての人が楽しめるべきアートが諸学に浸透していくには。
・ 現代的な教科内容を考えていく。
・ 各大学のシラバスを共有し現状の把握を行う。
・ 0才児からの美術教育をグループを作って検討する。

信州大学 藤田英樹
| 藤田英樹 | 2009/11/09 12:18 PM |

学芸大学・石井です。

 小澤先生、わざわざのご回答ありがとうございます。なにか中国からお帰りになってからトーンダウンしているように感じるのは私だけでしょうか。以前から小澤先生の発言に対し書き込もうと思っていたのですが、少しだけ私なりのスタンスについて書かせていただきたいと思います。
 基本的に小澤先生のスタンスと同じ様にあくまで美術域始まりで教育に関わろうとしているのですが、たとえば小澤先生が専門外とおっしゃる地域プロジェクト系の表現形態は、私には個人的なことから社会に広がっていく上で必然的表現形態ととらえられています。それと同じ意味で、物的・空間的ではないにしろ別領域として教育域があり、そこに美術が関わっていく地域プロジェクトなのだととらえているのです。
 さらにもともと美術要素の中に「教育」というより「学習」という機能はあってそれこそ「自己」が世界を掴んでいく意味で「自己学習」しているともいえるのではないでしょうか。これを「作家」に当てはめると「作品」は自習の成果であり、そこに新たなる自己を見出しているともいえるのです。これは渡辺先生の押されているラカンの「鏡面の中の自己」にも通ずる事象ともいえる関係なのではないでしょうか。現況の私に当てはめれば、デザイン域で当たり前のマーケッティングリサーチをするが如く、ここ数年教育域をフィールドワークしている状態です。教育域を「メディア」と捕らえればそのメディウムを素材・形態とした美術で新たなモノに変容させていくこの活動は、名づければ「美術教育」ではなく「教育美術」にあたり、「美術」を教育するのではなく「教育」を美術していき世界を変容させる。その世界の中には「教育の新たなる概念」も当然含まれるでしょう。私がイメージする教科内容学に当てはめれば「教育」で成長を促す。つまり、「教育」で自己を見出し世界に働きかけていく感覚です。これが私にとって小澤先生がおっしゃっていた「スパーク」にあたることなのです。あの小澤先生のご発言時にはデンマークでiPodに四苦八苦していて反応できませんでしたのであらためてここで書き込ませて頂きました。

 ここまで各方面に失礼に聞こえ、愚の骨頂に見える発言なのかもしれませんが、私の大真面目というより真剣な考えだとお受け取りください。付け加えて補足させてさせていただけば、私が教科専門と呼ばれる実技系だからイメージした事ではなく、もっと根本的に「石井」という個人として「美術」という行動形態で「教育」というフィールドにおいて社会(世界)に働きかけていく表現として発言させて頂きました。

 ちなみに「創意工夫」の注釈ですが、「創意」はそのまま創造する、「意味表象」していく意思を表しており、「工夫」はそのままそれをする「人」を表し、「工夫する」で考えれば自分にとって新たな方法・方向性を見出す、言い換えれば新たな自分の思考を見出す、自己発見する。と、とらえて命名に選びました。「美術」といわれる事象の機能・効能面からの命名でしたが、やはりブログ再開後ご長文で回転し始めているので、いらぬ老婆心だったかもしれません。

 以上今回の出張には大きなキーボードがあることを良いことに書き込まさせていただきました。皆様ぜひともご意見ご発言よろしくお願いいたします。
| 石井壽郎 | 2009/11/04 10:16 AM |

学芸大学 石井先生への回答

 スペインでの研修お疲れ様です。世界中を駆け回っていらっしゃいますね。かくいう私も今週金曜日からオレゴンです。提携校西オレゴン大学での展覧会、および書道と現代ピアノの先生を伴って、それぞれがワークショップを行います。連携の教員レベルでの実質的活動の始動に及ばずながら尽力しております。

 明治以来、「美術」と命名されたコトを貴方なら何と命名しますか?

との石井先生のご質問への私なりの回答を考えてましたが、なかなかいい考えを思いつきません。あえて答えれば、「美的価値の創出」とでもいい変えられるようには思います。「創意工夫」という語は深い意味を含むと思いますが、絵画や彫刻などの内的世界の表出を含む表現には、少しなじまないように、私には感じられます。
渡辺先生が回答された「人間が人間であることの美による証明=自己確認…そのための創造的行為」は、私の言い換えをさらに具体的に定義されたものと解釈しました。「美の創出を通した自己確認」あるいは「美の創出を通した自己発見と自己肯定」ともいい変えられるかもしれません。少なくとも私には美術は自分の知らない側面を知らしめてくれる魔法みたいなものです。それはあまりに個人的な答えですね。

以上、答えらしいものにはなりませんが、ご回答まで。金曜日から一週間ほどブログ書き込みができないことをご容赦ください。

ではみなさんの活発な議論の行方を帰国後楽しみに拝読させていただきます。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/11/03 9:56 PM |

構造化のキーワードとして、「基礎」、「基本」、「統合」の3つの言葉が上がっていましたが、各分野の「基礎」「基本」にあたるもの、それをとりあえず羅列的に導き出し明るみに出すことが先決と考えます。
その先の「統合」を発信者が行うことは、前述のようにややもすれば危険です。『絵画の教科書』が参考になるかどうかは分かりませんが、ああしたそれぞれの分野の『○○の教科書』がまずは必要なのだと思います。「映画」とか「編集」とか、いろいろ現在出版されています。しかし大学の教員が書いた『彫刻の教科書』『デザインの教科書』『工芸の教科書』はありません。まずは大学の教員が、こうした『教科書』作りから始めねばならないのではと思います。今更絵画、彫刻などと分類するのはどうかなと思われるかもしれません。しかし、現在に至るまでそういう類のものがなかったのですから、これまでの検証の意味でもやはり必要と思います。絵画ばかりが先に終わっているから気楽に言っているなどと思わないでください。私たちがあれを作ったのは、今から10年ほど前、それ以前にはあの類の本は皆無でした。それ自体が信じられないことです。戦後新制大学制度が施行されてから50年以上もたっているのに、その間に美術の実技系教科専門の教員は何をしていたのでしょうか?自分は作家と思い込み、大学で給料をもらっているにもかかわらず、大学の仕事を片手間と考え、制作に余念がなかったのでしょうか?私たちは大学人としてのある種の責任感をもってあの本を作りました。私たちは作家でもありますが、あくまで大学人です。

 美術教科内容学を具体的・本質的に進めていくためには、まず足元からしっかり検証していく必要性を私は強く感じます。ここ半年のブログでの意見交換は、知らないことが分かり、私個人にとってはとても有益でした。ただ、先生方の膨大な貴重なご発言を、ではどう内容学として一つにまとめていくか、といったときに、はたと戸惑います。取っ掛かりをどこに置いたらいいのか、少なくとも私には現在に至るまで分からないでおります。「0歳児からの美術教育」という標語も、正直私には距離感を感じます。というよりも、それを標榜して大学で学生に絵を指導する局面が、私には想像できないのです。私は全く幼児教育に関ったこともなく、それに関わろうという主体的な志向性ももっておりません。ですから実感のある発言はそれについては正直できません。是非ともそれに相応しい先生方が、実感をもって進められていかれるべき有意義な目標だと思っております。
 
 私の意見としては、まずは各専門の基礎基本をきちんと整理することから始めるべきだと思います。それは表面的な技法や素材等から内的な問題(発想、構想、問題意識等々)まで、広がりと深みをもつ基礎基本であるべきと思います。それを考える際に、もし学校教育の現状と絡めて考えると、本質を見失うことにもなりかねません。学校教育は、そうした基礎基本の教育の場での応用実践であると思います。それはまた別の回路で志向されるべき問題だと思うのです。特に教科教育学の先生方との共同研究がそこで必要となってきます。実技系教科専門の教員の研究の軸は、まず最初は純粋に美術的問題の思考にあると私は思います。

 ずっとこのブログの議論に参加していて、自分が一体何をすればよいのか、見えなくなってきているのが実感です。私自身のポリシーは、自分の絵画上の問題意識を解明していくことにあり、全くそれは純粋に美術的な問題であり、教育の問題とは乖離しているものです。自分の美術的問題を暴いていくことのなかから見出されるものが、結果的に他者へと、そして教育の問題へと普遍していく、そういう実感はありますし、本来そうあらねばならないとは思っています。しかし、あくまで始めに自分ありきであって、始めに子どもありきではないと私は考えます。美術的問題と教育の問題とは、ある程度別々に考えるべきと思います。だからこそ、大学には実技の教科専門教員がおり、教育のプロパーがいるわけですから。それぞれの実技系教科専門領域が、それぞれの基礎基本をその表層から深層まで明らかにし、それらを叩き台として、教科教育の専門家とともに、その有効な教育的還元の方法を探る、という流れが、美術教科内容学を考える上でもっとも混乱なく、かつ今後新しい何が必要なのかという問題も、そこから露見してくるのではと思います。教育上のいろいろな要素を想定しなければならなくなると、自分の本来の美術思考が本当にぼやけてきます。私の能力不足の所以です。

 以上、少し長くなりましたが、私の最近の内容学に寄せる考えを書かせていただきました。私は私の出来る範囲で、この問題と取り組んで行こうと思っております。
| 小澤基弘 | 2009/11/02 1:22 PM |

皆様

本日久しぶりにブログを開き、スペインからの石井先生のご発言、渡辺先生のいつも変わらない熱のあるコメント、そして前田先生の前回のシンポの要約を拝読させていただきました。特に前田先生の要約は、シンポの内容を把握するのにとても役立ちました。

「教科内容学とは、美術という教科を社会に向けて分かりやすい形で提示する事を目指す」とするその目的は明確で、まさにそれを私たちは目指しているのだと思います。「そのために教育内容の構造化、体系化が必要である」こともまた然りです。その手法として、「現在行なわれている授業のシラバスを精査し、そこに共通してみられる教育的要素を整理、統合する事も考えられる」とありましたが、前田先生もご指摘のように、先行研究の中でその作業量の膨大さと煩雑さにより、その後の進展が阻まれている例もあるということは、私自身がかつて絵画のシラバスを検索し、その膨大なデータをもてあました実感があり、ものすごくその作業の大変さが分かります。全く結論も出ていません。また、どのように整理するのかという問題も確かにあります。ただ、この分類については、これから先を見通して逡巡するのではなく、現行から出発する必要があると、私は考えます。未来の教科内容学を考える前に、今現在までに私たちが行っている内容学を、整理・構造化することが先決と考えます。未来を射程に入れると、確実に混乱が生じると思います。

「最終的には教科書的なものとしてまとめられるようにしたい、ただし、それは規範を示し授業をマニュアル化するようなものであってはならない」とのこと、その通りだと思います。つまり、各教員が行っている授業の実践例を羅列しても仕方がないということでしょう。その背後にある授業理念、それは各教員の美術観に裏付けられたものだと思います。その理念を前面に示すべきと思います。「教科内容学の検討対象は、基本的に広く美術全般の問題として取り挙げ、単に学校教育の中に留まるものではない」とする永守先生のご発言があったとのこと、前田先生もおっしゃっているように、そういうご発言を教科教育の先生がなさることは、心強い限りです。私は現場の経験ゼロです。そういう人間が、学校教育の本質的課題を理解できているわけがありません。表面的には知っている振りをしなければならない局面もあります、が、そこを足場にして美術(私の場合は絵画)を語ることは、到底できません。私はその部分に関しては完全に距離をおいて考えています。ですから「0歳児からの美術教育」という考え方には、私個人としては、大事な問題と思いつつも、残念ながら深く関われないと思っています。

私がこのブログを通して述べている自身の制作を「学」的に振り返り考察するという視点、これは「制作学」と呼ばれるものですが、特に実技系教科専門の教員は、ほぼ全てが作家でありデザイナーや工芸家であったりするはずですから、当然のことながら各自の制作学をその根底にもってみえるはずです。そこをそれぞれが明るみにし、まずはそれらを横並びに並べてみることが必要だと思います。最初から全てに普遍する考え方が出てくるはずがありません。最初からそういう理念で臨んでしまうと、「ああ、到底無理だなあ」と諦めざるを得なくなります。しかし、まずは自分の問題から平たく攻めていけば、そこから普遍へ向けての展開は可能だと思います。

特に実技系教科専門の教員は、「学校教育」を横目に入れつつも、やはり自身の王道である「美術の問題」を探り、かつ整理し他者に向けて示していく必要があると思います。『絵画の教科書』は美術としての「絵画」に関わる問題を、羅列的に横並びにして示しただけの入門書で、それらを統合しようとか、何か一つの結論を導き出そうとしていません。それは不可能です。しかし、そういう数多くの絵画の問題を羅列するだけでも、そこから大きな「絵画というもの」の正体が見えてきます。あとは、それを読む人たちが、そのなかから自分に必要な要素を導き出してネットワークでつなげていくしかありません。それはもはや発信者の側の問題ではなくて、受け手の主体性に委ねられます。

私たちが今考えている教科内容学も、基本的にはそのようなものではないでしょうか。無理矢理に構造化しようとか、統合化しようとすると、強引な誘導や解釈がそこに介在せざるを得なくなります。確かに構造化という作業には魅力を感じますが、本来の構造化や統合化は、受け手が受け手の美術観に基づいて主体的に行うものかもしれません。

構造化のキーワードとして、「基礎」、「基本」、「統合」の3つの言葉が上がっていましたが、各分野の「基礎」「基本」にあたるもの、それをとりあえず羅列的に導き出し明るみに出すことが先決と考えます。
その先
| 小澤基弘 | 2009/11/02 1:19 PM |

北海道教育大岩見沢校 前田です。
9月25、26日はお疲れさまでした。あれからあっという間に後期が始まり再びゴタゴタの渦中に巻き込まれている毎日です、皆さんもおそらくご同様の事と思います。今回も、直接、皆さんにお会いして協議できた事は、私にとって大変貴重な機会となりました。有り難うございました。(大学院入試の関係上、学会には参加しないままで失礼してしまいました事、どうぞご容赦ください。)

今回参加してあらためて感じた事は、この教科内容学が扱う対象の大きさと、教大協美術部門の中での期待の重さでした。

少し時間が経ってしまいました。(また、信州大学の藤田先生が、後ほどもっと詳しくまとめていただけるとの事ですので、以降の書き込みはあまり意味をなさないかも知れませんが)複数の先生から提出された議論内容を私の認識の範囲で、かなりおおざっぱに纏めてみます。欠落している視点や、補足が必要な点、認識の誤りなどがありましたら、松浦先生、ご指摘をお願い致します。
&#9312;教科内容学とは、美術という教科を社会に向けて分かりやすい形で提示する事を目指す。そのために教育内容の構造化、体系化が必要である事。その手法として、現在行なわれている授業のシラバスを精査し、そこに共通してみられる教育的要素を整理、統合する事も考えられる。ただ、先行研究の中でその作業量の膨大さと煩雑さにより、その後の進展が阻まれている例もある事。また、どのように整理するのか?はたして現在の絵画、彫刻などの枠組みで良いのかどうか?など検討課題として残されている。
&#9313;最終的には教科書的なものとしてまとめられるようにしたい、ただし、それは規範を示し授業をマニュアル化するようなものであってはならない。また、教科内容学の検討対象は、基本的に広く美術全般の問題として取り挙げ、単に学校教育の中に留まるものではない。
&#9314;構造化のキーワードとして、「基礎」、「基本」、「統合」の3つの言葉を挙げたい。
「基礎」とは、氾ジャンル的な教育内容であり、諸科学の中から美術に関わりのある知識の体系(この部分は私が勝手にふくらませて捉えています)。
「基本」とは、絵画、彫刻、デザイン、工芸などそれぞれの専門に求められるベーシックな能力。
「統合」は、それぞれの専門の中で最終的に求められる自己表現のあり方、独自性、作家性?など。

議上で使われた言葉を正確にはトレースできておらず、私が勝手に置き換えてしまっている言葉もありますが、あくまで私の認識の範囲での解釈です。この他にも愛知教育大の鷹栖先生からの問題提起など、個人的に気になる事もありますが、これは私ももっと考えて、別の機会に議論をしたいと思っています。
さて、以下はさらに議論を受けて私が個人的に感じた事を述べてみます。
&#9312; に関しては、横浜国大渡辺先生の好リードにより、このデザイン部会ではすでにブログ上で踏み込んでいる事で、他の部会に一歩先んじている感もありますが、全体の進行の中での視点の定め方によっては、もう少し別な角度からの検討も必要になってくる事も考えられますね。
&#9313; はすでに「絵画の教科書」をまとめられている福島大の渡邊先生がおられますので、絵画部会は大きく進展しているように思えます。実はまだ私はその本を見ておりません、すみません。近いうちに取り寄せて眼を通しておかなければと思っております。また、議上でも発言しましたが、和歌山大学の永守先生の教科内容学は基本的に美術の問題として考えるべきとのご意見、個人的に大変勇気づけられました。それならば私でも何かお役に立てる事がある…と。
&#9314; の「基礎」の部分で、氾ジャンルという言葉をもっと広義に捉えるならば(例えば、社会、人文、自然の諸科学の中で美術と関連性のある知識の体系を含めて)、鳴門教育大の山木先生にご紹介のあったアイスナーのDBAEの実践例が劇的に活きてくるような予感がしています。また、0歳児からの美術教育もここが重要な決め所となるのではないでしょうか?それと、「基礎」「基本」「統合」は、構造的にループを描く事ができるのではないかとも思いました。例えばカルダーの「統合」の結果であるモビールの概念(又は手法)が基礎造形の題材として有効に用いられている事や、印象派の表現が当時の色彩に関する科学的発見に基づいている事など、いろんな例を挙げる事ができるように思います。

ここまで、あえてデザイン部会に書かせてもらいました。委員会での議論を受けて、デザイン部会での進展をはかる事ができるのではと思っています。北海道、今朝雪景色に変わりました。
(すみません、デザイン部門にコメントする入り口が見つかりませんでした
| 前田英伸 | 2009/11/01 10:56 AM |

皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
愛知大会以来、休日返上入試業務、科研費申請、後期授業等々多忙の中、此処迄の纏めの書き込みを持てとの指示もあり…かなりの月日が過ぎた感があります。彫刻部会、美術史美術理論部会からの書き込みを心待ちにしつつ居りました。又、桂林で御活躍された埼玉大学/小澤基弘先生の御様子に対する書き込みも結果として返信の期を逃してしまいお詫びいたします。

学会愛知大会では…松浦委員長の教科内容学検討委員会立ち上げの意義目的の御発言と此処迄の経緯についての説明があり、絵画/デザイン/工芸/美術教育部会から壇上に上がられたパネリストより各部会毎および全体論議に関する所見が述べられました。会場から幾つかの質問もありましたが質疑返答は価値あるものだったと思われます。特に教科専門(絵画/デザイン/工芸)各部門内の論議が闊達に振興する中、教科教育から鳴門教育大学/山木朝彦先生、和歌山大学/永守基樹先生が登壇されて美術という教科に於ける実技と理論の両輪が揃ったという感覚が得られたのが大きい進展であったと個人的には感じました。本来、私目が報告するのも変ですが…小澤先生の御指摘に対して簡単ではありますがお答えいたします。

松浦委員長の2つの議題による論議再開の御意思も充分に理解しつつ…
マドリッドに居られる学芸大学/石井寿郎先生の遥か遠方よりの書き込みに触発され…
先ずは肩慣らしということで…少々、書いてみたいと思います。

明治以来、「美術」と命名されたコトを貴方なら何と命名しますか? ですか。。。
随分、唐突で意外な質問ですね。けれど…其の意外性に寿郎先生の貴重な人間性を感じます。

石井先生の命名「創意工夫」は…実は私も平素より板書している好きな言葉です。唯、他の教科専門の学生達も必修で履修する『小教専図工』という小学校免許に関する授業の「世界に1つしかない時計を作ろう」(前述/八重樫先生への返信2009/08/26 3:41 PM)での板書です。工作的内容、他者と異なる表現の優先性、外形の切断/表面の彫刻/彩色及び描画/他の素材の接合等の自由鵜奔放な試みを試すこの課題にとって「創意工夫」という言葉がピッタリだと思い…ある時期から私は無意識で板書するようになっていました。

専門教育の授業では…「創意工夫」は全く板書しません。あまりにも当たり前だからでしょう。

私がこの「創意工夫」という言葉が心に焼き付いた経緯は…前任地での研究授業で附属校に訪れた際に美術室に大きく標語として張り出してあったのを目にした時です。そのまるで工場の中に良く見る標語のような風体、つまり「整理整頓」「安全第一」のように見える四字熟語(標語)だった「創意工夫」は…素直に私の胸を打ちました。「創意」とは何か…誰もやっていないような新しい創造的なモノを作ろうとする昂揚する意思であり‥その創造的意思が美術にとって肝要である訳です。その創ろうとする意思に続く「工夫」とはその創造を具体化する制作そのものであって…付随して画材や技法や道具選択や道具自体の工夫や制作進行過程(制作を行っていく適順)さえも含む美術という制作に存在或は内在すべき思考力と技術力であると…直感的に思ったのです。

その意味で此の言葉「創意工夫」は…「整理整頓」「安全第一」と比し…非常に深い美術という「人間が営々と行って来た創造的な造形活動の本質」を捉えている語であると思います。美術教育にとって意義のある基礎修練であったとしても単なる技法修得や伝統的技法伝承という良く美術学習の基礎段階に据えられる教育=和歌山大学/永守先生の御意見「美術教育における基礎・基本と総合性」にも繋がるという予感が有りますが…そう言った基礎技法基礎修練という地味な教育が有ってこそ始めて…その先の飛躍的な変容や深化が有り得るという美術教育の段階的学習の本質をも含んでいると解釈することができます。
つまり「創意工夫」は…「好き勝手」「自由きまま」な手遊びを大切にしても…これ迄の経緯、先人の努力の結実としての美術を決して疎かにしないという「制作者の謙虚な自戒の念」が込められていると私は直感的に感じてるのです。勿論、喩えそれが評価されようが評価されまいが「次の一歩は俺が創る」といったクリエーターとしての「気概の存在」なのかも知れません。

結論として…明治以来、「美術」と命名されたコトを…私は…
「人間が人間であることの美による証明=自己確認…そのための創造的行為」としてみます。

小澤先生、渡邊晃一先生、山木先生、永守先生、八重樫先生、前田先生、内藤先生、他、皆様も書き込んで下さい。さあ、論議再開しましょう!

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/11/01 8:49 AM |

学芸大学・石井です。

 9月に名古屋でお会いして以来、早一ヶ月が過ぎました。この検討ブログを気にしつつも諸々の事に忙殺されながらあっという間にすぎまして、松浦先生と同様に今度は昨日からスペインに出張して現地教育省・小学校・編集社を訪問する予定、只今マドリッドにてこの書き込みをしております。
 ブログ再開ではありますが、今の石井のように時差ぼけ感覚がぬぐえず、書き込みの感覚が掴みづらいのは皆様も同様ではないでしょうか。とはいえ迫ってきている12月12日の会合を思えば論文と見ま違うばかりの長文で回転する事は必至でしょう。今のうちに肩慣らしの意味も含めまして、話題を提起させていただきます。
 松浦先生のお書き込みにも御座いましたように今後この検討内容も基礎基本へ議論が向かっていくにあたってコンセンサスを図っていく意味を込めまして、話題を提供させていただきます。

 明治以来、「美術」と命名されたコトを貴方なら何と命名しますか?

 これは私が美術関係者や各年齢の学生や一般人と美術ということを基に活動するときに問いかける話題です。その命名の内容で対象者の美術内での重心がつかめる問いかけとしてコンセンサス促進を望むことができるのです。
 ちなみに私は「創意工夫」と命名するとここ十年くらいは答えております。諸々注釈はありますが、明治以前から有り、どんな人にも関係性が深い言葉であることが根拠になっています。またもや答えのない問いかけとお思いでしょうが、議論はじめの肩慣らしとしてご利用ください。
| 石井壽郎 | 2009/10/30 4:15 AM |

金沢大学の松浦です。


 9月25日に開催された第1回教科内容学検討委員会の纏めから全体議論を再開したいと考えていましたが、纏めが遅れているようですので、このまま待ち続ける訳にはいきませんし、委員からの要望もありますので、議論を再開したいと思います。25日の委員会では美術史や彫刻分野からも意見が出され、その議論を思い出しながら、(間違っていたらご指摘ください。)議論を進めるために提案したいと思います。
 1.まず、美術教育の全体像を、国民にとって判りやすく、明確にする必要があるのではと思います。そのために各大学間を超えて教科専門の構造化(体系化)と教科教育との連携が必要です。各大学のシラバスから調査を始めることから始めてはとご提案がありましたが、和歌山大学の永守先生のご意見、「美術教育における基礎・基本と総合性」について、各分野から、また、分野を超えたご意見をください。例えば、大学における基礎教育とは何か、ということは分野を超えて構造化(体系化)する必要があると思いますがいかがでしょうか。ある分野(美術史)は意見が出しにくいと思いますが、視点を変えられてご意見ください。
 2.福島大学の渡邊先生のご意見「0歳児からの美術教育」については委員会の中では合意されつつありますが、渡邊先生の美術教育の視点の一つに「地域社会とのかかわり」があります。これは美術教育の『基礎・基本と総合性』はスタンダード化を追求できますが、『地域社会とのかかわり』は各大学、地域でのオリジナリティが求められます。この『地域社会とのかかわり』について議論を深める必要があるように思いますので、ご意見ください。
 以上の2点から議論を始めてはいかがでしょうか。まだ他に建設的なご意見があったように思いますので、ご紹介かたがたご意見ください。
 ところで、私事ですが、明日から4日まで、ポーランドへ公務で出かけていますのでよろしくお願いいたします。
 
| 松浦 昇 | 2009/10/28 9:39 AM |

国大 渡辺先生 皆さま

長らくご無沙汰してしまいました。無事中国から戻りました。もっと早くこのブログを開くべきだったのですが、その後新潟大のアートプロジェクトに参加しており、今に至ってしまいました。

渡辺先生からは熱いエールをいただき、感謝です!先生のエールのおかげもあって、無事に桂林での制作を終了することができました。大作一点(454×162僉砲10号を27点一組描いてきました。それらは来年春に上海彫刻公園内にある月湖美術館で展示されます。渡辺先生のおっしゃるように、同僚の高須賀先生の紹介で、伊藤隆道先生推薦という形で、今回のシンポに参加いたしました。

桂林で絵を描くということは、絵の中で絵を描く感じで、風景をそのまま写したら、即絵になってしまい、いやなり過ぎてしまい、逆にある意味では不自由な感もありました。とても贅沢な感想です。たぶん生涯に一度しかない貴重な経験をすることができました。

自分のことばかりですみません。学会でのシンポの様子、全く誰からもまだ伺っておりません。どのような結論が得られ、また今後どのようなかたちで、どう進んでいくのか、簡潔でよいので、渡辺先生あるいはメンバーの皆さまのなかから、私にご教示いただければ幸いです。本当に勝手ばかりで申し訳なく思います。

取り急ぎ手短ですが、帰国の報告とお願いまで。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/10/14 6:34 PM |

(続きです)
開戦当時、日本は欧米列強から解放すると言って実は満州を強引に作って侵略し…中国は苦難の果てにようやく共産主義で国家独立を果たすも…歴史上、運命的に幾度と無く切り裂かれていた中国…私の叔父と従兄弟(父と息子も又)…全く方向が逆な『同じ中国を思う心』によって長く切り裂いていたと言えます。現在の中国は、壊れて地に落ちた共産主義の理想、甘い自由経済主義の蜜…どうしようもない現実の乖離…矛盾を孕んだ共産党党統制下で奇跡的発展が危ういまま膨らんでいます。

西洋の楽器や芸術をブルジョワの腐敗と弾圧…魔女狩りの様にヴァイオリンやチェロを公の広場で山積みにして火を付けて焼いた狂気の中国共産党は…あの?小平の「豊かになれる者から豊かになれ」の言葉通り改革解放路線を歩み…酷い矛盾も孕みつつ急速な変化を遂げています。現在、私の大学院生にいる河南師範芸術大学の元講師/賀挺の話によれば…上海を中心とした沿岸部と(日本の正に野麦峠の頃同様の…)出稼ぎ人売りに近い貧困に喘ぐ内陸部(=農民工)の格差は広がる一方だと聞きます。その安い労働力=世界の工場/中国に日本は元より世界中が支えられ…ようやく暮らしている状況だと巨視的には理解すべきでしょう。安い賃金による生産拠点の移行は中国のみならずベトナムやインドネシア等、東南アジア各国に次々と広がっています。

私は何時も自分の担当する留学生に言います「中国は日本の偉大な先生だ…朝鮮〜中国〜シルクロードを経て日本は文化芸術技術等あらゆる亊を学んだ…だから今が有る」「アジアは一つ、ユーラシアは一つ」…ユーラシアの果ての島国で鎖国の間に熟成した美術(=浮世絵を代表とする日本美術)は遥か海を渡り欧州で印象派(モネ、ゴッホ他)や分離派(クリムト他)等と劇的に異花受粉し画期的な美術の変化をもたらし…私が貴方が研究テーマとするポスターも生まれなかった。その意味において…全ての美術は繋がっている…常に影響しあって変化しながら今日の芸術が存在する。「専門性深きは良し最先端も又良し」がしかし「他分野を理解できぬ過去の歴史を理解できぬ狭さは悪し」
長くなりました。すみません。

次回は…教育/経済/産業/国家の繋がりの中に美術教育の価値を再認識させるべき戦略を提言できればと思います。そこに『0歳からの美術教育』という将棋で言う初手も位置づけられるものと思います。
子供は社会の預かりもの…幼児から美術は必要…子供が大人に成るまでがずっと教育…そして社会人にとっても退職した老人にとってさえ『美術は生きる幸せを与えるもの』である…『幼児教育から生涯教育へと美術教育の価値を問う』と…先ずは大きな全体的な構図を描いてみては如何でしょうか。

政治は舵取り…船頭に舵を取らせるには…
風を読み波を見定め…適期に同志皆揃い…強く『もの申さねば』なりません。

美術教育が繋がっている他の教科を攻めても全く意味はありません。経済最優先路線は…もう直に新たな石油依存脱却社会(米国では2040年が既に目標)への社会変革でやがて過去の考え方となりましょう。地球環境対策に配慮した新しい社会の在り方、大きな舵取りが…オバマ大統領によって既に成果を上げ始めています。大きな変革=ビジョンを持とうではありませんか。教育改革の成果が出るには…早くても10年が必要でしょう。教育は社会と経済と国家と正に繋がっています。教育のビジョンこそ国家の在り方を決める舵取りでありましょう。
美術は人を家族と繋ぐ…友人と繋ぐ…美術教育は社会と国家を繋ぐ…美術はアジアとユーラシアと世界とを繋ぐ…美術は人類の過去と未来とを繋ぐ『素晴らしい崇高な価値表象』では有りませんか。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/09/23 12:33 AM |

桂林の…埼玉大学 小澤基弘 先生 皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。現地からの自己を静観された…まるで特派員のようであり、且つ又、学者らしい分析的な立場でのレポート非常に面白く読ませて戴きました。そうですか…中国で彫刻公園と聞くと芸大時代恩師の彫刻家/伊藤隆道先生が環境芸術学会を通じて開催された大規模な中国個展を思い出します。貴学の高須賀もオファーに関係しているのでしょうか?
おっしゃる通り美術史上、画家や彫刻家は王侯貴族の富と権力を持つ人間に才能を見い出され…後世に作品を残しました。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そして歴代スペイン宮廷画家達は代表例でありましょう。正に釈迦に説法ですが…聴いて下さい。それらパトロンに囲われた身の芸術家も…言われるまま注文に添って描いていた訳ではありません。ダ・ヴィンチは絵画にとって最も肝要なことは…対象を描くことでは無く絵に込めた『精神だ』と絵画論の中で言っています。彼は出生から続く不幸と誰にも認められないという苦悩に晩年まで苛まれます。又、ミケランジェロも作品の中に自の罪の意識や怒りと苦悩を込め苦悩しました。だからこそ永久に残る魂が彼等の作品に込められ…見る我々の魂に響くのでしょう。絵画、いや、芸術には…創造する者の魂=精神性の存在こそが…肝要なのではないでしょうか。小澤先生は孤独ではありません…私が応援しています。本ブログの読者も皆、文武両道の先生の大作に海を越えて期待を寄せていると思います。北欧に居る石井先生もきっとそうです。悠久の水墨の歴史を持つ地、かの画聖/雪舟が学んだ地…中国で思う存分、素晴らしい大作を描かれたし。
我々、同志は…時と場所を越えて繋がっています。

正に今や世界を牽引している様相です。マネーゲームの果てに崩壊したアメリカ金融破綻に世界的同時不況を活発な世界の工場としての生産力、そして何より世界経済を支えているのは新富裕層の購買力であるこは周知の如く、今や世界は中国によって支えられいると言っても過言ではありません。

私は母方の叔父の影響もあり…親切に中国人に接するように努めています。本学の通算留学生数目標日本一ではありませんが…常に中国や時にタイ等から留学生を快く受け入れるように心掛けています。そして何時も最初の出会いの時に、中国人には頭を下げ…先ず先の侵略戦争のことを詫びるようにしています。そうすると…何時も心がすっきりして晴れるのです。
叔父は太平洋戦争末期、敗色迫る国を守る為に特攻隊に入隊し鹿児島で訓練をするも出撃前に終戦…除隊後、当時、米沢に居た母に…北海道に入植する決意で結婚を申し出ますが母は断わります。叔父は母の父方の親戚で母の従兄弟に当たるのですが…後ろで見ていた母の1つ違いの妹が「私が覚男さんと行く!」と言って男女の運命は入れ代わります。原野の北海道で叔父と叔母は開墾による酷い苦労をして2児を設けるも途中で断念し横浜に引き上げ…猛勉強をして日立重工業に入社、叔父は技術者になります。そして高度経済成長の牽引力となった大発電所/黒四ダム建設に従事…あの田中角栄が電撃訪中で周恩来と日中友好通商条約を締結すると叔父は中国に渡り重慶と西安に製鉄所建設に心血を注ぎます。それら大規模な製鉄所建設は現在の中国の発展の礎となった亊は言う迄もありません。若き日、何も解らず爆弾を抱えて敵艦に特攻する決意をした若者だった叔父は…独学で中国語を勉強し多くの中国人の友人を作ったことを…晩年に笑顔で自慢していました。叔父は会うと「いや〜邦夫くん!」と何時も満面の笑顔で迎える素晴らしい人でした。人に優しくて自分の仕事には厳しい…本物の男でした。中国から帰国と同時に定年退職、日本に戻り僅か数年で悪性脳腫瘍に倒れ…あっと言う間に他界しました。当時、叔父譲りの正義感強き人格故に同じ技術者から日中友好同盟=赤旗記者となっていた叔父の長男(私の従兄弟)は叔父に勘当されていて行方不明…葬儀の席で私はその従兄弟と再会しました。今は彼は赤旗記者を辞めて…ごく普通の人になっています。
| 渡辺邦夫 | 2009/09/23 12:30 AM |

(続き)

美術教育内容学の問題は、極めて大事なものであり、永守先生のご発言もまさに然りで、真摯な姿勢で教員養成系大学の教育を考えている人間は、教科専門も教科教育も等しく同じ理想を抱いているのだということを、あらためて実感させていただいてます。
 山木先生も永守先生も、やはり教科教育のプロパーだけあって、美術をとても巨視的に捉えてみえるようで、私などは本当に勉強になります。教科専門の人間は、横国の渡辺先生のような方は、かなり巨視的視座をもってデザイン教育を捉えられているような先生もいらっしゃり、教科専門の内容学を何とか支えようという意志が強く感じられて、私も及ばずながらこうして書き込みをして渡辺先生を応援しているつもりです。

私が語る言葉は、あくまで自分と自分の周辺の事柄ばかりです。そこから全てを始めるということが、私が教育を考える足場です。福島大学の渡邊先生は、制作者であると同時に、今回のこのブログのテーマでもある「0歳児からの美術教育」を提唱されており、絵画分野のメンバーとして本当に心強く思っております。いろんなタイプの考え方ができる人間が、相互に意見を交わすことで、利点を増強し、欠点を補い合うことができます

私は、あくまで制作者としての体験の反省を通して、それをいずれ普遍化できる考え方につなげていきたいと思って日々送っております。それが私なりの制作学であり、それはそのまま教育内容学につながるものと信じています。

現在桂林で経験していることも、異空間での制作が人間(私個人ですが)のメンタルな部分にどう作用するか、それを日々反省分析しています。異言語のなかでの孤立感、あるいは空気の感覚の相違、土地の気配の相違、食事の問題と、それらの異質な要素が自身の制作にどのような影響を与えるのか、まさしく自分を実験台にして制作と環境との関係を考察している日々です。こういう貴重なチャンスを存分に活かしたいと思います。たぶんこうした志向性が私にとっての制作学であり、そこから得られた自分なりの結論を、やがて「学」的な高みへと総合したいと思っています。それを、ある程度教育への還元材料として手コマに加わるというように考えています。自分を「自分自身」から遠い位置へと視点を持って行けない分、自分の内側深くへと沈め込み、そこから自分の表層を眺めるという逆視座を、自分なりの絵画教育論に活かせないものか、そう考えています。そういう視座からの教科内容学を、私なりに構築したいと思っています。

今回、学会への参加ができず、実に無責任極まりないと思っております。福島大学の渡邊先生、絵画の件、よろしくお願いいたします。渡邊先生の提案されている0歳児からの美術教育が、今回の大事なテーマになろうかと思いますので、存分にお考えをご表明いただければと思います。

今晩は今回のシンポジウム初日の講演会で、私も1時間の講演をしてきました。中国や台湾の作家が一体何を考え制作をしているのか、通訳だけでは十分には理解できませんが、彼らの情熱だけは存分に感得してきました。制作は大作が3点、10号を20枚描く予定にしています。帰国は10月6日です。またこのブログでも折を見て書き込ませていただくつもりです。

取り急ぎ桂林から失礼します。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/09/22 12:41 AM |

みなさま

現在桂林におります。ネット接続できています。夜は時間がありますので、みなさんの書き込みを読ませていただいております。

現在私の置かれている状況を少し説明します。台湾人の資産家が、桂林と上海に広大な土地を有し(政府から借り受けているそうですが)、そこに広大な野外彫刻公園を作っています。Shanghai Sculpture Parkというのが正式名称。総裁は台湾の墓地事業で資産を得た方です。そこが彫刻についで今度は絵画のコレクションを始めるということで、その第三回目のシンポジウム(つまり現地制作)に招かれました。私の他は中国、そして台湾の作家たち総勢9名です。
私の知り合いを通じて急に参加のオファーを受けまして、本来新潟大学の西区DEアート展に出品する予定で学会当日は現地制作の予定でしたが(すでに作品は事前に制作し出品します)、なんとかやりくりして現在桂林に来ております。やっと一週間がたって、自分がどのような環境のなかで制作し、その制作の目的がなんであるのかを明瞭に理解したところです。ここ桂林のYuzi Paradise(愚自楽園)という場所は、広大な彫刻公園で、いたるところに現代彫刻が点在しています。また、現在私がいる部屋は、瀟洒なホテルの一室です。他のアーティストも全員個室を与えられてます。与えられるアトリエも十分な大きさで、それぞれにスタッフが常時付いてます。桂林の空港から約一時間ほどの、観光客はまず来れない場所に、このような施設があるのです。少数の外国人観光客以外、人はきません。これまではここでは彫刻中心のシンポジウムが行われてきましたが、絵画もということで、今年に入って既に3度目の絵画シンポジウムが開催され、現地制作の絵は上海の美術館に収蔵されます。一回の参加作家は約8名で、かなりの資金がそれに費やされていることは事実です。私はあくまで事実を伝えています。あしからずご了解ください。

私はいま、現代のアートが、そしてアーティストが、どのような力でもって存在し、制作を通して生きて絵を描き続けているのか、その現実的な一面をリアルに垣間見ている思いです。はっきり言って、一般の人々からは完全に遊離した世界にいます。極めて特殊な環境のなかで、最高の環境のアトリエを与えられ、制作だけすればいい毎日が展開しています。そうして作品が描き貯められ、総裁の個人コレクションになっていきます。これらの作品が、その後どうなるのか、私にはわかりません。しかし、こうした巨大な資産家の個人出資が、アートを生み、そしてアーティストの生活を保障していることは事実です。

歴史的に作品を残してきているほとんど全ての芸術家は、さらに巨大なパトロンの庇護の下で、作品を具現化してきました。ここでは多分それほどのスケーではないのでしょうが、実験的な作品を自在に制作し残していくというのは、こういう資産の庇護の下で初めて可能なのだと、考えることしきりです。いろんな場と状況の下で美術は生み出され続けていますが、私たちが日ごろ鑑賞の対象とする作品のほとんどは、実に特殊な環境のなかから生み出されたもので、それを一般に広く啓蒙していくことが、果たして説得力を持つことなのか、あるいはどれほどの意味があるのか、なんだか不思議な思いです。あくまで突き抜けた美術作品が存在できればよいということなら、それでいいのですが。

中国の美術教育についてはほとんどわかりませんが、彼らは一様に素晴らしい独自の表現を追求しています。とても刺激的です。若干の技法の差異や素材の際はありますが、精神や意識はここが中国かと思えるほどに、日本のそれ、そして欧米のそれと変わりません。しかし、間違いなく美術教育の構造や内容は異なると思います。ただ、中国や台湾の作家の多くは大学教員も兼ねており、彼らのほとんどは欧米あるいは日本に留学体験があるので、基本的に同一線上にいると思って間違いありません。彼らにもおそらく明確な教科内容学というものはないでしょう。そういう話を振っても、ピンと来ていない感じでした。しかし、そういうことを彼らは全く気にしていません。それをどう考えたらよいのか。特に中国は美術の啓もうが十分ではないので、かつての日本を見ていると思ってよいのかもしれません。日本はそういう意味では美術教育に関して、このブログでもわかるように、かなり開眼されていると思っていいでしょう。

美術教育内容学の問題は、極めて大事なものであり、永守先生のご発言もまさに然りで、真摯な姿勢で教員養成系大学の教育を考えている人間は、教科専門も教科教育も等しく同じ理想を抱いているのだということを、あらためて実感させていただいてます。
 山木先生も永守先生も、やはり教科教育のプロパーだけあって、美術
| 小澤基弘 | 2009/09/22 12:38 AM |

(少しだけ続きです)
そして何より肝要なのは…その組織内に、実技系と理論系、或は、実技系教員相互の教員養成に関する真摯な論議の場が存在し「全ての芸術を建築に統合する」の様な「全ての芸術を素晴らしい教師育成に統合する」と言った論議やコンセンサスが(通常は…)あまり存在していないのではないか…という現状元論に至ってしまうのです。本学会も本教科内容学の論議もその意味では全く画期的であり夫々が属する大学という狭い柵や諦めの組織の枠、学科目という横並びで互いを尊重(意見を言い合うのは失礼…)し合う(敢えて強調すれば…)唯我独尊=専門1名という旧態依然とした狭い考え方を打破する試みでもある…と私は思うのです。
この論議が…名古屋大会で委員相互に相集い「美術教育に生きる同志」として相互理解を高め極めて貴重な価値ある論議を生むと信じております。
夜には俺は一人じゃ無い同じ悩み同じ葛藤の中で努力している同志が居たんだという祝宴で…この春からの無我夢中の本ブログ論議の疲れを癒したいと個人的には願っています。橋本理事長、仰せの通りポスター発表させて戴きます…是非、見て下さい。夏休みはあったような無かったようなで…このシルバーウィークも大学で仕事しております。美術教育の未来を変える新案となれば良いのですが…

ストックホルムより御発言の石井先生同様、皆様にお会いできますこと心より楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。

最後に…中国/景林の小澤先生
悠久の大地、世界的な景勝地での大作制作は如何ですか?
ネットに繋がっているのなら…制作の合間にお忙しいでしょうが少しでも書き込んで下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/09/21 12:53 PM |

和歌山大学 永守 基樹 先生 皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。ご専門の教科教育側からの真摯で非常に解り易く御配慮戴いた書き込みに感謝したします。美術教育が今日に至る経緯と変遷、先人の取り組みと御努力を察しつつ、私の今日迄の不勉強の諸処=アソコとココが繋がって行く感じで…永守先生の書き込みを拝読しながら…有り難く勉強させて戴きました。永守先生の本ブログへの本格的な参入に敬意を表します。これで鳴教大/山木先生と共に肝心要のマウンドに投手両輪が揃った感があります。ご一緒に美術教育の価値を論議できる幸せを感じております。
先生の書き込みに触発され…少々、書いてみたいと思います。

先ず我々、美術、或は美術教育の男女比の問題についてですが…全くおっしゃる通りです。美術実技を専門とする芸大美大に於いても男性減少傾向は私が14年半居りました芸大でも同指摘がありました。特に教員養成系大学では教員となる志望学生男女比が美術では圧倒的に女子多数の傾向は顕著でありましょう。近年、男子の減少傾向にやや歯止めが掛かり1学年に一人という様な異常な事態を回避し必ず複数名を確保しているというのが本学の現状です。勿論、私も男女平等で反ジェンダー論者等ではありません。男女を差別するという意味では無く男女の性差を全く認めないという強烈な反発意識に問題である筈です。唯、正直な処、美術及び美術教育を男子一生の崇高な職能と選択しないという世相傾向そのものに、本教科内容学が世に説明すべき何かが不足していると自覚反省すべきであると言えるのではないでしょうか。
この平等という信仰は美術教育の中の教材に於いても指摘することが出来ます。「内の子は手先が不器用なので他の子供と差がでない様な誰でも同じ形に簡単につくれる工作キットにして下さい」「材料を持って来なさいと言われても竹や樹の枝を何処で見つけて取ってくればいいんですか」という良くある父兄の要望を現場教諭が満たすこと自体が…実は図画工作美術に個性や差異を認めない平等という問題の深い困難が内在しています。鉛筆をナイフやカッターで削らせて「手を怪我したのは先生のせいだ」」「掃除や片付けが長引いて内の子の塾に行く時間が削られたのはどうしてくれるんだ」等…教育現場ではモンスターペアレンツなる怪物に我身縮ませ教諭は削減される授業時間とのジレンマに困窮している事実が存在しています。美術の時間削減の根底には…私の先の書き込みに述べた官僚主体の教育統制とでもいうべき国家そのものの指針が反映されている訳ですから…我々が「美術教育価値論」を国民へ、そして政治へ発言せねば実は何も変えて行くことは出来ないのです。その意味でフィンランドのオッリ・ペッカ・ヘイノネンの様な高い理想へ結実する教育理念を持つ…言わば「美術教育による世直し」の核となる強力なリーダーが我々には必要でありましょう。松浦先生がおっしゃる様に本論議の結論説明の相手は広く国民であっても…現状を変えさせる為の具体的な説明相手は霞ヶ関=文科省であるからです。川端達夫/新文部科学大臣の元、この50年の官僚主導体制は見直しが始動、同省退職者の天下り状況に調査が入り…政治的にも教育的にも日本の変革の期は熟しつつある状況でもあります。

又、バウハウスのお話がありました。バウハウスはデザイン部会でも論議対象として何度も書き込みに上げられています。それまで分化していた「技術」と「芸術」を建築に再統合することを試みたバウハウスの画期的な造形教育は現代に於けるグラフィックデザインやプロダクトデザインの基礎概念を生む成果を残しましたが…バウハウス教育の価値の最大なる点は画家や彫刻家や工芸家といったマイスターによる工房教育と先進的なカリキュラムによる実践はではないでしょうか。その意味では単なる美術系芸術系大学で実技主体に研鑽して教員免許と取得するのと比較し…我々が責務とする教員養成系大学であれば「ミニ芸大」「ミニバウハウス」的な実技と理論の両輪を備えた優秀な図工美術教員を育てることが可能であると図式上ではなるのです。しかし、絵画・彫刻・工芸・デザイン・美術理論美術史が各1名、教科教育は2名というのが最低基準であって…たった1名が絵画という或はデザインという膨大な領域を全て教える困難には…必ずや「何かを削らねばならない宿命」に居るという欠落の図式でもあります。つまり…(勿論、この指摘は一例です)絵画では日本画や現代美術や木版画エッチング等、彫刻では抽象表現や動く彫刻や木彫石彫等、デザインではプロダクトデザインやCGや映像デザイン等、工芸では担当教員の専門分野外(木工、金工、漆芸、染織等の何れか或はその殆ど)が…当然の如く欠落する定めの中で我々の教員養成は存在しているのだと自覚すべきだと思います。
| 渡辺邦夫 | 2009/09/21 12:44 PM |

学芸大学、石井です。

ストックホルムよりご挨拶させて頂きます。
永守先生、かみくだいて非常に分かりやすく意志表明して頂き、有難うございます。
そして、永守先生を含め皆様、膝を交えての協議がとうとう週末に迫ってまいりました。皆様にお会いする事をたいへん待ち遠しく感じております。くれぐれ宜しくお願い致します。

それまでの一先ずのご挨拶で失礼いたします。


| 石井寿郎 | 2009/09/21 6:43 AM |

      【永守/その3】
皆様
永守基樹(和歌山大学)です。
字数制限で削除された部分を以下に、、。
山木先生の教訓を生かせたようです(笑)。

 「教科内容学」という言葉は、一見、教科専門の方々に、教科教育への理解を要請するかのような印象を与えるものかも知れません。ですが、困難は教科教育の側も同じです。「美術教育学」(のようなもの)の確立を目指した私たちですが、そこに美術を実践的に教育へと繋げる方法や、実践的な美術教育の研究を産み出し続けるシステムを示し得たわけではありません。「師範学校vs.リベラルアーツ」とは質も時代も異なりますが、相変わらずここには、「教育と美術」、「実践と学」などをめぐる光景が見出されるのです。

 美術教育学は、美術教育の実践を諸学(美学・美術史学・教育学・心理学・生理学・社会学・文化人類学、等々)のパラダイムと言語装置を借りて語り分析するだけのものであってはならないことは明白です。美術を教育の世界と出会わせること、教育のメディアとしての美術の力を示し更新していくことが、その基盤をなす営為であるはず。そういう観点から考えれば、美術家として、デザイナーとして、あるいは美術史家として、、の営為や創造性は、大きな共通性を持っているように思えます。新たな美術教育の世界を示すべきプロジェクトに求まられているのは、良きプロデューサーというべきなのかも知れません。しかしこの役には相当の力技が求められそうですね…。

 以上、教科教育の担当者の観点からの雑感です。
永守基樹


| 永守基樹 | 2009/09/21 2:41 AM |

      【永守/その2】
皆様
永守基樹(和歌山大学)です。
引き続き、補遺として、教科教育(美術教育学)の担当者として感じていることを少々書かせて頂きます。

 「教科内容学」なる名称の是非はともかく、私のように教員養成系の学部と大学院で学んできた者には、教員養成系で美術を学ぶことの特質(アイデンティティー)や意義は、じつは学生時代からの親しんできた(?)問題でもあります。

戦後の教員養成制度改革時の師範学校(という中等教育機関)から大学への「三段跳び」、旧帝大系との軋轢、「学芸学部」改称に象徴的なリベラルアーツと教育の実践性の齟齬、「新構想」教育系大学院大学、旧来の学部への修士課程の設置、教職大学院の設置。…戦後教員養成の歴史を概観すると、学問(芸術)と教育の関係をめぐって、あるいは教育の実践性をめぐって、それなりの史的な変遷(混乱?)があったといことを、こういう論議をしていると改めて感じます。

 教育の実践性が大切であることや、教員養成系の諸学は最終的に「授業=実践」に還元されなければならないということには、(今や)さほど異論は無いようです。しかし、学問や芸術と教育実践との架け橋をつくることはなかなか難しい…。その困難は既に歴史が示してくれています。

 師範学校での浅薄な実践性を批判して登場したリベラルアーツという旗印が、結局は教員養成学部独自の学を形成できず、教員養成学部は「ミニ○○学部」の集合体であることを続けきました。又、ほとんどの国立の教員養成学部に修士課程が設置指されて既に一定の期間を経過しているにも関わらず、各「専門」の論理を超えるビジョンを出し得なかったこと。それは、「あり方懇」(2001)での論議を待つまでもなく、私たちの切実な問題でありました。「教育学部」への改称問題や、兵庫教育大学などの新構想教育系大学院大学の設置など以来、教員養成に実践性を求める動きには、保守的で管理主義的な政治的意図が濃厚でした。これらの動きに対抗するためにも、教育や教員養成の現場が、自律的に教育の実践性を産み出していくべきでありました。

当方は教員養成系修士課程の第一世代ということになるのですが、修士課程での専攻は教科教育ではなくデザイン。院生の頃から、デザイン教育にも興味はありましたが、最初の勤務先である佐賀大学ではデザイン担当で教科教育も、、という立場でした。「デザイン」はアートとテクノロジーを統合するビジョンを背景に持つ専門分野ですし、「美術教育」は美術のすべての分野を統合するビジョンを前提とします。そういうことから、私の中では、教科専門と教科教育の関係性は、いくつかの統合の重なりの内に見えてくるものでもありました。

 ワイマール時代のバウハウスでは、各工房に「技術親方」と「造形親方」の二人の教師がいたことはよく知られています。職人的技術と芸術家的センスは、教師にあっては分離しているのですが、学生の中で統合され(たとえばマルセル・ブロイヤー)、デッサウではこの分離はなくなっていきました。あたかもそれに似て、教員養成系修士課程での各専門分野は、「教育」や「教育実践」と統合が可能であると(楽天的にも!)感じていた記憶があります。それは周囲に何人かの優れた大学教師がいたからかも知れません。

 しかしながら、私の楽天的な予想は外れ、教科専門の諸分野は教員養成の実践性のなかに独自の学を打ち立てられなかったわけですし、教科教育学にしたところで、実践性をしっかりと根に据えた学として成立できているわけではありません。当方などの教員養成系修士課程の第一世代の「使命」は、なによりも「学的確立」であったようです(このあたりは『美術科教育学会25年史』等ご参照)。そもそも「美術科教育学会」という学会組織が作られたのは、修士課程が設置され始めた時期に、教科教育プロパーの専門性と学術性の高い学会が必要となったということでしょう。そして最初は手探りしつつ、30年ほども経って、なにやら学的な枠組みのようなものがボンヤリと見えてきたという史的段階です。

 このあたり、大学美術教育学会との関係性は微妙な問題も含んでいるようですね。ただ、それは政治性や党派性とかの問題を超えた問題―教科教育と教科専門の関係性―についても示唆的というべきでしょう。「美術(制作)」がいろいろな意味で主人公であった美術教育の世界。その世界の中に論理と学的(あるいは科学的)な枠組みを埋め込み、形成していくために、美術教育学は一定の距離を必要としたのかも知れません。まあ、その是非や経緯はともかく、今や、二者が密接な関係を持つことが求められていることは、このブログでの論議でも、またここ十年ほどの状況を見ても明らかです。

 「教科
| | 2009/09/21 2:33 AM |

皆様
はじめまして。
和歌山大学の永守基樹と申します。
皆様の真摯且つ知的な刺激に溢れた論議を敬意をもって拝見しえおりました。
饗宴の途中参加はなかなかに難しく、日々の雑用に追われていることもあり、参加できずにおりました。皆様のご海容を賜れば幸いです。
 9月名古屋でのシンポのパネラーを拝命しましたが、このブログを拝見するにつけても、この問題の大きさと複雑さを思いしらされますし、私たちが向かうべき方向性を指し示すことは、なかなかの難問だと感じている次第です。

 山木先生の提起された美術教育が生き延びる戦略ということは、おそらく美術教育の携わっている人間の多くが共有できる課題で、それぞれが多様なかたちで直面する問題だと思います。
 昨日、知人の美術系高校(普通科)の先生と話していて、約六百人ほどいる在校生の八割以上が女性であるという話を聞きました。私の勤務先のような教育系美術は既に皆さんご承知の如し。関西の美術系大学も程度の差はあれご同様です。女性が多くなることは良いのですが、男性があまりに少ないことに私は近年深刻な危機感を持っています。黒田清輝のように「男子一生の仕事」として美術を選ぶ、というのはアナクロだとしても、これほどまでに芸術から少年達が遠ざかっている事態は、国家の姿としても歪んでいるように思えてきます。

 山木先生の指摘されたような「実利主義」の故なのか、あるいは豊かさの中で文化への憧れが失われた故か、教養主義が壊滅した故か、美術の魅力が歴史の中で見失われつつあるせいか、、。

 美術教育において、戦後のパラダイムを形成していた創造主義、認識主義、造形主義の3者が1970年代に力を失い、その後に美術教育の基軸として現れた日本の「造形遊び」(1970年前後の現代美術〜インスタレーション)や、米国の「DBAE」(美術史と美術批評)も、既に総括と転換を求められている時期となっています。、、、このあたりの事柄はこの場では端折らせて頂きますが、美術の力を教育の力へと繋いでいく、明確で強力なビジョンとシステムを私たちは、うまく作り出せてはいません。

 美術教育において、モダニズムへと回帰すること(色や形のフォルマリズム・子どもの創造神話)も、ポストモダニズム的な歴史主義(なんでもありの諸様式の混淆)も、おそらく、それぞれに有効に機能する位相と場所を持つことでしょう。

 但し、90年代から00年代のアートと文化の状況を経て、いま私たちに求められていることは、個々の美術家の意識や方法、あるいは美術史上のそれぞれの様式や価値などを超えて、それらいくつかに束ね、「アートすること」の意味と意義を、ある種の「切実さ」とともに示すことであろうと、ここ数年、私は考えてきました。

 その「切実な美術教育」のビジョンは、90年代以降のアートのいくつかの動きの中に、その基盤を見いだせると感じています(これもここでは詳しく述べられませんが…)。それぞれの教科専門(美術家・美術史家・美術理論家)の先生方の教員養成課程での研究と教育の試みが、新たな美術教育の力となり、いくつかの流れ(ディシプリン)として教育の中で、多くの若い世代の切実な部分に働きかける力を持つこと…。私は教科教育を担当する者として、その媒介者となることを望んで(夢見て?)きました。

とは言え、これはそう簡単に賛同や共感を得られることでもありませんし、非力な私のできる範囲で細々と構想したり、話し合ったりしてきただけのことにとどまっています。しかしながら今回、渡邊晃一先生が0歳から始まり、そして「生命」をキーワードとする美術教育を考えられていることなど、大きく重なり合うようで、心強くも感じている次第です。今後とも皆様と話を深められればと願っております。よろしくお願い申し上げます。

乱文ご容赦を。とり急ぎご挨拶として、、。
永守基樹(和歌山大学)
| | 2009/09/20 11:44 PM |

鳴門教育大学 山木 朝彦 先生 皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。私の書き込みへの返信ありがとうございます。
又、膨大な山木先生回顧録を全て拝読しながら…宮脇 理 先生の頭脳明晰なる血を継ぐ論旨に驚嘆しておりました。日本という国が戦後、焼け野原から…がむしゃらになって立ち上がり高度成長期を経て…日本という国のイデア或はアイデンティティを明治開国の時期と含めると正に2回に渡って失って行く過程、特に目標とした米国の良くて悪しき部分、つまり物質的経済的世俗的享楽的に塗れて行く様が…世相の断面としての文学、享受としての音楽、投影や逆に反発反逆でもある芸術、そして当時は社会や企業の完全な従者であったデザインに迄、先生のこの日本への告白は至っております。

失った大部分をめげずに書き込んで下さった御努力、山木先生の本ブログへの本格的な参入に敬意を表します。一緒に美術教育の価値を論議できる幸せを感じております。頑張って参りましょう!

私の以前の私の書き込みにも有ります様に「美術教育価値論」は、正に社会が短絡的刹那的にお金儲けだけに走る世相である今だからこそ…我々が論議し「人間が備え持つべき教養や美徳の本質を養う教科」として確固たる証拠を論破し本委員会が松浦委員長の元、結実させねばなりません。現在現場の図工美術教師の質的保証、それを保証する我々の教員養成そのものが抱える問題、我々の教科内容自体の質、又、教員を養成するという(誤解のない様に敢えて強調しますが…)全く間接的(つまり自分ではなく教えた学生が教師となって実際は教えているという)な効果派生の問題が…我々の前に大きく立ち塞がっている…と私は予見しています。

更に言えば、東大という大学に掛ける国家予算の半分以上を注ぐ最高峰学府を卒業した者を揃えた霞ヶ関が…美術という教科の価値を知りながら貶め、学校という本来なら自由で創造的な可能性を伸ばすべき学び舎を企業の従順なる働き蜂を養成する機関にのみ変えて来たことが…今日の自国に有った素晴らしき伝統工芸や文化や美術を外国人に湧いた日本ブームでしか自覚できない有る意味で非常に恥ずかしい国民を作ってしまった結果顛末であるという結論に至りましょう。

私は国粋主義者でも、まして右翼でもありませんが…
日本人は自分が属する国家の美術を本質的に知らず誇れずに居ます。大学で私の授業を受ける迄、藍染めや光紅、仏像や浮世絵を…その本質や素晴らしさを知らず…映像授業に日本人に生まれて良かったと感動で涙したという類いレポートを読む度に…ある一片の喜びと共に、その逆に日本という国の高校迄の美術教育の失ってしまった愚かさも一断片であっても感じてしまうのです。

「見る」「まねぶ」「つくる=創造する」に準えば…日本国民の多くは「日本の本質的な美」を見ていません。見てもその多くは観光であって…京都の禅の庭で出会うのは多くは分厚い「禅」の書籍を持った博学な外国人です。日本人の多くは既に過去から精神性や美意識を学ぶより享楽的映像その他に毒されており大多数はお金儲ける為や住宅ローンを軽減する纏め方や運勢や老後の年金の本を読んでいます。日本は英国や米国を真似て此処迄の奇跡的な繁栄を成し遂げました。が…米国が失墜しつつある今、まなぶ目標を完全に見失っています。成熟した福祉や無償の教育で北欧は目標にあげらますが…日本は官僚や役人が年金をくすねる国ですから前途は極めて多難です。古来、日本は…朝鮮や中国大陸からあらゆることを真剣に学び…伝承されて来た文化や技術は遠くシルクロードを経てユーラシアの向こうの果てから伝承であったのです。世界中がネットで瞬時に繋がっても…何を見て、何をまねぶのかで結果は全く異なるのです。唯一、精巧なモノ作りに掛けて日本は誇れる技術を持っているのは確かです。企業が製品を作って海外に売って…この国は世界中から食料全体60%を輸入し食いつないでいます。故にデザインが社会を席巻し「崇高なる本来の美術」を極めて世俗的経済的価値批評の対象へと押し下げているのではないでしょうか。この発言はデザイン部会の委員から反発も有るかも知れません。が…私はデザインを専門とする誇りを持っていて尚、美術の中の現状のデザインの立ち位置を意識せざるを得ません。近い将来、ポスターは有機ELになり…闇夜に光り映像が動きセンサーが近くに来た人を感知して言葉を喋り音楽を鳴らすと予見されています。有機ELは極めて薄く丸められるので電信柱等の曲面に曲げて張れるそうです。その商業主義の権化の様なデジタル技術到達点的ポスターに本来の精神性や芸時としての美の価値は存在しているでしょうか?

ご意見ご批評ご賛同等、よろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/09/16 8:57 PM |


渡辺先生

「日本に於いて美術教育は経済最優先教育の悪影響を受け、周辺教科無用教科とさえ蔑視される揶揄を否定できません。美術の教育効果が主要教科と比べて具体的数値として列記し難いからでありましょう。文章読解力、計算能力等は数値化できても…描写力、構成力、造形力、独創性等の美に属す能力は数値化は困難なのです。芸術立国・デザイン立国と言われる欧州の文化国と比較して芸術や美術に掛けられる国家予算は日本は余りにも低く結果として…日本はあまり幸せでは無い国…と私は感じています。」
という、9月12日のコメントのご認識とまったく同じ認識です。

そして、そこから、どのようにこれを変えていけるかという課題が導き出されるのだと思いますが、やはり、文化的な生活環境を重視し、アートの存在理由がわかる優秀な政治家、官僚が誕生する基礎的な部分―すなわち、教育課程の系統的で充実したカリキュラム―をつくらなければならないし、そういう人材を支持し、選出する市民と手を携えていかなければならないと思います。

簡単ですが、とりいそぎコメントさせていただきます。
| 山木朝彦 | 2009/09/16 5:37 PM |

松浦先生へ

 返信の内容のコメント頂戴し、恐縮です。私も、なかなか時間がつくれなくて・・・・・コース運営会議前の時間ですので、簡単に書きます。
 人文系・社会系・芸術系の学の衰退は、大学の改組などのときに、各大学が理系や医学・看護系へシフトするときに、研究室の位置づけや性格の変更というかたちで進んでいると思います。勤めている人をやめさせたり、退職勧告したりするような手法はとられていないと思いますが、退職後にそのポストが理系色の強いものに変わる組織図が策定されたり、研究組織の理念が大枠で変質するという流れがあるのではないでしょうか。たとえば、前任校であった大分大学教育学部は、ゼロ免制度移行期当時の社会的なニーズに配慮して、全体が教育福祉科学部に変わり、福祉色の強い学部に変わりましたし―それが理系へのシフトといえるかどうかわかりませんが―、徳島大学は、ゼロ免課程移行時に生まれた総合科学部のなかみを全体的には人文系色の強かった編成から、社会科学系・理系色の強いカリキュラムへと変えました。(たとえば、社会創生学科と総合理数学科の新設。そのために、課程認定されていた文学研究の研究室の一部が院生指導をしないかたちになりました。)
 このように芸術、文学・思想系、言語系などのセクションは学内的に理系/技術系/実利的学へと編成を変えていく傾向にあると私は思います。私が申し上げたかったことは、大学の運営予算が縮小する中、比較的外部資金が獲得しやすく、科研費などでも大型の予算がつく理系・技術系の学問へと限られたポストを替えていく流れがあるのではないか、そして、それは実利的な勉強や資格に目を向け始めた親や高校生が増えることを予想した、大学・大学院の入学者確保のための施策や就職面での相対的有利さという観点からも、日本の大学が向かい始めた方向なのではないかということなのです。
 中間の思考回路を説明せずに書き込んでしまったために、たぶん意味の無い感覚的な表現にみえたことと思います。もちろん、今回、書いたことも観察しうる範囲のことだけであって、統計的な裏づけはありません。
 もしかすると、芸術への志向性を抱いた大学や大学院への希望者は潜在的に大きく、それを受けとめた先進的で、将来展望をもった大学は、芸術をはじめとするコースを拡充・発展させているのかもしれません。少なくとも、金沢大学の場合は、羨ましい状況だと思いました。おそらくスタッフの質的な優秀さが、学内的に認められている成果がよいかたちで表れているのだと思います。
| 山木朝彦 | 2009/09/16 5:17 PM |


つづき

お読みになっていただいた方々には、後半、おそらくペシミスティックになってきているように、感じられるかもしれませんが、そうではありません。私も、小澤先生のご意見―すなわち、「人間はやはり賢いから、数十年前に打ち立てられた知の枠組みから、いまや次の新しい知の枠組みに気づき、それを求めているからだと思います。おそらく世間的には静かに価値の新しい創造が進んでいるのだと、私は考えています。実利実利と騒いでいる裏側で、それは着実に進行していると思います。というよりも、そうしたこれまで思いもしなかったような領域間の連携スパークによって、新たな産物が生まれ、それが結果的に実利をもたらすことも、また現実です。」という考えに賛同したい気持ちでいっぱいです。しかし、時代の流れのなかで、もはや、今までどおりのかたちでの個性主義の標榜・創造主義の賛美・想像力への賞賛だけでは、事が成りゆかなくなっているのではないかと危惧しているわけです。

たとえば、今までさんざん言い尽くされてきたことも、茂木 健一郎氏のクオリアなる新たな概念と結びつけると、魅力的に輝き始めるということがあるのかもしれません。これは喩えであり、茂木さんの理論はほとんど知りませんが・・・・。小澤先生がおっしゃるように、「思いもしなかったような領域間の連携スパークによって、新たな産物が生まれ、それが結果的に実利をもたらす」という流れがあるのならば、まさに、それを私たちは探究して、造形世界の支持者をふやす足がかりを見つけるべきなのだと思います。

 とりあえず、私が提案したいことは、現代という時代の特性をしっかりとみつめ、現代の親や教師、そして子ども達が置かれている窮状を理解したうえで、理想を語り合いたいということ。そして、社会変革(政治的な意味ではなく、わたしたちを取り巻く文化的環境の改善のための変革)のために、どのようにしたら、この教科の重要性を学習者に伝えられるか知恵を絞りあおうということです。

(共通のテーブルとして、私がお薦めしたいのは、アイスナーの著作です。前も申し上げましたが、この本には限界や、ひとによっては批判対象となる部分がたくさんあると思います。しかし、内容学の構想について、ひとつの具体的な提言を着地点として想定するならば、かなり重要なテクストになると考えられます。)

おわり

松浦先生と
渡辺先生への返信は機会を改めて書きたいと思います。



| 山木朝彦 | 2009/09/15 7:34 PM |


つづき

ほんとうに多種多様な個性的なあり方が、社会によって承認されているのでしょうか?メッセージとしては、巨大音楽産業の申し子であるSNAPが、「そうさ 僕らは世界に一つだけの花一人一人違う種を持つその花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と謳っても、果たしてその容姿や属性の差異はほんとうに承認されているのでしょうか。多種多様な民族の身体的特徴、個人のファット・スリム、年齢、性別、学歴・・・・果たして企業が提供し、マスメディアが流通させる人間のイメージについて多種多様性はほんとうに保障されているのでしょうか?人間という主体でさえ、ことほどさように、本音と建前が同居して、偽善的なメッセージが日夜、メディアを駆け抜けているわけですから、人間が創りだすモノが、果たして創造的で個性的なプロセスから生まれたのか、単なるマーケットリサーチ(悪いわけではないが)の結果、導き出された旧態然の産物なのか、よほどの物の真贋を見極める批評性を持っていなければ見抜けるわけはないでしょう。

80年代はそのようにイメージ戦略によって差異化幻想のなかで、人々のアートへの志向性はたしかに高まっていったという側面もあると思うのですが、この時代の個性や創造性は、60年代、70年代に多くの人々が抱いた、(そして、創美の主導的な人々が抱いていた)反逆的な個性や常識を覆すブレークスルー的な創造力への
期待感とは異なり、あらかじめ殺菌された人工的な温室の中での個性であり、研究室のチームワークの中から生まれる創造であったと思います。社会に対する怒りや差別や区別にたいする根本的な異議申し立てや、根拠のない自分への信頼などとは無縁(無縁とまではいえないな!!むしろ、意識過剰なのかな・・・)な、社会によってあらかじめ承認された範囲の中での想像から生まれたアートであり、デザイン。物事を単純化しすぎていることを承知の上で、やはり、そういう個性であり、創造性が80年代の個性であり、創造性なのだと思います。もちろん、そのことが悪いといっているわけではありません。

バブル期とバブル崩壊を何年とするかは意見が分かれるところでしょうが、1991年にゴッホの絵が124億円で日本企業に買われたことなどを考えると、この時期はバブルの最後の時期でしょうね。渡辺邦夫先生がおっしゃつたような金融ビジネスの魅力と怖さを体験する人々が多数生まれたのも、人々がバブルから学んだことだと思います。全体として、パネル上の株価や為替相場の操作という経済活動や広告による商品のイメージ操作という、たしかな物の製造およびその質の向上や真に機能的で魅力にとんだ商品の開発というベクトルよりも、あやふやで、シミュラークル的な経済回路が突出してきたのが80年代、90年代の特徴だと思います。

人間の生活のなかでの個性化もお題目だけとなり、流通業などでとめどなく進むマニュアル化の流れは、人間の心の機微の問題にまで及んでいます。心のない口先だけの接客サービスが広がり、マニュアルを崩す質問や抗議や感謝にはまったく答えられない店員が増えました。テレビなどでは、高校生アメリカ大陸横断ウルトラクイズやカルトQなど、知的好奇心の旺盛さを証明するようなクイズ番組が90年代は全盛でしたが、どちらもいま生まれつつある最先端の知識や動いている知識を問うのではなく、百科事典の項目のような、パッケージ化された既成の知識が問われていただけのような気がします。つまり、どれほどマニアックでも自分の意見を差し
挟めないカプセル化された知識について謎かけをしあっていただけのような・・・。そこには、なぜあれほど話題を呼んで誰も彼もが涙したのか、当時も今も私にはわからない、「一杯のかけそば」と同様な、単純な画一的な価値観への志向が透けて見えていたと思います。

このように時代相の変化を追っていくと、時代がいまに近づくにつれて、さまざまな過去の試行錯誤と過誤の集積にたいする反省と分析のなかから、文化創造という価値の重要性について、日本の社会が覚醒し、それに伴い、美術教育の価値が再認識されてきているなどとは、とうてい思えないわけです。むしろ、個性的な生き方の賛美や創造性の重視、アートのある暮らしの豊かさという私たちが、過去も、現在も、未来も、掲げていかなくてはならない理念が、企業の消費拡大促進のためのイメージ戦略のなかで、かなり手垢がついたものとなり、それだけでは、(つまり、そうした掛け声だけでは)もはや多くの市民の心を動かさないモットーになってきているのではないかと、危惧しています。

お読みになっていただいた方々には、後半、わたしがペシミスティックになってきているように、感じられるかもしれませんが、そうではありません。私も、小
| 山木朝彦 | 2009/09/15 7:28 PM |

つづき

糸井重里が「おいしい生活」という名コピーを創り出し、山口はるみが、長いブロンドの髪が風にたなびく女性像を巨大な看板にして、爽快で文化的な都市消費者のイメージを社会に浸透させ始めた1975年以降、東京と地方の都市は、駅前を中心にして再開発されはじめ、おしゃれな街にさまがわりし始めました。「アートがない生活は味気ない」は、ほとんど、「消費者の生活自体がアートなんだ」というコンセプトにすり替わっていったのだと思います。

その背後では、いろいろなシンクタンクが新たな消費の掘り起しには、どのような消費者心理の形成が必要かという調査を展開しており、イメージ戦略の有効性を企業のトップに確信させる調査結果を出していたのだと思います。この時期のマーケットリサーチは、分
衆論などにたどりつき、大規模な画一型生産に基づく画一化された商品にはすでに未来が無いことを予見していたわけです。アートという個性を前提にする創造と受容のコンセプトを、どうしたら、商品に纏わりつかせるか・・・・・この課題こそが、「おいしい生活」というコンセプトを企業が支持する第一のねらいだったと思います。まさに、この時代を反映する象徴的な文学が、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」(1981)や 「ブリリアントな午後」(1982)だと思います。(ここでも注釈しておきたいのですが、私は案外、これらの小説が好きです。)まさに、キラキラ輝くカレイドスコープのなかを舞うフェアリーのごとく、自己愛に満ちた若い女性たちの消費者小説として読むと、時代に敏感に反応してゆく田中の政治的嗅覚の確かささえ、そこに読み取ることが出来るでしょう。これらの小説には、モノが溢れ、ブランド名が会話にしょっちゅうでてくる消費全盛時代の空気がよく現れていますし、そのような話題や着ている服装でセンスを競い合う一抹の虚しさも、登場人物たちの「感傷」という心理の中に滲んでいます。

ソニーのウォークマンが1979年、若者の間に広く浸透し始めたのが、ちょうど1980年代だと思います。好きな音楽を聴きながら、街を眺めていると、ごみごみした汚い部分には目がいかなくなり、選択的に素敵なところだけを切り取る効果が生まれます。そして、街が汚ければ汚いほど、音楽に集中して汚濁をみない心理へと傾き
ます。このようなモバイル型のガシェットを所有することは、家の中に、多機能なレコード再生や録音装置を備えたコンポ型ステレオを持つよりも、はるかにオシャレなこととみなされましたし、同じテレコでも、かえってラジオの機能や録音の機能を排除したほうが魅力的にみえるという現象が起きました。

このことこそ、思想家、ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」の生きた例証となったわけです。現代の百科全書派の松岡正剛のブログからの孫引きですが、「今日では純粋に消費されるもの、つまり一定の目的のためだけに購入され、利用されるものはひとつもない。あなたのまわりにあるモノは何かの役に立つというよりも、まずあなたに奉仕するために生まれたのだ」というボードリヤールの言葉は示唆に富むものです。ボードリヤールが予言的に言うとおり、個性化というイメージ戦略は、企業によってコントロールされ、その本来のダイナミズムを失っていく過程にあるのだと思います。
| 山木朝彦 | 2009/09/15 7:16 PM |

つづき

アートについては、万博とのかかわりで積極的に関わった具体、屈折したアメリカとのかかわりを自覚的に選んだネオ・ダダ、通俗的なモダニズムに対して異議申し立てをしたもの派など、きわめて刺激的な展開が70年代を彩ったといってよいでしょう。ただ、いっそう幅広い支持を得たのは、マルチな才能を発揮した版画家の池田
満寿夫であり、題名が美しいのにやや悪趣味な小説「エーゲ海に捧ぐ」は、芥川賞を受賞したことで広く読まれたと思います。彼はその映画化にあたり、チチョリーナを起用するなど、コマーシャリズムにも長け、モラルへの揺さぶりを諧謔を交えながら展開した人です。

このように、70年代の半ばまでは、いろいろなファクターが絡み合いながらも、常識の問い直しや既存の価値に対する疑問視や制度への破壊衝動など、ぐつぐつと湧き出す表現欲動が社会に噴出するプロセスを美術・文学から読み取ることができるのであり、この時期までは、美術教育が唱える創造性の育成という理念は、社会が認める二つのモメントに支えられ、それほど綻びなく支持されてきたと思われます。それは、一つには、個人の内面世界の心象風景を造形世界に結晶化する、もしくは吐き出すことで、そのなかに苦悩を浄化するカタルシス的な共感を覚える受容者層が厚く存在していたこと。もう一つは、基本的な色や形の基礎的技能を磨くことによって養われるセンス、そしてものづくりの力が持ちうる生産力への信頼です。誤解をおそれずに言えば、デザイン立国を国是とするような空気を国民が呼吸していたともいえるでしょう。親も教師も、この二つの社会的なモメントを文化的な生活へ繋げる公教育の課題として、すなわち、人間形成のモメントとして受け入れていたのだと思います。個性や創造性という価値観が社会の中にも、学校の中にもしっかりと根付いていて、これをサポートすることが教育者の役割であるという高い意識が、言葉で語らずとも一般の先生方にも浸透していたのではないでしょうか。頻繁にメディアに自らを露出させる岡本太郎や池田満寿夫をみても、変わったひとも世の中には必要とわりきるなにか精神の余裕とでもいうべき空気が漂っていたように思えます。(いまでは、どうでしょうか。番組の進行がなによりも優先され、完全に編集され、最も尊重される人材とは、個性を押し殺して「空気を読む」ひとなのではないでしょうか?)

今、振り返ると、このようなある種幸せな時代の終焉は、皮肉なことに、マーケット拡大のためにセゾン・西武が文化戦略的なアプローチをとりはじめ、美術館さえも創ってメセナを展開し始めた1970年半ばだったのではないでしょうか。セゾン美術館は私にとっても思いで深い美術館ですし、この美術館がどれほど日本の美術関係者を啓発したかは、言葉では言い表せないくらいですし、美術館の運営や企業メセナ自体につまらない言いがかりをするつもりはまったくありません。そのこと自体には功績が大きいわけですが、流通業界が率先して展開した新たな消費者像の再定義と、その定義への目的的な方向付けという戦略と美術館の運営は、実は、切り離せないひとつの事業プランに属していたという認識が必要だと述べたいだけなのです。
| 山木朝彦 | 2009/09/15 7:10 PM |

思い出して、めげずに書き直します。たぶん、そうとう端折ってしまうし、流れが変わってしまうかもしれませんが・・・。

文学に目を転じても、大江健三郎の「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」「われらの時代」「性的人間」、三島由紀夫の「仮面の告白」「金閣寺」「憂国」「午後の曳航」、吉行淳之介の「砂の上の植物群」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮まで」など、いずれもかなり挑発的で、性描写や暴力描写が濃厚な作品群が、まさに純文学として市民権を得るばかりか、広範な一般の読者層から熱烈な支持を受けました。遠藤周作の「月光のドミナ」のような問題作も、島尾俊雄の「死の棘」のような異色作も高く評価されましたし、埴谷雄高の「死霊」のような長大・難解な小説にも学生たちは挑んでいたように思えます。

いわば、創造性を発揮する豊かな培養土である表現の自由や想像力の奔放な流れを社会が認めていた時代―もう少しはっきりいえば、そうした異能の持ち主たちを正当に評価できる時代だったと振り返り思います。いまでは、様々な価値観に基づき独自の道徳観や平等観から発言する無数の社会集団が投げ掛けあう、多種多様なコードが縦横無尽に張り巡らされていて、知らないうちに、表現者達の想像力がはばたく領野は狭まってきているように感じられてなりません。(ですから、逆にメープルソープの写真展に無罪判決を出した裁判所の見識などがクローズアップされるのだと思います。)たとえば、アマゾンJPに寄せられている、村上春樹の話題作「海辺のカフカ」にたいする膨大な批評を読んでいると、この小説の性描写と暴力描写に対する非難の数々を目にすることができますが、上述した小説の描写に比較するとその表現はむしろ弱々しいくらい微弱なものです。わたしは、けっして、濃厚な性描写や暴力的なシーンを賛美したり、そういうものに傾く表現者のベクトルを礼賛したりしているわけではないのですが、人間というものの精神の闇と光の世界を彷徨し、探索してきた日本や世界の文学の伝統からみて、社会的なコードを反映させた文学へのアプローチや読み方は一面的な評価につながる危険も感じないわけではありません。そして、文学だけではなく、いろいろなアートをめぐる現象を眺めていると、現代という時代がいかに表現者にとって息苦しく、さまざまなコードに縛られているかということがわかります。

1960年代、70年代は、学園紛争(学生運動)に象徴されるように政治的な衝突や混乱もあった時代であり、ベトナムへの反戦やアメリカからの精神的独立など多様な政治課題を引き受けた表現者たちの活躍の時代でもありました。いま読み返してみると、文学としてはやや硬い表現のようにも思える1970年代の紛争期によく読まれた高橋和巳「悲の器」「我が心は石にあらず」「邪宗門」「憂鬱なる党派」(いずれも1960年代の作品)などや柴田翔の「されどわれらが日々」(1964)、そして国粋主義の三島由紀夫の「憂国」や評論の「文化防衛論」など、社会的な背景に根ざした文学もたくさん生まれました。翻訳についても、カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」や虚無的なソール・ベローの「宙ぶらりんの男」「この日をつ
かめ」や退廃に傾くブローティガンの「愛のゆくえ」など、この時代の空気を反映した異色の作品がたくさん出回っていました。
| 山木朝彦 | 2009/09/15 7:05 PM |

金沢大学の松浦です。


 鳴門教育大学の山木先生のご意見、ご提案に応えなければと思いつつ、時間がとれず、なかなか考えが整理つかないでいました。
 今回のご意見、ご提案には意見を述べたいと思います。
 山木先生は、教科内容学構築というとき、(A)と(B)の課題があり、その取り組みが必要と述べられていますが、この考え方には、各委員は賛同されるでしょう。現在、各部会で(A)の取り組みが進んでいると思います。その内容については精査し、各部会間の整合性等検討する必要があるでしょう。その結果、埼玉大学の小澤先生がご指摘されておられるように教科別の枠を取り払う必要があれば、それを検討すべきでしょう。
 私たちは『美術教育』でつながっています。一方ではもの作り、絵画や彫刻、デザイン、工芸、美術史等、個別的な活動もしているのです。私の場合、今まで(社)日本グラフィックデザイナー協会やデザイン学会等に所属して、グラフィック作品(版画、ポスター等)の制作やそれらに関わるテーマの論文等を執筆してきました。それが大学の教員だと思ってきたのです。研究者としてそれが当然のように思っていたのです。
 ところが、今まで教えた学生が、中堅の美術教育者として成長し、会って話を聞くと、美術教育の問題点を指摘しながら悩んでいる姿に、教員養成課程にいる者としての責任を強く感じました。本のタイトルは忘れましたが、その本に書かれていたこと、「一般にいう美術は個別的に、個人的に社会から高い評価を受けているのに、美術教育はどうして評価されないのだろうか。」ということを思い出しました。いままで美術教育者で社会的に評価された人はいるでしょうか。美術教育の危機感は、卒業生の現職教員からの話から感じていました。そして『在り方懇』の答申でよりリアルに、教員養成系の学部、大学における美術教育の危機感を感じ、どうすれば良いのかを考えるようになりました。
 ところで、山木先生は「いまや、文学・芸術・人文科学一般はどんどん衰退しています。」と指摘されていますが、金沢大学の中ではそれは感じません。また、アート系の専門大学が衰退しているとは見えませんが、いかがでしょうか。美術教育が危機なのに、一般的なアートは危機ではないというところに、美術教育の問題が市民の問題として意識されない深刻さがあるように思います。
| 松浦 昇 | 2009/09/15 2:42 PM |

とんでもない誤字がありました。。。
手塚修 → 手塚治虫 すみません。。。

私は良く学生に手塚治虫先生の講義の話しをします…
大学1年生の時、芸術祭の特別講師に手塚先生が招聘されました。現在のアニメブームも氏の偉大な業績を抜きにしては有り得ません。当時は未だマンガはサブカルチャーどころかアニメブームも単なる娯楽としか社会認知されていない時代でしたから「私が何で?芸術の最高峰の大学に招かれるのだろう?」と氏は全く謙遜でからお話を始めました。芸大最大の第一講義室(グランドピアノが置かれた階段大教室)は勿論、満席です。氏がテーマとする生命/輪廻/医学/宇宙/人間など非常に興味深いお話を伺いました。鉄腕アトムやブラック・ジャックまでの誕生秘話が続き…氏は急に立ち上がり大教室の黒板に向かい手にした白いチョークで…氏が大好きだという「リボンの騎士」をササササッーと描きました。その瞬間、会場はかたずを飲み唸り声が響いたのを覚えています。見事な上に素早く線が正に生きているのです。すると「メルモちゃん!」と誰かの声がしました…氏はメルモちゃんを様々な年令で眼にも止まらぬ早さで次々と描いてくれたのです。しかし氏の手の動きが早過ぎ…チョークが折れて飛び散りました。芸祭の執行部の学生が画翠(学内の画材屋)に走り…大きな模造紙と黒マジックを調達し息を切らせて走って来ました。会場からは待ってましたとばかりに拍手と声が掛かります。「アトム!」「ブラック・ジャック!」「火の鳥!」次々と氏の手は素早い動きで手のマジックがキュキューキュッと唸り…大観衆は素晴らしい絵に拍手喝采の繰り返し。懐かしい幸せな…青春の思い出です。私は手塚以外の漫画を実は評価していません。単なる暴力だったり恋愛だったり内容に氏の様な哲学的な問い掛けも深淵なる思考も存在していないからです。特に「火の鳥」は何度も何度も読みました。其処には命である我々人間が何故、何の為にこの宇宙の中で生かされているのか…極論すれば『命』とは何かという問い掛け…我々が美術という教科で成し遂げようと議論している教科内容の本質的な核をすら氏はマンガで残してくれていると思います。茜丸が彫る一体の仏像に…鳳凰の刺繍の衣に…氏の描いた「火の鳥」は美を残そうとする崇高な人間の魂が美術品という姿に変わっており…『永遠の命を持つ価値』として存在し続けるのだと私なりに解釈できるからです。

誤字訂正のつもりが…又、長くなりました。すみません。
山木先生、へこたれず…復元追記をお待ちしております。

これで20分ちょっとです。。。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/09/14 9:40 PM |

山木先生 皆さま

個展初日を終えて帰宅しました。明日から上海そして桂林に発ちます。山木先生の書き込み、渡辺先生と同じく後半の核心をうかがいたい思いです。これからこのPCを荷造りし、次につなげられるのは桂林です。ただ、その場所は桂林の空港から車で一時間ほどの、まさに周囲に何もない、あるのは例の有名な山々ばかりの地で、ネット環境がとても心配な場所です。いわゆるアーティスト・イン・レジデンスで、施設は現代的なものなので、たぶん接続は可能かと思って楽観視しています。この議論の続き、遠く桂林から見守る所存です。私の発言がない場合、ネットに接続できていないと了解ください。

しばらくは画家に立ち戻って、大作を3点描いてきます。接続できれば中国の事情も報告いたします。

皆様の議論がポジティヴに展開されることを祈っています。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/09/14 8:54 PM |

鳴門教育大学 山木朝彦 先生

横浜国立大学の渡辺です。
山木先生の人生の回顧録、親しみ易く非常に面白く夢中で読みました。

私は1959年ですから白黒TV番組「ひょっこりひょうたん島」あたりから始まり…カラーTV番組は手塚 修 の「ジャングル大帝」が最初と記憶しています…幼稚園の庭で泥団子をつくり東京オリンピックの競技する人のフィギュアを集めたものです。それほど差は無い記憶かと思います。。。

そうですか。これが3分に1とは…失った文章が気になって仕方がありません。
山木先生も「字数制限があるようですね」とおっしゃっていたじゃないですか。
私も書き込み始めた最初の頃、この不幸な悔しい思いを…既に経験しました。

ですから、何時かブログにも書いたように…
何か別の文書用ソフト(MacならSimpleTextなど)で書き込み原稿は制作し…直接、枠内には書き込まない方がいいです。出来た原稿をコピペすればOKですし保存されています。字数制限で余った部分は(続き)にすれば直に終わります。

きっと、この後…日本の美術教育の現状と将来へと文章は繋がっていたのでしょう。
是非、この不幸にくじけず世界中で待っている読者に向けて書いて下さい。
私も書き込みに対する山木先生のコメントを伺いたいのです。

私の経験では…
直に再会しないと忘れるし気合いが抜けてしまうので…

ちなみに…この書き込みを打つのに10分です。。。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/09/14 7:22 PM |

うかつにも、現在あっぷされているものの3倍という長文を打ち込んでクリックしたら、後半がすべて消えてしまいました。もう書く気はおきない。ほんとうにヤレヤレです。
| 山木朝彦 | 2009/09/14 6:07 PM |

数日アクセスを怠っていた間に、私の投げ掛けた惹句的テーマに誠実この上ない直球の思考が世界中からこのブログに集まっていることに驚きとともに、投げ掛けてよかったという想いを抱いております。

私は、1955年の生まれです。日本の終戦―計画なく開戦し、計画無く戦線拡大し、兵站の重要性さえ認識できない軍令部の体面主義のために自滅した部隊さえも数多くあった、あの惨めな敗戦―から約10年後に生まれ、アメリカの生活観や価値観を「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」や「名犬ラッシー」、そして「スーパーマン」「アイラブ ルーシー」「宇宙家族ロビンソン」「フリッパー」「ベンケーシー」「ドクター・キルデア」「奥様は魔女」「鬼警部アイアンサイド」などというテレビドラマの物量的攻勢のなかに、とことん浸かることで吸収した世代です。この頃のドラマはたまに再放送されますが、今では、日米の庶民の生活水準も、社会的なインフラ水準も縮まり、家や街並みの様子も、家具・調度や服装も、指をくわえて羨ましいと羨望するような映像ではありませんが、当時の衝撃―特に大人の―は大きかったと思います。[趣旨から脱線しますが、今見ても、これらのドラマのシナリオは天才的に素晴らしいですよね。勧善懲悪やご都合主義は拭えないけれども、ウィットに富んだ会話、ときには辛辣なほどのジョーク、日常の中に隠れている人間愛が突如姿をみせるストーリー、家庭の暖かさと孤独のせつなさ・・・・小気味良いほど、これらの要素がどのドラマにも散りばめられていて、一話完結の短編のよさがありました。]

アメリカ被れというとあの世で父が苦笑いをしそうですが、明らかにアメリカかぶれであった亡父は、レイバンのサングラス、ロンソンのライター、GEの扇風機、短波で外国語放送が聴ける外国製のラジオ、シンガーのミシン、オリベッティのタイプライターを揃え、アメリカ本国のシアーズから通販で小物を買い求めていました。わが家は、特異な例かもしれませんが、多かれ少なかれ、アメリカの物質文明の豊かさを垣間見た当時の大人たちは、家族や社会の生活の質の向上には、経済的な繁栄が不可欠であること、そのためには科学技術の発展と新たな魅力的なモノを生み出す創造的な能力が求められていると身に染みて感じていたのだと思います。1964年のオリンピックと70年の大阪万博という二つのイヴェントを国家大改造のモメントに利用できた自民党政権には、ある種の天才的な、悪魔的ともいってよい戦略家がいたのでしょうし、強力な経済的コングロマリット/カルテル/シンジケート/財閥が強引なイニシアティブを執ることができたある種の古い体制が残っていたのでしょう。

いずれにしても、この二つの国家プロジェクトによって、新幹線網と高速道路網が整備され、物流の迅速化が図られ、下水道整備や地方都市の県庁所在地にまでマンション群の乱立が及び、生活環境の相対的改善が進捗したと思います。この時期は、斬新な建築やプロダクトデザインへの人々の関心も、いま以上に高く、代々木のプールなどスポーツ施設を創った丹下健三は時代の寵児でした。家電などのデザインについても、もはやアメリカの扇風機やラジオや冷蔵庫は無骨に見えてしまうほど、日本の家電のデザインは急速に洗練されてきたように思えます。それは自動車についてもいえることで、ドラマの中の大きくて立派なアメ車よりも、小学校3年のときの担任の若い女性の先生が乗ってきた、トヨタパブリカのほうが魅力的に思え始めました。

大阪万博の太陽の塔が象徴するように、社会は奇異なもの、斬新なもの、洗練されたもの、カーニバル(祝祭)的なもの、サイケデリックなもの、隠微で妖しいもの、ラディカルで非常識なもの、倒錯したもの、混乱したもの、きわだって個性的なもの、パフォーマンス的なもの、意味づけを拒むもの・・・・・そうした、創造の源になりえるぐつぐつ湧き上がった、芳香も悪臭も放つ、培養土のような文化や風俗・流行、そしてクリエーターやパフォーマーにたいする市民の受容力が非常に高かった時代だと思います。それは岡本太郎だけではなく、具体美術やネオダダやモノ派への美術ジャーナリズムの言及を背後で後押しする世論でもあったし、いっそう、ある種の通俗性と表現技術に裏打ちされ、かなり危ないエロティシズムを追究した池田満寿夫の活躍などからも伺えることです。

文学に目を転じても、大江健三郎の「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」「われらの時代」「性的人間」、三島由紀夫の「仮面の告白」「金閣寺」「憂国」「午後の曳航」、吉行淳之介の「砂の上の植物群」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮まで」など、いずれもかなり挑発的で、性描写や暴力描写が濃厚な作品群が、まさに純文学として市民権を得るばかり
| 山木朝彦 | 2009/09/14 6:01 PM |

(続き)
探求していかねばならないと思います。こういう発言は、危険思想と捉えられる先生方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は自分が間違っていることを言っていると思いません。とても現実的な話をしていると思っています。

横浜国大の渡辺先生、チボリ公園から発言される石井先生、それぞれの先生方のもっている美術教育に対する情熱、それが何より貴重です。こうした議論を重ねましょう。9月15日以降、私は中国桂林で制作しています。そこからも折にふれて発言したいと思っています。よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/09/13 3:20 PM |

鳴門教育大学山木朝彦先生 皆様

長らくブログから離れておりすみませんでした。NYで美術の現状を体感してきました。その感想については、もう少し腑に落ちてからにしたいと思います。

この間全体議論で活発な意見が交わされており、帰国後拝読させていただきました。特に山木先生がご提示された「この実利時代において美術の教育をいかに展開するか」については、リアルな現実的課題と思います。絵画とか彫刻というような、表象的な表れで美術を捉えているうちは、美術は他教科とどうしても差異化してしまい、その狭い認識の中で存在意義を表明していかなければならなくなります。しかし、美術表現とは「創造」であり、鑑賞とは「創造の享受」であると大きくは考えられます。「創造」という立ち位置に立てば、教科内容としての狭小な美術の枠をはるかに超えた世界を提示できるのではないかと思います。

「創造」とは、「新たな価値を生むこと」だと私は考えます。それは個人的にも社会的にも言えます。個人に関して言えば、「新たな価値」とは既に自分のなかに潜在的に眠っている可能性への気づき(開示)だと捉えます。それを可能にするために絵画やその他の表現が「手立て」として活用されるのであって、そもそもは「創造」を開示することが第一義です。また、社会的な創造とは、個人の集合体としての社会のなかで、個人の中であったと同様の新しい価値への気づきが、連鎖的・総体的に発生することだと思います。

いずれにせよ、美術の教育を広く「創造性」という視点から捉えなおせば、それは教科間に通じる普遍的な問題性を開示できることになると思います。脳科学などの最近のブームは、それこそ社会的な新しい価値の創造の一断面を示していると思います。それが絶対ではないのでしょうが、脳科学の研究は、芸術家や芸術表現を確実に射程にいれています。認知科学もそうです。彼らの研究の本源は、やはり「創造性」の解明であり、それをするのは、人間にとって「創造する」という行為は、もっとも人間的な行為であり、人間であることの核心がそこにあるからだと考えます。したがって、美術の世界の人間も、当然その領域に踏み込んでいかねばなりません。脳科学だけではありません。様々な諸科学、諸学問領域との連携が模索されるべきです。絵画とか彫刻とかデザイン等の具体的な教育内容を考えることも、もちろん並行して大事なことですが、やはり直球で「創造の核心」の解明に、球を投げなければならないと思います。

今後、美術教育の教科内容を考えためにまず必要なことは、表現を通して価値を生み出すという「創造」の原点に立ち返り、そこを明らかにしていくことだと思います。そのためには、美術部会などという狭い世界で議論を戦わすだけでなく、各教員それぞれが、自分の研究の過程で必然的に立ち至る他領域の問題を、美術との関わりで同時に研究していくことだと思います。それはやがては図工・美術という教科の存亡の問題にもつながるやもしれません、が、どうして既存の教科の存在を絶対視する必要があるでしょうか。今後、教科は流動的であるべきと私は考えます。私はかつて文学と美術を学んだ経緯があり、結果的に同じことを自分がしているという実感を強く持っています。そういう経験からも、教科別という概念に対して、大きな疑問を抱いています。学校教育における知の枠組みは、今や変革される時期にあるのだと思います。

実利主義のなかでの美術教育の存在意義ということですが、世間的には実利実利と騒いでますが、それにどれだけ耳を貸すべきなのか、私はそれについては毅然と対峙すべきと考えます(理想的に過ぎますか?)。しかし、美術を「創造」という広い射程で捉えた場合、ポジティヴな意味で実利ともそれは関わります。大事なことは、表層をみるのではなく、「創造」の核心をきちんと押さえていること、新たな価値の創出、既存の価値からの飛躍だと思います。それを子供たちにどのように教育していくか、その際に、既存の教科の枠のなかだけで語ろうとしても、やはり無理があるわけです。つまり、人間はやはり賢いから、数十年前に打ち立てられた知の枠組みから、いまや次の新しい知の枠組みに気づき、それを求めているからだと思います。おそらく世間的には静かに価値の新しい創造が進んでいるのだと、私は考えています。実利実利と騒いでいる裏側で、それは着実に進行していると思います。というよりも、そうしたこれまで思いもしなかったような領域間の連携スパークによって、新たな産物が生まれ、それが結果的に実利をもたらすことも、また現実です。ですから、私たちはその裏側をきちんと見据えて、教科の枠組みの再検討も含めて、これまで美術の教科で形成された内容をまとめながら、山木先生の語られるCの問題を
| 小澤基弘 | 2009/09/13 3:19 PM |

再び横浜国立大学の渡辺です。

又もや誤字がありました。訂正します。
直ぐ前の書き込み/下の大きな段落の下から5行目
未完性でも → 未完成でも
正に私のようで…未完成でした。慌て者ですみません。

尚、この子供達を長年に渡って苦しめた『美術のトラウマ』の存在を示す学生の言葉は…美術以外の教科専門学生を含む教職関連教科/小教専図工に於いて私が長年、継続して全学生に課している授業感想レポートから特に重複して見受けられるもので…今迄経験して来た図工・美術の授業経験と今回の授業の比較に関する記述のごく一部分です。1つの授業からも今迄の美術教育の経験的知見を得ることは可能です。

美術が好きになる/美術が嫌いになる…全く真逆の『極めて重要なきっかけ』は、我々、教師…ひいて言えば我々大学の教員が免許を与えている図工・美術の授業指導や『発する言葉』の中に存在しています。「好きに自由に描きなさい」「元気があっていいね」「雑だなあ」「やる気が感じられないね」「私は好きだけどな」それら現場の美術教師が発する普段の言葉そのものが…実はとても重要だと私は思っています。

山木先生、皆様、ご意見ご指導、よろしくお願いいたします。
| 渡辺邦夫 | 2009/09/13 9:09 AM |

再び横浜国立大学の渡辺です。

誤字がありました。訂正します。
前々回の書き込み/下から2行目
笑われは諭す職能 → 我々は諭す職能 或は 笑い諭す職能
2つの表現に迷ってたら…混じってしまいました。慌て者ですみません。

山木先生がおっしゃるように…美術教育は危機的状況にあります。その危機は他の主要教科重視にしか眼が行かない官僚主義も要因の1つでしょう。又、美術を尊ぶことは人間のみに備わる芸術の崇高な価値理解であるのに…その美の価値を自らが生み出す喜びをしない…あらゆる物質を買う為の強欲的で刹那的な価値=お金という短絡的な価値に此の世は眼が眩んでいるのです。美術の価値=お宝鑑定団という一元的な座標しか理解できない国民そのものもまた要因でありますし…それら美や芸術の価値を理解できない官僚や国民を教育して来たのは小中高大学の図工美術の教育でもあり…更には其処で教育に従事する教員を養成したいる我々自身に要因は巡り戻って来るのです。美術教育の価値を世に理解させるのも…現状の危機を乗り越えるのも…我々自身の今、そしてこれからの我々の教育、そしてこの画期的な論議に全てが掛かっている…とも言えるのではないでしょうか。

熱く美や美術について教えることのできない者は教員に向いていないことは確かです。又、自分が実技が出来ないのに言葉だけ巧みに全く根拠の無い趣味的批評をして教えてると思っているような教師は…全く学生にとって人生の災難としか言いようは有りません。元選手がその競技のコーチになるように手本を示せす為の平素の努力無き者は教壇を去るべきでしょう。誰でもピアノが上手く弾けない先生にピアノは教わりたくないし、料理が下手な先生に料理を教えられる不幸は他に例え様も無く不幸を産み続ける結果となるのは明白でしょう。味が解らないを、美が解らないにすれば…料理は美術に簡単に読み替えることが出来ます。美術に於ける評価論にも不幸の伝播は全く連鎖していて…学生レポートに良く見る「今迄、私は美術で一度も褒められることが無かったから嫌いだった」「始めて美術という教科は自由で楽しい表現をする教科なんだと感じた」「苦労したが苦労が喜びに変わるのが嬉しかった」「短時間で未完性でも直にやめなさいと言われじっくり作品を造ったことが無い」「作品は描いたらコメントも無しで何時も終わり」「家に持って帰ったら親が直にゴミ箱に絵や工作を捨てた」等には…不適切な教師の狭い度量/削減される教科時間の状況/親の美術という教科への無関心無理解、等が…子供達を長年に渡って苦しめた『美術のトラウマ』が存在している事実を示しています。

訂正のつもりが…追記になってしましました。

山木先生、私の意見に対して返信下さいますと有り難いです。
よろしくお願いいたします。
| 渡辺邦夫 | 2009/09/12 10:33 PM |

学芸大学、石井です。

只今、コペンハーゲンです。チボリ公園横のハードロックカフェに呆然としながらブログに加わります。
山木先生、本ブログへの壮大にして力強い方向性のご要望、有難うございます。慎んで呼応すべく思考中でおります。iPoteでの反応なので発言は限られますが、幸いな事に国内にての雑務に追われる事が無い分、時間を有意義に使えます。25日への準備をしておきます。
国大・渡辺先生、全体議論にお戻りのご様子何よりです、どうぞこのまま宜しくお続けください。お願い致します。

此処まで書き込むのに既に一時間超えました。不自由な発言、申し訳有りません。皆様のお書き込みは随時確認させて頂きますので、宜しくお願い致します。
此れにて一先ず、
| 石井寿郎 | 2009/09/12 10:15 PM |

(少しだけ続きです)
美術教育の核心には…本当の美を知ること/美を理解し解釈できる こと/美を愛でる心の余裕が持てること が先ず有るでしょう。そ して、その次に…美を自ら生み出せること/生活に美を保有し美的 に暮らすこと/身の周りにあるムダな材料を生きる為に利用する智 慧と美意識を持てること…そんな少しだけの教養と身につけるべき 造形力こそが…人として『生きる力』なのではないでしょうか。こ の自覚は山木先生の第3の書き込みに繋がっています。人は社会的 な動物であるからこそアートを生活の中に必要とします。絵画も彫 刻も工芸もデザインも人と人を美で繋ぐ喜びの価値であるからです。

免許更新講習を行って愕然としたことが有ります。 自分のシ ンボルマークをデザインする実技講習でアイデアスケッチを始めさ せると…15人中、7名が鉛筆を持って来ていませんでし た。シャープペンシルも有りませんでした。又、鉛筆を与えると… 鉛筆削りを貸して貰えないかと言われ、カッターで削ってあげると 殆どが削り方を知らず…私の見事な削り方を褒められました。又、 製図作業い入ると…三角定規、コンパス、楕円定規、自由曲線定規 等、次々と貸してくれと頼まれ…あげくの果てに、絵の具を忘れて 来た/筆が1本しか無い/筆洗を貸してくれ/ギターペイントやサ クラの絵の具しか無いので先生のデザイナースガッシュを使ってい いですか…で、全ての道具画材を貸し与え、絵の具を提供して…正 直に言って…非常に低いレベルの作品が完成しました。これが現在 の小中学校の教員の実際の現状なのです。 未だ未だ書き足り ないのですが…次回にします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/09/12 7:41 PM |

鳴門教育大学 山木 朝彦 先生 皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。3日連続の書き込みありがとうございます。全て拝読しながら…9月恒例休日連続出勤(小学校教員資格認定試験〜AO入試〜大学院入試)と様々に有って対応が遅くなりました。書き込みの随所にみられる御見識の深さに感服しております。学部長になられた小野康男先生に先程、伺った処、山木先生は…あの宮脇 理 先生の一番弟子で頭脳明晰なる論客とのこと、私には先の書き込みにも有ります様に「価値表象」すら「つくる・創造する」となってしまう実技系特有の語彙不足知識不足と身を恥じつつ…山木先生と対話させて戴きたく…よろしくお願い致します。

先ず第1通目のやや難しい表現の「私たち(美術教育)を取り巻く危機的状況ですが…我々が属する美術という教科に希望は有るのか…という問い掛けと理解します。おっしゃる通りだと思います。日本に於いて美術教育は経済最優先教育の悪影響を受け、周辺教科無用教科とさえ蔑視される揶揄を否定できません。美術の教育効果が主要教科と比べて具体的数値として列記し難いからでありましょう。文章読解力、計算能力等は数値化できても…描写力、構成力、造形力、独創性等の美に属す能力は数値化は困難なのです。芸術立国・デザイン立国と言われる欧州の文化国と比較して芸術や美術に掛けられる国家予算は日本は余りにも低く結果として…日本はあまり幸せでは無い国…と私は感じています。それは自国の誇るべき美の教養に欠け、美術の重要性が国民に広く理解されていないからだと思うからです。美術で養われる人間の個性、多様性の理解、崇高な精神、快適美的な生活、生まれた時から死ぬ迄、人間を幸せにする力が美術という教科にはあります。我々は…その重要性を社会に説明する責務、重要な論議を行っているのです。
世界同時不況は経済最優先=お金を働かずして得ようとしたマネーゲームのツケです。先日、高校の同窓会で川崎市役所に努めている同級生の話しを聞き愕然としました。彼は5時には帰宅し3台のパソコンの前で深夜迄、FX(ネット上での株や証券や外貨の取引)をサイドビジネスとしています。昨年のFX取引での儲けは4,000万円だそうです。リスクの大きい株には一切手を出さず、ある国の通貨の推移のみに着目し、対米ドル対ユーロ等で小リスク小利幅を繰り返せば誰でも儲けることが出来るそうです。私はある国も話すので知っています。彼はメールをくれれば方法を教えると迄、言ってくれましたが…全く興味が湧きません。何故でしょうか? 所謂、このFX取引もネット上のマネーゲーム…人々の貴重な農業や工業による汗と苦労による労働の糧をネタにしてパソコンの前で売り買いをするだけで儲けを得るシステムだから…彼等の儲けは逆に多大な貴重な労働による賃金を吸い取る卑劣な稼ぎ方だからです。一公務員が自分のサラリー以外に年4.000万円もの副収入を得るシステムを作った事自体が悪と…私は感じています。美術という教養は儲けを前提にして行ってはならないと思うからこそ、私は教員の道を目指しました。教育とは直ぐにへ結果の出ない『植物を育てるような』行為であると既に書きました。その教育に存在する喜びとは…時に無償の奉仕であり、対組織であれば貢献であります。私のデザインに於ける近年の発明は…自力では困難な弁理士雇用や特許申請を大学組織に委ねることで始めて出来る自分のアイデア=デザインの社会への還元です。遺言の様に「今、しなければならない事」を模索しています。絵の腕を上げ絵が売れてこそ芸術家…未だにそんな旧態依然とした大学教員も見受けられます…私個人としてはそんな輩は学び舎に居るのは正直どうかと思います。

話しが逸れそうなので…
山木先生の第2通目の書き込みに意見をします。
この書き込みは、(A)実技系委員/教科専門の書き込み意見、(B)教科教育系/理論系の書き込み意見の2つの関係性連動性を整理し、論議は批判的・発展的に分析し提言するという課題の両面が意識化が提言されています。不況に陥ったのは…経済最優先のお金のみを幸せと考えてしまっている社会そのものの汚点であります。だからこそ、貧しくても美に生きる幸せの在り方を諭すのが我々教師の使命ではありませんか。山木先生が指摘されている実利主義的な教育動向の偏重も正に先の私見と重なるものです。世間の親達は言います…幸せは「いい大学に行って、いい会社に入り、いい車に乗って、いい家に済むこと。その為には…勉強をして、他の人を追い越し、競争に勝つの。お金を一杯、儲けるの。」と…実はそれが間違いだと…笑われは諭す職能なのではありませんか? 何故ならお金が有り余る程に集めても…本当に幸せになった人は…誰も居ないからです。
(続きあり)
| 渡辺邦夫 | 2009/09/12 7:08 PM |


「アートは人類がまさに誕生したその時から、私たちの生活の一部でした。遊牧民が先祖のために歌い踊ったときから、狩猟民が彼らの仕留めた獲物を洞穴の壁面に描いたときから、そして、子どもたちのために英雄の物語を語り始めたときから、アートは人類の経験したことを描き出し、意味づけ、掘り下げてきたのです。すべての人々が、地球上のどこでも、意味づけることへの変わらぬ欲求を抱いていました。時間と空間を結びつけるために、経験と出来事を結びつけるために、身体と精神を結びつけるために、知性と情動を結びつけるために、彼らは意味づけることを欲していたのです。人々はこれらの結びつきを求めて、アートを創り、ほかの方法では表現できない事がらをそれによって表したのです。(このように、)アートの無い社会、アートを欠いた人々などというものは、あたかも空気の無い世界で呼吸せよと言われるようなもので、まったく想像できません。社会も人々も、アートが存在しなければ、生き延びる希望さえ抱けなかったはずです。」

「アートは過去から継続する人間(らしさ)の深部に流れる河のひとつです。アートは新しい世代の人々を去りゆく人々に結びつけ、新たにやってきた者にたいして、次のような普遍的な問いに自ら答える準備を与えるのです。すなわち、自分は何者か。私は何をすべきか。私はどこに行くべきか。同時に、アートは変化への刺激でもあります。新たな視点から古くなったものの見え方に挑み、既知の考えにオリジナルな解釈を付与する刺激なのです。・・・・・」

 この思弁的なロジックは、アメリカのナショナルスタンダードの出だしのところに掲げられた文章の意訳的荒訳です。本来は、アートをこのような長大な視点で語り、多くの親や教師を説得できればよいのですが、文化風土のちがいからなのか、このような人類史の基本に立ち返った論理の展開が、日本社会に受け入れられる余地は無いような気がします。
 アメリカ合衆国という国は、危機意識に苛まれ、何よりも実利的なものの獲得を優先しているようなときでさえ、このように理想を格調高く謳いあげる余裕を持っているかのように感じられ、ある意味で、底力を見る思いに捉われます。そうした格調高い理念と、きわめて現実主義的でプラグマティックな方法の洗練の両者を手放さないこと・・・・このことについては、私たちも大いに学ぶべきものがあるのではないでしょうか。ともすれば、私たちの研究のしかたは、(どの学問でも)趣味的な話題の提供と、そのテーマに関する限りない追究によって、社会や人類史という大きな森を見失いがちだと思うのです。方法の洗練は多種多様に展開するものの、それらを意味づける土台、つまりマップのようなものが描けないまま、各論的な小さな結論で満足してしまう。もちろん、私も、「哲学を変えなければ、新たな知見は導き出せない」などという原則論者ではありませんが、全体像と各論の関係性を見極めながら、内容学研究を展開しないと、結果的には、社会に対して提案を行なうような力は持ち得ないのではないかと危惧します。
 アメリカやイギリスが美術や音楽の研究組織までもが、ナショナルスタンダードの枠組みづくりに協力した社会的背景というものについても、十分、目配りしながら、(もしかすると、いま美術教育はほんものの危機に晒されているという私の認識は、皆さんから、かなり違和感を抱かれているのかもしれませんが・・・)自分自身の危機感に後押しされながら、皆さまの議論に加わっていきたいと思います。


| 山木朝彦 | 2009/09/11 9:31 PM |

 教科内容学構築というとき、(A)それぞれの分野の専門家であり表現者である先生方が、日頃、追究されているそれぞれの領域のディシプリンをわかりやすく語っていただき、相互理解を深めていくという課題と、(B)現実の小学校と中学校を軸として、そこに繋がる幼稚園・保育所と、高校・大学・大学院という教育課程全体を貫く、(美術・デザイン・工芸・アートセオリーなどが束となった)教材の連なりがもたらす造形教育のディシプリンについて批判的・発展的に分析し提言するという課題の両面が意識化されなくてはならないと思います。

 もちろん、ABの課題への取り組みは相互に関連しあい、強めあうものなので、Aについての検討が先行してもBが先行しても、結果的には有益な認識にたどりつくわけですが、Aを検討するときには、Bをどこかで意識化していると教育改善への現実的な接点を探り出し易くなりますし、Bを検討するときには、それぞれの専門家の考えを想い起こし、受け入れる構えを持ちながら議論を展開することが重要だと思います。

 前回、アートの外側に渦巻く不況下の現実主義について言及したのは、ABを取り巻く社会的な状況論の話ではありますが、どちらかといえば、教育課程における他教科群との競合関係に置かれた教材の志向性(教育の目的)にかかわり、やはり、斟酌しておかねばならない問題として注意喚起を促したわけでした。

 日本社会を覆う経済中心の価値観に後押しされて、理数系教育への急激な傾斜や国際化に後押しされた語学教育への傾斜のなかで、どのようにしたら、図画工作や美術という教科が生き延びることが出来るのか。

 この問題は、実利主義的な教育動向が顕著な時代には、過去にも、繰り返し登場してきた問題ではありますが、教育課程における実利主義への傾斜がこれほどまでに強くなった時代はかつて無いのではないでしょうか。(身近な例を出せば、全国の国公私立大学における学部・大学院の改組の動向を一瞥すれば、おわかり頂けるでしょう。いまや、文学・芸術・人文科学一般は、どんどん衰退しています。アート系の専門大学については、どうなのでしょうか?高校生の進路選択に対する親や教師のかかわり方がどの程度、民主的なのか、実質的な力を持っているかにもよりますが、漸減の傾向が現れないかと危惧しています。)

 精神的な充足感を求める人間本来の気持ちや文化的な生活の素晴らしさを追求するという戦後打ち立てられ、守り続けてきた理想的教育観を犠牲にしてまでも、明日の生活の糧を稼ぎ出す手段として教育を捉え、グローバル社会における国家の生き残りをかけて、工学・理学・医学などテクノロジー礼賛に猛進する国民と政治家に私たちは取り巻かれていると思います。これほどまでに、余裕が無い時代はないのではないでしょうか。少なくとも、1955年生まれの私にとって、現代の教育環境はたいへん息苦しいものです。

 しかしながら、(上記の私の認識が誤ったものでないとしての話ですが、) このような情況は、間違っていると、時代の流れを全否定して、孤高に、いままで積み上げてきた成果を土台にして、教科内容学を検討すれば、それでよいとも私は思いません。このような世知辛く、アートや文学や思想などが軽視される時代だからこそ、まさに人の心に訴え、そのような経済至上主義・実利主義の脆さを多くの人々に認識させるとともに、一方では、社会的な有用性という観点において、アートにかかわる教育がきわめて大きな意味を持つことを認識させる言説と方法論を知恵を出し合い、編み出すべきだと思います。

 そのためには、Aの方向、Bの方向とともに、厳しい社会的な状況のなかで、生き延びるための言説の創出と運動の展開という(C)の課題を意識すべきだと思います。私は、いま、かつてないほどの切迫感にとらわれ、以上のような提案をしているわけですが、現状認識を含め、反論や注釈や質問など、大歓迎ですので、一度、この問題を内容学とのかかわりで、このブログにおいて取り上げていただきたく存じます。(2009年9月10日)
| 山木朝彦 | 2009/09/10 7:26 PM |

流れを中断するつもりはありませんが、最近、考え感じることをひとつ申し上げたいと思いました。それは、私たちを取り巻く危機的状況です。
(すぐに自分自身に対して突っ込みないし注釈を入れるのが悪い癖ですが、いま申し上げた危機は、いままで叫ばれてきた狼少年の逸話同様の、危機感を煽り、結束を高めるといったお定まりの「常套句」としての危機ではありません。)
これだけ不況が長引き、雇用の情況が改善しないなかで、小学校〜大学・大学院まで、児童生徒・学生も親も、進学と就職という、きわめて現実的な価値観に強く支配され始めていると私は感じ、考えています。
つまり、つくる歓び。見る喜びの体感や記憶だけでは、この教科は生き延びていくことができないのではないかという危機感に捉えられているわけです。表現者の内部と、外側の価値観・・・その両者を複眼的に捉えていかなければ、とても市民からの広範な、そして根強い支持を受けられないのではないかと思います。
私は、就職や進学というきわめて現実的な関心に基づく市民の教育観にどのようにしたら、夢と希望に溢れたこの造形表現の世界を接合できるのか、非常に悩んでいます。
(またまた、注釈的に申し上げますが、入試や入社の試験や選考過程に美術やアートを滑り込ませようなどという気持ちや関心はまったくありません。)
貧困に喘ぐことなく、健康に暮らすための必須のまなびとして、図工・美術を認識させる方法が、試験制度に組み込むといった方法ではなく、必ず、あるはずなのです。
できれば、その方法について、今後は語っていきたいと思っております。みなさまもぜひ、一般の市民が置かれている、ある種の窮状の感覚を携えて、内容学について検討してみてください。
急いで書きましたので、若干、高飛車な語り口になりましたこと、お許しください。
| 山木朝彦 | 2009/09/09 7:36 PM |

(石井つづきです)

『「この世に未だ存在しない新たな価値を頭の中に想い描き…その形や色を相手や社会に提示する創造行為であって…私はそのモノが生産される前段階迄の作業(設計図面や雛形等)を言うのが本線(つまり工芸の様に自作である必要性は無い)だから…私はデザインを「思考である」と定義しています。』
                (| 渡辺邦夫 | 2009/08/31 12:26 AM |)

と、渡辺先生が仰っていらっしゃいましたが、石井の前発言で、

『「見る」(見える、ではなく能動的に見る)はご専門もご専門であるはずですし、「まねぶ」も行為そのものだけではなく、概念的に考えても全ての行動習得に必要な事なのですから、無論、描画法を習得すること自体も『まねぶ』に入ります。』
                (| 石井壽郎 | 2009/08/28 11:49 PM |)

と、『「見る」(見える、ではなく能動的に見る)』と能動性の念を押したのは、『見る』行為の中にも『思考』は入っていて、むしろ『思考』しなければ『見る』事すら出来ないと考えています。であるとすれば渡辺先生のお考えを当てはめると、『見る』中にも『デザイン』は存在する事になります。私は然りであると考えますが、さらに、『見る』こと自体が『創造』であるとさえ考えております。
 そして、『見る』という事は今後『鑑賞』との関係がより密接性があり、再整理しなくてはならない可能性も考えられます。『見る』という事だけでも未だ議論しなければならない状況にあり、だからこそ、今しばらく直接的に『美術』ましてや『科学』に当てはめる事も抑え、この段階の議論を進めませんか?渡辺先生、そして、皆様。

 他の方々は、如何お考えになりますでしょうか。今度こそ渡航前の最後の長い発言です。しかし、北欧に滞在しながらも短文で申し訳ありませんが発言する所存でおりますので、宜しくお願い致します。小澤先生・内藤先生も如何でしょうか、、、
| 石井壽郎 | 2009/09/08 12:55 AM |

学芸大学・石井です。
 国外逃亡は小澤先生に先を越されました。残念な事に今だ個人プロジェクト施行の為に国内です。渡欧直前まで追われる事になるでしょう。(終われば平和ですが)
 横国・渡辺先生、折角全体議論にお帰りになられたのに、デザイン部門往かれてしまったようですが、戻ってきて下さい。
 小澤先生ご発言有り難うございます。(短文のご発言、私も発言しやすいです)そして、私の補足有り難うございます。

 確かに『つくる・創造』は直接的に言えば『価値表象』に入り、その中の一部ですが、もっと広い範囲で原初の表現行動として想定していました。しかし、この呼び方に一般性がないというのでしたら、『発する』とか『表す』とか『表現』でも結構です。個人的には『意味表象』とまで提示したいところですが、、、。
 大きく社会的に言えば『見る』人、『まねぶ』人、『価値表象』する人、と、分業して存在し得ますが、『絵画・彫刻、、、』も含め直接的に『美術』に落とし込んでいくのはもう少々議論を進めてからと想定していまいた。申し訳ありません。
 でも、

 『「この世に未だ存在しない新たな価値を頭の中に想い描き…その形や色を相手や社会に提示する創造行為であって…私はそのモノが生産される前段階迄の作業(設計図面や雛形等)を言うのが本線(つまり工芸の様に自作である必要性は無い)だから…私はデザインを「思考である」と定義しています。勿論、その思考とは…新しい考えであり哲学でもあり時に思想でもあります。
 実は「見る」「まねぶ」は基礎段階であって…その先にある創造的な造形力こそが…デザインにとってひいて言えば絵画・彫刻・工芸であっても最も肝要な点であると私は考えています。其処にこそ「此の世に命として生まれて美術という分野で研鑽している価値がある」と思うからです。』
                (| 渡辺邦夫 | 2009/08/31 12:26 AM |)

 渡辺先生ご自身も自ずと上記の様にご自身の価値(意味)を表象してらっしゃるではないですか。如何ですか?

 さて、此処からは私論ですので皆様多いにご反応ください。

『「見る」「まねぶ」「価値表象」の3つの柱は、非常に理解しやすく、かつ包括的なキー概念だと思いました。究極的には「自己を知る」ための「価値表象」をいかにして児童生徒および大学生に奨励していくか、そのための本質的方法論としての「見る」「まねぶ」の位置づけと考えます。』
                 (| 小澤基弘 | 2009/08/22 7:19 AM |)

 小澤先生は上記の様に位置づけられご理解されていましたが、私の考えでは3要素を行動として繰り返していくい最小の一単位として設定していました。そして、自己の中で『見る』『まねぶ』『価値表象』を繰り返し『発達』いくと考えています。そう考えるが故に『見る』『まねぶ』『価値表象』は、私には同等の要素で、もっといえばこの3要素で一組であり常にこの繰り返しを自己が小規模(自己レベル)から大規模(社会レベル)へ3要素を繰り返しながら広がって行くイメージです。自己内で説明すれば3要素を繰り返す事で外界を吸収し自己構築する。其れこそが「発達」と呼ばれる事象にあたるのではないかと考えています。

 『「0歳からの美術」という教科内容学の時間軸は、決して単線的なものではなく、三木先生の論点にあるような学びの「らせん」(「十牛図」的なと言い換えても良いかも知れませんが)による進展を考えたものです。絵画を描き続けることによって、技術的な展開はみられますが、テーマは一貫して同じ問題を扱っているという見方もできるでしょう。
「らせん」は、横から見ると一直線の上昇志向を持った成長でありながら、上から見ると円環(つねに原点に戻るような)ダイナミックな動きを持ったものです。このような教科内容が形成されるのが理想だと思います。』
              (| Koichi Watanabe | 2009/06/04 1:45 PM |)

 と、この頃より福島大学・渡邊先生が推されている螺旋進行はこの3要素の回転と説明する事が出来るでしょう。なぜなら、回転を繰り返すので前回の一回転を基含めた状態で次に移るので、初めの『見る』から次の『見る』に移行する時、基本的に前回の位置には戻らず次の階層にうつってしまっているのです。(実際はというより個人差(環境差)があって戻ってしまったりするので複雑ではあります)
 三木先生のらせんのお話、学生の頃の思い出ですが、その事について今、改めて話をするとは夢にも考えていませんでした。人生の不思議でしょうか。

(少々つづきます。)
| 石井壽郎 | 2009/09/08 12:48 AM |

金沢大学の松浦です。

 横浜国大の渡辺先生が最後に書かれていた私への問いかけですが、そんなに嘆かないでください。楽観主義でいきましょう。委員であればこのブログを必ず見られている筈です。お互い信頼し合いましょう。ブログに書かれないから参加していないという短絡的な見方は止めませんか。専門分野が違っていても美術教育という大きな核に繋がっています。繋がっていることは責任を自覚されていると思います。
 今まで教科専門だけでも共通したテーマで議論したことがあるでしょうか。まして教科教育と『教科内容学』について議論しようとしているのです。教科内容学は教科教育と教科専門の連携によってと今まで言っていましたが、連携というより『統合』しなければできません。どこもやっていないことを美術教育がやろうとしているのです。

 ところで、各委員の方々に確認いたします。
 教科内容学についての考え方ですが、以前、兵庫教育大学の福本先生から『教育実践から捉える教員養成のための教科内容学研究』の『第1章 教員養成としての教科内容学(教科専門)研究の歴史』がメールで配信され、各委員に理解を求められました。
 つまり教科内容学についての認識はこの研究に立脚するということですが、「教科内容学は教科専門と教科教育のモザイク的総合ではなく、両者を統合した科学である。・・・教科内容学は、基礎的研究と教科教育研究の成果を教育実践に適合させる研究であり、教科専門諸科学と教科教育科学を統合した新しい専門研究ー学とならなければならない。基礎的研究は非実験的、教科教育は実験的という旧い殻に閉じこもった思考は転換されなければならない。」とあります。つまり今まで言われている単なる教育実践学ではないということでしょうか。

 私もブログで長文だと思っていることがなかなか伝えることができません。誤解を招くような文章が今まであったように思いますが、ご容赦ください。短い文章でも結構です。私の意見に賛成、反対ということでも結構ですので、まだ、いままでブログに発言されていない委員の方々、よろしくお願いいたします。
| 松浦 昇 | 2009/09/04 2:03 PM |

小澤基弘 先生へ  皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
早速にお答え下さりありがとうございます。「価値表象」ですか…「価値表象」という様な難しい語意は聴き慣れないですね。無学な私には絶対に出て来ない語彙なせいか見落としていたんですかね。。。
「見る」も「まねる/学ぶ/まねぶ」と来てますから…学習者主体の能動的行為性を感じる動詞ですから…私は素直に「つくる=創造する」としたのですが。
『絵画の教科書』を執筆編纂された先生ような学者でもある画家に緻密な文章などど褒められると…石井先生で無くとも嬉しくて筆(キータッチ)が走ります。難解な語彙で…普段より感じていたことを書きます。

ある意味で一般人はめったに使用しない寧ろ使用できない語彙を蒐集した様な…誤解の無いように敢えて言いますと…馬鹿は読むな的な文章が…私は一番、苦手です。何故ならそんな文章を書く人は…読者をごく普通の世間一般の人としていないからです。
普通の人に解る文章であり、且つ、その読者の心の底を打つ内容であること…
ハーバード・リードや中原佑介の文章は…ごく普通の世間一般の人に難解なことを理解できるように書いていると理解することが…私にもできます。難解な文章で相手に自己の知性を誇示する必要は、実は学会のようなある意味専門家揃いの特殊な集団の中での勝負以外には…実は必要無いのではないか…と思うのです。

誤解を恐れず敢えて言うと…授業もまたそうであるべきだと思うのです。
時に大学には、一度に一気に説明すれば1時間で済む様なことを、延々と半年間も繰り返し…さも難しいことのように講じる先生が居たりします。私が学生だった頃にも、そんな感じの退屈で…唯、難解な講義を経験しました。実は…私の感覚脳主導の脳が難解過ぎて拒否していただけなのかも知れませんが。

私の授業信念は逆です…難しいことを如何に簡単に理解させるか…それこそが教師の腕の見せ所だと考えているのです。毎年、採点が夏休み終盤にまで及ぶ『色彩論』は特にそうです。何故なら履修してくれる全学の学生は所謂、美術の素人=正に一般の人が多く含まれて居る(と言うより…)寧ろ大多数なのです。そんな授業で専門用語である種の理論武装して…こんな語彙も知らんのかと差別軽蔑しても…全く意味はありません。皆その道の専門では無い一般の人が相手なのですから。

今、我々が美術教育の存在意義価値論について論議しているのも…
実は、全く一般の人が最終的な説明対象なのではないでしょうか。つまり、最終的には一般の国民に美術教育の価値を「なるほど!」と理解して貰えるような語彙で綴る必要があると…私は率直に思っているのです。

小澤先生はNY、石井先生は北欧、内藤先生はスペイン…良いですね。。。
9月は…残るメンバーで頑張るしかないですね。

論議できるように勉強しつつ…渡邊晃一先生とスカッシュしてみます。
後程、よろしくお願いします。

横浜国立大学 渡辺邦夫


追伸/松浦先生へ

ブログ論議は相互対話であり…意見のキャッチボールの様なものです。
複数同時進行なので…非常に古い遊戯に例えると『蹴鞠』でしょうか。
本ブログが『蹴鞠』ならば…蹴ること=書き込む=参加することです。

一回だけ蹴って後は参加しない人。蹴鞠を見てる人。蹴るのさえも見ていない人。
一回も蹴らずに全く参加しない人。様々な人=委員がおられます。
一体、どうすれば良いのでしょうか。
| 渡辺邦夫 | 2009/09/03 12:19 AM |

横浜国大 渡辺先生  皆さま

いつも先生の緻密な書き込みには頭が下がります。「見る」「まねぶ」についての先生のお考え、全く同感いたします。渡辺先生がご質問されている「つくる・創造する」は、石井先生のお言葉を借りれば、「価値表象」ということだと、私は考えてます。本来は石井先生がお答えくださるのが一番と思います(しかし今、先生は北欧でしょう)。そうではなければ、私は石井先生の書き込みを間違って解釈していることになります。その際はご容赦を!

簡単ですが、取り急ぎ渡辺先生からのご質問に対する私の考えまで。

9月6日よりNYに滞在し、MOMAのロスチャイルド財団現代ドローイングコレクション展をみてきます。また帰国後その報告をさせていただきます。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/08/31 7:52 PM |

小澤基弘 先生へ  皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
全ての美術の根幹に位置するドローイングに関する非常にためになる講習をされた様子、受講生の心理状態の変化まで描写されていて実感が伝わって来ます。何時も先生の書き込みで学ばせて戴き…とても勉強になります。そもそも「見る」「まねぶ」が人間の発達に於いて学習や成長に欠かせないということは私も良く理解しているつもりです。先生が非常に高く評価されている石井先生の最近の書き込み手法「論議を振り返り総括する内容」の中にも…その「見る」「まねぶ」がキーワードとなっていると理解することができます。

「見る」は…視覚を最も大きい感覚器官とする人間にとって重要であり、観察から全ての造形行為が始っていることは明らかです。観察が根幹にあるということは…我々美術界に居る者にとっては全く当たり前のことでもあります。見る視る観る見抜く見定める等、美を決定する行為には視覚による判断は極めて初期段階から究極の形体や構図の選択決定や、表面には見えない本質としての存在館や微妙で微細なマチエールや色彩効果の差異を感じ取ることに至る迄、我々、作家や美術専門教育に携わる者の技量を決定する領域にまで及んでいます。人間が外界との接点として五感で感じる生き物で在る限り…「見ること」は美術という教科の核に在ると断言することが出来ます。誤解を恐れす敢えて言うと「読む」では無いのです。

「まねぶ」は…真似て学ぶから派生した語彙ですね。美術は実技教科である故…その身体行為を伴う身体の姿勢や動態感覚の模倣は基礎に在るものと考えられます。自分より優れた達人の創作する行為を実際に見るか…その作品から見えないその身体性を読み取ることに迄、まねぶは連動しているものと言えるでしょう。まねぶ能力にこそ模範とする理想への距離を近いものとする修練や鍛練が存在しています。最適な素材選択やまたその改良、技法に秘められた技、例えば…センサーとして温度や湿度変化への対応、手触りによってしか感じることの出来ない表面性の微細な変化、色彩の奥義とも言える色の積層感や艶の差異の読み取りとその対応に至る迄、「まねぶこと」は常に美術という実技教科の変遷に重要な学習行為であると思われます。

そこで…素朴な疑問が浮かびます。教えて下さい。
「見る」「まねぶ」で終わり? その先の「つくる=創造する」は?

『デザインは模倣から始まる』という金言を予備校時代に刷り込まれました。
今、論議しているデザイン部会の教科内容学も又…「見る」「まねぶ」が基礎段階の殆どを占めているのは間違いありません。しかしデザインは…この世に未だ存在しない新たな価値を頭の中に想い描き…その形や色を相手や社会に提示する創造行為であって…私はそのモノが生産される前段階迄の作業(設計図面や雛形等)を言うのが本線(つまり工芸の様に自作である必要性は無い)だから…私はデザインを『思考である』と定義しています。勿論、その思考とは…新しい考えであり哲学でもあり時に思想でもあります。

実は「見る」「まねぶ」は基礎段階であって…その先にある創造的な造形力こそが…デザインにとってひいて言えば絵画・彫刻・工芸であっても最も肝要な点であると私は考えています。其処にこそ『此の世に命として生まれて美術という分野で研鑽している価値がある』と思うからです。
教育という立ち位置から見ると「つくる=創造する」が最も上位で難しいのです。
何故なら、他者と異なる感性=個性を指導する個に個自身の自覚によって派生させ…価値あるものへとせねばならないからです。それは言わば「まねぶ」と対局にある「まねぶという初期の自己を否定する自我の確立」とも言える…画期的な変化が要求される高度な教育段階のことなのです。

余談ですが…いよいよ日本の歴史的変革、政権交代が起きます。
官僚主義の無駄は一掃され、実利実益を伴わない無駄が急激に削減されて行くことも充分に予想されます。フィンランドのオンリ・ペッカ・ヘイノネンは28歳で教育大臣になり画期的な教育改革で傾く国を優れた教師や学校を整備することで立て直しましたが(いきなり其処迄は急には無理でしょうが…)50年先、100年先を見通す様な国造りは始まるでしょう…当然、教育の現場にも変化は反映されて来るでしょう。だからこそ、我々は今、美術教育の価値論存在意義について論議しているのではないでしょうか。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/08/31 12:26 AM |

学芸大学 石井先生 皆様

既に北欧に発たれたでしょうか?

再度熱のこもった書き込み、とても参考になります。石井先生の要約能力は私の比ではありません。これまでの議論の論点を先生の要約で再考することができます。

価値表象に焦点化するということは、「見る」「まねぶ」を度外視しては不可能です。必然的な関係性があるし、見る・まねぶはすべてのベースですので、今後もその関係は私なりに考えて書き込ませていただきます。ご心配いただきすみませんでした。

現在の美術表現を見るにつけ、これまでの美術の高い敷居が、かなり払しょくされてきていることを感じます。私の関心があるドローイング表現がまさにそれで、そこには従来のアカデミックな決まりごとはその範疇外です。昨日県からの依頼で障害者美術支援事業の応募採択の審査をしましたが、そのなかには水戸芸や他の美術館で企画展に出品しているすばらしいアーティストが含まれていました。健常者と何の区別もなく、企画展のメンバーに含まれているアーティストです。

たしかに昨今のアウトサイダーアート(僕はこの言い方はとても違和感を感じますが)ブームで、そうした知的障害をもつ方々の表現をアートとして位置づけるという傾向は、私はとても良いことだとは思います。しかし、そういう風潮になってきていることと、アートが一般世界へ降りてきていることとは、ちょっと違うように感じます。

そこには中間層が完全に抜け落ちています。つまり、通常のアーティスト、そしていきなり知的障害者のアート、という極端な二極化です。そこにあるのは、「やはりアートは特殊なもの、普通とは異質なもの」という一般の人々の潜在的認識がそこには確実にあります。アーティスト、そして知的障害をもつがゆえにアーティステックな人たち、それは圧倒的に少数です。大多数を占める世の中間層、ここにアートが関わって初めて、それが有効に社会に機能することになると思います。

昨日も美術館の教育普及のスタッフと話していて、やはり日本にはどうしようもなく「デッサン」という登竜門があって、そこで既にアートから峻別されてしまうのだと、だからたとえばドローイング表現をもっと普及させて、そういう概念崩しを丁寧にしていく必要があると。今年から私は埼玉近代美術館とともに、主に中学生・高校生に対してドローイングワークショップを展開します。これはすでに茨城でも夏の講習で何度か行っていますが、一日の講習で一人が100枚近くのドローイングを描きます。大切なことは、自分が描いた膨大なドローイングの「振り返り」で、その時間が指導している私には一番わくわくする時間です。自分が描いた膨大なドローイングに、思いがけず様々な自分のストーリーを読み取り、なかには泣き出してしまう人がいます。「美術ってこれでいいんですか?」と誰からも聞かれます。そのときには、内外のドローイング画集をたくさん携えていって、「この人たち、当代きってのアーティストなんですけど」と言えば、それで納得。自信をもって制作を進めていくのです。人間は弱いですから、何かしら自分のやっていることの正当化がほしい、「これは当代一流のアーティストの作品、これはあなたの作品、どう違うの?」と聞くと、「同じように見えるから自分のすごいのかなあ」と、必ずそういう応答になります。とても便宜的なやり取りですが、一番効果的で、かつ本質的なやり取りと思っています。要は、どこかの偉いキュレーターが、たまたまあるアーティストと知り合って、「ちょっと面白いから一度展覧会やってみない?」くらいの乗りから、当代一流にまでなっていった人たちも多いでしょう。ドローイング表現は、ものすごくその評価が曖昧で直感的で、それゆえに今世間的に一流だと思われているアーティストも、私が見ると「どうなのかなあ?」という人も数多くいます。しかし、事実としてMOMAでドローイング大展覧会などやると、そこでメンバーは即世界にはばたくドローイング作家になっていくのです。「だから皆にもチャンスがありますよ」と、私は常に言うことにしています。

私が最も重要だと考えていることは、美術の啓蒙です。この教科内容学の議論も、いずれまとまれば、世の中に発するべきと思っています。誰も美術に対して確実なことを話せるわけではありません。それぞれ個々が「これが大事」と考えていることを、このブログでもそうですし、他に様々な方法で発していくべきと思っています。

今日はこれから水彩画の集中です。ちょっと書き込みが中途半端になってしまいました。石井先生の書き込みに心を揺すぶられて卑近な話を書き込ませていただきました。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/08/29 7:54 AM |

(石井・続きです)


そして、この方法論の可能性は以下のお書き込みの眼差しに保証されるのではないでしょうか。

『絵画専攻学生の感想文中にこのような意見がありました。「もし絵画を始めとする芸術の領域が、そのような自己実現の欲求という高い位置にしか存在の意味を持たないのであれば、ボスニア紛争のさなかに描かれた幼い子供たちの絵が私たちの心を動かすのは何故だろうか、」と言うくだりです。もちろん私はこの学生に高い評価を与えましたが。
 要は、どの段階においても人は人としての根源的な欲求(それは、自己表現であったり、美を求める心であったりするのですが)に基づいて活動をするものであり、だからこそデザインがすべての段階に存在し得ると言う事なのでしょう。』
                  (| 前田英伸 | 2009/04/26 2:31 PM |)


 以上の引用させて頂いたご発言は「デザイン」について書かれていましたが、この内容学構築に関する全てに関わってくる姿勢であるのではないでしょうか。



『美術教育とは知覚力の向上に資するものであり、それはあくまで学習を通して獲得されるという氏の主張です。私の感性からでしか読み解けませんが、その範囲内で解釈した場合、この考え方に背中を押される思いでした(アイスナー氏はさらに多様な主張をされているかもしれませんが)。

知覚力の向上あるいは先鋭化は、子供たちをほおっておいては獲得できないこと、そのためには、まさに石井先生そして福島大学渡邊先生が主張されている「見ること」「まねぶこと」の意味とその発達段階に応じた理解は、不可欠だと考えます。この二つの柱を通して獲得される知覚力が、それぞれの児童・生徒・学生の価値表象
とその個的で多様な表出を生み出し得るのだと、考えます。』
(| 小澤基弘 | 2009/08/22 7:19 AM |)


小澤先生、心強いお言葉有り難うございます。しかし、


『私自身としては、「価値表象」の領域で、いかにそれを奨励できるか、またそれをどう振り返ることが知覚力を高めていくのに有効か、その点に焦点化して、今後発言を続けていく所存です。』
                  (| 小澤基弘 | 2009/08/22 7:19 AM |)

と、おっしゃらないでください。
 『見る』(見える、ではなく能動的に見る)はご専門もご専門であるはずですし、『まねぶ』も行為そのものだけではなく、概念的に考えても全ての行動習得に必要な事なのですから、無論、描画法を習得すること自体も『まねぶ』に入ります。
 何より小澤先生の理性的精度の高い分析、且つ真摯的情熱の深度のある事象の言語化はいずれの『概念』を構築するには不可欠な事であると思います。
 愛知では相見えずともこの運動体には不可欠な存在のはずですので、決してご遠慮くださらないでください。



今回は発言時を優先させて頂き、取り急ぎ此処迄で書き込み込ませて頂きます。(また思案状態で長々と手元に置かず)

また、此処にご参加されている皆様は如何お考えでしょうか、宜しくご対応ください。宜しくお願い致します。
| 石井壽郎 | 2009/08/28 11:49 PM |

学芸大学・石井です。

 小澤先生のご好意あるお書き込みに、思わず筆が(キータッチが)進み、出張前に間に合いました。再び書き込みさせて頂きます。

 前回石井の書き込みの補足とお願いです。

『一昨日、免許証更新講習があり、私も6時間やらせていただきました。「ドローイングによる自己表出」をテーマに、講義と実習を致しましたが、どの先生も「気持ちいい」とか「楽しくて仕方がない」とおっしゃっていました。すべての先生が高校と中学の美術の先生です。普段、生徒たちに自己表出を奨励されているはずの先生方が、ドローイングのもつ本来の意味を、今回の講習で初めて知ったとおっしゃっていたことに、戸惑いと驚きを隠せませんでした。
 つまり、学校現場では、「見る」「まねぶ」ことすら十分に指導できない現実があり、ですから当然、価値表象への誘導にはとても至らない、そんな現実を見た思いがしました。先生方も、そうした学校現場の現実にうずもれ、本来もってみえたはずの自己表現の奔放さとその多様さ、可能性を、どこかに置き去りにしてきているんだなあ、とあらためて思った次第です。』
                  (| 小澤基弘 | 2009/08/22 7:19 AM |)

 とのご発言にあるご感覚、私にも十分覚えがあります。免許状更新講習・10年研修の講座時、通常授業内やワークショップにて、先の発言で提案させて頂いた「3要素」を核に形成した授業を行なう時に同様な状況になります。私の方も幸いな事に各対象者の方々、学生は好反応を示してくれます。

 しかし、ここからが深刻で、必ずと言っていいほど終わった後に『これが美術だとは』の意味の言葉を発したり、口にせずともその態度が見て取れます。まさにこの事自体が『美術(Art)』とって深刻な事態なのだと考えさせられるのです。
 現況で学校教育の中のみならず、『其れ』が『美術』の大切な一部だとは認知されていない様なのです。(全ての対象を調査したわけではありませんが、少なくとも私の活動範囲においては)
 ですので、以下の様な対応を強いられているのですし、今後この内容学構築ごの施行でもおおいにこの対応が必要とされるでしょう。

『それは気の遠くなる時間を必要とし、あまりに直接的ではありませんが、たった今現在、根元からそれを行う事しかできないのではないでしょうか。(ただ、ある程度この日本で育ってしまった人にも、今ある身近な事象の中にArtを見いだし施行して行く事は十分可能だと思います。しかし、その場合より一層専門側の人間が一般の土壌に降りていく必要がでてきますが)
(| 石井壽郎 | 2009/08/22 12:17 AM |)

 以上の様な対応は強いられてはいますが、「美術」の専門教育を受けている方々よりも、より、それ以前の一般教育を受けている方々と専門性が薄ければ薄いほど、浸透性は望めてはいます。
 そして、( )内の方策も十二分に効果は得られると思います。ただし、念を押させて頂きますが「専門」側が伝えるべき内容を解体し、今ある対象者がかかえる現実の中にその要素を見つけ出し、対象者にそれが『美術』であると認知を促進する必要が多いにでて参ります。

まさに、以下のご発言にある感覚が必要とされるのです。

『デザインに興味や関わりのない一般の人たちの行為の中にも「デザイン」は勿論含まれていると思います。しかし本人達がそれを意識していないのではないでしょうか…。逆に私たち(デザイン関係者)が拡大解釈をしている可能性もあります。私が上で述べたものも、ある意味すでに拡大解釈なのかもしれません。おそらく、昔から図案を示す「デザイン」という言葉があったが、イギリスで産業革命で使われ始めて以降、デザイン関係者により語彙が拡大され、その教育を受けた私たちが居る、と考えた方が良いかもしれません。
(中略)
判って欲しい時には、こうだと主張する(教える)より、具体的にこちらが行動して「ほらね、これもデザインです。良いでしょ?」と見せるやり方を重ねて行くしか無いような気がします。
一つ一つ積んで行ってみるのも、大変かもしれませんが、きっと楽しいと思います。
もしかしたら、今話し合いをしているのが、一つのチャンスなのかもしれません。』
(| 内藤 隆 | 2009/04/21 6:54 PM |)


(つづく)
| 石井壽郎 | 2009/08/28 11:48 PM |

ご無沙汰しております。横浜国立大学の渡辺です。

松浦 昇 先生

了解しました。暫く夏休みを取っており、本日、暫くぶりで大学に来ました。論議への参加が滞り申し訳有りません。
夏休み恒例の全学解放授業/色彩論の150×6=900枚(600字×54,000字)のレポートの山と毎夜格闘しつつ過ごしております。実技作品3課題は採点済みで参考作品以外は既に返却してあり…後、残るは2つ300枚レポート読破採点と期末テスト150答案の採点で成績がようやく出せます。本授業では知識学問として色彩を捉え講じるだけで無く、日本の伝統色の素晴らしさへの理解や教養を深めつつ、学生自身が自ら行う配色演習を課題作品として実践的に体験させて段階的にレベルアップさせる実学としての授業を目指し努力しておりますが…授業準備や授業自体のみならず、事後の累々たるレポートには…己が課したのに、正直、非常な困難を感じつつおります。しかし、教師の厳然たる責務は果たさねばなりません。
明日は教員免許更新講習担当でして…『自分のシンボルマーク』を課題に、現代デザインの役割、色彩に関する講義も含め、平素授業の中から「デザイン概論」と「色彩論」の要素を凝縮加味して講習を行います。

渡邊晃一 先生、石井壽郎 先生、小澤基弘 先生、委員各位

素晴らしい精力的な書き込みを戴きながら…コメント出来ずにおりましたこと、お詫び致します。明日の山、超えた後、又、論議参加させて戴きますので…今暫くの猶予戴きたく。何卒、よろしくお願いいたします。

免許更新講習の準備で今夜もふけました。
処暑、故、夏も…終わりの気配、委員皆様方の御健康をお祈りいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/08/24 11:27 PM |

教科内容学検討委員会委員 各位

金沢大学の松浦です。

 愛知大会について、総務局長の山田先生から各委員に周知するように連絡がきています。今までメールで各委員にご連絡していましたが、教科内容学検討委員会委員のメンバーが30名以上になりましたので、私のパソコンでは送ることができなくなりました。それはマッキントッシュG3で11年前のもので、今までメールだけに使用していましたが、限界がきたようです。今後、各委員へのご連絡はブログでいたしますので、よろしくお願いいたします。ブログのnewsー報告事項をごらんください。
 前日の25日、教科内容学検討委員会を開催しますが、今回は3時間とっていますのでよろしくお願いいたします。
| 松浦 昇 | 2009/08/24 4:29 PM |

学芸大学 石井先生 そして皆様

残暑お見舞い申し上げます。しばらく浦和を留守にしており、ブログに対応できず、すみません。

今朝石井先生の書き込みを拝読し、これまでのこのブログでの議論の経緯と内容が、実に簡潔かつ明瞭に要約されており、感心するとともに、これまでの議論を振り返るとても良い契機となりました。まず石井先生にお礼申し上げます。

先生のご提案の、「見る」「まねぶ」「価値表象」の3つの柱は、非常に理解しやすく、かつ包括的なキー概念だと思いました。究極的には「自己を知る」ための「価値表象」をいかにして児童生徒および大学生に奨励していくか、そのための本質的方法論としての「見る」「まねぶ」の位置づけと考えます。

今夏、赤城の山の中で制作と同時にアイスナーを読みました。具体的な授業や学習評価の部分はさておき、一番共鳴したことは、
美術教育とは知覚力の向上に資するものであり、それはあくまで学習を通して獲得されるという氏の主張です。私の感性からでしか読み解けませんが、その範囲内で解釈した場合、この考え方に背中を押される思いでした(アイスナー氏はさらに多様な主張をされているかもしれませんが)。

知覚力の向上あるいは先鋭化は、子供たちをほおっておいては獲得できないこと、そのためには、まさに石井先生そして福島大学渡邊先生が主張されている「見ること」「まねぶこと」の意味とその発達段階に応じた理解は、不可欠だと考えます。この二つの柱を通して獲得される知覚力が、それぞれの児童・生徒・学生の価値表象
とその個的で多様な表出を生み出し得るのだと、考えます。

一昨日、免許証更新講習があり、私も6時間やらせていただきました。「ドローイングによる自己表出」をテーマに、講義と実習を致しましたが、どの先生も「気持ちいい」とか「楽しくて仕方がない」とおっしゃっていました。すべての先生が高校と中学の美術の先生です。普段、生徒たちに自己表出を奨励されているはずの先生方が、ドローイングのもつ本来の意味を、今回の講習で初めて知ったとおっしゃっていたことに、戸惑いと驚きを隠せませんでした。

つまり、学校現場では、「見る」「まねぶ」ことすら十分に指導できない現実があり、ですから当然、価値表象への誘導にはとても至らない、そんな現実を見た思いがしました。先生方も、そうした学校現場の現実にうずもれ、本来もってみえたはずの自己表現の奔放さとその多様さ、可能性を、どこかに置き去りにしてきているんだなあ、とあらためて思った次第です。

本委員会におけるそれぞれの委員が、それぞれの得意な立ち位置で、石井先生や渡邊先生がご提案された大きなマトリクスのなかの各論を、今後論じていくことが、本議論の具体的実現へのもっとも有効な手立てと思います。私自身としては、「価値表象」の領域で、いかにそれを奨励できるか、またそれをどう振り返ることが知覚力を高めていくのに有効か、その点に焦点化して、今後発言を続けていく所存です。

私事ながら、9月から10月にかけて、アメリカと中国に滞在します。桂林において3週間、ペインティングシンポに招待され、当地で2点制作してきます。自分自身の知覚力アップのための研究活動と位置付けています。
学会には出席できず、とても残念です。外地からブログの経緯を私も逐次拝見していくつもりです。

取り急ぎ、石井先生の簡潔かつ明瞭な議論要約に敬意を表して、書き込みをいたしました。

石井先生はじめ皆様、残暑の折ご自愛ください。

埼玉大学 小澤基弘


| 小澤基弘 | 2009/08/22 7:19 AM |

学大・石井(続き2)

「見る」は皆さんのご発言にもでてくるほどですので、説明は不要でしょう。
    全ての視覚芸術に関わる事です。(立体物もこの中に入ってしまいま
    す。人間は外界と接する時86%を視覚にたよります。)

「まねぶ」は自己の外界の事象を真似る事により事象を吸収し、活用に転じる
     事です。ゴッコ遊びから劇的表現、そして全ての藝術と呼ばれる事、
     例えば森村泰昌等氏がそれに直接的にあたります。
     (自身の身体を基盤にして外界を認識し、:渡邊先生談)

「価値表象」は自己の内面に存在する事象を自から見出し価値付け、表すこと。
      子どもがオニギリ型の石を大事そうに拾う事から、全ての藝術と
      呼ばれる事。
     (自己と他者との関係を獲得する:渡邊先生談)

上記、重要なのはこの3要素は子どもの頃より大人になってまで、人が頼まれもせずに本能的にする行動にあたります。簡単な解説で失礼致しますが、どうぞ前向きなご意見いただきたく存じます。

この渡邊先生へのほぼ全面同意は「子ども関連」の経験があるから起こるものではなく、もともと同じ様な志向性を持ち合わしていたので、その過程で「子ども」に行き当たったという方が当てはまる様に思います。
 ではその「志向性」とは何か、まさに

『表現とは何か、それがいかに自分の内面を反映しているか、そして自分を超えて人間一般の内面とそれはいかに通じ合うものであるか、こうした美術表現を通した自分理解が、結局本質的な子供理解を促進することは、必至だと思います。』(| 小澤基弘 | 2009/07/30 9:13 AM |)

とのご発言に表されています。このご発言通り地でそれを行ってきた結果ではないでしょうか。

『「個」からの問題は、制作に関わる人間としては、当たり前の問題であり、特段そこを焦点化する必要は無いように一見思えます、が、それを明文化したり、他者に伝わるように言説化したりしているかといえば、それは実に稀です。あくまで感覚やフィーリングとして、主観的言語の領域だけで、事は済まされているように思えます。そのあたりを、恥ずかしさを度外視して、一度さらけ出して行く必要があると思います。』(| 小澤基弘 | 2009/06/29 9:31 AM |)

とのご発言に後押しされ、つらつらと書きならべさせて頂きましたが、ここまで今となっては膨大になってきましたこのブログからの引用のみで、私の本音としての私論を表してみました。それも専門性の誇示を抑えて、ここにお集りの方々とより深く思考する為の議論を望んだ結果としてお許しください。錚々たる研究者の方々に対しこの種の発言がどこまで受け入れて頂けるは定かではございませんが、先に述べました通り皆様を信頼しておりますので、この運動の前進として社会に向けての施策(対策)を編み出せたら幸いです。

 あらためまして、残暑お見舞い申し上げます。

 もう神無月が見えて参りました。9月はほぼ大会まで北欧を訪ねており直接愛知入りを致します。このブログは逐一確認いたしますが、私の発言も大会当日(前日の協議)まで間に合うかは自信がございません。しかし、駒形の夜の直接議論の濃密な議論実感を考えると大会が待ち遠しく感じるこの頃でございます。
 皆様どうかご自愛ください。
| 石井壽郎 | 2009/08/22 12:20 AM |

学大・石井(続き1)

 やや短絡的に聞こえるかもしれませんが、自己が自己の獲得に向かえば自ずと価値観も育ちはじめ、渡辺先生が嘆かれているこの様なゴッタ煮的な街にも、こぞってLOUIS VUITTONに走ったり、Disneylandに詣でたり、ましてやお台場の巨像を参拝していないのではないでしょうか。(悲しくも、とある美術館で開かれる印象派の展覧会も入ってしまいます。)個人的にはその中にも面白みもあるし、Artでさえあると思っていますが、ただ意志的にそれを選べているとは思えません。この「意志的」というところが肝心で、その中にこそ「自己」が存在しているはずです。大きく言えば日本民族というカテゴライズが成立するのなら、その民族はあまりにも対象化が成されていないと言え、逆に直接的に身近な事で言えば大学4年生や院生と長時間時間を共有したあげくに『自分探し』を要求される事もないでしょう。それは気の遠くなる時間を必要とし、あまりに直接的ではありませんが、たった今現在、根元からそれを行う事しかできないのではないでしょうか。(ただ、ある程度この日本で育ってしまった人にも、今ある身近な事象の中にArtを見いだし施行して行く事は十分可能だと思います。しかし、その場合より一層専門側の人間が一般の土壌に降りていく必要がでてきますが)
そして、この『自己を獲得する為の術』は小澤先生にもご賛同頂いた『個からはじまる、、』の機能面からの命名にもあたるのです。

 一端、前回の福島大・渡邊先生のお書き込みに呼応するコメントを考えましたが、教科専門側の人間で6歳以下の経験があるのは渡邊先生と私だけしかいないと区別されてしまいますし、(小澤先生ご慎重なのは分かりますが、個人的にはお子さんお持ちの方は十分ご経験があると私は考えます)、他のことでも、これまでの様に専門用語や業界用語の理解誤差とその筋の専門家の言動にたよってしまうのが関の山で(それも十分有意義なのですが)他の方の十分な議論参加が望めず、この議論の焦点のブレに繋がるのではないでしょうか。(福島大・渡邊先生、ご発言無駄にしているのではなく、結果的に下記で繋がりますので暫しお待ちを)
 私はこのブログに参加なされている十二分なご経験とそれに準じたバックボーンをお持ちの錚々たる方々を信頼しております。ですから、現在のところどこかの方々のお言葉をお借りせず、十分だと考えております。そして表現者として教科専門を担当されているが故に今更美術的意思の疎通を必要とは思いません。他領域の方々の要素を入れるのはこのブログでの成果を社会的に対象化する次点で照らし合わせて頂くのがより良い段取りであるように思います。

 上記をふまえた上で、『自己を獲得する為の術』を可能にする要素とは何かと言えば、以下のご発言に言い表されているのではないでしょうか?

『鏡像認識において象徴的に示されるように、「0歳からの美術教育」は、対象を自身の目で見ること、自身の身体を基盤にして外界を認識し、自己と他者との関係を獲得するなかで、「生命のダイナミズム」を支えるものであり、これまで美術が魅了しされ続けてきた理由を探る契機にもなると信じています。』
(| Koichi Watanabe | 2009/08/07 3:05 AM |)

とのご発言、前文を掲げられずとも渡邊先生の本音として十分納得出来ました。私論として言わせて頂ければ「生命のダイナミズム」、、、以下の部分は「自己を見出し、生き抜くチカラ(「生きるチカラ」は自ずと備わっていると考えている為)」として活かす、になってしまいます。やはり、渡邊先生は私よりピュアな方で『美術』に対して真摯なのだと思えました。

そして、上記を人が行なっていく上で動機ともいえる表現原形として私の授業内容開示における

『_ 『幼児造形』(前大学にて担当、現在上記「保育内容」を混合し他大学で非常勤担当)
幼児造形総論から始まり、「見る」事の構造概論、「まねぶ」事の構造概論、「価値表象(意味表象)」の構造概論、などの講義にそれに見合った実践と解説総評。(上記『まねぶ』は『学ぶ』と『真似る』の合わさった言葉で書道域には存在します。)、、、』(| 石井壽郎 | 2009/05/08 1:09 PM |)

の部分に示させて頂いた、「見る」「まねぶ」「価値表象」をその一つの解答として提案させて頂きたく発言させて頂きます。
| 石井壽郎 | 2009/08/22 12:17 AM |

学芸大学の石井です。

 大学長期休業前の業務、数件のワークショップ、進行中の個人プロジェクトなどなど、このブログの様な大仕事に参加しているにもかかわらず例年に無い激忙の大学前期でした。そしてこの学期末のゴタゴタの集結も成されぬまま、個人プロジェクト施行と複数の海外出張が見えてきてしまっています。この内容学ブログを逐一チェックはしていましたが、なかなか発言にまで至らなかった事をお詫びします。議論内容の風向きの変容で、ある意味意を決して発言しなくてはいけないと感じた事もこのブログから遠のいてしまった要因です。申し訳ありませんでした。

 さて、全体議論も急展開を迎えています。しかし、私はただ傍観していた訳ではなく山木先生のご発言にあった、柴田・金子論争の内容趣旨確認のため直接ご本人をお訪ねし、さらに過去に論文執筆のため斜め読みして(謙遜を含む)前任の大学に置いてきてしまったアイスナーの『美術教育と子どもの知的発達』までお貸し頂いて有意義な議論材料を頂きました。柴田先生有り難うございます。

 上記を踏まえ、あらためまして山木先生のご提言、

『いろいろ大雑把な整理の試みを巡ってみますと、結論としては、いま内容学の目的や方法、そして教育課程を策定するに当たって一番重要な事柄は、現代日本の子ども達にとって、わたしたちがかかわる教科(関連社会教育を含む)にとって、一番重要なことは何かということなのではないでしょうか?』
(山木朝彦 | 2009/07/29 6:40 PM)

は重要な論点に感じます。更に、このご発言の中の『現代日本の子ども達にとって』という観点は最重要なことで、しかも、これは

『教科内容学とは教科専門の基礎(的)研究と、教科教育(応用)研究との統合学であり、それが体系的構造を有するためには、この両者をつなぐ「新たな教科内容の学」を成り立たせるための「認識の枠組み」が不可欠ということになります。(中略)、、そうすると今一番何が必要かと言えば、やはりこの両者をつなぐ「認識の枠組み」だと思います。6月13日の会議において、「0歳児からの美術教育」という観点が提起されましたが、それをこの「認識の枠組み」として考えることは妥当であるとしても、その観点一つだけで十全足りえるかということを、考えなければならないのではないかと思います。』
(| 小澤基弘 | 2009/06/26 3:00 PM |)

の中にある「認識の枠組み」に対する1観点に追加すべき事ではないでしょうか?

 7/11時点でこの両者を繋ぐ認識の枠組みの「認識」が「何」を認識するかが「美術とは何か」等になってしまうのではないかと懸念して、個人的にはあわてて泥鰌屋に向かう事に至ったのでした。あらためてこの活動の根源を考えると、我々教科専門・教科教育(正直、対社会で考えると私にはこの境も感じられないのですが)が対社会に働きかけるこの「教科教育内容学」を構築していく行為はある意味、美術の「一般化」にも等しい作業なのではないでしょうか。そうだとすると、子どもに対しての大人、一般の方々に対しての専門家、どちらの関係性においても対象の側に立って事を進めるのは後者がやらなければ成り立たない関係性にあるはずと私は考えます。その為にはこの活動体の対象に対する姿勢は不可欠で、それを『現代日本の子ども達にとって』(あくまでも「子どもとは?」ではなく)とするのは相応しい事ではないでしょうか。

 そして、さらにもう一点の観点として『日本社会の現状(今後の事も視野に入れた)』をご提案したいと思います。我々の運動を展開する土壌としても、我々を取り巻く環境としてこの観点は不可欠な事でしょう。これで『美術(美術側の要素)』(これが0歳からの、、)『対象(対象の設定)』(これが現代日本の子ども、、)『環境(実施してしくフィールド)』となりこのブログが向かうべきであろう方向を見出す観点が三角座標として成立するのではないでしょうか。

 では、上記の山木先生がご提言された「現代の子ども達にとって重要な事柄」とは何か、そして、それに連動された『美術』『環境』の輪の重なった部分に見出せる事とはなにか。私は『自己を獲得する為の術』ではないかと考えます。先の学芸大学にての第一回委員会でも討論しましたが、横国・渡辺先生が再三嘆かれてご主張されている日本の文化現状に対し、私は「この国の多くの人は自己を見失ってる」からと発言しました。その発言に対して処方にも似た解答として『自己を獲得する為の術』が必要とされていて、それこそ『美術』(本来Artですが)が現状の日本社会を人(子ども達)が生き抜く為に期待されるべき機能であり効能だと考えています。
| 石井壽郎 | 2009/08/21 11:52 PM |


金沢大学の松浦です。

 福島大学の渡邊先生の0歳児からの美術教育についてのご意見、ご提案ありがとうございます。このご意見、ご提案に心を揺さぶられたのは、私ばかりではないと思います。ですから、ほかの先生方から活発なご意見が出るものと期待していましたが、夏休みということもあって残念ですが、議論が中座しています。議論を進める上で、あえて渡邊先生に質問させていただきます。
 渡邊先生のご意見、ご提案から0歳児の美術教育(幼児教育)をイメージ出来ますが、小学校の美術教育における『造形遊び』との関連について、どのようにお考えでしょうか。イタリアのレッジョ・エミリア市の幼児教育を受けた児童が、小学校へ入学してその美術教育の質が保証、維持されないとしたら、素晴らしいといわれる美術教育が、『絵に描いた餅』に終わるのではないでしょうか。
 『造形遊び』に造詣が深い、奈良教育大学の宇田先生をご存知だと思いますが、恥ずかしながら私は昨年の8月大阪市で開催された国際美術教育学会で発表されたのを聞いて、宇田先生を知った次第です。0歳児から小学校までの美術教育が、体系的、科学的に確立されれば、美術教育は大きく進化することになるのではないでしょうか。
 
| 松浦 昇 | 2009/08/20 11:40 PM |

(続き 3です)

 「生命は、それ自身の内なるダイナミズムを持っている。それは成長し、表現され、生きられようとする。もし、この傾向が妨げられると、生命に向けられたエネルギーは、変質の過程を経て、破壊に向けられたエネルギーに変わるように思われる。言い換えれば、生命の衝動と破壊への衝動は、相互に独立した要因ではなく、正反対の方向に相互依存しているのである。生命に向かう衝動が妨害されればされるほど、破壊に向かう衝動が強くなる。」

 幼児の「表現」は、うまく絵画が描けたり、歌えるか否かではなく、日常生活で「表現」する気持ちがわいてくる土台となるような経験と、その表現を保つことができる「環境」が重要であろう。結果、「表現」を通して自分の気持ちをあらわし、他人に知ってもらうことで、自分の内にある思いや考えを伝え、自分を知ることになる。また他人が表現したものによって、外の世界、他者を知ることになる。「表現」はその人の生活、考え方が反影、投影された「鏡」なのだ。

****************************
 さて一方で、拙著「身体認識の現況とその課題 幼児の「からだ」からの一考察」のなかで私は、フランスの心理学者、ラカン(Jacques Lacan)が、生後六カ月から八カ月の子どもが鏡に向かって示す反応に示した三段階を援用しながら、「鏡」を見ることをキーワードに、自らの「身体」を確認することの重要性について考えました。
  例えば鏡に映った姿を自分の像であると気付くことは、同時に、鏡の表面のもつ意味、フレ−ムの存在を認識すること、さらには絵画のイリュ−ジョン(写し出された形象)を知得し、象徴性を含んだ「実体」として理解する問題とも重ねらます。さらには対象と自身(絵画作品や対象物と、自己の身体)との間に距離をもちながら、自己の身体像として他者をも認識できる状態を示すものでしょう。
 このような「鏡」と「絵画」と「言葉」との関係をテーマに考察してきました。

 ラカンは、「『人間』がことばの主人公なのではなく、ことばの次元の中で人間がつくられるのだ。」と述べています。手、眼、口、脳・・・。互いに言葉によって仕切られた身体を我々は持っていますが、我々の身体は、このような個々に分解された諸器官を一つに意識的に組織、統合したものではありません。身体を区分けしたのは我々の意識です。しかし知識は獲得されるほど、身体をばらばらな要素へと還元していきます。
 ヴァレリ−(Poul Valery)はそれを「学者たちの身体」と論じました。
 分解され、断片に還元され、解剖される知識に従属した「第三の身体」にたいして、ヴァレリ−はさらに、「第四の身体」の重要性をあげています。それは有機体にたいする精神の関係、生と死の位置付け、「生きている身体」を、いかに捉えるかという問題です。

 「身体」は、自らの存在を確立しつつも、作ったもの、設計したのは自分自身ではないという矛盾をも抱えています。身体は「自然」の産物であり、我々が把握しきれない、予測や統御が不可能な、未知なる要素を多く含んでいます。身体を知ることは人間を知ることにつながる。人間を知る事は自分を知る事につながる訳です。
 
  鏡像認識において象徴的に示されるように、「0歳からの美術教育」は、対象を自身の目で見ること、自身の身体を基盤にして外界を認識し、自己と他者との関係を獲得するなかで、「生命のダイナミズム」を支えるものであり、これまで美術が魅了しされ続けてきた理由を探る契機にもなると信じています。
| Koichi Watanabe | 2009/08/07 3:05 AM |

さて前置きが長くなってしまいましたが、松浦先生からメールをいただき、『0歳児からの美術教育』について全体議論の場で、私の考えを要約するよう、お伝えいただきました。
松浦先生、ありがとうございます。

 7月19日、浅草で開かれた全体論議でも、「0歳児からの美術教育の可能性」について、レッジョ・エミリア市の取り組みを通して、それらの活動が日本に中々簡単に根付かない原因について等、様々な角度から御話しました(全体総論の渡辺邦夫先生が記しています | 2009/07/21 3:40 PM |)。

 私もこれまでブログの中で、何度か言及してきましたが、これまで具体的なないように関するご意見を受け取ることのないまま、今日に至っております

(以下に記載した項目をあげます。)
| Koichi Watanabe | 2009/06/03 7:32 PM |
| Koichi Watanabe | 2009/06/04 1:45 PM |
まずは本コメントに関して、ご意見を頂ければと思っております。
 
 ここで繰り返しになりますが、「0歳」と御伝えした理由を御伝えしますと、私は決して「0歳」という特定の年齢を構造的に取り上げているわけではなく、「芸術」を人間の表現の根源的な問題から扱うための指針として提起したことに端を発します。「個と共同体」、「創造力と生きる力」、「知性と感性、脳と身体の連携」など、人間の成長と育成にとって最も重要な働きを担っているのが、美術教育であることを示すための鍵言葉です。
また、私は美術教育の問題を「学校教育」の枠だけではなく、広く(揺り籠から・・・の)「生涯学習」「社会教育」の立場から位置づけることが、今日の大学教育に携わる立場上、重要だと感じています。
 
 視覚、触覚人間の私は、図解や作品例等の図像画像を通して御話しすることが多く、ブログではなかなか難しいとのが実感です。学会ではパワーポイントで、図解や写真を使用して、御話ししていきたいと考えていますが、今回は、
 
2004年に執筆した『造形 (保育内容シリーズ)』(一藝社)という教科書の第一章「表現とは何か」という項目を若干、転載したいと思います。

保育と「表現」との関係について

 「生命を持つものはすべて、誕生の瞬間から、自分のことを知らせるため、ある種の本能的な渇望とともに外界へ「表現」をしている。
ハーバート・リード(Herbert Read)

 一般に「表現」とは「心中にあるものを言語・絵画・音楽・表情・行為など形のあるものに表すこと。また、その表れた形。」と記される。簡潔に述べると、内にあるものを外に〈あらわす〉こと。〈あらわす〉は「表す、現わす、著す、顕す」もしくは「露」であり、心や頭、まぶたの内側にあるものを、外に出した状態を示す。「表」は、図表や表情など、複雑なものがわかりやすくなることで、「現」は、今まで目に見えなかったものが突然姿を見せるという意味である。(中略)
  
 「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して、豊かな感性や表現する意欲を養い、創造性を豊かにする」
 平成元年に改訂された幼稚園教育要領、「表現」の冒頭にはこのように記載されている。「表現」という言葉を聞いて、先に述べたように、「美術、音楽、ダンス、文学、劇」など芸術の作品や活動を思い浮かべる者も多いであろう。具体的に「絵画を描いたり、粘土で造形すること(造形・絵画制作)」、「歌ったり、楽器を弾いたり、リズムをとること(音楽リズム)」、「作文を書いたり、劇を演じること(言語、身体表現)」である。
 しかしながら幼児の「表現」は、様々な領域が複合的に関連していることが多い。例えば絵を描いていても、歌ったり、色々な「物語」を話したりする。また絵を描いている動きそのものに興味を持つ子もいる。
 保育所や幼稚園の新領域に「表現」が生まれた背景には、実はこれまでの「造形」や「絵画製作」という名称が、学校の教科(図画工作や美術)と混同されやすく、幼児にそぐわない実践がなされてきた反省にたっている。作品や技術偏重の指導が、幼児期に適した「表現」から離れ、「造形」活動を狭い枠組みでとらえる傾向も生んできた。子ども一人ひとりの発達課題や実態に即した、主体的な活動を、総合的、複合的に指導することが、「表現」には求められている。「生活全体」に対応した総合的活動の必要性から提起されたのが、「表現」であることを、まず留意しておかなければならない。

| Koichi Watanabe | 2009/08/07 2:22 AM |

委員の皆様

暑中見舞い申し上げます。
なかなか全体議論に参加できず、申し訳ございません。
7月19日、浅草で開かれた全体論議では、大変御世話になりました。小澤先生、石井先生、古瀬先生、渡辺先生、有り難うございます。
(石井先生、夜遅くまで本当に有り難うございます。ガンダムの話を、講義の最初に伝えたところ、かなりの学生の眼が輝いてきますね。)

さて言い訳です。
前期の補講と成績づけ、集中講義(絵画演習旅行、芸術企画演習)、三つのシンポジウム、岩手大学での講演などの準備、小中学生向けの「Jrカレッジ」に加え、福島県立博物館での『岡本太郎と現代美術展』の企画、「保育」の教科書や作品集の執筆が山場を迎えており、なかなかパソコンの前にいられません。
特に内容学にも密接に関わってくる企画が、近々に開催予定です。まずはご案内を。


8月30日 シンポジウム「まちの記憶を掘り起こす」(於/福島県立博物館)
・・・地域には景観、歴史、人材、産業などの資源があります。本シンポジウムは、私が立ち上げた「芸術による地域創造研究所」の企画で、アートによる地域の活性化について話し合いの場を持ちます。(パネリストに一昨年、ベネチアビエンナーレの出展者で、各地の街の歴史の痕跡をフロッタージュで記録している美術家、岡部昌生氏を招き、会津の地域活性化に取り組んでいるリーダーたちと語り合います。)


9月19日〜23日 『風と土の芸術祭』(於/会津美里町)
・・・福島大学の芸術企画演習の受講生と、会津本郷商工会との共同で企画してきた展覧会です。2007年より会津本郷焼の地、会津美里町(本郷地域の瀬戸町通り)を中心に開催されてきました。小・中・高校生が地域のイベントや行事に参加することで、自分の住んでいる地域の歴史や文化の大切さ、更には本郷のまちなかをフィールドに、新たな驚きの発見や、ふるさとを考える良い機会となっています。西村陽平氏、島剛氏に続き、今年は、伊藤公象氏をゲストアーティストに迎え、多くの方々と一緒に、展覧会、ワークショップ、講演会などを催します。


10月2日 Brent Wilson 講演(於/福島大学)
FROM PROTOSTRUCTURE TO POLYVORE: LEARNING TO LIVE IN A NEW ARTWORLD
・・・私が客員研究員をしていたペンシルバニア州立大学の教授です。V.ローウェンフェルド(Viktor Lowenfeld)の後継者で、ローウェンフェルド賞を受けながらも、子どもの描画活動の発達理論にたいして、新たな革新的な造形理論を提唱されています。また氏は、DBAEの研究者でもあります。なお、日本の訳書『美術からの描画指導』は、サブタイトルにDBAEとの関連を記していますが、本著はDBAEとは関係ないと本人に言われ、違う本を頂きました。


是非、お時間がありましたら、ご参加下さい。
| Koichi Watanabe | 2009/08/07 2:15 AM |

横浜国大 渡辺先生 および皆様

 渡辺先生、先日は木下氏の講演会を拝聴させていただき、ありがとうございました。プライスコレクション展で、あの照明の在り方に感動を強く抱き、どのような方があのような発想で照明デザインをされたのか、非常に興味があり、ご本人の講演でますます木下氏のオーラに感激しました。決して話べたではないと思います。とてもマイペースで、熟慮されながらお話をなさっていたと思いました。重厚さを感じるお人柄と思いました。今後の東博の展示がますます楽しみです。

本ブログも開設以来約4か月ほど経ちます。なかなか一つの内容学に向けて議論を収斂させていくことは、容易なことではないと感じます。これからどのような形でこのブログでの議論を進めるか、各分野とも、やはり同一線上に議論を並行して進めていくことが必要だと思います。以前のブログにも書きましたが、実技系は、やはり制作から派生する問題をひとつづつ導き出し、それを簡明に言説化することから始めるしかないように、最近思えて仕方ありません。実技系における制作学、まずそれを明らかにし、そこでベースを構築した後に、その制作学的内容を、発達段階に応じてどのように教育的に還元していくか、そういう順番で議論を進めていった方が良いように思えてきています。

横国渡辺先生と同じく、私もアイスナー等は聞きかじりにすぎません。今夏、「美術教育と子どもの知的発達」(すでに購入しました)を、時間をかけて読む予定でいます。同時に、制作学の重要な問題である「ドローイング」の機能と意味、その可能性の問題についても、同時に研究を進めたいと考えています。ドローイングの問題は、デッサン、スケッチ等の、いわば創造の源泉に関わります。また創造それ自体でもあります。つまり、タブローと等価の価値づけを現代美術では与えられています。ドローイングを深く研究することは、結果的に図工美術教育の現場の問題ともつながると考えます。つまり、短時間で可能な題材であるにもかかわらず、創造の本質を捉まえられるという視点、それがドローイングにはあると考えます。山梨大学井坂先生の提唱されるリサーチワークブック、あるいは福島大学渡邊先生の提唱されるスケッチブック、それもまた同質の創造の秘密を開示する方法論だと思います。このような類の問題に対する各分野の議論(もちろん分野の特性でそれぞれ異なるでしょうが)が、そろそろ始ってもいいのかな、と思います。

 池内慈朗先生(教科教育)および石上城行先生(彫刻)のお二人の先生のご参画も、やがてかなうということです。まだ橋本先生からの正式なオファーはないとのことですが、そのあたり橋本先生よろしくお願いいたします。少しでもこのブログへの発言を、各領域の先生からお願いできれば、議論がスパークしていくものと思います。今後のこの二人の先生のご発言にも大いに期待をしているところです。

 夏らしくない時節です。各メンバーの先生方にはご自愛くださいますように。

埼玉大学 小澤基弘
 
| 小澤基弘 | 2009/08/04 7:56 PM |

山木朝彦 先生 小澤基弘 先生 委員の皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。少々、ブログを休んでしまい申し訳ありません。
東京国立博物館/木下史青/講演会には…小澤先生、川原崎先生にご参加戴きありがとうございました。国博の裏方に入り込んでじっくり本人の解説による画期的な国宝級美術品の解説を本人の生の声で聴くことは非常に意義の有る時間だったと思います。
やはり彼も実技系!史青の照れ屋で話下手…朴訥とした語り口調は学生時代から全く変わり無く私は感じました。動物の骨の収集癖、仏像も屏風絵もその現場の光を常に調査し頭に描くこと、若冲の絵について彼の絵の理解者ジョー・プライス邸に出向いて実際に体験し謙虚に取り組む姿勢、光と陰・空間と背景の関係等、彼の中に蓄積された経験があの様な展示を可能にしていることが理解できました。質問の頃、彼の本心や心情が出て来て良かったと思いましたが…小澤先生、川原崎先生、如何だったでしょうか?

思えば…母校には古美術研修旅行という2週間奈良合宿所に缶詰にされる古美術浸けの強制必修単位があります。同窓会でも常に話題になる大学の遠足的記憶でもありますが…顧みて教育的価値は極めて高いものです。日本の美の真実を実際に眼で見る体験だからです。私は助手として母校に長く残りましたので…繰り返し同じ仏像や寺の空間や庭を見ても尚、未だ若い時には感じる事のできない美があると感じています。この歳になって始めて…若いあの頃には未だ見えなかった本当の美の価値に気付くことがあるのです。ですから…京都や奈良には機会を見つけては視察に行くよう心掛けています。古美術の肉眼による正視こそ美の感覚的体験と言わざるを得ません。自分の教育いている学生が余りにも教科書に掲載されている様々な美術品現物を…実は実際に見たことも無いのに語る滑稽さに何度も落胆した経験は…私でけでは無いことと拝察します。此処にも教員養成大学の美術教育の多すぎる授業科目と美術品視察の為の学外学習の脆弱さが在ると指摘すべきと思います。

日本には古の昔から…自然と一体になる精神性、自然を敬う敬虔な心が存在し、巧み極まる技で偉大な先人の遺してくれた美が多く存在しています。明治の頃、廃仏毀釈の嵐が神社仏閣の守られてきた貴重な美を失わせる愚かな行為となり…多くの美が損壊し又、海外に貧価で流失する原因となりました。明治期の大きな文化価値認識の断絶を超えて今、国博を中心とした我々の根幹に流れる美の価値の再認識は極めて重要な取り組みであり、我々、美術教育に従事する者にとって、又、鑑賞教育の根本に位置する視座にとっても重要で見過ごせない流れであることは確かでありましょう。

国博での講習会の後、オープンキャンパス要員として休日出勤があり…受験生早期獲得を目指すこの大学挙げての取り組みは、皆様方の大学でも盛んになっていることでしょう。本学では学校単位で観光バスが何台も全国から来る様になり…教員による模擬授業では最大の教室360人収容でさえ立ち見が出る程の大盛況でした。今日こそは今日こそはという意気込みも文書途中となり今日に至ってしまいました。唯の言い訳です。すみません。

山木先生/書き込みの美術教育論については、ご指摘の通り…DBAEやアイスナーへの言及は、私など正直、同僚の教科教育の諸先生からの聞きかじり程度の知識しか無く…解説付きで説明して戴けないと容易に論議参加ができません。敢えて大雑把な整理を戴いたのですが、それでも未だ…山木先生の学部ゼミ生以下であると認識下さい。それは、小澤先生の誠に親切な通訳的和解補助的ご発言にも有る通り…我々実技教員にとって本ブログ論議もようやくやっている「平素の授業内容の言語化」なのですから仕方無いことと御理解御容赦下さい。小澤先生が文武両道である要因が文学にあったことは非常に興味深く、又、勉強になります。詩や俳句等、日本特有な簡潔な言葉に深い意味を込める思想は、実はデザインとも非常に関係性のある考えでもあり私の意識する処でもあります。絵と字、色彩と言葉、形と意味、絵画と文学、デザインと俳句、それらは比較論として論議して行く対象として、この上無く魅力的な分野であろうことは間違いありません。

折角、この様なブログによる公開論議をしているのですから…仲良く争わず話し掛ける様な、まるで友人同士の会話の様な、誰にでも解り易い平易な文章で進行できればと思います。公開の話し合い論議の場であって…その道の専門家集団のみの集まりで新たな論旨論文で論破する場では無いのですから。相互会話、相互理解の場であること、互いの立場や理解を享受し受入れることが、先ず第一の委員の職責でありましょう。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/08/04 12:04 PM |

(続き)
実技系教員は、豊かな制作に裏付けられた体験的蓄積があります。まずそこに自信をもちましょう。そして、制作から得られた何かしらの創造の秘密を、素朴な言葉を通して社会へ発言する志向性をもちましょう。このブログはそのひとつの方法です。そうした草の根的な発言が集積していけば、やがて論理性や構築性をそこに獲得することが可能となるはずです。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/30 9:15 AM |

皆さま

 昨日の山木先生のご発言、共感をもって読ませていただきました。昨年、私はアメリカの大学で教える機会がありました。一番感心したのは、表現に対する躊躇のなさ、そしてcritiqueでの自作(あるいは他者の作品)への発言の強度です。論理的であり、かつ合理的に自作をきちんと捉えられます。常にcritiqueは盛り上がり、こちらが疲れ果てるほどに言葉が飛び交います。翻って日本の美術界(美術教育界)は、山木先生のご指摘のように、「黙して語らず」が美徳です。グローバリズムのこの時代(グローバリズムを肯定するかどうかは別にして)、言語と論理へのこの無関心、比重の軽さは、日本の初等・中等教育に大きな欠落があるからだと思います。アメリカの学生があれほど自分を語ることができるのは、教育によるトレーニングがあるからです。フランスでもそうであり、バカロレアの哲学の試験などは、「自由について論ぜよ」という問題を高校生に課すわけです。それを高校生は語れますし、またそれをきちんと採点し評価できる側も存在するということ。日本の美術教育、特に実技教育において、論理や言語を「かっこ悪い」という捉え方は、負け惜しみの単なる言い訳です。しかし、そう言わざるを得ない土壌しか、日本は教育において与えてこなかったという、反省的視点に立つべきです。

 今、日本の美大・芸大系を出て、教育系大学の実技教員になった人たちに、いきなり論理性や言語で語れる力を要求することは、現実的に難しいです。それを要求するためには、日本の特に初等教育において、論理性や言語性を重視する実質的な教育を展開しなければなりません。もしそれが可能であれば、自然的・必然的に論理的な作家や芸術家が育ちます。この問題は、とても時間のかかる問題です。

 私は、たまたま出自が最初文学を専攻していた関係で、現在、絵を描きつつも、ある程度の言語表現が可能となっているのであって、そうした例はなかなかありません。文学で結構言葉を学んだ経験から、今は私は「制作学」という考え方、つまり制作者が、制作の内側から美術や作品を捉えていく方法論を掲げて、制作研究をしております。これは、本来は、特に大学で実技を指導する教員全てがもつべき方法論と思います。制作学の起点は、あくまで表現、実制作です。そこがきちんと行われていて、初めてこの研究は成立します。制作からの実感、体験から得られた創造上の諸問題、それを反省し、構造化し、次の制作へと反映していくこと、それが制作学の意味です。つまり、最後は自らの制作への展開へと還元されます。教育学部の教員は、そこの部分を、制作だけでなく、それを教育へも反映させようとする視点をもてば済むことだと、私は考えています。それはさほど難しいことではないと思います。

もちろん、実技系教員は、教科教育のプロパーの先生方のようには言葉や論理をうまく操ることはできません、が、なによりも実制作の実感があります。美術の基本は制作であり作品です。論理ではありません。論理は次に続くもの、表現をサポートするものです。ここを間違ってはだめだと思います。論理が先行することによって、表現が痩せるということが、多々あります。私は、これは方向性が間違っていると考えています。

美術教育にとって子供を考えることは、間違いなく重要です。しかし、まず子供ありきではないと私は考えます。本当に子供のことを理解し、その視座に立って美術を指導すること、それはとても重要なことですが、その指導者が美術それ自体のことを何も分かっていないで、それをしているとしたならば、やはりそれはおかしいです。私は、まず美術ありき、美術表現への理解と実感ありき、だと信じています。指導する人間が、美術表現の深さ、それがいかに自分自身を知ることに関わっているか、そしてそれがいかに世界を知ることとつながっているか、まずそれを制作を通して静かに見つめ体得することが、なにより重要なのだと思います。これはまさしく大学教育にも言えます。美術を通して学生に何を身につけさせるか、その第一は、表現とは何か、それがいかに自分の内面を反映しているか、そして自分を超えて人間一般の内面とそれはいかに通じ合うものであるか、こうした美術表現を通した自分理解が、結局本質的な子供理解を促進することは、必至だと思います。これはあくまで制作サイドからの論理であり、教科教育の先生方のご批判は承知しています。(続く)

| 小澤基弘 | 2009/07/30 9:13 AM |

【大雑把な枠組みとそれを越える視点】

大雑把な整理は結果として、誤解と批判を招くこと必至ですので、あまりしたくないことの一つですが、簡潔な整理ができるほど美術教育の流れは単純ではないので、あえて、大雑把な整理を試みたいと思います。ですから、以下に述べることは、単なる手がかりとしてのみ意味があり、手がかりとしてお読み頂いた後、忘れてください。理由は批判の対象にもされたくありませんし、同時に、誤解もして欲しくないからです。

それでは、なぜあえてここで大雑把な整理をさせていただくかと申しますと、前回までのDBAEやアイスナーへの言及が、実技に深く関わる先生方には、ひょっとしたら別の次元のことに感じられたのではないかと危惧したからです。

内容学としての、図工・美術教育の目的を検討するに際して、本質主義と社会文脈主義の相互浸透こそが重要なのではないかという提案は、理解していただいたと思うのですが、その際、挙げたアイスナーやDBAEの本質主義の事例が、美術史や美学、美術批評という理論的な枠組みに深く関わっているので、制作とは関係ないという誤解を招いたかもしれません。

 しかし、本質主義とは、いわば人類の叡智としての文化財全般を学ぶ教育のあり方を指しますので、必ずしも「学」という文字的世界に限定されていません。デザインすること、工芸すること、絵を描くこと―それらの営みが結果として積み上げたアートや文化のアーカイブ全体を指すとご理解ください。
 一方の社会文脈主義は、時代の要請に基づき社会・地域に限定された、まさに、今・此処の社会改善を図るために、教育を活性化させる原理であると幅広くご理解ください。
 このように並べてみれば一目瞭然ですが、両者はあくまでも便宜的な教育の目的にかかわる便宜的なタイポロジーにすぎないと私は思います。
 たとえば、ゲルニカを鑑賞するときに、色や形の構成やピカソがかかわった芸術思想などは、便宜的に本質主義の教育観の側に整理され、反戦や人間の憎愛の問題、そしてピカソの創造性に刺激を受けて、子どもが自らの内面世界を自由に造形的に表現する「創造性」・「個性」に準拠した教育は、便宜的に社会文脈主義に分類されるわけですが、前者も後者もあまりに幅の広い学びを包含しています。

 ですから、このような文脈よりも、子ども中心主義的な表現観か社会の要請を取り込んだ表現観か、あるいは規範となるディシプリン【学問体系】に基づく表現観か、といったような、少しズラしたものの見かたも時には、大雑把な整理としては役立つこともあります。ただし、このような分類も、実は美術教育では「金子・柴田論争」と呼ばれる雑誌「美育文化」における論争が、必ずしも生産的な目的設定や方法論の探究に繋がらなかったことから、現実的な問題解決のためのアプローチともいえなさそうなのです。(金子一夫先生や柴田和豊先生の展開した議論を矮小化して伝える意図はありません。)

いろいろ大雑把な整理の試みを巡ってみますと、結論としては、いま内容学の目的や方法、そして教育課程を策定するに当たって一番重要な事柄は、現代日本の子ども達にとって、わたしたちがかかわる教科(関連社会教育を含む)にとって、一番重要なことは何かということなのではないでしょうか?

そんな問題の立て方は、百人百様の思想信条の披露しあいに落ち着くのが関の山だと考えられる方もおられるかもしれませんが、人類の未来を見据えた「現代」というファクターと、高度情報化社会で高度に都市化が進んだ「日本」というファクターに真剣に向かい合うときに、大雑把な整理などに足を掬われない魅力的で重要な、教科内容学を構想できるのだと思います。

| 山木朝彦 | 2009/07/29 6:40 PM |

補説
 註3の文章の流れがわかりずらいかもしれませんね。
アイスナーは時代遅れだというようなものの見かたは間違っている。それはアイスナーが支持したDBAEについてもいえることだ。

・・・という流れです。
 DBAEは,美術史・美学・美術批評・制作という四本柱のもとに系統的なカリキュラムを開発しようとした運動です。
アイスナーの分類によるとエッセンシャリズムに位置しています。この考え方は,U.S.Aでは広範に受け入れられ,各学校区や各州の教育指導指針にも反映されました。また,北欧,台湾や香港など海外でも注目されました。その考え方は音楽教育にも応用されています。

 DBAEはメソッドの側面と内容学の側面がありますが,美術理論にかかわる学問への志向性が強いことは一目瞭然です。ただし,具体的な教材を仔細にみますと,絵画,彫刻,デザイン,工芸etcへの広がりが見られ,それらの鑑賞教育を通じて,美術史的なものの見かた,美学的なものの見かた,美術批評的なものの見かた,アート創作のものの見かたを養うという方法を採っています。
全体として,感想を述べるための語彙の習得,その活用に重きが置かれています。そこが日本の図工・美術教育とは大きな違いです。

 DBAEに対する私の立場はどのようなものかといえば,まず,DBAEの開発した教材には魅力的なもの,有用なものがたくさん含まれていると思います。これを実践レベルで追究してみたいと考えています。

 四つの学問領域を規範とするカリキュラム作成については,難しいと思います。ただし,この中の「批評」については,批評力の育成という課題として捉え,教育目標として掲げることが可能であり,必要だと考えています。そうした批評力の育成は,子どもが自らの表現を追究する上でも不可欠ですし,社会的な物事に参与していく能力として,いちばん求められているものだと思うからです。

 総括的な評価として申しますと,DBAEはその教育を通じて,情報化社会において支離滅裂な散乱した情報に取り巻かれている子ども達にたいして,美術史や美学という,アートを通じて物事を考えるコンテクストを付与したという意味で非常に大きな意義を持っていると思います。

 日本で,DBAEがやや受けが悪い背景には,アートを言葉で語ることに対する伝統的な嫌悪が根強くあるからだと思います。師伝という伝統的な方法と,無頼派の酒を飲んで一気に描き上げる表現的な制作は両極に位置しているように見えますが,阿吽の呼吸で伝達しあうことが重要だとか,精神世界や感覚的な活動は言葉を超越するものだとといような,論理と言葉を排除する点では共通しています。
 このように,日本ではアートを言葉で語り,文章で論理的に描写したり批評したりする活動がアートを支える現場の制作者から疎まれ続けてきたと思います。例外は,感覚的な言葉や詩的な言葉です。古来,美術家は,よく詩歌を詠み,魅力的なエッセイを綴りますが,論理的にアプローチすることを嫌ってきました。
 そのような文化的な特性から,DBAEのアプローチは嫌われる傾向があるのではないかと思います。また,我が国の美学者,芸術学者,美術批評家は,子どもや少年,あるいは青年に楽しくアプローチすることに意義も意味も感じてこなかったようです。
 彼ら・彼女らが真剣に向かい合い,自らの学問の魅力を語ろうとする対象は,大学院の博士課程に在籍する院生であり,学齢が下がると,コミュニケーションをとる意欲が急速に低減してしまうように感じられます。もちろん,これは偏見かもしれません。
 いずれにせよ,市民にとって,美術史や美学はとっつきにくい難解なものに映っているはずです。こうした感じ方・考え方がDBAEの枠組みに対する違和感を多くの先生方に抱かせた背景に存在していると思います。

内容学を考える上で,ぜひ踏まえていただきたい情報なので,三回に分けて長く書かせていただきました。
| 山木朝彦 | 2009/07/27 5:14 PM |

字数制限があるようですね。註の途中で消えてしまいました。書き込んだ文章は消えてしまいましたが・・・思い出して,もう一度復元してみます。

(註2)現在,私はこのような二項対立的な発想法こそ,ミスリーディングだと思っています。文化価値への気づき,興味・関心を抱くこと,そして,それを深く学び,自らその価値を思考や行動の規範にしていくことと,子ども自らが身の回りの生活世界から有用な情報を摂取したり,自らの偽らざる内面世界を表現していくことは,相互浸透的です。両者が高度に結びついたときに,クリエイティブな表現のコンセプトが表現する者のなかに宿り,創造的な技能や方法にたどり着くわけです。もちろん,この創造的という言葉も大いに気をつけなくてはならない言葉であり,社会に参与する意味のある表現活動というような広義の捉え直しが必要でしょう。
 それからもう一つ註で喚起したいことがあります。それはここでいう対話型は,アメリア・アレナス氏や上野行一氏が展開している対話型ではありません。人間と人間がその全存在をかけて語り合い,相互の価値観やものの見かたを知り,尊重する。そして共同参画の形態で新たな価値に気づき,社会的・精神的な価値を共に探究する「対話」の重要性を示唆したかったのです。その意味では,「〜型」という表現が拙かったかもしれませんね。
 繰り返しになりますが,私たちは子どもの生活世界を尊重し,そのみずみずしい感性と知的探究を尊重するとともに,世代を超えて伝えるべき情報を手渡すことを考えるべきでしょう。そして,おそらくは,教室の中でも,教師自身が自らの想いや気づきを生徒の前で話す真摯さが求められていると思います。私は,生徒の自発性を損ねてはいけないという口実の元に,自分自身はなにひとつ感想を抱かずに授業に臨むタイプの教師が一番嫌いです。それは第一に不誠実ですし,第二に,子どもを操作する事につながるからです。社会教育の場面では,アーティストと参加者が共に対等に意見を述べ合う場や親と子が協力してひとつのものを創る場がよく設定されていますが,学校教育の場―たとえば鑑賞の授業―では,教師と子どもの権力関係を懼れるあまり,児童生徒の前で教師が自分の感想を述べることは皆無といってよいのです。つまり,感想を述べたり,批評を行なうモデル(見本)は何一つ提示されていないのです。

(註3) 以前,ご紹介したアイスナーの著書をご覧下さい。少し附言しますと,このような二分法は物事を整理するときには必要ですが,むしろ,これを乗り越えるところに私たちが追究すべき内容学のあり方が姿を見せてくれるでしょう。その意味で,この本でのアイスナーの考えには限界もあるような気がしています。
 ただし,(ここからが本当に言いたいことなのですが)日本の美術教育界には,理論や実践を深く探求しないで表層で受けとめる似非知識人が紛れ込んでいるのではないかと疑いたくなるときが時々あります。
 たとえば,DBAEというアメリカの芸術教育運動について,あれは西洋中心主義的なモダニズムに依拠しており,ポストモダンのビジュアルカルチャー時代には,そして,多元文化的世界観が求められている時代には,ふさわしくないというような言説をよく聞きます。しかし,DBAEが開発した教材をみれば一目瞭然ですが,それらは,世界中の多種多様な文化圏から工芸やデザインを含めあらゆる造形物を取り上げて,教育の場での価値追求を求めています。
果たして,日本の教育現場で真剣にDBAEの教材に取り組んだ学校や学級が幾つあるのでしょう。私が知っている例では大阪の宮崎藤吉先生が取り組んだ例を知っているだけです。DBAEの教材の無効性や問題点を指摘するならば,実際に授業で行なってみてから批判すべきでしょう。しかし,実態は流行り廃れの感覚で,旬を過ぎたグラビアアイドルを語るようなノリで,DBAEが扱われている。
 このように,表層だけの理解で,何事も捉えるから深まりが出てこないのです。話題性は重要なファクターですが,しっかりとした過去の総括や反省,そして理論的なものへの敬意と学習は,美術教育が広範な根強い支持を得るための最善の道であると信じています。ですから,皆さまに,このアイスナーの文献を読んでいただき,これを乗り越える視点を打ち出していただきたいと思います。

| 山木朝彦 | 2009/07/27 4:24 PM |

教科内容学に関する基本的な整理
【7月21日の横浜国大の渡辺先生が綴られたブログ記事のなかで触れられていた事ですが,以前,福島大学の渡邊晃一先生にお越し頂き,兵庫教育大学連合大学院の研究プロジェクトでご発表していただいた頃の,教育内容学に関する私のまとめです。2007年10月に発表した考えなので,多少,古いのですが,お読みいただければ幸いです。なお,註は本日,書き込んだものです。】

1. 美術教育の内容学の捉え方
 図画工作科と美術科(以後,総称して美術教育と呼ぶ)の教育内容について理念的・実践的観点から明示された文書として学習指導要領がある。これは非常に強力な準拠枠として,教師の実践を方向付けている。しかし,そこに記載された文言が学術的な裏付けを背景に持っているかといえば,必ずしもそうとは言えない。むしろ,造形的な表現活動の質を高め,学習者の創造性を伸ばした教材の事例が蓄積され,これをもとにして,改訂時に新たな教育内容が盛り込まれたり,旧来の教育内容が見直されるというプロセスを経て,確定した教育内容だと理解すべきであろう。
 しかし,学習指導要領に記載されたこの教科の教育内容の性格を教育学的観点から描写することはできる。H.リードによる「芸術による教育」論にみられる個性に基づく創造主義と,V.ローウェンフェルドによる全人的な発達を基礎とした調和的な人間観を追究する理想主義はともに,各発達段階での十全な発達開花を期待する成長観と子どもの主体的・自発的な学びを支援する指導観の重要性を日本の美術教育者に知らしめた。戦後の創造美育運動もまた戦前の山本鼎の自由画の指導とF.チゼックによるラショーモンアプローチの典型のような指導を一つの理想的到達点として広く紹介した。昭和40年代の学習指導要領は,系統的なカリキュラムに傾き,造形文化領域における学術の分化に相当するジャンルをその裏付けとしたが,昭和50年代には内容の整理・統合が図られ,表現と鑑賞の二領域に収斂する。また,子どもの主体的な探究を全面に押し出した造形遊びが誕生する。これらの流れは,表面的には,いわゆる消極教育的様相を呈することになり,学習指導要領のうえでも,エッセンシャリズム(本質派)を追究する他教科との異質さを際立たせる結果となっている。しかし,それゆえに,日本の美術教育の歴史的変遷は,時代に相即するコンテクスチュアリズム(社会的文脈派)の性格を有していると言えるのである。ここから,現代という時代のニーズに即した内容学の捉え直しも可能となり,意味ある研究地平が切り開かれるであろう。いっぽう,E.アイスナーによるエッセンシャリズムの復権の主張と彼が支持するDBAEのあり方にたいする支持も根強い。このような状況を背景にして,本質主義的な立場から内容学を構想する道も残されている。

2. 論点の浮上と研究討議の課題
 一年間余りの研究期間(註1)のなかで,内容学について共同研究者および研究発表者各々の考えの違いが明らかになったが,こうしたプロセスは課題を絞り込むための前提として必要である。すでに共通理解が図られている各々の考えは,今後,研究の論題として共同討議されるはずである。紙幅が限られているので,要点のみを記載しておく。

A.学びのプロセスである造形に関わる知識や技能の習得・活用・探究の活動を方法論に限定することなく,美術教育の内容学の本質として捉え返すことはできないか。

B.文化価値から鑑賞対象を選定するような上からの内容学構築ではなく,子どもたちの学びと深くかかわる対話型(註2)による学習を促す鑑賞対象を見出していくのが理想である。この点から,学びの方法論の深化という観点からの内容学の構築について構想できないか。

C.造形活動を誘発する要素として,メディア,イメージ,造形手法,知識の各点から題材分析を行い,そこからエッセンシャリズムとコンテクスチュアリズム(註3)を繋ぐかたちの内容学構築が構想できないか。

(註1)この研究プロジェクトは2006年の4月に始動しました。

(註2)現在,私はこのような二項対立的な発想法こそ,ミスリーディングだと思っています。文化価値への気づき,興味・関心を抱くこと,そして,それを深く学び,自らその価値を思考や行動の規範にしていくことと,子ども自らが身の回りの生活世界から有用な情報を摂取したり,自らの偽らざる内面世界を表現していくことは,相互浸透的です。両者が高度に結びついたときに,クリエイティブな表現のコンセプトが表現する者のなかに宿り,創造的な技能や方法にたどり着くわけです。もちろん,この創造的という言葉も大いに気をつけなくてはならない言葉であり,社会に参与する意味のある表現活動というような広
| 山木朝彦 | 2009/07/27 3:48 PM |

静岡大学 川原崎知洋 先生 全委員の皆様へ

講演会の席確保、未だ大丈夫だと思います。先方、JAGDA神奈川地区代表幹事には私が頼み込みます。
実社会でディスプレイの実務経験を活かしたデザイン教育に取り組んでおられる川原崎先生こそ参加して戴きたかった一人ですので、非常に嬉しいです。昨日、山詰みとなった学生作品採点、期末試験準備、本日、学会会報原稿執筆で大学に来ており…書き込みを待っていました!
当日、絵画/小澤先生は勿論、川原崎先生も私から青史に御紹介申し上げします。

未だ当日の御予定が決まらなかった方、学期末の御多忙で躊躇されていた方、単に遠慮されている方、席を何とかします。月曜朝一、参加希望書き込みを本ブログで最終確認してから追加確保を願い出ます。ふるって御参加下さい!

諄いようですが…橋本先生、松浦先生、教科教育/山木先生、工芸/石井先生、美術理論・美術史/神野先生・喜田村先生、彫刻/池川先生、皆々様…無料です。折角の機会ですから…夕涼みに如何ですか?
彼はその性格から…自分の国宝展示の手の内を必ず明かしてくれます。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/26 2:42 PM |

横浜国大 渡辺先生

返答遅れました。木下史青氏講演会の件、是非出席させてください。期日が今週土曜日までという事でしたが、まだ間にあいますでしょうか?
| 静岡大学 川原崎知洋 | 2009/07/26 11:01 AM |

松浦 昇 先生 皆様へ

全くおっしゃる通りです。先生の御発言に賛同いたします。
古瀬先生の「美術の内側の人同志が美術の重要性を確認しあっても、それは社会的に貧弱な提言にしかならないのではないか」という言葉は…今までの美術部門の活動や本ブログ論議の経緯をも指摘しています。誤解を恐れず言えば…我々が属する美術という教科は非常に自尊心の高い難しい性格の教員に溢れ…作品は勿論のこと互いの学科目そのものを批判し、その批判によって逆に自己の属する学科目を高い位置にあるように肯定する…非常に了見の狭い愚かな行為がずっと繰り返されて来たのではないか…と私は感じています。所謂、油絵より日本画の方が恪上、彫刻より絵画の方が恪上、デザイン工芸より彫刻絵画の方が恪上、という様な…ダ・ヴィンチとミケランジェロの頃から続く…美術領域内部の相互批判による論争です。(この話は私が…先の浅草会議の席でもしました)教科専門(実技)と教科教育(理論)の対立視や乖離感、学閥的な教員分けや相互批判も又、同様の全く無益な相互批判、更に言えば…それらは外部から正視すれば、唯の自己批判でしかありません。言わば「個」が「個」であって「共同体」として機能していない状態です。
松浦先生の高い意思に添って換言すれば…今、論破する相手は、内部では無く…理解説明せねばならない社会なのです。本ブログ論議による学科目毎の論議を構築し構造化し、学科目同士の相互理解を固め、学科目の枠を超えた『美術という教科自体の教育的価値論』を論じて行くべきではないでしょうか。美術教育の目的や到達目標を、国民の視点で捉え、各委員各部会全体が協力して論議して行く必要性を強く感じています。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/24 1:03 PM |

金沢大学の松浦です。

 内藤先生、ご提案ありがとうございます。内藤先生が纏められ提案されていることはデザイン部会で議論を深めましょう。
 石井先生が19日の会合での古瀬先生の発言を纏められた「美術の内側の人同志が美術の重要性を確認しあっても、それは社会的に貧弱な提言にしかならないのではないか。」という言葉は、今までの美術部門の活動を指摘されておられるように思います。
 なぜ今、美術教育における教科内容学を検討しようとしているのでしょうか。誤解を恐れず述べたいと思います。美術教育を美術教育担当者同士が理解できる言葉で語るのではなく、美術教育の目的や、美術教育の到達目標を、国民の視点から考え、国民に対して説明責任が果たせる内容が、教科内容学ではないでしょうか。それにはまず、美術教育において教科教育と教科専門の連携が必要です。そして教育学に裏付けされた内容を現場教員や国民に提示し、議論を深めることではないでしょうか。美術教育を美術以外の多くの人々が、美術教育の重要性を語れるようにしていけば、凄い力となるでしょう。孤立した運動には絶対したくないと思っています。いかがでしょうか。
 
| 松浦 昇 | 2009/07/24 11:30 AM |

学芸大学・石井です。

 夏期休暇前のゴタゴタは未だ続くのですが、久しぶりの書き込みになります。19日お集りの皆様、直にお顔をあわせてのお話しあいは様々に示唆深く、有意義なものでした。有り難うございます。今後とも宜しくお願い致します。

 このゴタゴタの中で進行していたプロジェクトの一つがRED BULL BOX CART RACE TOKYOの審査を通り出場(出展?)する事になりました。このプロジェクトは「ものづくり・図画工作」研究の一環で、児童の構想に基づいて車両を制作実現させていく中で如何なる『実感』をともなった学びが存在するのかを探る為の研究です。宜しければURL : http://www.redbullboxcartrace.jp/ をご確認の上、大会は10/11にお台場にお時間在る方はいらしてください。小澤先生、La Festa Mille Miglia も良いですが、こんな大会もあります。1957年以前の車情報、私なりに見つけてお知らせします。
 皆既日食、東京は雨で残念ながら見逃しましたが、TV中継でインドのバナラシイ(ガンガー沐浴のメッカ)にての日食映像を見て、ン十年前に滞在した時の空気感とともに妙に現実感のある臨場感と信仰心にも似た気分を味わいました。遥か太古の人々もこの現象を目の当たりにして「神」の様なものを感じたのでしょうね。国大・渡辺先生、私には規模の違いはあれどあの人々の眼差しが、過夜のお台場で18mの像を見ている人々の眼差しに似ている様に思えます。偶像崇拝ですが。それと同系列でギリシャ神話やキリスト教など人々の価値観の共有の為の装置としての物語は在ったのではないでしょうか。福島大・渡辺先生が思わず手を上げられて喜ばれたのは私にも嬉しい事でした。(渡邊先生にとって、この事がこの夜の他の事を吹き飛ばさなければ良いのですが)
 福島大・渡邊先生が保育関連の為にアニメ「プディキュア」(流石に私でも簡単な内容しか分かりません)をご覧になってお勉強されてる事も微笑ましいのですが、これはかなり重要な事だと思います。保育域では「子どもと同じ目線に立つ」という言葉に集約されています。コミュニケーションをとる為に相手の世界観を共有し、共通言語を増やす事でより良くコミュニケーションにリアリティーを増していく事が大切であると、良く聞かされましたし、現実、相手の目の輝きは格段に輝いていました。
 2軒目の議論終盤で古瀬先生のおっしゃっていた事もかなり重要な事で、『美術の内側の人同士が美術の重要性を確認しあっても、それは社会的に貧弱な提言にしかならないのではないか』(石井の解釈の集約)私もそう考えています。如何に美術側の人間が一般の人々が実感して「美術」を必要と思える様に同じ目線に立って発言していけるかが、この活動のより良い行く末になる鍵だと思います。

 此れにて一先ず、今暫く期末のゴタゴタ集結に向かいます。
| 石井壽郎 | 2009/07/24 2:48 AM |

鳴門教育大学 内藤先生へ
 
埼玉大学の小澤です。いつも書き込み拝読しております。

今回先生のおまとめになったデザイン基礎の3つ目的とその具体的授業例、とても理解しやすく、絵画についても同様の作業を始めねばならないと考えています。先の福島大渡邊先生との話し合いでは、まず大きな骨組の在り方を作成することに知恵を絞っており、各論へとなかなか入っておりません。今後、少しずつ各論としての絵画を考えていく上で、内藤先生の今回のまとめは指針となります。

特に「観察・質感表現」については、先生がおっしゃるように「絵画の基礎授業」で確実に押さえている内容です。また「物事の状況」などをサラッと描く力のもとになるクロッキーも、絵画では確実に行っています。そう考えると、「観察・質感表現」そして「物事の状況の速写的表現」については、デザインとも重なる問題、美術の共通的内容と判断してもよいと思います。この観点については、本委員会全員の共通認識としてきちんと押さえたほうがよいと思います。あるいはこの問題に対する意見があれば、この場で発言をしていただければと思います。そうやって少しずつ、何が全体に通じ、何が各分野のみのローカルな事項か、そのあたりの住み分けが見えてくるのではと思います。

いずれにせよ、内藤先生の今回の分かりやすいデザイン基礎の整理に感謝いたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/23 10:02 PM |

埼玉大学 小澤基弘 先生 皆様へ

木下史青氏講演会ご参加了解しました。席を確保します。

参加ご希望の方、可能な方、出席の意思を…早めに本ブログに書き込んで下さい。尚、本委員会委員に限定するものではありませんので、ご友人ご家族でも結構です。人数を知らせて下さい。
勝手ながら…申し込み期限は土曜日迄とさせて戴きます。

遠慮なく是非、ご参加申し込み下さい。

横浜国大 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/23 6:24 PM |

横浜国大 渡辺先生

木下史青氏講演会の件、是非出席させてください。「伊勢神宮の美術」もみたいと思っておりました。よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/22 9:42 PM |

●東京国立博物館/木下史青 氏 講演会のお知らせ

横国大の渡辺です。先の浅草の会合で話した件です。
担当者に問い合わせた処、定員50名の処、未だ空席が有り…席が確保できます。
JAGDA会員以外の方でも…どうぞお連れくださいの返答です。以下、詳細です。

●JAGDA神奈川企画トーク&セミナー
「モノのみかた・みえかた」と博物館の展示デザイン
講師/木下史青氏(東京国立博物館デザイン室長)
期日/7月30日(木)午後5:00〜7:00 会場/国立博物館内小講堂  料金/無料
「若冲と江戸絵画展」「薬師寺展」「国宝阿修羅展」の展示等、画期的照明方法、国宝級の作品の本質を浮き彫りにする質の高い展示に高い評価がある。絵画・彫刻・工芸・デザイン・美術史・鑑賞教育…彼の仕事は我々の職務の広い範囲に深く関係しています。
当日、早く来られた方は…平常展、特別展「染付 藍が彩るアジアの器」「伊勢神宮と神々の美術」をご覧戴けます。但し入場券が必要です。見学後、平成館の1Fラウンジに午後4:30分迄に集合して下さい。木下氏が直接、小講堂まで案内してくれます。
尚、午後4:30分を過ぎると…正面入口からは入場出来ませんので御注意ください。
又、午後4:30分を過ぎてしまった方は…閉館時間帯ですから、西門(こども図書館がある側)の守衛さんに「小講堂での講演会の出席者」と告げれば…入れるように手配して貰います。

実は木下史青は彼が浪人時代某予備校の私は講師で教え子。(平素は呼び捨て)
某芸大で私が常勤助手時代に彼は新任の非常勤助手で…元後輩同僚に当たります。
自分が…若い頃を知っている若者が…立派な業績を遺す人物に成長したのを見るのは…教師を主な生業とする私にとって…格別な喜びです。

参加ご希望の方は出席の意思を…早めに本ブログに書き込んで下さい。
連絡手配もございますので申し込み期限を…今週末土曜日迄とさせて戴きます。

遠慮なく是非、ご参加申し込み下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/22 9:24 PM |

日食見えました*横浜で

横浜に居ります渡辺です。
先程、午前中、パソコンによる授業中…窓の外から…
『凄い!!!』という誰かの叫び声が聞こえました…
直ぐに、教室内の皆、ソレと解りました。

学生達も私の性格を良く解っているので…私の顔を見ます。
私は直ぐに「一時、休講!急行!急行!!!」
バタバタドタドタドコドコドコ!*階段を降り玄関から飛び出す音

雲間に見えました。
三日月状に欠けて細くなった太陽です。日食です。
何しろ一生に一度、有るか無いかの機会だそうです。
学生達は皆、感動して…他の建物や教室からも学生や先生や職員が出来てしまいました。やはり…この機会、見せるのが粋、見せないのは野暮…と私個人としては思うのですが。。。
素晴らしい職場の思い出が出来ました。

皆さんの居られる場所では見えましたか?

何だかこんな実感の籠った今現在の気持ちのタイピングこそ『ブログ』って感じですね。。。失礼しました。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/22 12:15 PM |

金沢大学の松浦です。

 19日、上野、浅草での会合に参加された先生方、ご苦労様でした。
 私の方は、全国高校生ポスターコンクールの審査を終えて、夕方、北陸道に入り金沢に向かっていたところ、敦賀と今庄の間が霧のため通行止めになっていたので、敦賀インターから降りて国道8号線と県道からカーナビをたよりになんとか今庄インターに入ることができ、金沢に通常の倍の6時間かけて到着しました。家に着くやいなや会合の報告が入っていないかと思い、ブログを開きました。
 ところで、埼玉大学の小澤先生ご推薦の池内先生と石上先生ですが、委員は各部会(分野)の代表者の推薦によって構成されていますので、お手数おかけしますが、池内先生は教科教育部会代表鳴門教育大学の山木先生から、石上先生は彫刻部会代表鹿児島大学の池川先生の推薦を受けていただければ幸いです。
 最終的には橋本部門委員長から任命されるという形になりますので、よろしくお願いいたします。
 福島大学の渡邊先生と小澤先生のご提案、期待しています。
| 松浦 昇 | 2009/07/22 10:22 AM |

横浜国大 渡辺先生 及び皆様

 渡辺先生、早速のご報告、ありがとうございます。レコーダーを用意された先生の、会議に臨まれる意気込み、本当に感謝をすると共に、敬服いたします。どじょうとお酒の美味しさで、ややもすると記憶が薄れている議論の部分を、明確に文章化していただき、議論の流れを再度確認することができました。

 先んじて福島大渡邊先生と行った会合の内容は、今整理しております。一度渡邊先生とメールで内容を確認した後に、本ブログに記したいと考えております。しばらくお待ちください。

 二次会の席で盛り上がった、教育内容学のまとめの本、『美術の教科書』(仮題)、是非とも実現いたしましょう。それが教育系大学の美術(実技系)のまさしく教科書テキストとして活用されるような、そういう成果に至ることが、本委員会の具体的な目標になりますね。

 石井先生、そして古瀬先生、お二人の教育にかける熱を身近で感じることができました。古瀬先生は、あのあと大丈夫だったでしょうか?少しお酒が過ぎていたようにお見受けしており、心配しておりました。石井先生、渡邊先生は、おそらくガンダムに狂喜されていたことと思います。私も直に見に行く予定でおります。また石井先生、是非とも車の情報をお願いします。一応私も新型プリウスをファーストカーにしましたので、セカンドカーはどれでもOKです(かな?)。すみません。このブログを個人的な通信に使ってしまいました。

 埼玉大学池内慈朗先生(美術科教育)および埼玉大学准教授石上城行先生(彫刻)の本委員会へのご参入の件、横浜国大渡辺先生には既にブログ上でご推挙いただいておりますが、松浦委員長、よろしくお願いいたします。ご両人ともに快諾をいただいております。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/21 4:10 PM |

全委員の皆様へ
一昨日7/20、『駒形どぜう』にて委員有志で会合を行いました。参加者は…絵画部会から小澤基弘先生、渡邊晃一先生、工芸部会から石井壽郎先生、古瀬政弘先生、デザイン部会から私、渡辺の5名でした。午後6時〜9時半、場所を移して 11時半迄、非常に活気に満ちた意見交換がありました。以下、箇条書きにて簡単に報告させて戴きます。

・渡邊晃一先生より「教育実践の観点から見た教科内容学の現状と課題」今日の芸術教育における身体的問題を通して(第30回兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科共同プロジェクト研究会資料:6頁)の配布があり説明があった。この様な解り易い図解や作品例等の図像画像を本ブログ上にPDF形式で貼付けることは出来ないかとの指摘があり…管理者である石井先生に持ち帰って頂く提案事項と確認しました。
・全体論議議題となっている「0歳児からの美術教育の可能性」について、レッジョ・エミリア市の取り組みについて、又、それらの活動が日本に中々簡単に根付かない原因について等、様々な角度からの論議がありました。・そもそも論としての芸術論、芸術という語の派生とその意味、美術という語の派生とその経緯、美術の派生史(洞窟壁画〜古代ギリシャ〜現代美術に至る迄)、人間の発達と遊びと学びの関係性、社会という概念問題(「個」と「共同体」の比較関連性に於ける視座)、日本画という庶民芸術が西欧美術に与えた多大な影響力、明治開国以降の日本美術の辿った経緯について、伝統工芸のセクショナリズムの問題、技術と芸術の分化の問題、教員養成に於ける美術という教科の学科目の意義問題、等について発言され委員相互に闊達に論議が行われました。
・今迄、論議が闊達に行われているデザイン・絵画・工芸各部会に対し…中々部会内論議の進展しない部門へも十文に配慮すること、要望をブログ内で発言し積極的に呼び掛けて行くことが提案され全委員の賛同がありました。・小澤先生より新規追加委員の推薦がありました…彫刻/埼玉大学/石上城行先生(姓:いわがみ)、美術科教育/埼玉大学/池内慈朗先生の2名です。池内先生に関しましては先に私からも推薦した通りでありますので…松浦委員長におかれましては、是非、ご承認戴けますよう橋本理事長へのお尋ね連絡の程、よろしくお願い申し上げます。
・周辺教科として差別軽視され時間も予算も削減されつつある美術という教科に対して政治的官僚主導の不満も各委員から有り爆発…矛先は近所から挨拶に訪れた民主党台東区議義弟に向けられ…彼は美術教育の必要性に賛同し理解を示してくれました。
・二次会散会後、石井先生の運転するハイブリット車は上野駅で小澤先生と古瀬先生を降ろし…無理矢理、降りれなかった私と、喜ぶ渡邊晃一先生を乗せて深夜のお台場に向かい…高さ18mの等身大(アニメ世界で)のガンダムを見学と相成り…移動中、車中でも…車の造形としての工芸、幼児期の体験や記憶されたリアリティ、ロボットの身体性論、宇宙に於ける地球の偶然性論、木星の意味論、等が絶え間なく論議展開しました。

この『駒形〜浅草〜お台場論議』相互理解は必ずや今後の本ブログ推進の貴重なエネルギーとなると信じます。参加下さいました皆様、本当に長時間お疲れ様でした。ありがとうございました!詳細内容は…機会毎に参加委員から追って書き込みもあろうと思います。

絵画/小澤先生先んじての絵画部会論議、部会に開陳下さい。又、是非、全体論議にも追記フォロー下さい。

石井先生、渡邊晃一先生、古瀬先生、是非、追記感想等、書き込み
下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/21 3:40 PM |

横浜国大 渡辺先生 および明日ご参加の先生方へ

 明日の件、よろしくお願いいたします。おそらく5名だと思います。暑さに少しやられている折ですので、どぜうは楽しみです。

 ゴーギャン展、私も行きました。私は個人的には版画と最後のブーズの作品群に惹かれました。版画はやはり本人が直接刷ったものが無骨ですが一番響いてきました。死の年の一番最後の作品は、力が抜けていて、ゴーギャンの一番よいところが、純度100%で表されている感じがして、しばらく見入りました。とてもすばらしい展示だと思います。

では明日。
よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/18 9:18 AM |

皆様へ

横浜国大の渡辺です。
昨日は、国立近代美術館『ゴーギャン展』http://www.gauguin2009.jp/行って参りました。新規オープンした東京駅日本橋口(丸の内口、八重洲口とは別に…)から無料送迎バスが有り便利です。以外と空いているので…じっくりと鑑賞できます。タヒチで制作した原始的な生命の強さをたたえる彫刻や版画連作等も出品されており彼の人生を作品と共に辿ることが出来ます。金曜日にはナイターも有り便利。至近距離で見る赤系緑系を多用した彼の絵画の強い発色は…図録では本当の意味で理解できないと感じました。美術教育関係者必見は言う迄もありません。

昨日、『駒形どぜう』より、明日予約の確認/人数の確認の電話が出先でしたので携帯電話留守電に入りました。又、本ブログへの書き込みにて参加を募っておりましたので…未だ返事をしておりません。
明日の会合参加者は…現在の処、絵画部会から小澤基弘先生、渡邊晃一先生、工芸部会から石井壽郎先生、古瀬政弘先生、デザイン部会から私目の5名となっております。とても楽しみにしております。

もう少々(正午位まで)待ち…店には電話をしておきます。
参加希望の方、早めに書き込み願います。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/18 8:45 AM |

福島大学 渡邊先生

 19日の件、午後4時に改札を出て右側二階の食堂(たぶん日本食堂)にお願いします。他の絵画のメンバーの皆様、ご参加いただける方は、明日までにこのブログにてご意志をお知らせください。
よろしくお願いいたします。

横浜国大 渡辺先生
 予約をしていただき、ありがとうございます。「駒形どぜう」には過去に確か一度行った覚えがあります、が、相当昔です。200年の伝統があるお店なのですね。ものすごく楽しみにしております。よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/16 6:49 PM |

福島大学 渡邊晃一です。

渡辺邦夫先生 
『駒形どぜう』の予約の件、有り難うございます。ご面倒をおかけしました。皆様にお会いできること、教科内容学の御話の機会と重ねて、楽しみにしております。

小澤基弘先生 
16時に上野公園出口、右側にある2Fのレストランですね。
御世話になりますが、宜しく御願い致します。
| Koichi Watanabe | 2009/07/16 6:10 PM |

学芸大学・石井です。

 本当に済みません何から何まで。言い出ししたのにもかかわらず、皆さんの書き込みのペースについていく事が出来ていませんでした。
学大より古瀬、石井で参加しますので宜しくお願い致します。

っと言っておいて一先ずです。済みません、その分当日に発言します。
| 石井壽郎 | 2009/07/15 4:35 PM |

小澤基弘先生 渡邊晃一先生 石井壽郎先生 他、集結せし委員皆々様へ

●『駒形どぜう』http://www.dozeu.com/
先んじて…本日、私が2Fの部屋を私の名前で予約をしておきました。
6名迄入れる掘こたつ小部屋です。
尚、金曜日参加申し込み締切迄に人数が増える場合、12名迄の大部屋も有ります。
なるべくお早めにお申し込み下さい。

何時も本ブログチェックされておられる橋本先生も…是非、如何ですか?
梅雨明けに『どぜう』元気になりますよ!

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/15 3:05 PM |

横浜国大 渡辺先生

 「どぜう」、お世話になります。当日は渡辺先生も含め初めてお会いする方々が多く、とても楽しみです。気が締まります。福島大学渡邊先生のたたき台も期待しております。絵画部会の会合場所は、まだ未定なのです。渡邊先生とは、公園口改札脇の「日本食堂」(たぶん)がいいのではと話していました。それくらい上野のことがわかりません。渡邊先生はじめ絵画の参加できるメンバーの方々と話し合ってから、浅草に移動いたします。午後6時には間に合うようにいたします。よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/15 8:03 AM |

埼玉大学 小澤基弘 先生
横国大/渡辺です。『駒形どぜう』ですね。創業1801年の老舗いい感じですよ。
3Fの掘りごたつ個室を押さえるなら…金曜日では…どうでしょうか?
先んじて…明日、私が3Fの部屋を予約をしておきましょうか?
浅草は義弟の守備範囲…都議選民主圧勝で…後はどうにでもしてくれます。
新撰組ならぬ新鮮ブログ組…先ずは話しをいたしやせう。
絵画の教科書ニ大筆者の磁力で部会を集結させねばいけませんね。

福島大学 渡邊晃一 先生
絵画分野の優れた論客にして作家、『絵画の教科書』で多数を執筆、会合に参加されるとのこと本当に嬉しく思います。更に「教科内容学の叩き台となる表」とは!?期待しています。何しろ私は…絵を黒板にチョークで描いて説明するタイプなので図解や表で直感的に解るのは有り難く期待しています。何と!デザインの巨人/田中一光さんとおつきあい?それは羨ましい限り。田中先生には私はとても…声を掛けられないままに終わり…悔いております。助手時代、福田繁雄研究室で先生が使う鉛筆を御指示で毎朝10本ナイフで削りました。福井恐竜博2000、先生がシンボルマークを指名されデザイン、私はキャラクターシンボルや公式ポスターを選出しました。今年1/15に急逝され御冥福を祈るばかり…入稿前直前迄、ポスターの文字配置大きさを何度も何度も検討しあらゆる配置を試す腕組みした真剣な姿…眼に浮かびます。

学芸大学 石井壽郎 先生
よろしいですか?返信の書き込みお願いします。古瀬先生も誘って下さい。

全部会全委員の先生方へ
この様な流れ自然発生的に生じております。是非、振るって御参加下さい。
絵画部会(1次会)7/19(日)16時〜 場所:(小澤先生、何処ですか?)
寄合部会(2次会) 同日   18時〜 場所:浅草『駒形どぜう』

尚、参加申込受付/金曜日迄とさせて戴きます。(本ブログに書き込み)

デザイン部門の先生方、当日東京周辺御予定ございませんか?

(美術館情報)おまけ
ゴーギャン畢生の大作『我々は何処から来たのか 我々は何者か 我々は何処に行くのか』東京国立近代美術館に来ています。
ゴーギャン展2009 http://www.gauguin2009.jp/展示内容、図録も素晴らしいです。
特筆すべきは小中学生「ゴーギャンこどもセルフガイド ゴーギャンの冒険」(書き込み式解説リーフレット)無料。http://www.gauguin2009.jp/topics.html#guide
子供向け鑑賞教育の優れた内容です。職業を明かせば…子供連れてなくても貰えます。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/15 12:54 AM |

福島大学 渡邊先生 および皆様

 19日の件、了解いたしました。また18時よりの会も、「どぜう」とのこと、私も大賛成です。絵画メンバーの皆様、また他の分野のメンバーの皆様、参加のご意向を持ってみえる方は、できる限り早めにこのブログにてご意志をお示しいただければと思います。よろしくお願いいたします。
学芸大石井先生、「どぜう」でよろしいでしょうか?
横浜国大渡辺先生、予約を考えた場合、参加意思表明のデッドラインは、金曜日あたりでしょうか?

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/14 9:44 PM |

埼玉大学 小澤基弘先生   委員皆々様へ

御世話になります。福島大学の渡邊です。
さて、7月19日(日)の件ですが、2)案で御願い致します。
20日に東京にもう一泊するので、時間を気にしなくて良くなりました。16時に小澤先生を中心に絵画グループで会合し、18時から委員の先生方と会合しましょう。個人的には、『駒形どぜう』に魅かれますね。色々とご面倒をおかけしましたが、何卒よろしく御願いいたします。
| Koichi Watanabe | 2009/07/14 8:22 PM |

埼玉大学 小澤基弘先生   委員皆々様へ

色々と御世話になります。福島大学の渡邊です。昨晩まで会津で仕事をしており、ブログを拝見するのが遅くなりました。今日、小澤先生からの御電話で、会合の話の展開を知りました。申し訳ございません。

さて、7月19日(日)の件ですが、当日、19時に福島に戻る予定でチケットを購入していました。(週末フリー切符です。福島駅到着後、自宅に戻るバスの都合上、このような時間になります。)先生方から会合の御話いただき、このような機会は大変有り難いと思っております。(学会当日の話し合いだけでは心配ですし、是非、一度御お会いして、御話したいと思います。)
そこで今、次の二つの案を考えております。

1)絵画グループの会合を前の日、18日(土)に行い、19日(日)の4時ころから、上野で委員の先生方と会合する。(絵画グループの先生の御承諾をいただければ。)
2) 20日の福島での予定をキャンセルし、もう一泊ホテルをとる。

私としては、2)の案で進めたいと思っております。20日の予定を変えられるか否かを明日、関係者に伺い、ご返事したいと思います。今少し御待ち下さい。
お会いした際、私が今現在考えている、教科内容学の叩き台となる「表」も御渡しします。皆さんの考えを繋げる「叩き台」になればと思っています。
よろしく御願いいたします。

****
明日は、私の講義「映像メディア論」の特別講演者として、デザイナーの河副純一郎さんをゲストに御迎えします。デザインの先生方、ご存知でしょうか? 私も亀倉さんの作品は、大変敬意を表しておりますが(個人的には田中一光さん、福田茂雄さんとおつきあいさせて頂いてました。)今回の講義では、あえて視覚伝達デザインから離れて、ゲームソフトやデジタルコンテンツの開発に関する御話をいただきます。
 河副さんは、ソニーのプレイ・ステーションなど、ゲームソフトのプロデューサーとして、ご活躍されている方です。「映像メディア」の今後の可能性について、御話頂きたいと思っております。

河副純一郎氏略歴
(株)東芝EMI プロデューサー。MSX国内立ち上げに参加。東京大学・東工大との産学連携でコンテンツプロデュースを担当
(株)ツルモトルーム・フイア 広告・映像・出版のプロデュース
(株)カゼ/(株)カゼ・ネット設立 代表
(株)三菱メルダック/メルダック・オブ・アメリカと提携 取締役
コンシューマゲーム事業 プロデュース
カゼ・オブ・アメリカ設立 代表
仮面ライダーシリーズ / ウルトラマン / アキラ etc プロデュース作多数
現在は外資系XPEC 取締役顧問 海外での活動を中心に活動
専門(映像・音楽・出版・デジタル系コンテンツ)。
広告受賞暦 国内 TCC ADC 多数
| Koichi Watanabe | 2009/07/13 10:15 PM |

鳴門教育大学 山木先生

 ご推薦の本、さっそく購入し読ませていただきます。感想は後日ブログにて。ご紹介ありがとうございました。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/13 7:40 PM |

教科教育という枠組みよりも、芸術教育の観点から体系的に教育内容を論じた基本文献がありますので、紹介します。
それは、E.W.アイスナー著『美術教育と子どもの知的発達』(黎明書房)です。
まだお持ちでない方がおられたら、研究費などでぜひ買い求めてください。おそらく、批判したくなる内容もあるとは思いますが、非常に優れた知見をいくつも得られるはずです。
わたしたち、検討委員が現実の問題と深くかかわり、新たな運動を展開したり、現場の教育内容を検討する際には、理論をぬきにしては、なかなか具体的な分析も評価もかえって恣意的になり、説得力を持ち得ないのではないかと危惧します。
もちろん、教育課程をふまえたグランドデザインについて考察する際には、必要不可欠なのが理論的なアプローチです。
その意味で、ぜひぜひ、この文献を一読してくださいますよう、お願いいたします。山木朝彦
| 山木朝彦 | 2009/07/13 7:37 PM |

横浜国大 渡辺先生 金澤大学 松浦先生 および皆様

 国大渡辺先生、さっそく多種多様な会場のご提案、感謝いたします!私も先生お薦めの浅草コースがよいと思いました。「どぜう」は本当に久しぶりですし。ただ、当日、福島大学の渡邊先生は福島に帰られるので、そのあたりが微妙です。渡邊先生、いかがでしょうか?また他のメンバーの先生のご意見もお願いできればと思います。なんだか、このブログが伝言板みたいになってしまい、本当に恐縮至極です。

金沢大学 松浦先生
 ご多忙の中、ブログにお返事をいただきありがとうございます。先生のポスター研究にかけられている情熱に感服いたします。勉強になります。当日お目にかかれないのは残念ですが、会議での話し合いの内容のブログへの書き込みに対するご意見を、後日頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘

| 小澤基弘 | 2009/07/13 6:59 PM |

埼玉大学 小澤基弘先生 集結せし委員皆々様へ

確かに私は学生〜助手〜常勤助手と上野に14年半通いました。
ですが…もう随分、時が経ち店も様変わりしているでしょう。
谷中『町人』『同part2』ガラス部で集う小さな居酒屋。→無いかも。
御徒町『ラッキーズ』ビリヤード付プール・バー(厠が床も天井も含め総鏡張り)→無いかも。
助手の頃、開拓した江戸時代から続く老舗『駒形どぜう』粋な下町情緒一興です。→有り。あ〜懐かしい。。。
妹が浅草に嫁いだ(義弟は台東区議)ので…界隈には天ぷら、すき焼、寿司、甘処、小粋な兄さん向きの旨い店はこと欠きません。。。しかし…真面目な大学の委員先生方が『教科内容学』を真摯に議論されるのですから…駅に近く歴史格式ある『上野精養軒』あたり(月並でも)は如何ですか。将来の展望に繋がる眼下に不忍池を見下ろし眺め良く…今、開業中の屋上ビアガーデンは、より開放的で駅至近で時間も気にすることも有りません。唯、其処は午後5時〜なので…絵画部会は最初は本店1階か或は別所で…という案になります。

1案…格調高き欧風で高級で眺めも良い駅至近の場所案
●上野精養軒 http://www.seiyoken.co.jp/
○上野精養軒本店1階 グリル フクシマ(純フランス料理)
小澤先生にはピッタリかも?…別予算で個室も準備可能。
AM11:00〜PM9:00(LO 8:00)年中無休(但し年末年始を除く)
上野公園4番58号 03-3821-2181
JR上野駅公園口…徒歩5分、地下鉄上野駅…徒歩8分
○上野精養軒 屋上ビアガーデン…庶民的!EVにて4Fへ
営業時間 17:00 〜 21:00 ラストオーダー 20:30
期間中無休 (強風・雨天等 悪天候時は中止)

2案…浅草江戸情緒老舗で落ち着いて膝付き合わせて案
●『駒形どぜう』http://www.dozeu.com/
営業時間 11時〜21時(ラストオーダー) 年中無休
和の座敷基本。掘こたつ小部屋有り。予約 03-3842-4001
都営地下鉄浅草線  浅草駅 徒歩2分
個人的には私の好み。お奨めします。如何ですか?

ご都合のつく委員の先生方ふるって御参加下さい。
本ブログ書き込みで…参加を事前に受け付けます。

何だか、学会論議と少々異なる様相の書き込みで…
失礼お許し下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/13 6:19 PM |

横浜国大 渡辺先生 及び皆様

 7月19日の件、ご参加いただけるとのこと、心強く思います。学大石井先生のご提案は、実に時宜を得ていたと言えるでしょう。ありがとうございます。
 福島大学渡邊先生、及び絵画メンバーで参加のご意志をおもちの先生方は、午後4時にJR上野駅公園口改札に集合お願いいたします。また、午後6時からの全体での会合は、どこでいたしましょうか?上野界隈は無案内ですので、渡辺先生か石井先生のご推薦の場所にいたしたいとおもいますが、よろしいでしょうか?
 
埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/13 3:18 PM |

松浦 昇 先生
ポスターに関する熱い書き込みを戴きありがとうございます。お忙しいのですね。JAGDAでも富山地区は何時も元気ですね。亀倉雄策のお話が出ましたの少々…私はデザイン概論で必ず亀倉雄策を紹介しています。日本のグラフィックデザイン界では「亀の一声」と言われた位、偉大な方で、東京オリンピック公式ポスター〜NTTのマーク国際コンペで勝つ程に長く約半世紀、第一線で現役で活躍し続けた。つまり、デザイナーや芸術家に定年は無い。彼は素晴らしい作品を多く手掛けたが…彼の事務所の壁には唯一、カッサンドルのポスターだけが掲げられ…彼は生涯、彼を目標としていた…などど話しております。ポスターの制作に関する論点は…是非、デザイン部会に戻って順を追って継続して参りましょう。今後共、積極的な御発言、そして御指導よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘先生
絵画部門の集まり結構ですね。石井先生も終了後に参加されるとのこと…
何だか密かに(では無いけれど…)京都の角屋あたりに…三々五々、新撰組が集結するみたいで…自然発生的でいいですね。私目も是非とのこと嬉しい限り。是非、ご一緒させて戴き皆様とお話しできればと思います。
関東圏からなら委員であれば誰でも参加して戴いて…又、当日は連休ですから遠方の委員の先生方の中には東京付近にお出掛けになっておられる先生もありましょう。絵画部門委員の集まり終了後、全体意見交換会に参加希望される方には…本全体論議にその意思を書き込んで戴く…という案は如何でしょうか?

皆様へ
松浦委員長がご提案された教科内容学の本論議は…そもそも「美術教育の目的は?」「美術教育の到達目標は?」という真意であります。既に先の書き込みでもお伝えしましたが…是非、論議進展の無い(少ない)部会こそ、積極的にコメント下さいますようお願いいたします。
本ブログ構成は、7つの部会が平行論議をしつつ、別に全体論議があるという…非常に稀な同時並行形式とも言えるものです。7つの縄跳びでは無く…寧ろ1つの発言は1本の糸、部門の縦糸に複数の意見や論議は横糸、縦と横は面となり…やがて7つの織物が美術という立体的構造の時空を経た意義論が表出するのでありましょう。
発言/書き込みは…論文の様に構えず…相手の顔を想像して…話す様に打つ。
あまり気張らない自然体の方が…それも短いコメントの方が楽です。

先ずは…御自分の所属される学科目部門での論議を闊達なものに致しましょう!
そして未だ全体論議に書き込みされて無い先生方も是非、論議に参加して下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/13 2:21 PM |

金沢大学の松浦です。

 小澤先生ご計画の会合、出来れば参加したいところですが、17日は第9回世界ポスタートリエンナーレ・トヤマのオープニングがあり、18、19日は全国高校生ポスターコンクールの審査がありますので、参加できませんが、よろしくお願いいたします。
 ところで、先週末(11、12日)も新潟県の長岡市に多摩美術大学の秋山教授が『秋山孝ポスター美術館・長岡』を設立されたので出かけていました。6月から7月の週末はほとんど大学関係の出張か研究に関連したイベントに出かけています。
 ポスターについて、山木先生と福本先生がご指摘されていること「ポスターの制作は視覚伝達の機能理解を具体化する学習材ではあるが、実態から言えば、学習者がメッセージ性を読み解き、効果を意識するに至る授業は稀である。」が頭から離れず、それについて説明責任を果たしたいと思っていますが、これから具体的な教科内容学に触れていく段階で意見を述べたいと思っています。
 話題を変えますが、亀倉雄策を知っているかと学生に聞きますと、ほとんど知らないと言います。芸大、美大の学生でも知っている学生は少ないと思います。東京オリンピックのポスターを制作したデザイナーで、アメリカのポール・ランド、ポーランドのヘンリク・トマシェフスキとともに戦後世界のグラフィックデザイン界を代表するグラフィックデザイナーであると説明すると、そんなに凄いデザイナーが日本にいたのですか、と聞き返されることが多い。
 亀倉先生とはポーランドポスターを通じて親しくしていただき、大垣市に『日本国際ポスター美術館』(1996年10月26日オープン)創設の際にもご尽力いただきました。私が亀倉先生と直に接して凄いなと感じたことはデザイン制作に対する態度もありますが、先生は「デザインは文化だ。そのデザインが社会を変える力にならなければならない。」と語られ、そして晩年はデザイン教育に関心を示されデザイン学校設立を考えられていたようで、またスイスのマックス・ビルの影響を伺わせ、文化経済学的な視点をもたれて行動されていたところです。昨日、秋山孝ポスター美術館のオープニングに参加して、亀倉先生のことが思い出されてペンが走りました。
 亀倉先生をはじめ日本のグラフィックデザイン、特にポスターが世界において高い評価を受けているのは、明らかに大和絵や淋派そして浮世絵等の伝統文化が背景にあることを学生に説明しています。つまり自然から学び取る感性が日本のデザインを支えていると思うのです。
 
| 松浦 昇 | 2009/07/13 12:50 PM |

学芸大学 石井先生

 先生のご提案、もしそれが可能であれば、議論を進める上でとても有意義だと思います。絵画メンバーでの話し合いで、大きなたたき台をざっくりと提案できればと思います。それをデザイン、工芸のメンバーの方々に見ていただき、意見交換ができればと思います。
また先生方の部会の議論の様子もその時に共通理解させていただければ幸いです。
横浜国大の渡辺先生にも、もしお時間が許すのであれば、その場に加わっていただければ心強いです。
私たち絵画のメンバーの都合に合わせてしまうかたちになり、恐縮です。特に私は、学会にも参加できず、とても申し訳ない気持ですので、事前に私ができることをしたいと思っております。
福島大学の渡辺先生、絵画の他のメンバーの先生方、それでよろしいでしょうか?

埼玉大学 小澤基弘

| 小澤基弘 | 2009/07/12 8:54 AM |

東京学芸大学・石井です。
 
 埼玉大学・小澤先生、絵画セクションでお知らせの絵画領域会合についてですが、絵画の皆さんのお話し合いが終わられた後、18:00位から各セクションの代表の方(現実的には関東エリア在住の方で、お時間お有りの方になりますか)でお二人交えてお顔を見ながらお話ししていただけないでしょうか?

宜しくご考慮ください。

発言、手短かで失礼致します。
| 石井壽郎 | 2009/07/11 11:53 PM |

横浜国大 渡辺先生 鳴門教育大 山木先生
および絵画のメンバーの皆様

 早朝の書き込みは、少し私見を言いすぎたと反省をしておりました。渡辺先生に励まされて、少し荷が下りました。ありがとうございます。渡辺先生がご確認されている、各分野と全体議論との往還は、本当に有効な議論の展開可能性を孕んでいると思います。積極的な激論の場となり得ましょう。私も出来るだけ参加するように努める所存です。

 0歳児からの美術教育という問題を、自身の中で理解し、学び、自身の視座となんとかして結びつけながら、絵画の今後の議論の展開に、少しでもお役に立てればと思っております。国大渡辺先生には、常に全体の指針をとっていただき、感謝申し上げます。

 山木先生には、是非とも教科専門に現在一番不足している視座、あるいはどう教科教育と絡むべきか、そのあたりのご意見を聞かせていただければ、とても参考になります。0歳児からの美術教育の視点を、現在の実技教科専門の内容学にどのように結びつけたらよいのか、そのあたりの視点をご教示いただければ、本当に参考になります。よろしくお願いいたします。

絵画メンバーの皆様、これからは「絵画」の方でも発言をしていくつもりですので、積極的なご参加よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/09 6:49 PM |

鳴門教育大学 山木朝彦先生
全委員、待望の書き込みを戴き本当にありがとうございます!
教科内容学は、正直、門外漢の私には…今回の様に先生の解説抜きでは理解し難いのですが…高い見識からの「教科内容学を支える研究者」として実技系教員という括りからの脱皮が求められているという表現は…よく理解できます。教育方法学に限定された「方法」の研究者という自己限定から自らを解き放ち、教科の内容、そして、教育課程のグランドデザイン迄を視野に入れるという高き構想を…とのご提言戴き、心新たにする気持ちです。グローバルに世界が繋がり情報が瞬時に地球を巡る時代、唯、研究室の中で自己の専門性を深め研究に没頭…片手間に自己の学科目範囲のみの授業をするだけの旧態依然とした教員であってはならないと自覚する処です。先生の教科教育の見地からの御意見は今迄の本ブログ論議にとって絶対に必要なのだと確信しました。今後共、積極的な御発言、そして御指導よろしくお願いいたします。

埼玉大学 小澤基弘先生
早速、この様な熱い想いがこもった書き込みを戴くと励みになります。おっしゃる通りだと思います。孤立した大学や学科目の中にのみ居る限り…比較する他者や相対的知見を得ることは不可能です。美術という教科を構成する「各学科目の相互の関係性」や崇高な教育意義としての「美術という教科の在るべき構造」も見えないでしょう。我々教員が…独り悩み苦悩し相談も激励も、又、時には反省も自己変革も無いまま…採用から定年を迎えることさえも有り得る、一般社会と比較して非常に特異な職場に我々は居るのでしょう。その意味に於いて、先生の冷静なる立ち位置の自覚の開示は刺激になります。画家と絵画を教える大学教員を比較した話…全く同感です。他の実技教員も小差同様でありましょう。先生ご提言の通り、教科専門と教科内容を統合する学としての美術に於ける教科内容学を確立する為に委員各位の力を結集し尽力して参りましょう。その根本に各部門に於ける各委員による闊達な論議、又、全体論議への積極的な参加…双方が大事になって来ると自覚する処です。その点は如何でしょうか?

皆様へ
実技教科の中でもデザインは「社会との関連で成立する造形行為」ですから…絵画・彫刻・工芸とは少々異なる見られ方をされてると私は感じています。つまり、純粋美術は自己の研究題目に研鑽し作品を制作して発表する価値をそのまま評価される…研鑽の価値=業績となりますが、大学教員のデザインが社会で評価され採用されることは(敢えて言うと…)不純な副業と蔑まれる傾向が常に伴っている…という矛盾です。勿論、絵画や彫刻が売れるという評価と…この差別は別個に存在します。そこで、私は一切の見返りや報酬の無い地球環境保護ポスターや企業との共同研究による大学自体や社会に還元されるデザインの存在意義を模索しています。長くなりそうなので…このフラストレーションは本ブログに於ける与えられた重要な責務に邁進するエネルギーとして温存しておきます。

山木先生、小澤先生の御陰でこれからの論議の視座が次第に見えて来たと感じます。教科教育は教科教育部門、絵画は絵画部門、デザインはデザイン部門で…各委員夫々の立ち位置の論議を尽くし自己の存在意義や教育意義を明確にしてこそ…始めて各委員の「個」は部会という「共同体」となり、それら部門の「個」は教科という「共同体」として認識されて行くことに繋がるのではないでしょうか。レッジョに見た「個」と「共同体」の双方へ向かって実践する美術教育の意義は我々の教科内容学の構造にも繋がる視点です。発言と対話、相互理解こそ本ブログ論議の革新的な試みです。

松浦委員長、学芸大学/石井先生、是非、ご発言下さい。
未だ全体論議に書き込みされて無い先生方も是非、論議に参加して下さい。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/09 5:29 PM |

(続き)

 翻って、現在の教育系実技教科専門の基礎研究の成果を鑑みるに、それがどこまでなされているでしょうか?美術教育内容学確立のためのこれがまさしく柱なのではないでしょうか?それがないまま、教科専門と教科教育をつなげる「認識の枠組み」を構築しようとしても、砂上の楼閣にしかなりえないと私には思われます。

 ものすごく地道な作業かもしれませんが、私が今必要だと思うことは、まず原点に立ち返って、既存の教科専門の柱(絵画・彫刻・デザイン・工芸・美術理論美術史)それぞれが、その基礎的研究の成果を、かたちとして構築し提起することだと思います。明文化する必要があると思います。現代において特徴的に見られるアートプロジェクト系の位置づけは、既存の柱の考察のなかで相対化されて位置づくと思います。それらを最初から「教育」と絡めて考えると、ものすごく事態は複雑になってしまい、「これはだめだなあ」ということにもなりかねません。実技系教員は、教科教育の教員と比して、教育への実感的理解は乏しいと思いますので、無理矢理それを自身の専門と絡めようとすると、無理が生じることは必然です。

 こうした各教科専門の基礎研究を進行しつつ、同時に教科教育研究の中で今現在何が問題とされ、いかなる研究が進行しているのか、その情報を随時何かしらのかたち(こうしたブログも有益な方法です)を通して得ていく、そして時々は相互に話し合い議論する場をもつこと、だと思います。そうした相互的話し合いと議論のなかから、両者をつなぐ何かしらの要素が垣間見えてくるのだと思います。それはあらかじめ設定するのではなく、あくまで研究と議論の過程で、自然的かつ必然的に浮上してくるものでしょう。そこではじめて真の教科内容学に向けての「認識の枠組み」が明らかになるのだと思います。

 私は何度も同じことしか言えません。今自分ができることをやるしかないと思っています。皆さんもそれは同じと思います。自分が大学で禄を食んでいる以上、大学教員として大学の美術教育に対して最低限何ができるか、それを素朴に果たしていければと思っております。

 山木先生のお話ですと、教科教育の中でもなかなかコンセンサスの確立が難しいとのこと、険しい道のりだと思いますが、一歩づつ進めていって、後進の方々につなげていければと思います。
 僭越ではありますが、同じ意見を繰り返させていただきました。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/09 9:02 AM |

鳴門教育大学 山木先生 及び皆様

 山木先生、ご無沙汰しております。ご意見拝読させていただきました。僭越ですが、感想と意見を述べさせていただきます。

 福本先生がお送りくださった論文からは、私は、教科内容学を教科専門の立場からどうとらえたらよいか、そのヒントを与えられました。長年私が志向していたことの背中を押してもらったという思いです。

 現在全国の教育系大学で実技を指導する教員のほとんど全ては、実技系大学(大学院修士及び博士)の出身者です。そこでの学びは、全てが実技、そしてそれに関わる若干の理論だと思います。つまり、教育に関わる問題は、まずほとんど学生時代に学ぶことはありません。つまり、教育への開眼は、教育系大学に教員として採用された後、必要にせまられてということになろうかと思います。多分、多くの実技系教員は、自身が制作者(あるいは作家)であるという自負があります。その自負がプラスに出る場合はよいのですが、マイナスに出る場合もあります。つまり、大学教員は作家を続けるための腰掛け、という考え方です。ですから、大学内では「自分は作家だからね」というスタンスになります。しかし、いったん外に出ると、「自分は〇○大学の教授です」と自己紹介します。内側では作家となり、外側では大学教員としてふるまう、その自己内分裂が、多分私を含めてかなりの教育系実技教員には存するのではないかと、自身の実感を込めて、思います。まずこの意識が大きな問題であり、これまで教科内容学を何度も志向されながらも、実現できなかった大きな障害ではないかと思います。

 私は大学に奉職してかなり早い時期から、自分を「学者画家」として位置付けてきました。つまり、大学で「絵画」を専門に研究する立場の人間というスタンスです。もちろん「制作」がすべての根底にあります。それなくして絵画を指導することはできません。しかし、そこで終わっては、それは市井の画家という立場となります。市井の画家たちは、筆一本で生きています。つまり、生活はリスクに満ちています。そのリスクを了解しながら彼らは生きているわけで、彼らには自身を「画家」と称するだけの資格があります。他方、私たち大学教員は、確かに制作をベースとしてはいますが、生活は大学によって守られています。ですから、作品はたとえ売れなくても最低限の生活は保障されます。つまり、筆だけで生きている画家たちに比して、その意味でのリスクはありません。ですから、私たちはあくまで「大学教員」なのであって、「画家」ではありません。これは基本的なスタンスだと思います。「大学教員」なのですから、制作をベースとしつつ、+α、つまり自身の制作から導き出される「考え方」や「教育への視点」を、実技以外の手段を通して、同時に志向するべき立場であることは言うまでもないことだと思います。それはもちろん講義や授業であり、そして論文や著作を通しての構造化・体系化です。

 こういう当たり前の事を、各実技系教員が認識し、行動に移していれば、各教科専門の基礎的研究、基礎的ディシプリンは、そこから容易に導き出せるはずです。もちろん教員の制作観はそれぞれ異なるはずですから、そこに激論が生ずることは必至ですが、その議論の果に抽出される体系は、まさしくその分野の基礎研究のエッセンスたり得ます。(続く)
| 小澤基弘 | 2009/07/09 8:55 AM |

みなさまへ
全体議論が熱く展開されているにもかかわらず、積極的な関係の構築を図らないままでまいりましたこと、申し訳なく存じます。意図的な沈黙ではなく、なかなか縄跳びの縄に足を掬われずに議論に入るのが難しいなあと感じながら、今日に至りました。つまり、タイミングを逃してしまったというのが正直なところです。従いまして、必ずしも皆さまの建設的な議論に寄与する速度でココに加われないことをお許しください。
 さて、ここまでの議論を読ませていただき、勝手ではありますが、引用の形で、論点の整理をさせて頂きますと、次のようなお言葉が論点を焦点化する枠組みとなるのではないかと思います。
 時系列で掲げます。
・5月8日 松浦先生の言葉
「・・・教科教育分野の先生方にお伺いします。先生方が今までの議論に参加されなかったのは、最近、兵庫教育大学の福本先生、鳴門教育大学の山木先生らが出版された『教育実践から捉える教員養成のための教科内容学研究』等といったように、教科教育分野では教科内容学の研究が充分に成されているので、教科専門分野の検討を見守っていると解釈していいでしょうか・・・」

 すでに認識深化の過程で、誤解は払拭されたものと思いますが、けっして教科内容学の研究は満足できる水準まで検討されておらず、同時に研究されていません。福本先生がメール添付にて送ってくださった著作からの抜粋(論文)は、教科内容学という考え方がどのような歴史的背景をもって登場したか。そして、その概念の意味が教科専門という表現とどこが異なるのかといった、いわば【前提】について、相互に理解を深めるために最適な文献なのです。つまり、わたしたちが議論を行い深めるための共通の地平を用意したいという福本先生の願いが、あの添付論文の背景にあるわけです。したがいまして、その内容は前提を確実に把握する目的に適うものではありますが、それをもって教科教育での内容学に関する検討が十分に成されているとは言えません。この点、みなさまにご理解いただきたいのです。(「 」以降は山木の意見/以下同様)

・6月26日 小澤先生の言葉
「・・・統合科学がひとつの確立したディシプリン(研究分野,専門科目)としての体系を構築するには、基礎的研究と教科教育研究を横断する新たな教科内容の「学」を成り立たせている認識の枠組みが不可欠である。もちろんこの認識の枠組は学習指導要領における各教科の目標ではない。その目標を成り立たせている認識の枠組である。[改行]以上を読み解くと、教科内容学とは教科専門の基礎(的)研究と、教科教育(応用)研究との統合学であり、それが体系的構造を有するためには、この両者をつなぐ「新たな教科内容の学」を成り立たせるための「認識の枠組み」が不可欠ということになります。つまり、美術において教科内容学を確立するためには、各教科専門の基礎研究と、美術科教育研究、そしてそれをどうつなぐかという「認識の枠組み」という、3つの観点を、整理して考えていかねばならないということになろうかと思います。」

 研究成果をまとめた私たち[連名:福本/奥村の3名]以上に、正確かつ鋭利に分析していただき、感謝しております。小澤先生に読み解いていただいたとおり、従来の教科専門=教科内容ということではなく、―つまり、読み替えではなく―教科専門という従来の考え方から、「教科内容学を支える研究者」として、(先生方が好きか嫌いかは別にして・・・)実技系教員という括りからの脱皮が求められているということなのではないでしょうか。このあたりの認識は、かなり論争的な要素を含むので、けっして感情的にならずにクールに検討する必要があるでしょう。それでは、教科教育にとって、教科内容学の議論は、どのようなアイデンティティー獲得の場になるのかと申しますと・・・・、これがまた教科教育内でもコンセンサスに簡単にたどり着けるとも思えないのですが・・・・教育方法学に限定された「方法」の研究者という自己限定から自らを解き放ち、教科の内容、そして、教育課程のグランドデザインまでをも、各ジャンルの先生方と共に計画立案する、教科内容学+方法学の研究者へと自己刷新する契機として捉える場に位置しているといえるでしょう。
 そのとき、この議論を意味あるものにしていくためには、小澤先生が言及された「ディシプリンと体系」という考え方を皆で共有する必要があると思います。

| 山木朝彦 | 2009/07/08 9:36 PM |

埼玉大学 小澤先生 皆様へ
昨日の書き込みに訂正があります…すみません。
(誤)川崎市も図工美術を含めた音楽体育の全実技試験を無くすと発表しています。
(正)川崎市は音楽体育の実技試験を無くすと発表しています。
現在、担当している実技対策講座で川崎市の採用試験を受ける学生が居て…はて?と気付きました。ですから川崎市は無くなるのは音楽実技と体育実技で美術実技試験は無くなっていません。出題傾向は試験場学内の「野外風景鉛筆写生」現在は教室内で積み上げた段ボール箱や窓辺等、床、壁、天井等、身近な対象から透視空間を徹底して描かせ…徐々に野外を描かせるように指導をしています。

鹿児島大学 彫刻部門 池川先生
本当にずっと書き込みをお待ちしておりました。御多忙中、ありがとうございます!
目が見えない鑑賞者に彫刻を手で自由に触られる展示は…私が大学生の頃(今から30年程前)横浜市民ギャラリーで「アルプ展」があり…私は美術館の展示作品には絶対に手を触れないという常識を覆えされた強烈な印象がありました。ちょうど盲学校の生徒さん達が会場に来ておられ…アルプのあの生命感溢れる作品を『嬉しそうに触って鑑賞』していました。係の人に尋ねると…勿論、目の見える方も手で触って鑑賞してよいと言われ、触っている内に自然と目が閉じて来て…アルプが作品を製作中に感じていた何かを直に自分の手で触って鑑賞した経験は忘れることはできません。
この話は、先の全体論議の宴会の二次会の折、学会事務局の武蔵野美術大学/三澤先生にお話しした処、大変、感動され意気投合したのが嬉しかったです。彫刻とは、触覚という人間にとって最も根源的な感覚に属する極めて重要な美術領域です。今後の彫刻領域の闊達な進展に熱いエールを送ります!

横浜国立大学 渡辺邦夫

PS.鳴門教育大学/教科教育/山木先生、書き込み…本当にお待ちしております。
| 渡辺邦夫 | 2009/07/08 10:38 AM |

埼玉大学 小澤先生

採用試験講習関連の書き込みを戴きありがとうございます。
今迄の議論に対して本件を余談と言いましたが…実は教員採用率に直接関係する、ひいて言えば我々の所属組織自体の存続に係る重要な問題でありましょう。本学では教員採用試験を受験する学生(学校教育課程全専攻)達への就職支援委員会によるキャリアアップ講座という就職への特講が毎週水曜日、教授会の裏番組として開講されています。教育委員会指導主事の先生方、ヤンキー先生/義家弘介氏、狂言師/野村萬斎氏、全日本女子バレボール元監督/柳本晶一氏等を特別講師に招いて…教師という職業、人とコミュニケーション、理想の指導者像、等の教師や就職を目指す学生達の意識を高める為のプログラムが毎年、工夫されています。勿論、小論文指導、集団面接、個人面接等への対策も行われており、実技講習指導はその中に位置し…音楽/美術/体育の3実技教科に委員会から依頼される形で実施されています。先の書き込みの通り各教育委員会により実技内容課題傾向時間等な夫々に異なりますから…小グループによる特訓形式で行わねばなりません。例えば…長野/小では学科試験の中に含まれる短時間の「クロッキー」、沖縄県他多くは「鉛筆デッサン」昨年は想定による石膏の円柱、神奈川県他/小中では「鉛筆デッサン+着彩」モチーフは手や簡単な器物等、東京都は特殊で「色鉛筆画」モチーフは複数からの任意選択で自分で組み合わせる、それらの事件時間は概ね90分前後です。高校では各県教共に多くは「鉛筆淡彩」90分等の他に「平面構成+立体構成」90分「「提出作品」等が課されます。例えば静岡県ではテーマ「家族」で平面又は立体作品。平面ならB3程度の油彩か水彩画、又は50cm立法内の立体作品を持ち込み審査されます。静岡は紙粘土で立体構成の試験をしますが…県教によっては水粘土或は油土でモチーフは握り拳等、様々です。本学は地元神奈川県出身は1割程度で、全国各地から学生が来ており、その為、実技試験内容や傾向が異なり…実技同時指導が毎年大変なのです。授業の合間を縫って毎週火曜日午後に行っていますが…提出課題や試験日が迫れば土日も関係無く学生の要望に答える個人指導を行っています。まるで予備校時代の様に…初心者も鉛筆の削り方から説明、卵〜林檎〜立法体〜手で持って等へ勘所を抑えつつ急速に上達させ、最終的に徐々に試験時間内で描ける様にタイマーを作動して描く早さを体得させます。勿論、火曜日午後遅く迄、残れる者は残って描かせ…授業が終わってからも指導します。又、宿題も出して毎週、各自のスケッチブック持参させて指導します。試験日が迫ると土日であっても特訓をします。
本件ですが…引き続き皆様の大学では…どの教科の先生が担当、どんな対策をされているのでしょうか?

委員の皆様へ

本件を別の観点から考察しますと…
既に一昨年、実技試験を無くした横浜市/小、次いで小澤先生の情報で今年から埼玉県/小も同様に実技試験が無くなり…Web情報を調べると川崎市も図工美術を含めた音楽体育の全実技試験を無くすと発表しています。理由は…昨年2.1倍という倍率からの脱却「より受験し易いように志願者へ配慮」とのことです。この様な傾向は教員試験の倍率確保や試験実施側の効率化に寄与するとしても…単なる応募の人集めの処方箋的な方策であり、ひいては教員の資質劣化に繋がるのは否めないのではないでしょうか。勿論、小学校図工科の教諭全てに迫真の描写力を求める必要は無く…実技試験を廃止しても…児童に造形する楽しさ喜びをしっかりと教育できる能力が採用者に全て備わっていれば良いのでしょうが。。。
各地で広がる実技試験廃止の傾向は、我々が日々懸命に努力している美術実技能力の研鑽と教育とは…正に真逆の方向に向かう実技教科=美術の軽視ではないのか…と私は感じています。

皆様の地域では如何でしょうか。又、その傾向へのご意見は如何でしょうか?

勿論、レッジョ議論「0歳児からの美術教育の可能性」は平行して進行中です。
各県教委による実技試験の軽視についても…皆様からご意見お願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫

PS.鳴門教育大学/教科教育/山木先生、書き込み…心からお待ちしております。
| 渡辺邦夫 | 2009/07/07 3:03 PM |

横浜国大 渡辺先生

 採用試験講習お疲れ様でした。埼玉大学では、特別に担当を決めておりません。公的にはそうした講習会は開かれておりません。昨年までは、私は、個人的に他専修の学生でデッサンを習いたいという希望の学生に対して随時指導しておりました。ただ、埼玉県では、昨年度から小学校採用試験で、デッサンが試験からなくなってしまい、講習の必要性がなくなってしまいました。今年は、体育の学生が一人、神奈川の採用試験を受けるために、私のところにきてます。手のデッサンを指導しています。埼玉大学では、こういう状況です。他の先生方も個人的に指導されているのでは、と思います。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/05 8:23 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

小澤先生 早速に私見へ賛同との書き込みを戴きありがとうございます。美術や芸術に於ける「個」と「共同体」の双方へ向かって実践する美術教育の意義を見出すことは出来る筈です。先生もおっしゃる通り「美術教育を考えること」は…つまり個人と共同体の双方の質的向上に資する崇高な職責であるという自覚を我々は持つべきではないでしょうか。
ここ迄、我々は「絵画とは何か?」「デザインとは何か?」と自己の担当する学科目の意義、自己の立ち位置を見詰め直し…様々に論議を重ねて来ました。その論議の究極に「美術とは何か?芸術とは何か?人間とは何か?」という問いが在ることは…既に明らかです。レッジョの幼児教育の革新性を見詰めた時、浮かび上がって来た「個」と「共同体」の双方が関連し往還することの価値=造形教育の価値を「個人」と「社会」という視座に照らして見詰め直す時、我々の今迄の教育知見の最善は…果たして最善であったのかという問いに至る筈だと感じています。道程は長いものでありましょう。しかし本取り組みは必ずや価値あるもであると私は信じます。

デザイン部会は幸いなことに…先の会議で一同に介したことで…全くの初対面という関係を超えた相互の呼び掛けや自然な対話としての本体ブログの形が出来つつあると感じています。あまり私ばかりが書き込んでも仕方が無いので…内藤先生の八重樫先生、前田先生への呼び掛けを含む書き込みを尊重し…デザイン部会は敢えて暫くそっとして展開に期待しています。

本責務で常に気になっている彫刻部会への書き込みが…未だに無く残念です。
鹿児島大学/彫刻部会代表/池川 直 先生、如何でしょうか。書き込みお待ちしております。
同様になかなか書き込みの増えない美術史・美術理論、美術科教育部会についても…当然のことながら、書き込み数はどんどん差が広がってしまい、我々ばかりが勝手に論議を進めてしまって良いものかと…躊躇困惑する気持ちも正直ございます。
幸い私の呼び掛けに対して、鳴門教育大学/教科教育/山木先生より…週明け早々に全体論議に書き込みをするとの御連絡を戴き心躍る気持ちです。ようやく教科内容と教科教育の対話が始まると期待しております。お待ちしたいと思います。

勿論、順を待たず…松浦委員長、皆様の闊達なご意見をお願いいたします。

余談ですが…昨日今日と土日なのに…教員採用試験を受験する学生(美術教育講座に限らない)達への実技講習指導職務で…各教育委員会の過去問に則した「クロッキー」「鉛筆デッサン」「鉛筆淡彩」「色鉛筆画」「立体構成」「提出作品」の夫々指導があり大学に来ています。数名ずつ受ける県教により課題が異なる内容を同時に指導するので…毎年大変です。
本学では何故か私がずっと担当していますが…教員採用試験用実技講習は皆様の大学ではどの教科の先生が担当されているのでしょうか?

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/05 5:33 PM |

横浜国大 渡辺先生

ご無沙汰しております。デザイン分野の日々の活発な議論、拝読しつつ、先生方のネットワークの緊密さと議論への熱意に、頭の下がる思いです。

個と共同体についての渡辺先生のお考えは、全くその通りと思います。個の追及で得られた知恵、それが他者そして社会へと普遍していくという図式、またそれがまた個へと往還するという図のイメージ、それが美術の機能と言えるでしょう。「美術教育を考えること」は、つまりは共同体の質的向上に資することだという、高遠な理想を抱くべきだと思います。教科内容学への認識の枠組みは、まさしく個の問題と共同体の問題、その往還にこそあると言えると思います。

先の兵庫教育大学の福本先生がお送りくださった教科内容学の論文について、教科専門と教科教育を、基礎と応用としてとらえなおしたのは、私ではありません。そこに書いてあった言葉をそのまま要約しました。大きく言えば、基礎と応用と言えるかもしれませんが、教育を応用としてとらえるのは、美術の世界ではやはり少し違和感があると私は考えています。

渡辺先生もご指摘の通り、どちらが基礎でもどちらが応用でもなく、教科専門と教科教育は平たい関係だと思います。そこをつなごうとする努力は、これまでもなされてきていると思いますが、具体的な成果という形では、まだ顕在化していません。しかし、潜在的に、こうしたブログの力、あるいは今後刊行されるであろう書籍において、明文化された形で表に出てくるものと思っております。実技を中心とした教科専門の教員の強みは、やはり実技体験だと思っています。特に数少ない教科専門の教員の実技力、その体験の豊かさは、やはり手前味噌かもしれませんが、自信と誇りを持ってもいいのだと思っております。ですから、常にその視点からの発言であるべきですし、そこを核にしての教育への言及が一番自然体であると思っております。常にそこに立ち位置を置いて、「0歳児からの美術教育」等の、内容学を構築するための認識の枠組みを考察していくべきなのだと思っております。

絵画の他のメンバーの先生方からなかなか発言がなく、議論が展開していかないことは、残念です。やはり絵画、そして彫刻は、問題がどうしても「個」のなかに強固にありますから、こうした議論にはある程度の覚悟をして臨まねばならないのだと思います。私は0型気質で、とても雑な人間なので、あまり人がどう思うかを考えないで発言しております。ですから、失礼な言い方をしているかもしれませんが、ご容赦ください。

ブログは定期的に拝読しておりますので、折にふれて発言させていただければと思います。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/07/01 10:57 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

松浦先生 そうですか…レッジョの番組中で東京大学/秋田喜代美さんが分析的に述べていた3D(Design、Document、Discussion)は確かに全てDで始まる語で纏められ本教育の特性についての明快な解説です。唯、私と石井先生、更に小澤先生の書き込みに共通する論点は…「個」と「共同体」という識別認識の論点、美術という造形活動自体が元々その特性とする造形行為の特殊性について焦点をあてた視座です。絵や工作の造形活動の中に存在する「個」と「共同体」を相互に関連するものとしてレッジョでは3Dが実践されており…その教育の核に有るのが「人間とは何か」という創造や芸術の究極の到達点としての「芸術家の個の存在」であり、一方では広義な造形行為としての「生きる楽しみ」としての「市民の幸せの為の美術の存在」と考えては如何でしょうか?
「個」の造形活動の極に「芸術家」があり…「共同体」そのものが生活の中に持つ造形活動に「市民の芸術理解」が成立し、「美術による生涯教育」がある。それらの「個」と「共同体」は、相互に連携し相互に響き合い高め合い…共存する。
「個」を認め理解できる教養や体験を経て成り立つ「共同体」…その「共同体」が社会を構築しているという構図を考えるなら…美術や芸術に於ける「個」と「共同体」の双方へ向かって実践する美術教育の意義を見出すことが出来るのではないでしょうか。

小澤先生 お久しぶりです。先の会議での再会叶わず…又、秋の愛知大会での再会も叶わずとのこと…非常に残念です。先攻研究である兵庫教育大学の福本先生送付の「教育実践から捉える教員養成のための教科内容学研究」(風間書房)2009年刊行の第1章「教員養成としての教科内容学(教科専門)研究の歴史」…私如き実技馬鹿には全く難しい文章を…頭脳明晰、一刀両断、要約して下さり有り難く思います。ご指摘の通り、教科専門と教科内容=実技と理論の双方の研究を横断し或は総合するのが…教科内容の「学」を成立する枠組みとなりましょう。唯、私は…教科専門を基礎(的)研究、教科教育(応用)研究と読み解かれた考え…に対して異なる考えがあります。教科専門と教科内容は…今迄、分かれて存在、或は互いに口出ししない暗黙の了解の上に共存していただけで…教科専門と教科内容は「どちらも…双方の基礎にも応用にも成り得るのではないか」という考えです。唯、小澤先生も指摘される様に…3つ目の観点、教科専門と教科内容を「どのようにして繋ぐべきか」という点が最重要であると捉えるのは全く同感です。我々委員の責務は正に此処に希求するのではないでしょうか。美術学科目が…絵画/彫刻/工芸/構成(デザイン)/美術理論・美術史/美術科教育と6つ「個」で存在…互いが互いを必要とするのに…唯、並列し…互いの学科目領域への越境発言や意見も無く…教科としての「共同体」であるのに相互に連携共存する意義目的について論議する機会に欠けていたように私は感じるのです。私に誤解や認識の誤りがあったら指摘して下さい。如何でしょうか?

幼少期から老年に至る迄、美術は…人間の発達や感性に於ける美の喜びを享受できる最も生活に密接な教養=学問である筈です。その事は文化的に成熟した欧州の芸術大国や工芸が生活の中に生きる北欧に於いて顕著です。日本は効率や数値的経済効果しか考えられない経済立国的視座しか持てない国と感じるのは私だけでは無いと思います。
製品を工場で作って売り稼いだ金は世界一高い土地や住宅の借金返済で消え…働き蜂の定年退職後には無趣味無益な老後が残り…共働き兼業を強いる賃金体系が子供達の学費、自分の医療費や年金すら破綻…この国は『人として何が幸せなのかという根本的思想=ビジョン』を見失っていると私は感じています。一昨年の欧州視察により悲しい事に…この感覚は更に強い実感となりました。農業や林業といった国を根幹で支える仕事を蔑ろにして…世界中から自国に無い資源を掻き集め製品を作って売り食材をかき集め食べる国=日本、その経済最優先の国家存亡の仕組みの片棒を…実は「デザインが背負って来た功罪」があるのも事実です。この点は長くなるので…又、別の機会にしたいと思います。

あまりに感覚的な発言になってしまいましたが…論旨を纏めますと…
教科内容学として、夫々の学科目が…「個」と「共同体」として如何に有るべきなのか?

是非、此処で…愛知大会パネラー/鳴門教育大学/教科教育/山木先生に全体論議に発言を戴きたく思います。

勿論、松浦委員長、皆様の闊達なご意見をお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/07/01 9:45 PM |

金沢大学の松浦です。


 石井先生が私に意見を求められましたので、今、考えていることを簡潔に述べたいと思います。
 全体議論がなかなか進みませんが、0歳児からの美術教育、(美術教育と呼べるのかとの指摘もありますが)しかし、検証されていませんので、(検証中かもしれませんが)議論が難しいのは当然かもしれません。ただ、私は最近の脳科学を通しての0歳児教育の報告や革新的な心理学者の美術教育の早期実施論から0歳児からの美術教育は可能だと思っています。
 レッジョの幼児教育のテープを見ただけでは0歳児から美術教育が有効であるとは言えませんが、3歳児以上の美術教育は明らかに有効だと思いますが、その同じテープ、私は石井先生の研究室で眠い眼をこすりながら見たのですが、印象に残っているところが、石井先生や横浜国大の渡辺先生とは違っていました。
 私がレッジョの美術教育で印象に残っているのは、教育のシステムです。教員の計画性(design)、作品の記録(document)、そして教員含めたスタッフと父母との討論(discussion)の3Dと呼ばれているものです。そして、彼ら彼女らが制作されている内容は今まで美術教育の発達段階における表現を超えているのではと直感的に思いました。レッジョの美術教育を詳しく調査したい思いに駆られました。
 ところで、昨日、日本教育大学協会の評議員会総会が開催され、その60周年記念シンポジウムとして東京大学教育学部から教員養成系学部・大学に提案が示されました。どうして日本教育大学協会60周年のシンポジウムに、東京大学教育学部の提案なのかと誰でもが疑問に思われるでしょう。
 司会者から1.今までの教員養成のあり方を見直す、2.日本教育大学協会のあり方を考える機会として、と説明がありましたが、その2つはまず教大協評議員会で議論されるべき問題と思いました。その講師としてレッジョの美術教育を紹介された佐藤学教授は、教員養成学部・大学の戦前・戦後の歴史から「教師教育と研究教育が別々で行われてきたことが異常事態である。」と、今の教員養成系学部・大学は欧米の教員養成学部・大学と比べると教師教育に偏っていると指摘された。また、日本教育大学協会が発足した時は東大や京大、名大等旧帝大の教育学部も加盟することが前提であったが、その時の教員養成に対する考え方が、学芸大系のリベラルアーツ派、師範学校系の教師教育派、そして旧帝大の研究教育派に分裂していて今日に至っていると分析された。
 直面する2つの課題として、1.教師教育の高度化 2.教職の専門職化と指摘され説明されたが、聞いていて、美術教育として2つの課題に応えるひとつとして、今、議論し考えようとしている教科内容学ではないかと思いました。
 レッジョの美術教育について質問したかったのですが、そんな雰囲気ではなかったので、やめました。
 石井先生のお考えのように、広い視点から0歳児教育をかんがえましょう。レッジョに調査行きたいですね。科研費とれないでしょうか。
| 松浦 昇 | 2009/06/30 12:28 PM |

学芸大学 石井先生

 先生のご提言、「個」から発して「0歳児までの美術教育」へと展開していくストーリーは、壮大ですが、最も私には説得力があります。石井先生はじめ、福島大学の渡邊先生然り、実際に0歳児からの美術教育を幼児とともに体験し、それぞれに実感をもってみえるわけで、そのような先生方の成果を、是非とも共有させていただければ、幸いです。
 「個」からの問題は、制作に関わる人間としては、当たり前の問題であり、特段そこを焦点化する必要は無いように一見思えます、が、それを明文化したり、他者に伝わるように言説化したりしているかといえば、それは実に稀です。あくまで感覚やフィーリングとして、主観的言語の領域だけで、事は済まされているように思えます。そのあたりを、恥ずかしさを度外視して、一度さらけ出して行く必要があると思います。その経緯の中で、自身の過去(つまり幼児だった頃から今日まで)の美術との関わりの経緯が、想起され、実感されていくように思います。確かに今現在、幼児と現実的にふれあい、客観的に彼ら彼女らの活動と心的状態の相関を検証していくこともまた、重要です。自身の主観的体験と、こうした客観的観察に基づく気づきの両面から、内容学は立ち上がってくるのではと考えます。

つまり、教科の専門性の構造と体系化、教科教育学の構造と体系化、そしてその両者をつなぐ「認識の枠組みとしての諸観点(発達段階と教育との相関、制作学的視点、等々この諸点を更に抽出する必要あり)」、この三者をきちんと整理しつつ、議論を進めていけば、具体的な内容学の全貌が見えて来るのではと考えます。

本当に申し訳ありませんが、今度の学会の時期、私は新潟大学教育学部の主催する「西区DEアートプロジェクト」への招待作家として、作品の展示とオープニングに出席しなければなりません。この予定は既に随分以前から決まっており、つい先日、学会が全くこれと同じ日に開催されることを知りました。全くピンポイントでブッキングしていました。ですから、福島大学の渡邊先生に、シンポジウムのパネリストを代わっていただきました(渡邊先生、ありがとうございます)。ですから、次の会にも私は出席できません。石井先生はじめ、他の先生には本当に申し訳ない気持ちで一杯です。公的な場で発言できませんが、このブログ、そして時間があれば、一度お会いして、議論を進めれいければと思っております。絵画分野については、事前に渡邊先生と話す機会をもち、考えを整理して、ブログ等でご提案していければと思います。もちろん、他の絵画のメンバーの先生方のご意見も、ブログ上で積極的に交換できれば幸いです。

取り急ぎ、石井先生のご発言に対して、感謝を込めつつ。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/06/29 9:31 AM |

学大の石井です。

 小沢先生お久しぶりです。福本先生の内容学成立趣旨の再整理大変分かりやすく、私の中にもすっと落ちてきて為になりました。有り難うございます。
 その後の小沢先生ご自身のご意見、そのご趣旨に私なりに沿ったコトを「人間側(自己)から考える美術、、」などと6/13に発言しておきました。やはり、当日小沢先生にいらして頂きたかったですね。その方が話しが早かったと悔やまれます。
 6/13の後日、松浦委員長より6歳以下の経験があるとの理由にて「全体議論」の場で「レッジョ、、」を題材に福島大学・渡邊先生をご相手に勢いをつけていくという命を受けておりましたが、進行進まず、横国・渡辺先生が「レッジョ、、」ご視聴を聞きつけ、ご感想をコメント願ったところでした。
 横国・渡辺先生、ご要旨まで付けて頂き有り難うございました。渡辺先生が、レッジョ・エミリア市教育局教育主事の言葉を特筆されたのはたんなる偶然では無い様に思えます。ビデオの中に「ある共同体の中の個人は、その共同体に『従属』しているとは限りません。人は共同体に入っても『自由』で居られるのです。独立性と共同体が混じり合うことが大切なのです。」とあります。これは『個人と共同体』の関わりの事で、それは『自己と世界(外界)』と置き換える事は易く、むしろ私達「教科専門」の実際表現者として何らかの制作活動をしてきた人間には馴染みあることで、それは製作中根底に流れる『自己とは何か』という自問自答だったり、自己と言う個を社会と言う世界に働きかける「発表」だったり、それこそが「教科専門」が胸を張って提示出来る研究の内容だと私も考えます。
 「0歳児からの美術教育」は下の0歳からはじめられれば議論進行上綺麗ですが、今一度、『人間側(自己)から考える美術』から議論を広げて、結果的に0歳・生涯にまで到達する事を念頭にされては如何でしょうか?

如何でしょう? 松浦委員長、そして皆様。


(散々考え、書き換えた上にこの短文、申し訳ありません。)
| 石井壽郎 | 2009/06/28 11:30 PM |

皆様

 一昨日、兵庫教育大学の福本先生から送られてきた、西園芳信、増井光夫編著「教育実践から捉える教員養成のための教科内容学研究」(風間書房)2009年刊行の第1章「教員養成としての教科内容学(教科専門)研究の歴史」を読ませていただきました。これを読んで初めて、教科内容学とは何を射程にした学なのか、自分なりに理解できました。整理すると次のようになると考えます(以下抜粋の要約)。

_教科内容学は教科専門と教科教育のモザイク的総合ではなく,両者を統合した科学(Integration of Sciences)であり、その統合科学の構築は,これまでの基礎研究(basic research)と応用研究(applied research)という日本に独特な二分法的分類が「学術の進歩をゆがめてきた」という認識にもとづいている。
_大方の教員養成大学・学部では教科専門を基礎(的)研究と同義で使用しているが,この使用法は正確な研究分類ではない。ただしここでは論述の都合で従来の用語を使用する。すなわち,教科専門諸科学を「基礎的」研究,そして教科教育研究は応用研究とし,研究を「学」として使用する。
_教科内容学は,基礎的研究と教科教育研究の成果を教育実践に適合させる研究であり,教科専門諸科学と教科教育科学を統合した新しい専門研究=学とならなければならない。基礎的研究は非実践的,教科教育は実践的という旧い殻に閉じこもった思考は転換されなければならない。
_統合科学がひとつの確立したディシプリン(研究分野,専門科目)としての体系を構築するには、基礎的研究と教科教育研究を横断する新たな教科内容の「学」を成り立たせている認識の枠組みが不可欠である。もちろんこの認識の枠組は学習指導要領における各教科の目標ではない。その目標を成り立たせている認識の枠組である。

以上を読み解くと、教科内容学とは教科専門の基礎(的)研究と、教科教育(応用)研究との統合学であり、それが体系的構造を有するためには、この両者をつなぐ「新たな教科内容の学」を成り立たせるための「認識の枠組み」が不可欠ということになります。つまり、美術において教科内容学を確立するためには、各教科専門の基礎研究と、美術科教育研究、そしてそれをどうつなぐかという「認識の枠組み」という、3つの観点を、整理して考えていかねばならないということになろうかと思います。

 おそらく、このブログを拝読していても、先生方の活発な各専門(特にデザイン・工芸)についての研究はとても充実したものがあると思います。美術科教育学の先生方もこのブルグでのご発言は殆どみられませんが、その研究は様々な媒体を通して充実したものであることは明らかです。
そうすると今一番何が必要かと言えば、やはりこの両者をつなぐ「認識の枠組み」だと思います。6月13日の会議において、「0歳児からの美術教育」という観点が提起されましたが、それをこの「認識の枠組み」として考えることは妥当であるとしても、その観点一つだけで十全足りえるかということを、考えなければならないのではないかと思います。「認識の枠組み」の一観点としての「0歳児からの美術教育」ということになろうかと思います。ただ、一絵画教員である私にとって、この観点は私自身に対して実感を伴った「認識の枠組み」とは、残念ながら、なかなかなり得ません。この観点一つだけであるとすれば、私はこの枠組みを深めていくだけの素養も経験もない人間だと思います。
美術教育を0歳児から巨視的に俯瞰して捉えることも重要だとは思います、が、やはり美術表現を自己の内的問題として捉えるという視点も、同時に考える必要があるのではないかと考えます。つまり、学生が自分自身の問題を美術を通して明確化し解決していくという視点です。そのような「自己を知る」術としての美術の役割や機能を実感するということが、究極的に、他者を知ることにつながるのではないでしょうか。それはそのまま教育の問題へと還元され得ます。他者とは、同年代の他者ということもありますし、広く「人間というもの」を知るということにもなれば、必然的に0歳児からの教育も射程に入ってくるのではと思います。美術教育に対する巨視的視点(0歳児からの美術教)と同時に、微視的視点(自分自身の内側を知ること)もまた「認識の枠組み」を考えるに際して、特に美術においては、絶対に逃してはならない問題と考えます。
 
 兵庫教育大学の福本先生からの資料を読んで、以上のような感想を抱くと共に、実感を語らせていただきました。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/06/26 3:00 PM |

横浜国立大学の渡辺です。続きです。

私はこのビデオを見て…理想的な造形する環境=場を与えることの重要性に胸打たれました。教師のみならず親達や市民が幼児教育に為に共同体として機能しているのです。松浦委員長が提唱する『0歳児からの美術教育の可能性』を…このドキュメンタリーの中に多大なる可能性として見ることができます。とても勉強になりました。
親であれば誰でも…産まれた子供が素晴らしい想像力や可能性を持っていることを知っています。しかし、現在の画一化された教育システムの中で…それらの才能が生み出す他者と異なる産物は大抵の場合、削り取られ…均一で他者と同じ様な価値観の中で養成される様に消滅して行く経緯を何度も見たことでしょう。石井先生が既に述べている様に…あらゆる先進的な教育論やそのシステムを日本に導入しようと試みても根付かない…という地域差の問題は勿論あると思います。唯、私が以前の書き込みで感覚的に述べたように…子供達は次代を支える大切な苗であると捉える精神が…レッジョには息づいてると感じました。教師は教育の場がどうあるべきかを先ず思考し、教育の場を造ることが教育の第一歩でありましょう。

特筆したいのは…レッジョ・エミリア市教育局指導主事/セルジョ・スッパジャーリ氏の言葉です。
「これ迄のヨーロッパ文化は…『個人の独立性』と『共同体』を分けて考えて来た。私はこの2つのコンセプトを『対立する概念』に捉えていません。」「ある共同体の中の個人は、その共同体に『従属』しているとは限りません。人は共同体に入っても『自由』で居られるのです。独立性と共同体が混じり合うことが大切なのです。」「子供達の『自由な思考』『自由な行動』『自由なアイデア』は…共同体にとってとても重要で大きな価値を生みます。」「子供は家族だけでも生きて行けない。家族にとっても…他の家族は重要です。」「人は『他者との出会い』『他者との対話』によって…始めて成長できるのです。」
正に本ブログ論議にも当てはまる…価値ある言葉だと思います。石井先生、ありがとうごさいました。

日本の教育の現状を考えた時…経済最優先の企業の働き蜂を均一画一的に養成し、美術を周辺教科として追いやり無用教科としてて来たこれ迄の経緯が誠に悲しい現実として迫って来ます。自由にさせると集団でも別々に携帯でゲームや暇つぶしをする子供達に…美術の楽しさ素晴らしさを幼い頃から伝えなければならいと感じるのは私だけでは無いでしょう。

芸術立国、デザイン立国等、先進各国は芸術面の社会に齎す価値を知っています。イタリアがルネサンス期から芸術の国であることは誰でも知っています。芸術家のみならず市民の美を生活を支えて来た職人が価値を讃えたる職能として今も厳然と存在しているからです。日本の今と比較し美に生きる価値を再考したいものです。遊び_学び、喜び_幸せ、個人_共同体のベクトルは相互の関係にに於いて響き合い大きな価値を生み…人を社会を幸せな方向に導くのです。

我々の意思を結集し…美術で国を良い方向に変える活動を成し得れば…と切に願います。
継続して皆様の…関連ご意見等、よろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/06/26 2:59 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

レッジョ・エミリア市の挑戦/東京大学 佐藤 学、秋田喜代美(小学館教育ビデオ)ISBN4-09-905216-8 見ました。
学芸大学/石井先生より感想を全体論議へとの要請がありましたので…書いてみます。
前提として…既視聴、未視聴で全く文面から感じる事が異なってしまうと思いますので…未だご覧になっておられない方にも考慮し内容要旨から始めたいと思います。

(要旨)
レッジョ・エミリア市はイタリア北部、人口14万人の小さな街…その街の行う幼児教育の世界で最も前衛的な活動が注目されている。レッジョ・エミリア市はデンマークグレコ賞、シカゴコール財団賞、アンデルセン賞等を受賞し高い評価を得た。本来、幼い子供が持つ自由な想像力を如何にして美術教育によって伸ばすか。レッジョでは0〜2歳児の乳児保育所を13カ所、3〜6歳の幼児学校を21カ所設置し…中央にパティオを持ち、その周囲に年齢毎複数のアトリエを持つ施設にふんだんな画材や造形素材を揃え、子供主体の造形活動プロジェクトと、それを粒さに記録するドキュメンテーションによって取り組んでいる。
プロジェクト(造形活動)は年齢別グロープ別に様々な課題が有る…列記すると…
・葉をモチーフにして針金で造形する・野外にイーゼルを立て葉や樹をモチーフに描く・食べたお菓子の味を色で表現する・オレンジの香りを色で描く・食材そのもので描いたり造形をする・大好きなサッカー選手の身体のポーズを粘土で作る→友達にポーズをしてもらって粘土で作る・ブランコに乗る友達を鉛筆で描く・ライトテーブルの透過光の上に絵の具で色で描く・自然物を使って太陽を表現する(石、枝、木の実、葉、骨等…造形材料が多種大量に整理され揃っている)・人工物を使って都市や工場を表現する(歯車、螺子、ガラス、陶器、電子部品等…街の廃品を再利用…多種大量に整理され揃っている)・黒い紙に穴を空け光を通す穴で描く→アトリエの窓に掲示する・室内でイーゼルに立てた大画面にグループ共同で絵の具で大作を描く・PCで葉や馬をモチーフに描く・自作の舟を作り庭の池で遊ぶ・水で動く駆動装置(大きな薄い水槽状テーブル上で水車やスロープ等)を作る・自動車模型(センサー感知でテーブル上に張った黒いテープに添って自走)をデザインする・手紙を書いて友達のメールボックス(実際に階段を上った壁に各人のボックスが有る)に入れる…等です。
これらプロジェクト(造形活動)は子供主体に進められている。
又、その活動は…アトリエリスタ(芸術教師)、ペタゴジスタ(指導主事)によって支えられ…ドキュメンテーション「学びの軌跡」として綿密に記録されいる。プロジェクトとドキュメンテーションは相互に密接な関連を持っており、記録はパネリングされ掲示されることで…親達への子供達の造形活動報告として指導者と親達の語り合いを促し、子供達にとっては自分達の活動が意義のあるものだという達成感を与える働きを持っている。此処の幼児からの造形活動には、伝統的な言語として「絵画や粘土」、新しい言葉として「PCやテクノロジー」が有り…その双方を組み合わせ正に自由闊達な子供が元々持っている輝く創造力を伸ばす画期的な試みがある。
レッジョの地域市民による教育活動は第二次大戦時ファシズムに抵抗したレジスタンスの活動や精神が元になっており…Brick by Brick 市民一人一人が立ち上がり共同して学校を作り子供達を育てるという理念が息づいている。学びの共同体の建設の中心となった教育思想家/ローリス・マラグッチは元小中学校教師だが…ピアジェ、リゴツキ、デューイ、フレネ、ブルナー等の教育思想を総合し独自な教育思想を構築…本教育活動の指導者として最も評価すべき功労者である。
子供は本来、素晴らしい100の可能性を持つのに…今の学校教育はその99を摘み取っていると言う。例えば…子供は話しながら聞き、遊びながら学び、夢と現実を分けない等…今の教育は、人の話を聞く時に黙らせ、学ぶ為に座らせ、夢と現実は全く別のものだと分けさせる。番組はそう諭し現代教育の抱える問題点を告発している。
(要旨/以上)(続きあり)
| 渡辺邦夫 | 2009/06/25 3:21 PM |

東京学芸大学・石井です。

 日本教育大学協会全国美術部門第1回委員会・教科内容学検討ワーキング参加の皆様、お疲れ様でした。当日の諸々は横浜国立大・渡辺先生のお書き込みに準じさせて頂きます。

 あらためまして議論再開です。『0歳児から(生涯教育含む)大学教育まで』とテーマ設定がなされましたので、これに沿って問題提起をしていきたいと思います。
 と、いいましても焦点絞ってもなお、広すぎてどこから手を付けて良いのやらというのが本音です。結局、参加して頂いた方々にも参考資料としてのレッジョのビデオも視聴のタイミングを逸してしまい、共通意識としての6歳以下の造形に関するイメージをお伝えする事がかないませんでした。しかし、あくまで参考としての資料ですので、かえって切実にそれぞれの足下から据え直す機会と考えればそれもしかりではないかと私は考えます。
 というのも、6/13深夜、本教育大学協会全国美術部門 第1回委員会の懇親会終了後、私の研究室にて松浦委員長と「レッジョアプローチ」のビデオ資料を見終わってお話ししたのですが、現地でも6歳児まではこの地域がその思想・環境を保証しているので問題ないのですが、それ以降、巣立った子ども達それぞれにその環境を保証出来ずに成長の断絶が出来てしまっている様です。早い話し「浮いて」しまっているのです。これは珍しい事ではなく、フレーベル、モンテッソーリ、シュタイナー、など、これまでに輸入された錚々たる思想全てに当てはまり、そのままなぞっても根付かないのです。近年、これを打破すべく千葉・茂原にシュタイナー教育の園だけではなく、町まで出現させて対処している例もありますが、如何なる事になるのか、、、。
 デザイン部会の横国・渡辺先生の6/17・デザインセクションにお書き込みにもある様に、この委員会にお集りの皆様全員「表現者」ですから、此処でしか出来ない、このメンバーでしか成し得ない、オリジナルな「内容学」を自身の足下から構築していくのが最然ではないかと私は考えます。(一般論としてではなく)

 差し当たっての取っ掛かりとして、問題提起させて頂きます。『0歳児から(生涯教育含む)大学教育まで』ですので、0歳から考えていくにあたって生きていく、育っていくにあたってのリ・アクションとして「美術」を考えていくと、アクションらしいアクションとしては乳児の探索行動と伴ってはじめられるリアクションでしょうか。80年代アメリカの心理学者リンダ・アクレドロ博士・スーザン・グッドウィン博士によって研究が始められた、「ベビーサイン」などがそれに当たりますが、私の見解としまして、何れかの環境に置かれ自己の意志を信号として表す、記号と言っても差し支えない事象が原初の美術表現であり、それはソシュールの記号論にも集約されてもおかしくはないことで、その繋がりとして言語化されていく流れの事を、絵画セクションで福島大学・渡邊先生が何度か示されてる「美術の言葉への関わり」という物言いに潜ませていた事ではないのでしょうか?(荒いものいいですが、はじめの一歩ですので、お許しを。紆余曲折あって此処に落ち着きました)

 如何ですか? 福島大学・渡邊先生。絵画セクションでは意識的に発言をセーブしましたが、ブログが仕切り直され『0歳児から(生涯教育含む)大学教育まで』が承認されこの種の議論が奨励されていますので、この取っ掛かりを提起させて頂きます。宜しくご意見頂きたくお願い致します。

 全メンバーの方々へ、
 以前のお書き込みの中からの議論再開の為のきっかけを探しましたので、福島大学・渡邊先生への問いかけにさせて頂きましたが、この提起にご興味のある方も是非ともご応答願います。
 あまり、気乗りのしない方にはしばらく『これが美術?』という様な言葉・議論内容とお感じになる事も考えられますが、今暫くの猶予を頂きたくお許しください。あくまで、石井は『美術』を下地に発言しております。(以前、韓国での口頭発表でこの種の話しをした所、「それは美術ではない」と言われた経験がありますので)
| 石井壽郎 | 2009/06/17 11:38 PM |

松浦 昇 先生  委員の皆様

WG全体会議を受け全体論議に書き込みさせて戴きます。

先の(新名称)教科内容学検討委員会全体会議では参加各委員一同に介し、非常に意義深い新たなるスタートを感じさせる意義深い会合となりました。これも本提案をされた松浦委員長の御陰、学芸大学を会場として提供下さいました皆様方の御陰と感謝しております。又、本論議がWGから委員会に格上げされる理事会決定は更なる責任の重さを再自覚する処です。尚、今迄の部門、例えば…デザイン部門はデザイン部会と名称変更されることになりました。以下に全体会議(6/13)の出席者を列記させて戴きます。

松浦 昇 委員長 (金沢大学/デザイン部会)
大宮康男 副委員長(静岡大学/美術理論・美術史部会)
増田金吾 先生 (学芸大学/学会事務局)
八重樫良二 先生 (北海道教育大学/デザイン部会)
前田英伸 先生 (北海道教育大学/デザイン部会)
山木朝彦 先生 (鳴門教育大学/教科教育部会代表)
内藤 隆 先生 (鳴門教育大学/デザイン部会)
福本謹一 先生 (兵庫教育大学/教科教育部会)
小野山和男 先生(岡山大学/工芸部会)
石井壽郎 先生 (学芸大学/工芸部会代表)
古瀬政弘 先生 (学芸大学/工芸部会)
池川 直 先生 (鹿児島大学/彫刻部会代表)
煤孫康二 先生 (岩手大学/教科教育部会)
川原崎知洋 先生(静岡大学/デザイン部会)
渡辺邦夫  (横浜国立大学/デザイン部会代表) 以上15名

やはり、教科内容を学として検討して行くには…美術教育の中で美術理論・美術史、美術科教科教育の2学科目が参入して我々を引っ張って下さらないといけないと危惧しておりました。その意味に於いて…今回の全体会議に彫刻部門から鹿児島大学/池川 直 先生にお会いすることができて本当に嬉しく…実技4部門揃っての論議がようやく行えると期待しております。
池川先生、是非、自然体の彫刻論など書き込みをお待ちしております。

副委員長となられた静岡大学/大宮康男先生におかれましては、美術理論・美術史からより高度な高い知見からの御発言御示唆をよろしくお願い申し上げます。鳴門教育大学/山木朝彦先生、兵庫教育大学/福本謹一先生におかれましては、美術教科の両輪=教科教育と教科専門を繋ぎ連動する論議を期待しお願い申し上げる次第です。参考にすべき御本『教育実践から捉える教員養成のための教科内容学研究』風間書房http://books.livedoor.com/item/3263700 読みました。私は誠に他愛も無く実は図画工作/美術だけなのですが…勉強になりました。
大宮先生、美術理論・美術史という美術全体の見える立ち位置から…山木先生・福本先生、教科教育という美術教育を纏める教育的なる立ち位置から…是非、各部門委員を協力する体制を整えられ…本論議を社会に提言できる意義深い目的地へとお導き下さるようお願い申し上げます。

松浦委員長が提唱される会議合意『0歳児から(生涯教育も含めた)大学教育まで』ですが…
私も…色の感覚や形の感覚が0歳児から与える環境に依って変化するものと考えています。スイス/Neaf社製の優れた木製玩具、ドイツ/フレーベル教育に於ける10の福音形体等はその証明でしょう。現地、デザイン室の視察等の所見は別に述べたいと思います。

又、意見として会議で述べた…戦争で人を殺したり戦友の死に直面した人の心のセラピーに粘土遊びが有効でこと/現代という効率と金銭のみに価値を見出すしか無い人間の心そのものを歪めてしまった社会/唯、企業の働き蜂を養成する目的に存在している様な均一的で個性の芽をを摘み取る様な教育/美術という生涯に永続的に喜びを与えうる教科そのものの価値論…等について、再び…熱く語って行きたいと思っております。
よろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫

PS.石井先生、レッジョのビデオ学習は後ろ髪引かれる思いにて…残念でした。ご親切な研究室及び学内見学とても参考になりました。感謝です。理事会裏番組の本音トーク情報交換が…また…良かったですね。
| 渡辺邦夫 | 2009/06/16 5:54 PM |

金沢大学の松浦です。

 13日のワーキンググループの会議に出席いただいた先生方、ご苦労様でした。

 まず13日のワーキンググループの会議とその後の全国美術部門委員会で確認されたことをご報告いたします。
 このワーキングを『教科内容学検討委員会』に名称変更します。これは橋本部門委員長や栗田先生から指摘されていましたので、今後の活動等を考えると作業部会よりも委員会として活動した方が良いと判断しました。
 ワーキングの会議の時間が1時間と限られていましたので、「教科内容学をどの段階から捉え考えていくのか。」というテーマで議論しました。結論として、福島大学の渡邊先生が提案されていた『0歳児から(生涯教育も含めた)大学教育まで』ということで合意されました。これを受けてレッジオの幼児教育のテープを鑑賞することを計画していたのですが、私が拡大理事会まで出席したため、見ることができませんでした。お詫び申し上げます。
 私がこの教科内容学をどう捉え、どこまで展開することを考えているかを述べたところ、福本先生や山木先生からご指摘やご意見をいただき、漸く教科教育と教科専門が同じテーブルについて議論がスタートしたことに感激しました。

 9月26、27日開催の愛知大会において教科内容学についてシンポジウムが開催されることになりました。
 パネリストは埼玉大学の小澤先生、横浜国立大学の渡辺先生、東京学芸大学の石井先生、鳴門教育大学の山木先生、和歌山大学の永守先生、そしてコーディネーターは私が務めることになりました。時間が1時間ということで、深くは議論できませんが、聴衆者に美術教育における教科内容学とは何か、どうして必要なのかといったこと各分野から語っていただくことになるのでは、と思います。私はもう少し違うことを考えていたのですが、全国美術部門委員会において地区代表委員からそのような質問があったからです。まず美術部門内での相互理解を深めなければ、文科省や国民に説明責任を果たすことができないと思います。
 委員会においては9月までには『0歳児から(生涯教育を含めた)大学教育まで』の教科内容学の青写真ができればと思っていますが、いかがでしょうか。このことについて関心をもたれている先生方の積極的なご提案を期待しています。
 ところで、今まで議論していただいている各分野の大学教育の
教科内容学についても継続して議論をお願いいたします。
 以上、よろしくお願いいたします。
| 松浦 昇 | 2009/06/14 11:32 PM |

学芸大 石井先生
北海道教育大 前田です。
ご指摘のとおり、いつも尻切れ的なコメントになってしまっている事、申し分けありません。
簡潔な言葉で、すっきりと意見をまとめていけば、このような事にならずに済むのですが、どうしても文章にしようとすると話しが長くなり、最後に駆け足でまとめる事になってしまいます。
最後のコメントについて補足します。石井先生がこのブログの初めのあたりで押さえられていた明治期の工芸と美術の区分にも関わる事(西洋ではルネッサンス期以降の状況と重なります)だと思うのですが、原初的なものつくりとしてのアートにそのまま向き合っている工芸という世界には、そこから抽出された(ファイン)アートと平行して存在する部分があり、デザインとの領域問題だけでなく、むしろ彫刻や絵画との関わりも同時に取り上げていく必要があるのでは?と考えた次第です。(蛇足ですが、原初的なものづくりとしてのアートとは古い技術の事ではなく、領域の問題を指しています。)
教育学部に身を置くと、一人で広範な領域をカバーせざるを得ない状況が生まれて来ます。おそらくどの先生も同様の問題を抱えておられると思いますが、私の場合では、窯業技術と基礎造形をベースに、可能な限りの対応を余儀なくされています。短い期間で学生達に最低限身につけておいてもらいたいものは、それが技術的なものであれ、表現に関わるものであれ、仮説を立て、制作を通して検証していく態度であろうと思います。それがうまく教育されているのかと言う問い掛けには、あまり歯切れよく答える事が出来ないでいるのですが・・・
私も早く皆さんにお会いして、ブログとは違う、対話によるコミュニケーションが出来る事を楽しみにしています。

| 前田英伸 | 2009/06/07 7:05 PM |

北教大・前田先生

 学大の石井です。先生のコメントは前回もそうですが、今回も本当にいい所で、終わってしまいます。「現代工芸と現代彫刻とは、同時代の中で人的なパラレルワールドが形成されているのかも知れません。」のその後は如何なのでしょうか?と、これは前田先生のせいではなくブログの成すトコロ、ブログ形式の限界なのでしょう。前回の先生のコメント導入部にあてて答えさせて頂けば、早くお会いしたいと思います。そろそろ6/13部会が迫って参りました。『工芸』『デザイン』も大切ですが、それを越えた議論も前田先生とは是非希望しております。それまで暫しの自己確認の時間をいただきます。
 一言、楽しみにしております。

学芸大学・石井
| 石井壽郎 | 2009/06/05 9:11 PM |

北海道教育大岩見沢校 前田です。
石井先生、私の拙文に対して、親切なコメントをいただき、有り難うございました。
日常生活で使用される道具のデザインは、毎日何気なく手に取り、目にしていくうちにいつの間にかその人の物の見方や感じ方を変えていく、そんな力を持っていると常々私は思っていました。その意味で、特殊な形態では有りますが、道具は、まさにメディアとしての特性をそなえており、石井先生の「モノは環境の一部でもあるので、人は自分を取り巻く世界の『意味』まで変える事が出来るのです。」というくだり、大変強く私に響いて来ます。このあたり、別の機会にもう少し正面から議論できればとも思います。


 さて、ご存知のように、クラフトデザインの起こりは、昭和30年代に、展覧会での発表や、技巧の高みを追求する事のみならず、生活の中で使われる事を工芸の本道だとする考えを持った人達により提唱されたものです。立ち上げ時のクラフト運動の提唱者には、伝統工芸や日展、前衛陶芸、デザインなど様々な分野から人が集まり、新しいクラフトをどう捉えるか、手仕事主体であっても、機械生産をどの程度認めるか、などの議論(領域問題ですね)を重ね、おそらく走り出しながら考えをまとめていった形跡が有ります。(私の引っ越しの段ボールの中に、小池先生が当時の工芸関係者5〜6名にクラフトをどう捉えているかを書いてもらった文章のコピーがどこかに有るのですが、引用もままなりません。私の記憶ではそのなかにガラスの佐藤潤四郎さんの文章もあったのですが、やはりそれぞれの立場により、微妙に認識のずれがあったように記憶しています。具体的に提示できず、申し訳ありません。)
その結果、適正な価格を持つ事、反復生産可能である事、手仕事の痕跡を残すもの、創作性のあるもの、機能性を有するもの、などの今日よく知られているクラフトの定義が生まれて来た訳です。これらの定義は、基本的にプロダクトデザインの、特に地方の地場産業における活動と重なっており、事実、何人ものデザイン関係者が初期の日本クラフトマン・デザイナー協会に名を連ねています。現在の日本クラフトデザイン協会にも、個人作家ではなく、デザイナーとして加盟している人もいる(私の知る限りでは、佐々木硝子の佐藤信泰さん、栄木正敏さん、旭川の匠工芸、中井啓二郎さんなど)のは、その系譜を引いているとも言えるでしょう。
私は、残念ながら日本クラフトに加盟はしておりませんが、佐賀にいた時は、九州クラフトデザイン協会に入っておりました。その頃の重鎮には、森先生を始め、大分県別府産業工芸試験場の宮崎珠太郎さん、日田産業工芸試験場の中川千年さん、伊万里陶苑の岡本栄司さん(長崎県窯業試験場にデザイン課長として在籍されていた事もあり、森正洋先生とも親しい仲でした。)など、お役人でありながら自身も創作をし、地方のデザイン運動をひっぱって来た方々が現役で、中堅、若手には九産大の車政弘さんをはじめ、諫早の長谷川武雄さんやガラスの後藤哲二郎さん、白山陶器の阪本安樹さんなどがおられ、福岡や日田など各地での会合の際には大変楽しい飲み会が開かれた事を記憶しています。
なんだか、今度は個人的な昔話のようになってしまいましたが、地方の産地においては、クラフトデザインの運動を通して、理想的な産官学の人的ネットワークが存在していたと言えます。九州クラフトのメンバーで、同時に日本クラフトに入っていた人達は、現在日本クラフトのリーダー的存在になっている人も少なくありません。(宮崎珠さん、岡本栄司さんなどは当時でも日本クラフト界の重要メンバーでありましたが。)
工芸とデザインの領域問題について、私がこれまで述べて来た事は、その重複部分についてであったようです。ちなみに、私の在籍していた佐賀県は、伝統工芸や日展系の作家にスター的存在が多く、恐れ多くてあまり親しく話をした記憶がありません。(もちろん20代の若造と重要無形文化財保持者では、訪ねていって一方的に話しを聞く事はあっても、親しく打ち解けた話しにならないと言う事もありますが、)同じ工芸の枠であっても、表現の方向性がそれぞれ違う事で、同じ地域、時代の中でパラレルワールドを形成しているような感があります。
一方、インスタレーションなどの同じ造形志向を持ち、同じような方向性で仕事をしているにもかかわらず、現代工芸と現代彫刻とは、同時代の中で人的なパラレルワールドが形成されているのかも知れません。
石井先生、今回はこんなところでいかがでしょう?














| 前田英伸 | 2009/06/01 5:23 PM |

再び、学芸大学・石井です。

 前田先生もご懸念されていた、『教育』議論も途切れさせてはいけませんので、コメントします。
 渡辺先生へのコメントですが、『物置よりも、、、』と前回のコメントに書かれていましたが、この『物置』が実にこのワーキングにとっても示唆深い大事な事でもあるので、分かりに難くならない様に、かつ、慎重に書かせて頂きます。
 私自身、物置でモノを作って以来、その物置は大好きな場所になりました。今風に言えば「ドラえもんのポケット(でも自分で作るのですが)」みたいなもので、そこで何でも出来る素晴らしい場所として、家の改築でかないませんが、今も懐かしくもう一度行きたい場所です。その後、カブスカウト・ボーイスカウトで自然をかけずりまわり、バスケットボール部で成長するのですが、あの『物置』の存在は様々な学びの原点であった事は微塵もうすれません。
 前前回のコメントでやや卑下的に聞こえましたのは、私の書き方のなす所でしょう、申し訳ありません。その物置は、私の母親がその世代に特有な「勿体無い」という意向で何でも詰まった宝箱でした。それがその後、大いなる事象だったのだという事を思い知らせられるのです。
 それは保育学科に籍を置き始める前に幼稚園・保育園に頻繁に出入りし始めて知った事なのですが、ほぼ、どんな幼稚園・保育園にもあらゆる素材を溜め込んでる物置もしくは部屋が存在し、その時期の子ども達の旺盛な制作欲に応えていたのです。無論、あらゆる素材を溜め込む事は実際面として少ない予算で運営しているからという現実もおおいにはあるのですが。
 これも、大人の方式ではないコミュニケーションとして環境面で子どもに対応している現場の通例です。さらに国内外の視察・研修・で様々なコドモに関する施設を訪れるとそれに準じた場所は必ず設けてあります。遥か西のイタリア・レッジョエミリア市でも、同じで、その事だけではありませんが、国外の事例を特別視するのではなく、足下にある事でも十分に得られるのだという念を抱きました。
 正面から大人の方式が通用しない子どもは本当に『異文化人』です。殊更、こちら側に問題提起を覚えさせ、人間の本質を痛感させられます。さらにそれを相手に渡っておられる保育者の中には大いなる思考をお持ちの方もおられます。金沢大・松浦先生からの幼稚園現場と連携とのご提案は大変意義深い事だと思います。連携をしていけば、このワーキングにとって大いなる成果が期待出来るのではないでしょうか。

| 石井壽郎 | 2009/05/25 11:40 PM |

学芸大学・石井です。

 前田先生、ご丁寧なコメント有り難うございます。そして、有難く感謝しております。パズルの持っていなかったピースを頂いた気分です。是非とも『クラフトデザインの勃興と産工試の関わりについて』のコメントもおうかがいしたいのですが、お願い出来るでしょうか。
 宜しければ高石先生にもこの件についてコメントいただければ、更なる精度が増すところですが、ご無理が無い範囲で如何でしょうか。
 開国以来、対国外に向けての国内の国の政策に『工芸』も『デザイン』もひいては『美術』全体も大いなる影響を受けてきていると理解していましたので、尚更細かい繋がりが実感出来るコメントでした。
 私のこれまでの経緯の中だけでも近年の国の政策、1999年『ものづくり基盤技術振興基本法』、2000年『高度情報通信ネットワーク社会形成基本法』などの施行で大きく影響があり、私の在籍した某大学「先端芸術表現科」設立経緯も、来年度開始する学芸大学「ものづくり教育選修」も密接に繋がりがありました。この「ものづくり教育選修」立ち上げで、『技術』教育領域の錚々たる方々と繋がりが密接に出来たのですが、こちらも「デザイン」と「工芸」の関係性と同様に「美術」と「技術」の関係性がおおいに興味深い関係だと実感中です。機会がありましたら、今後その事にも触れていきたいと思っています。
 『日本の工芸品は現在の自動車産業やIT産業に匹敵する主要産業のひとつであったようです。』のご発言、深く同意致します。『ものづくり教育選修』立ち上げの為のニューズペーパーに以下のコラムを書きました。

 『人とモノの間柄』

 『焼き物』と聞くと何を連想するでしょうか。古いモノなら伝統文化、宝物、値打ち物などでしょうか。しかし『最新機種』の時もあったのです。家電みたいな言い方ですが 、太古の人類は『その事』により生活が激変したのです。それは外敵も来る危険な水場から水を運び、そして、貯めておける『器=モバイルウォーター』という発明でした。この出来事は携帯電話の登場で、待ち合わせなどの生活様式が変化した事より、遥かに大きな変化であったに違いないのです。時が流れて、それを造る技術の取り合いで争いになったり、その後、主要な輸出品になったりしていました。それはまるで今の車やコンピューターの様で、『最新機種』と表してもおかしくはないのです。
 次に『メディアでもあった』と、いったら如何でしょうか。試しに皆さんの家で人が集まる部屋の目立つ場所に、何が置かれているか思い出してみてください。多くの家では『テレビ』が置いてあるはずです。テレビが存在しない頃、日本家屋のその場所は『床の間』と呼ばれ、そこには花や掛け軸、壷、大皿などが置かれていました。その家にとって大切なコトが反映されていたのです。大皿の柄もその時の流行(情報)であったり、色ムラの部分に何かを見いだす事を『景色を見る』と言い表し、そこに見る人の深層まで映し出していました。それは人々と社会を繋げる『メディア』であったのです。
 モノ自体は変りませんが、人の状況によってモノの『役割』は大きく変わっていきます。モノにとっての『役割』とは『機能』でもあり『意味』とも言い換えられます。モノは環境の一部でもあるので、人は自分を取り巻く世界の『意味』まで変える事が出来るのです。さらに、人は自分自体を変える事が出来ます。その変化によってモノをはじめとする世界を変容させます。例えば、自分自身が『メディア』になって『人』と『モノ』の間を繋ぐと、両方の変化にチカラを与える事ができるのです。そこを、うまく繋ぐ事ができれば響き合い、きっと多様な変化になるでしょう。
 私がみてみたい『ものづくり』とは、そんな共鳴し広がっていく創造です。

以上です。
 前田先生がご指摘された事は全く同感です。1998年グッゲンハイム美術館において『THE ART OF THE MOTORCYCLE』展が開かれ、GHM始まって以来の観客動員数で大成功を収めました。丁度その時、NYに滞在しておりこの情報を耳にし、見ている最中に『車も工芸だと思う』と大学生の頃いった折、周りから総スカンを喰らった苦い思い出が蘇って、暫し感慨に耽りました。今も改心出来ず、今では自分と同年の英車と国産エコカーを乗り分け楽しんでおります。その点からすれば私の中ではこの領域は限りなく入り交じっているのでしょう。

| 石井壽郎 | 2009/05/25 4:05 AM |

北海道教育大学岩見沢校 前田です。
少し字数がオーバーしてしまっていますので続きをお送りします。

一方デザインセンターは、1980年代中頃からその設立の動きが見え始めてきます。これもあまりバックデータが無く、感覚的な把握ですが、地方都市でグラフィックのデザイン事務所が増えて来出した(ビジネスとして成り立ちだした)のがこの辺りの時代ではないでしょうか。併せて、それまで日本には存在しなかったデザインミュージアム設立を希求する 動きと、先に挙げた地方の公設試験研究機関のデザイン部門の役割が、デザイン活動の牽引役から後方支援へと変わりつつあった事の同時進行的な要因があったと思います。(ちなみに製品科学研究所や産業技術総合研究所では、技術系の活動ばかりでデザインに関する業務はあまり聞こえません。私の認識違いでしょうか?)
日本で最初にデザインセンターを立ち上げたのは名古屋ですが、これは、オリンピック誘致を韓国ソウルと争って負けた事が幸いして、その開催のエネルギーを世界デザイン博覧会に向けた事で、その記念事業として一気に現実化したと言うのが私の認識です。この世界デザイン博を機に名古屋市はデザイン都市宣言をした訳ですから。
なんだか、ここまで書いて来て、渡辺先生の提起された工芸とデザインの領域問題の主題から外れて、ただのデザイン史のアウトラインを主観的かつ部分的になぞっているだけのような気がしてきました。工芸とデザインの領域問題ならば、これにクラフトデザインの勃興と産工試の関わりについても書き加えるべきなのかも知れません。産工試の出していた『工芸ニュース』Industrial Art Newsの内容はそのまま、IDとクラフトデザインに関わるものばかりでしたから。ただ今日、クラフトデザインを看板にするコースは全国の美術大学からは消えてしまっているのも事実です。代わりに現れて来ているのが、映像やアニメ、漫画などですが、教育の内容も現世である産業構造の変革や社会現象に影響を受けつつ変わっていくものだと言う事でしょうか。

| 前田英伸 | 2009/05/24 6:21 PM |

北海道教育大学岩見沢校 前田です。
石井先生、渡辺先生のご要望により、全体議論に書き込みをします。
全体議論の教育に関するこれまでの流れを途切れさせる事にならないかが心配ですが、そうなったらご容赦ください。
 渡辺先生の問題提起1)工芸とデザインの領域問題について、私なりの考えを述べさせていただきます。
 工芸指導所はまさに行政府の役所であり、設立当時、日本の工芸品は現在の自動車産業やIT産業に匹敵する主要産業のひとつであったようです。地域の地場産業も現在の生産量とは比べ物にならないほど活気に満ちていた様子は、私のいた肥前地区の記録だけでなく、各地の伝統産業の地に残されている事と思います。(手元に資料が無く、具体的な数値で示せませんし、そんな事は言わずもがなと言う声が聞こえて来そうですが・・)工芸指導所が最初、宮城県仙台市に設立されていた事もそのような理由からだったのでしょう。
 その後各地に工芸指導所を手本にした機関が設立され、現在も名称や体制を変えながら存続しています。(本家の工芸指導所は、産業工芸試験場、製品科学研究所、独立行政法人産業技術総合研究所と言う具合です。)かの小池岩太郎先生も若い頃、沖縄県工芸指導所に技師として在籍されていますし、実は私も佐賀県窯業試験場(現、佐賀県窯業技術センター)に2年間おりました。
1996年あたりにおそらく全国に巡回展示された「日本工芸の青春期」と言う展覧会に、戦前の日本の工芸の流れを大きく3つくらいに分類し、日展を中心とした美術工芸、柳宗悦の民芸と並んで、工芸指導所を中心とした産業工芸(ブルーノ・タウトや豊口克平などの作品)が紹介されておりました。まさに現在のインダストリアルデザイン、プロダクトデザインの黎明期です。
指導所は、日本の産業界に対して、新しい産業技術を使った製品の開発研究・普及のみならず当時の先進地であったヨーロッパやアメリカの製品とその背景にある生活に対する考え方の紹介なども行なっていました。森正洋先生も学生時代(戦後すぐの頃です)多摩美からほど近い新丸子(下丸子?)にあった産工試によく顔を出しては、剣持勇など(他に数名の名も出たのですが今は思い出せません、すみません。)の職員から生活に根ざしたデザイン、社会との関わりなどの思想を叩き込まれたそうです。書き込みの始めにまさに行政府の役所とは書きましたが、その職員には、役人的なイメージとは別の、戦後日本のデザイン(特にプロダクト系)を牽引したり後塵に影響を与えたりした人も少なからずいたと言う事です。
産工試をモデルにした地方の試験場も、すべてとは言えませんが、同様の機能を持っていたと思います。私が始めて陶磁器のデザインにふれたのも長崎県窯業試験場(現 長崎県窯業技術センター)での学生研修ですし、九州陶磁器デザイナー連盟(通称DAKT)の事務局や会合の場所提供もかつては試験場で、白山陶器を始めとする近隣企業の若手やベテランのデザイナー達、高校でデザイン教育に関わる先生や学芸員などのメンバーがデザイン論議をする、いわば地方のデザイン運動の牽引役あるいは母体となっていた訳です。
少々荒っぽいですが、今まで述べた事を要約すると、工芸指導所あるいはそれに準ずる地方の機関は、デザインと言う言葉が日本に入ってくる以前から、日本のものづくり産業支援の一環としてプロダクトデザインの原形的な活動を育んで来たと言えます。

| 前田英伸 | 2009/05/24 6:18 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

石井先生 失礼しました。確かに誤解していましたね。ご指摘のように…あのコメントは非常に解りにくい表現ですね。肯定するなら「しかし、」で書き出すことは普通はしませんかね…誤解してるのは私だけじゃないかも知れませんよ。私も誤字訂正多々有りですし、お互いに気をつけましょうね。
又、後半部をやや極解とおっしゃいますが…八重樫先生のコメント、私のコメントを例に出し、且つエジプトの碑文迄を引用されて『昔は良かった…今の若者は…』とあり『子供は時代や環境を選べない…』とされているからこそ、私は現代社会のエゴによる反省を含めて『自然を復興する教育環境への様々な努力』について、お尋ねにそってお答えしたまでです。あえて言わせてもらえば…やや極解では無いにしろ普通に解釈してあのコメントは「年寄りが古き良き時代を懐古しても、自国より良い他国があっても、子供は常に現状を生きねばならないものではないんですか?」としか要約できません。ですから、教育現場での自然から学ぶ実例について紹介させて戴きました。
私の勘違いかも知れませんが…あのコメントには「自然は亡くなりつつあっても…それは子供のせいじゃないから仕方ないものだ…というある角度から見た諦めを感じてしまってました。補足付記され誤解を撤回されるのであれば…歓迎します。若い同志も永々と続くべき自然学習の大切さの側に居たと理解し喜ぶことができます。子供は…物置きより、野山を駆け回らせたいですから、

松浦先生 関連してコメントを戴き非常に嬉しいです。人間が自然と乖離することで今の地球環境破壊があるのです。自然との対話、自然からの恩恵、自然との共生は、この世紀に於ける教育の重要なキーワードでしょう。先生のコメントにある『幼児教育の重要性』は、自然との共生の「喜び=遊び=学び」へと、人間の成長段階で身体的体験的実感として残るものですから、大きな可能性を内包しています。そこに『美術へに結実するような美術教育』という理念を模索したいものです。
おっしゃる通り、教育は教育現場こそが肝要なのです。先生ご提案のように、現場で「幼児教育を実践されておられる優れた教諭を探し協力して貰えれば…」本議論は、必ずより具体的な方向に進展出来るものと思います。ご意見に賛同いたします。

再び石井先生 お尋ねの『造形遊び』への嫌悪感?ですが…私は別に嫌悪はしていませんよ。唯、幼児期に充分に自然の中を駆け回って遊んでさえいれば…小学校に入学してまで『母乳』は要らないじゃないか…と感覚的に言った迄です。図工という教科に取り組む前段階に本来なら…自然の中で造形素材集め、泥んこ遊び、石蹴り、木登り、虫取り、魚取り、密基地づくり…等々、充分に豊かな遊び環境の中で育てることのできた子供達であれば…(私は)『母乳』は要らないのではないかと思っているだけです。正直『造形遊び』は勉強不足で…唯でさえ時間数の削減の中、乳離れは早い方がいいのではないかと勝手に考えているだけです。この辺りは内藤先生も見解主張ありと伺っています。
レッジョエミリアは不勉強で知りません。が…図画工作の『成果主義』と『過程主義』の内、過程を重視する考えはよく解っています。ハーバード大/ハワード・ガードナー(多次元的知能で知られる世界が注目する心理学者)のポートフォリオ理論は、前任地福井大学で前任者/古田洋司先生の後任として組織として選んだ美術教科教育/池内慈朗先生が実は日本のガードナー研究の第一人者ですから…門前の小僧的範囲ですが勉強しました。彼は認知的アプローチで美術教育を捉えており、現在、彼が執筆した注目のガードナーの新理論『ハーバード・プロジェクト・ゼロ』に関する論文を読んでる最中です。非常に興味深い内容です。いずれ機会があれば紹介します。実は、彼こそ(私は)本ブログ論議に参加して貰いたいと熱望する研究者の一人です。何故かと言うと…勿論、自分自身も含めて…実技畑の書く文章は、熱くても面白くても…所詮、作文が下手だし文章は解りにくく論理性に欠けてますよ。又、複数の視点という考えからも、彼の様な学者が内容学の論理的構築に不可欠だからです。(自戒反省多々)

松浦委員長、池内慈朗先生委員追加案、如何でしょうか?

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/05/24 11:44 AM |

学芸大学・石井です。

 今度は松浦先生に先を越されてしまいましたが、めげずに折角書きましたので、一つ前の国大・渡辺先生のコメントに向けてコメントします。

 渡辺先生、私はコメント前半部に「しかし、『美術に結実するような初等教育』はかなわぬ事ではないと思っています。」と、書いたのですが、ですので、肯定しているのです。「しかし、、、、」から入ってしまったので誤解を招いてしまったのでしょうか。その後渡辺先生のご意見と少し違う観点で意見をかきました。(これもことわっておきました)
  それと後半部もやや極解されていないでしょうか?後半部は今現在を同じ目線でいっしょに育つ事は出来ないかとの内容で、自然に対する否定は無く、自然を基準に言い換えれば、現在の真実味のなかで自然を感じる事が大事であるととって頂いても良いのですが。そして、さらに人間自体・自分自身の中にも自然はあるのだと付け加えたい程です。

 此処でちょっと質問ですが『母乳、、、』の言葉だけにではなく、よほど『造形遊び』という事象に嫌悪感を抱かれている様ですが、なぜでしょうか?前文も今回のコメントも終止その部分へのご意向が見て取れるのですが。

 今回、ブログの項目に『造形遊び』を入れて頂いたのは、私が小学校の勉強会や講演会、研修会、検証者として招かれると質問のほとんどが『造形遊び』に集中し、『やり方はどうすればいいのですか?』『評価はいかにすれば良いのか?』などの意見がほとんどという現実がその理由です。乱暴ですが、図画工作の授業実施を大きく2つに分け『成果主義』と『過程主義』とします。成果主義は出来上がりの『作品主義』ともいいかえられ、作品の出来を重視します。これで考えてしまうと上記の様な質問内容に繋がってしまいます。もう一方の過程主義は制作する過程でどのような変化(学び)があり、結果に繋がったかを重視します。この過程主義で考えると『造形遊び』が魅力的になります。でも行なうにあたって教育する者という立場ではなく、ファシリテーター(促進者)的な立場をとる事が明暗を分けます。実際、人によりずいぶんと実施状態に落差があるのは事実です。これが、本当に簡単で申し訳ありませんが(ブログですので6/13に直接)、『造形遊び』に対する私論です。同様な関わり方のすすめを絵画の小澤先生の『絵画の教科書』の「子どもの描画の項」にも示されていて、『成果主義』が美術嫌いを生んできたとも付け加えられています。また、渡辺先生は『レッジョエミリア市の事例』はご存知でしょうか、そこではこの過程への評価付け(カルテの様に)の方法としてドキュメンテーションを重視しています。(渡辺先生の大学授業でもドキュメントを重視していたと)
 さらに図工・美術の授業はほっておけば成果主義に流れてしまう現実も付け加えておきます。(全科で初等教育者をしている人は尚更です)その事自体が『造形遊び』が発生した本質的原因だと石井は推察し、ほぼ確信しています。

 あくまで『造形遊び』はただの実施形式の一つであるとわたしは考えていて、実施者によりその中に自然体験を盛り込む事も出来ます。ドイツの森の学校等で行なわれる造形活動はその例と言えるのではないでしょうか。どちらにしろ実施者の考え方次第でその見え方はおおいに変わってきます。
 此処まで書いてきまして、変に思われるかもしれませんが、石井本人は『造形遊び』を肯定も否定もなく考えており、ただ現場での混乱がそこに注視させられてしまうので話題に上げさせて頂いている次第です。ただ、『造形遊び』をうまく使えれば児童の大いなる学びに貢献出来るのではないかと、可能性はおおいに感じてはいます。そこから考えると肯定的に傾いているとは言えますが、もし、私が否定的にとっていたらそれこそ文部科学省に掛け合いに行かなくてはならなくなっているでしょう。どちらにしろ現場の現実に対応せねばならないと考えているのは確かな事です。井上陽水の「傘が無い」ではないですが、逢いに行かなくちゃ、ではなく『対応しなくては』と焦燥感を抱いているのです。
 念のため先の『成果主義/過程主義』の発言ですが、過程主義に肩入れをしている訳ではなく、『美術』の実施の仕方でも、実施内容によってそのどちらも有り得、双方大事な要素だと考えています。ただ、どちらでも実施する側は意志的に実行しなければならないと考えています。

一先ず、

| 石井壽郎 | 2009/05/24 12:33 AM |

金沢大学の松浦です。

 渡辺先生から今の幼児教育について意見を述べておられますので、関連して私も述べたいと思います。
 附属幼稚園を設置されている大学は多いと思います。日本教育大学協会においても幼稚園部会(名称について正確ではないかもしれません)があります。当然、幼稚園間の情報交換や共同研究等されています。金沢大学人間社会学域学校教育学類附属幼稚園(昨年度から大学再編に伴い名称が変更になりました)には年、数回、教育実習や授業研究で訪れます。
 私は個人的に幼児教育こそが教育の原点だと思い、学生は美術の免許取得いかんにかかわらず、まず幼稚園の教育実習から始めるべきだと思っています。だから幼児教育に非常に興味があります。
 私が附属幼稚園で眼にする3歳児、4歳児の授業は”遊び”です。遊びは基本的には自然の中であり、その中で何を発見するのか、4歳児は一年中裸足で運動場を駆け回り、花を育て、小動物やオタマジャクシ、ドジョウ等の生き物を飼育している子供たちの眼は生き生きしており、私は年甲斐もなく子供たちと夢中になって
遊んでいます。それが平均的な日本の幼児教育ではないでしょうか。私は子供たちの成長が日に日に発達していくのを感じ、次の日のカリキュラムは、その日の子供たちの成長を確認しながら考えなければならないので現場の先生方は大変だなあと同情しつつ、こんな素晴らしい子供たちに相応しい美術教育はどうあるべきか、考え始めています。
 ところで、渡辺先生、教科内容学を考える上で、まず日本の幼児教育の実態を調べてみませんか。日本教育大学協会幼稚園部会等の協力を得ればいかがでしょうか。個人の体験、思考だけでは美術教育の教科内容学は考えられませんし、現場の先生方が納得できる提案はできないと思います。また、現場で素晴らしい幼児教育を実践されている先生方を発見しましょう。
 
| 松浦 昇 | 2009/05/23 9:43 PM |

学芸大学 石井先生へ 皆様へ

横浜国立大学の渡辺です。
石井先生の問い掛けにお答えしておりませんでしたので…
前田先生の書き込みの前に…少々、コメントさせて戴きます。

先ず、『美術に結実するような幼児教育』は突然、頭に浮かんだ言葉なのですが…
同意を戴き嬉しいです。植物や生き物を観察したり、植物や生き物を育てたり、身の回りのものを(例えば、石ころ、葉、枝、木の実等)何かにみたてて遊ぶという幼児の持つ学びの成果や達成を『絵として描くこと』『工作として結実させること』そんなことが大切なのではないかという提言です。幼い時期にこそ、自然に中で自然を観察し自然と共に遊び、そして何かに感動を残す教育には、美術こそが秀でる可能性を持っていると思います。

小学校では叶わぬこと…とあり、少々、がっかりですが…私なりの考えを記します。
教育実習や初等フィールドワーク研究(横浜スタンダードによる実習授業)で良く小学校に来ます。その学校毎に差は有りますが…近年、都会の学校だからこそ、失われ行く自然を教室内や校庭に取り入れる姿を良く目にします。多く見るのは、メダカに産卵させての水槽での繁殖観察、カブト虫の幼虫〜さなぎ〜成虫へ観察、ビオトープ(自然をなるべく再現した池)によるヤゴ〜トンボの成虫へ観察、鶏やチャボや兎の飼育等です。時には、珍しい蚕に桑の葉を与え育て、繭から糸を取る学習をさせている小学校もあります。
それらの理科に関する学びを理科の中で簡単な絵にする学習のみならず、図工科でも取り上げて『時間系の変化を捉えて絵にする紙粘土でつくる』等、様々な授業案があり得るのではないかと思います。
又、横浜郊外の小学校では、耕す人のいない水田を学校が借り上げ、稲作の体験実習に参加させている処もあって、田植え〜雑草取り〜稲刈り〜脱穀迄を体験させた上に…残った藁で、草蛙(わらじ)を作らせる学校を見た時には驚き、自分の子供の頃より素晴らしいと感じたものです。それは一例で、全ての学校で出来ている訳ではありませんし、好意で水田を貸し与え稲作や草蛙作りを教える地域にお住まいの老人という非常にボランタリーな先生が居なければできない活きた学習を実現しています。草蛙を履き米を炊いて、最後に皆で楽しく食べるそうです。
藁、それをゴミとするか、貴重な材料とするかに『人の価値』が定まるのでしょう。

私はその様な学校の教育と比して…規制市販の工作キット、空き箱で作るくだらないパチンコ台の様なゲーム、ペットボトルや発泡トレー等の所謂ゴミでゴミを作るような(実はこの手の方が良く見ます)課題を見るにつけ…落胆します。子供達本人の手の触覚性や創造性を全く感じられない唯の『工作(造形ではありません)遊び』だからです。

アナログかデジタル、エゴからエコ、それら時代の変化は勿論、捉えなばなりません。教師ですから。しかし、失ってしまっては良い筈のない『もの』が有るのです。子供に環境に選べない…だからこそ、教師は様々な努力をしているし、せねばならないのです。子供は何時も精一杯に成長します。だからこそ、教師もまた精一杯に子供の教育の場を『良いものとする努力』をしています。諦め思考の熱意の無い教師には、自然環境の復興やその中での教育は有り得ないと感じています。だからこそ『自然が先生』それは、美術も同じでしょう。

その中に、我々は『美術教育が存在している価値』を問わねばならないのです。

本物を見ないでする鑑賞教育やら、持ち帰ったら即、子供の絵や工作をゴミに捨てる心ない親やら…小学校図工の疲弊は他にいくらでも言いたいことがありますが…
長くなりそうなので、ここ迄で一応の論議終了とします。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/05/23 3:18 PM |

学芸大学・石井です。

 デザイン部門の渡辺先生よりのご提起、工芸とデザインの分野認識問題、特に「工芸指導所」が「デザインセンター」に改変されている経緯など、についてですが、大変重要な事柄ですので、この全体議論の枠にて議論進行して行く事に金沢大・松浦先生よりご了承いただきました。
 前田先生ご執筆中との事ですが、この件この『全体議論 』にてお願い致します。

 取り急ぎで、一先ず

| 石井壽郎 | 2009/05/23 12:00 PM |

学芸大学・石井です。

 渡辺先生のご意見『美術に結実するような幼児教育』は、私も深く同意します。そして、都市化の影響はあるにせよ、ほぼ全国の幼稚園・保育園はこのコンセプトで子どもと向き合っているといっても過言ではないでしょう。もともと明確な教科分けが無く『表現』中心になってしまうのは発達に沿っていかざるおえない事が現実ですが。おかげで、寄添う側はより一層コミュニケーションの重要点『聞く・見る(看る)事からはじめる=待つ』を念頭にしておられます。大人の方式(言語を初めとする)が通用しない分を、環境整備で埋めながら。
 しかし、『美術に結実するような初等教育』はかなわぬ事ではないと思っています。渡辺先生の書かれた事から離れてしまいますが、教科分けにより分断された『図画工作』に受け継ぐのではなく、むしろ『総合的学習の時間』がそれに当たるのではないかと考えます。状況差で参考にしかなりませんが、仏国では『Discovery of the world.』の教科名でそれを行っています。ともあれ私の指導学生が初等教員に希望した場合、全科の先生を勧めます。その方が伸びやかな横断的学びとして美術を活かせるからです。東京都は歴然と図画工作の専科教員が存在しますので、尚更気を付けて勧めています。
 私はこの様な都市化にまつわる問題が直接的に『造形遊び』に繋がるとは思えませんが、大きな時間の流れの中の美術の変容、その一端という事でしたら有り得るとは思います。少々性急な焦点化ではないでしょうか。

 また、八重樫先生の三丁目の夕日のくだりや、渡辺先生の発達についてに出てくるエピソードもそうですが、重なり切らぬけれど、『良き日本の時代』だったのでしょう。しかし、明治以降の激変とまでは行きませんが、二度目の変化(大戦)に見舞われ我を忘れて復興に向っていく過程の終盤の終盤です。(かえって縺れたかもしれませんが)私も八重樫先生と同様に今見渡せば夢から覚めた感覚を伴います。
 『昔はよかった、今の子どもはかわいそうだ』と良く耳にします。ですが、これに私は少々違和感をおぼえます。なぜなら例えば平成生まれの子どもには比較するべき等価の昭和・大正・明治という時間は存在せず、自分の今を生きて成長している様に見え、損をしているとも思えないのです。大きく様相は違うにしろ私達の頃と変わらなく世界を吸収していると考えています。エジプトの碑文にも『今の若い者は』と書かれているそうです。(参考)この図式はアナログからデジタル、エゴからエコ、にも似て容易に優劣で語る事は出来ない事柄ではないのでしょうか。人類規模で考えても『個体発生は系統発生を、、』という言葉に吸収されてしまうかも知れません。いくら良い時代があっても、良い他国があっても、特に子供は環境も時代も選べません。存在してしまったその環境の中で私達の頃と同様に精一杯成長(自己を獲得していく)しているのだと考えます。その点は如何でしょうか。



_今回の渡辺先生のご発言のボリュームは有難いと思います。長文に対するとその中に返答事項がタ数出てきてしまい、返答困難に陥ります。一議論の深化を図る為にも、このサイズがブログ上では適しているのではないでしょうか。ペースもこのままであれば有難いです、来週に搬入を控えていますもので、、

| 石井壽郎 | 2009/05/18 11:01 PM |

石井壽郎先生 皆様へ

忙しい中、書き込みありがとうございます。
紳士な態度、真摯な内容、嬉しく思います。

自己の幼き日を回想することは『教育』を論議する為の自己の原点でありましょう。石井先生の制作のトラウマは、本来なら誰でも持って成長して来た筈に思います。材料は、庭の土、石ころ、木端、廃材など入手できるもので『何かを想い作る』行為は「遊び」であり、その過程は「学び」で有った筈です。創造は想像の果てにある試行錯誤…その過程で人は成長すると言えるかも知れません。

その意味で…最近の子供が自然と乖離し、虫を異常に怖がったり、土や泥を汚いと拒んだり、道具を使う智恵が働かない様子を目にしては落胆します。本来、美術は『何かを想い描き作る』から始まるとすれば…プラモデルから劣化は始まり、超合金合体ロボ、TVゲーム〜携帯ゲームへと子供の「遊び」は次第に限定的で想像する余地を失い、享楽的で機械に束縛される悲しい方向に進んでいます。私の幼児教育の危惧はそこに在ります。

幼児期から「人間は自然の一部であるという実感を育む教育に『美術』は貢献できないか」という視点です。その点で、私は福島大学/渡邊晃一先生の保育園の花の栽培「五感に関わる花を育てたい」(4/28付け絵画部門)は非常に興味を持っています。つまり、花を植えて育て更に描く行為が行われる時、描く意味も変わり生命への愛を育むと考えます。工作なら材料を探すことから始めるなら楽しさも想像力も豊かになる…という考えです。理科、技術科、生活科、道徳教育ともリンクする教育が『美術に結実するような幼児教育』の構想です。

勿論、造形遊びにも繋がる内容ですが、保育園ならまだしも…小学校入学しても、尚、『母乳』というのは如何なものか…と私は個人的には思っています。しかし、それは上記の様な子供を取り巻く環境変化に起因するものと思われます。現代は小学校入学迄に基本的に備わっているべき「想像力や生きる力の基礎が脆弱化しているのではないか」という問題です。又も長くなりそうなのでここ迄にします。

続いて残る書き込みを楽しみにしています。
ペースを落しつつ、自宅でレポート採点をしながらROMして待ちます。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/05/16 8:53 AM |

渡辺先生、有り難うございます。
そして、申し訳ありません。やはり、先を越されてしまいましたね、他の仕事に手間取っていてコメント遅れました。それに先のコメントへの返答が多方に向いてしまっていたのが理由です。どうかお気を悪くしないでください。しかし、渡辺先生とは生きている時間軸も相当違う様にも感じるのですが、、、

以下が書いていたものです。
 
 先生の『教育』『教育者』の哲学的なご意見の方を益々おうかがいしたくなりました。それと同時に自分の遠景に思いを馳せさせられました。
 私の記憶に残っている意識的な制作のはじめは、超合金のロボットが買って貰えず、裏の物置の中の廃材でロボットを作った事でした。おかげで今では好んでモノを購入する事がありません。買ってしまうと終わってしまう感覚が伴うからです。(これもトラウマなのでしょうか)その感覚はそのまま現在の自分の制作観にも反映されていて、出来てしまった結果よりも、そこへ至る過程の方に魅力を感じています。結果がどうでもいいという訳ではなく比べると経過の方が面白いという事です。作る側としてはその経過に自分自身の変化があり、その変化から多くを得られるからだと今現在は解釈しています。勿論俯瞰してみると出来たものが気に入らないという事も結局上記と同じで、制作に終わりは無いと思っていますが。
 何が言いたいのかと言えば、その『多くを得られる』という事自体、『学び』の原型なのではないのでしょうか(教育学の先生済みません)、さらに美術をやってみる事(作ってみる事)は言い換えれば自分自身で学ぶ事と、同時に自分自身を学ぶ事であるとも言えるのではないかと考えています。短絡的に聞こえるのはブログなのでお許しください。でも、これが今までやってきて行き着いてる考えなのです。その点において『美術』と『教育』がおおいに重なって見えて仕方が無いのです。
 そう考えると双方向のコミュニケーションでやり取りする中身が大分変わってくるのです。 


此処までが三つの書きかけの内のひとつですですが、隠せませんので告白すると地味に『学び』というもう一つの提起をしてしまっています。

◯続きも頑張りますが、少しペースを落として頂けたら助かります
| 石井壽郎 | 2009/05/15 11:33 PM |

渡辺です。少しだけ続きです。

先の書き込み(5/13付け)を含めて、本『教育』論議を提示された石井先生からも返信を戴きたく思っております。
私も貴方もあの頃は未だ若く…人間的に全く未熟だったのです…
しかし、今は同じ目的の職責を負う同志ではありませんか。
真摯に腹を割って意見し熱く語り合おうではありませんか。

勿論、全部門全委員どなたからでも…忌憚無きご意見ご感想等よろしくお願いいたします。
普通のブログの様に「短い感想1行」でも全く構わないです。

横浜国立大学 渡辺邦夫

次は折を見て…
右脳左脳の働きの違い、その相互のコントロールによる美術教育の視点を考えたいと思っています。
| 渡辺邦夫 | 2009/05/15 12:40 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

小澤先生、早速の嬉しいコメントありがとうございます。
とんでもありません。私の方こそ…ひょっとすると場違いで赤裸裸な告白の様な文章に、後で顔を赤くして恥じております。先生の様な理性と智慧を日頃の研鑽の中から少しでも高めたいと願っております。

『教育』と『教育者』の論議は…実は夫々の学科目や美術という教科内容学の根本に位置する重要な視座であり、且つ教員養成の立ち位置としての原点とでも言うべきものの確認作業とも言えましょう。その意味に於いて、本議題を提示された学芸大/石井先生の鋭い感覚を讃えるものです。

「人」は「人」に育てられ、始めて「人」となる。
「教師」は一日で成らず。
「生徒」は「教師」によって「次の教師」となる。
「教育」は「見る、解る、褒める、叱る、守る」5つの判断による人を育てる為の『人の慈愛』である。

今朝の5月晴れを見ながら走っていて…
心に浮かんだ『教育の哲学的格言』(4案)です。如何でしょうか?

我々が横浜スタンダード策定の折、本学若手教員は教育先進地フィンランド/ヘルシンキ大学活動理論・発達的ワークリサーチセンター所長/ユーリア・エンゲストローム教授を訪ね…インタビューし直接、教育理論を伺い、文献等調査も含めて参考にして来ました。フィンランドは言わずと知れた世界最高レベルの福祉国家であり、正に「揺り籠から墓場まで」…医療費、教育費、介護費、埋葬費に至迄、殆ど無料という完璧な社会福祉構造が成立した素晴らしい国家です。学校も勿論、公立校が中心で国家教育委員会が国家でカリキュラムの作成の中心となっている点に優れています。日本では教師は独りで悩む場合が多いのに対して…教師達がチームとしてカリキュ ラム開発に取り組み、互いにアドバイスをしあう点に大きな違いが有ります。夫々が信念とプ ライドを持った教師達が互いの教育方針についてコメントしあうのは難しいことですが、その事が画期的な同志としての研鑽に繋がっているのです。
日本は島国根性とでも言いましょうか…ベテランの教師は今迄、独りで苦労し開発して来た教育手法やカリキュラム等の奥義を寧ろ隠し「簡単に若手に見せるのは損だ」という愚かな考えや、時に、教員相互の競争意識から互いを批判し足を引っぱり合う更に愚かな雰囲気すらある組織すれ見受けられます。とても悲しいことです。フィンランドに於ける教員相互の理解→討議→協力の成果を見習うべきではないかと思うのです。その意味で本ブログは画期的なのです。
参考URL:http://www.chat.kansai-u.ac.jp/publications/tr/v2_3.pdf
(兵庫教育大学/保坂裕子先生/フィンランドに於ける学校と教育システムの改革)

学力世界一のフィンランド、その秘密は…「親子のコミュニケーションの時間がどの国よりも長い」「読書を趣味とする生徒の割合が世界でも っとも高い」「フィンランドの教育の成功の要因として、平等の追求、読書文化と並んで指摘できるのが、教師の質の高さ」と云われています。「質」と「平等」の統一的追求と成熟した社会構造が素晴らしい教育環境を支えているのです。
参考図書:『競争やめたら学力世界一 フィンランド教育の成功』(福田誠治著、朝日新聞社)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%8B%A3%91%88%82%E2%82%DF%82%BD%82%E7%8A%77%97%CD%90%A2%8A%45%88%EA

更に言えば…
フィンランド教育の基盤を整備した最大功労者/オンリ・ペッカ・ヘイノネンは、若干29歳で教育大臣に就任…教育改革に着手した手腕こそが背景に有るという驚くべき事実は…日本という国が「大臣が泥酔状態でサミットで会見し更迭」「総理大臣がマンガは読んでも漢字を読めず失言を繰り返す」「裏側の政府たるべき2番目の大政党も党首刷新に極めて人材不足(朝日新聞/立花 隆)」等々…日本という国は明治以来の「均質な学力向上偏重」によって「従順な働き蜂=企業戦士ばかりを量産」し…国家基盤に肝要な「社会保障政治や生涯有益な教育面を独創的発想による芸術や産業を疎かにしてして来た国」「勤勉で金は中庸に有っても幸せでない愚かな国」と…悲しいけれど言わざるを得ません。
参考図書:『オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの(NHK未来への提言)』
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4140812192.html
| 渡辺邦夫 | 2009/05/15 12:28 PM |

横浜国大 渡辺先生

先生の教育に対する長文の熱意のこもった具体的なお話、とてもよく理解できました。
私の教育論は、先生に比したらあまりに抽象的にすぎます。人間が堅いせいか、先生のような物語をみるような語り口ができません。また、いろいろとご教示ください。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/05/14 7:19 PM |

渡辺です。続きです。

私は感覚として学生を『大切な苗』と捉えているようです。半期程度の期間で一応は成立する時間系、苗が日々刻々と変化する漸変性、本来、その成長を教師は助けるだけで…実は苗は己の持つ力で成長するという関係性、達成目標が開花や結実という誰の眼にも見える教師の幸福感や苗自身の達成感等が「農業に喩えられる」のです。年々再々、繰り返す仕事という点も似ていますし、苗が無ければ=学生が居なければ…全く仕事にならず、時にしおれる苗に心痛み、中にはあまり世話しなくても育つ強い苗もある。苗は人間ですから勿論、夫々に考えも意思も悩みもあり、それを聞き取るのが教師の仕事ですが…教師にとって授業は実は授業前にその大部分が既に決定します…つまり、授業前の準備は誰も見ていない地道な努力=労働であって、配布資料の準備、視聴覚資料の作成、解説話術の練習、使用教材の準備(PCやソフトの購入等も含む)、教室整備(机や採光の状況も含む)、参考作例の保全や提示等が該当し…畑の土づくり土を耕す行為に似ています。その成果は…翌年に現れたりするのも良く似ています。教師が教室で行う日々の指導、一人々々への個別対応(助言、褒める叱る等の多くの対話的な話術を含む)は…苗の世話に他ならず、適言適所、その苗にとってその日その時は『一期一会』と認識すべきでしょう。

勿論、毎年、同じ話=金太郎飴ではありません…他には…
『ヘチマが夏ミカン』(幼き日の悪戯〜大失敗〜御陰様で感激の涙)
小学3年次、理科のヘチマ栽培の観察授業で…自分の班のヘチマが元気が無く…私が後から鉢植えに悪戯で埋めた給食で食べた夏ミカンの種が芽吹き…何時の間にか私の班だけ全く別の変な植物が生えてしまい…担任の先生にしたたか叱られ…班の皆に謝り許されて…何故か?その鉢はずっと大切にされ…6年次、大きな苗木となって…卒業の時、クラスの卒業記念樹として校庭に植えられ…やがて大きな木となって…たわわに夏ミカンが実った実話等、面白話は沢山用意しております。勿論、今でも母校の小学校の校庭には、毎年、私達の思い出の夏ミカンが実ります。(要旨簡略版です)

小学校低学年迄、実は私はADHD(注意欠陥多動障害)(証拠は…落ち着きが無く多動。高い危険な場所に登ると幸せ。何事にも過集中、どの関連文献でも症状は合致してます)落ち着きのない手が掛かる全くしょうもない悪ガキでした。恩師/野崎とみ先生の御人柄は素晴らしい方で……上履きを脱がず足を小さな木製の椅子に上げて手で膝を抱えてはガタガタ揺らすと、野崎先生はその度に、膝を叩いて叱ってくれました。(今では体罰と…教師は出来ない躾ですね)又、クラスの皆に迷惑を掛けた時には潔く謝ることも教えて下さいました。そして何より…絵や図工に集中する私の作品を心の底から褒めて下さいました。卒業以来、私は必ず年賀状を送り、個展やグループ展の案内状も欠かさず送付し…先生は便箋に手描きの素晴らしい励ましの御手紙を下さいました。横浜国大に戻った折、突然、野崎先生よりお電話を戴き…「膝小僧のやんちゃ坊主が大学で先生をしてる様子、私、見てみたい」とおっしゃられ…横浜線の最寄り駅に迎えに行き丁重に大学にお連れし授業参観して戴きました。
親に見られている様で…とても緊張しましたが、講評会だったので何とか無事職務を果たし…最後に野崎先生に一言お願いすると…こんなお言葉を戴きました…「この先生はね…小さい頃、とってもやんちゃ坊主でね。私はとっても苦労したの。だから私、忘れられないの。横浜市でずっと長く教員をして来てね、思い出に残る教え子は…優等生なんかじゃ無いよ。世話や手間が掛かった子ほど、よく覚えているものなの。皆さんも教師になるんでしょうけど…問題児にこそ、一生懸命にしてね。そうするとね…とってもとってもいい学級ができるんだよ。皆さん、今日は皆さんの素晴らしい自分のシンボル・マークの作品が見れてとっても嬉しかった。ありがとう!」

石井先生、先ずは、拙き「喩え話」恥ずかしい「思い出話」でお答えしてみました。
一見、余談余興の様ですが…実は教育や自分の成長に関する真摯な発言です。

教師と生徒、生徒と教師は…心通い合って始めて響くものです。
「教育」という営々と受け継がれる愛情の伝言の連鎖=DNAは…例え恩師が死んでも尚、その次の教師の『発する言葉に宿り蘇る』ものではないか…と私は感覚的に思っています。

追伸/次は「教育」とは何かについて…もっと深い『哲学的格言』を提言できればと思います。尚、思春期を迎えた頃、ADHDの症状は関連文献の通り減衰、無事完治しております。感想などよろしくお願いいたします。

横浜国立大学 渡辺邦夫

| 渡辺邦夫 | 2009/05/13 6:31 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

石井先生、『教育』と『教育者』をどう考えているか?いい提案ですね…是非、論議しましょう。

小澤先生、早速大変、熱く…高度な表現のコメントをありがとうございます。
先生のコメント『教育者の有るべき姿』良く解ります。私も同感です。

昨日の書き込みに纏められた石井先生の言葉「『教育』を双方向のコミュニケーションと考える」は…正に私の教育理念であります。全く意気投合、嬉しいです。本ブログに於ける学科目の枠を超えた論議の喜びや価値は、この様な相互発言、双方向のコミュニケーション=意思確認→相互理解→意思疎通に有るのだと思います。

昨日、松浦先生への返信をデザイン部門に書き込みましたが…その中にも私の教育に関する考え方や視座、授業の構築に至る経緯、大学という非常に限られた授業時間の中で肝要であろう信念を含むものと考えます。大学教員の授業は…長い試行錯誤と経験、高い理想と実践、己の研究や研鑽による哲学的学術的経験的な積層時間に於ける教師の「実感」の上に成立するものだと思います。

小澤先生の様に高度な示唆では無いかも知れませんが…
今回、私は『教育』や『教師という職能』を感覚的に即興で述べた『比喩話』で紹介してみたいと思います。
学生達を前にして「話をしなければならないのがこの職業」です。例えば卒業時謝恩会等…そんな時に私が良く話すフレーズの1つです。

『教育の仕事は植物を育てるようなもの』(晴耕雨読の勤勉さ)
「教師」と言う職業は…相手が人間=生き物だから、例えば「作品」といような「物」を作ったりするように…直ぐに結果は出ません。勿論、作品を作るのであっても…中々、思うように行かず難しいことを皆さんも卒業研究と格闘した経験で解ったことでしょう。その様な困難を乗り越えてこそ…人生に達成感や幸せは訪れるものです。「教師」と言う職業は…喩えて言うなら「植物を育てるようなもの」です。「水」をやり「光」にあて、時には「肥料」もやらねばなりません。「水」が生徒に助言すること「光」が知識や技術を与えること「肥料」が叱ることか一見関係無いと思うような本を読む事かどうかは解りませんが…大切なのは、植物、つまり「生徒や児童という大切な苗」をよく観察しあげることです。その気持ちを察してあげることが肝要です。「水」をやるのが楽しくても…もしやり過ぎれば植物は根腐れを起こします。光も肥料も多過ぎれば枯れていまうことだってあります。植物の状態を良く観察し、愛情を持って接することが大切です。皆さんが着任した学校は、その地域や環境によって土、つまり環境も夫々に異なります。
私は福井という田舎に住んで居た事があり…借りた家の脇に小さな畑を作って…キュウリやトマトや茄子等を植え少しだけれど農業を経験しました。その時、家の裏に住む高橋さんというお爺さんが「渡辺しゃん!あんた畑しゅうか?」「ええことしゅう!」(福井弁:渡辺さん、あなたは畑をするんですか?いいことをしますね)といって…苗の植え方、水のやり方、肥料は直接根が触れない距離にまく、強風で苗が倒れない様に棒を立てて養生すること等、色々と親切に教えてくれました。
2年目、その私の農業の先生/高橋のお爺さんは言いました「渡辺しゃん、ええか。畑は土や」といって…苗を植える際に土に肘迄入る程、畑の土を深く耕すことが大切だと…表面的に眼には見えない農業の秘訣を教えてくれました。
土を作ることは「教育」で言えば…生徒や児童たちの学習の為の環境を作ることです。良く耕して愛情を込めて作った良い土に苗は良い根を張ります。耕した良い根は、土から「水」や「大切な養分」をたくさん吸って、苗を立派に育てるのです。その成長を見守ること、苗の気持ちになって常に考えることが大切です。その苗は…やがて立派な「花」を咲かせ、立派な「実」を実らせることになるのです。その喜びは…土を苦労して耕し、苗を大切に育てた者にしか解りません。
どうか、自分の畑=クラス全体を緑輝く畑に出来る、一人々々全ての苗の声を優しく聞けるような…愛情深い立派な先生になって下さい。
「晴耕雨読」勤勉は力です。皆さんの人生に…幸多かれと祈っています。
甚だ簡単ですが、卒業という晴れの節目の挨拶とさせて戴きます。
(私はこの時、咄嗟に…教師を一人の農夫に例えました)

前にも述べましたが…ブログに書き込みをして自分が始めて気付くことが有ります。モヤモヤして良く見えなかったものが、文字にして打つことで…始めてクリアな自覚として明快に見えて来るような感覚です。

そこが個人としても貴重です。無論、同部門委員、他部門委員の先生方との論議での気付きや学びも大きな糧です。
| 渡辺邦夫 | 2009/05/13 5:36 PM |

小澤先生有り難うございます。

 ご丁寧なご返答有り難うございます。自分から提起しておいて予想だにしなかった内容の深さに驚きとともに喜びを隠せません。先生のお書き込みから見えてくるご真剣さ沁みてきました。そして、毎回の小澤先生(渡辺先生も)のご長文には頭が下がり恐縮しております。(その一方、お仕事にご支障ないのかと心配にもなる時も)
 書かれた事を抽象的とご心配なさっておられましたが、このテーマも美術と同様に答えが無い事ですし私も実技系だからでしょうか、かえって伝わって参りました。それと同時に本当に難解にして魅力的な2つの事象をまたがるコトを相手にしているのだと自覚もさせられます。
 やはり小澤先生も『教育』を双方向のコミュニケーションと考えておられているご様子なので、ひとり小躍りする気分を頂きました。先生の書き込みを読みながら『いじめは人間の本能だから無くならない、しかし、自分の中に他者を見つける事が出来れば、それは他人事では無くなり良い方向に向うだろう』という意の事を、養老孟司氏(要確認)が記されていて、此れまた難解な問題も『自己』という事から解決可能なのだと解釈し変に納得した事を思い出させられました。
 私も教育は双方向のコミュニケーションだと考えております。そして教育者は対象者と社会の間にたつ生身のメディアであり、対象者が今後を自分らしく生き抜ける為の自己構築(基礎としての)を促進させるべく存在できれば良いではないかと。(現時点では)遠回りかもしれませんが結局それが自分を取り巻く世界をかえる事に繋がるのでしょう。未だ小澤先生がおしゃっておられる様な自分にはほど遠いのですが、其処に存在し身の回りと影響し合い楽しい今後を指向しております。
 明治以降流布された学校教育は知の分配において合理化され、それを善かれ悪しかれ特化させていったと理解しています。幼児教育はその学校教育前の準備教育である性質が強い事も。『幼児教育・保育は子守り(何も特技のない人がする事の意)から始まっている』と某国立女子大学の大御所から再三聞かされました。その流れでしょうか、私の見てきた限りでは幼児教育・保育界とそれ以後の学校教育界の分断が著しく見えております。その中での美術域はいつかの書き込みで福島大・渡邊先生が書かれていたご自身の大学状況の様に、幼児教育域の最大の学術学会でも、美術関連域の発表は極少です。幼児以下の事ですから他領域の事例材料は幼児造形ばかりなのにも関わらずです。かのバウハウスでも幼児造形は研究されていた事実はあり、クレーをはじめとする芸術家ご歴々も幼児の表現に着目していたのは先生もご存知のはずです。単に自分の素朴な疑問として漠然と『人とは』という事を胸に某大の人間関係学部・保育学科に飛び込みまして、上記の様な事情に巻き込まれながら此処まで来ましたが、これも今となっては無意識に自分の根を確認したいという欲求だったのかもしれません。
 改めまして今回のこの成り行きは本当に貴重にして希有なことです。是非に、今後とも宜しくお願い致します。

石井壽郎

| 石井壽郎 | 2009/05/13 4:03 AM |

学芸大学 石井先生へ

教育とは?という実に深遠で難解な問題提起、あらためて考えるよすがとなります。ありがとうございます。

教育者とは、まずは本人自身が「自分とは何か」、つまり自己存在の意味と自身の可能性の所在を日々志向するメンタリティをもっていることが何より前提になると考えます。教育者本人がその問題意識をいかに高く抱いているかが、その本人からまずオーラとして放たれると思います。この言葉にならない「気力」みたいなものが、教育者たるものの大前提と考えます。

そして、自身に対する深い洞察と高い理想へ向けての日々の研鑽、おそらくそれは私たちであれば絵であるとか、デザインであるとか、そういうある特定の専門媒体を通して具体的になされていくのですが、それらよって自分の達成度が日々確認され、それによって次への展開の思索が生じ継続されていくのだと、私は考えます。こうした日々の自分自身に対する洞察が、他者理解の確からしさを生みます。自分を理解しようとしないでは、他者は理解できません。
まずはこの志向性が、教育及び教育者としての大前提となると考えます。(これは教育者といわず「人間として生きること」の大前提とも言えます)
 
 自己への志向性、そしてそれに基づく他者理解、これが「教育者」としてのベースです。したがって、そもそもこの段階で間違った自己への志向性を抱いてしまっては、他者理解も間違った方向性を得てしまいます。もっとも大事な点は、自己理解をいかに正しく行うかです。純度の問題だと思います。ものすごく抽象的な話になってきてしまいますが、この点が一番肝要なところだと思うのです。自分を深く洞察するということは、自己の正当化とは違います。自己のなかのネガとポジ、善悪、長所と欠点、それを相対化できる客観的な視点がそこには必要となります。これが大変難しいです。

上記の志向性が教育者たる前提、「核」としてまずあります。そうするとその核にひきつけられて来る諸処の事柄、情報、知的所産等々があります。私は絵画を教えていますが、絵画は広大な領域を含みます。その全てを得ることはできません。自分の核に引き寄せられるものが、自分にとって、自分の言葉で語りえる絵画の世界です。まずはそれを獲得し明確化すること、それが教育者として教育を展開する軸となると考えます。もちろん、それだけでは教育は矮小化します。一番大事な視点は、自己を常に相対化できる視座です。基軸の周囲に、少し自分とは距離感のある事象を少しずつ付け加えていきます。基軸とその外周、それが私の教育者としての教育内容の捉え方のイメージです。
 教育とはエピゴーネンを作ることではないことは、言うまでもありません。矮小な知を単に伝えることではなく、教育を受ける人間それぞれが自分自身への理解と洞察に開花し、それを深めようとしていく主体性を得るために(自己実現の問題)、そっと背中を押すことだと思うのです。そのために知的要素が必要な場合もあるということです、が、それらの知は、あくまで自分との関係のなかで常に生きたものであるべきです。私の考える制作学とはまさにこうした知のあり方です。

そもそもの前提は教育者自身がよりよく、そしてより深く生きるための日々の志向の「実感」、それが以心伝心で伝わっていき、教育の場に一つの「気」が満ちていることだと考えます。この点では横浜国大の渡辺先生と全く同見解です。それがまず前提としてあり、しかし、教育を受ける側には様々なレベルがありますから、そのレベルに応じて、言葉を活用したり、方法論を生かしたり、という展開の多様性の必要が生まれてくるのだと考えます。教師の「気」を阿吽の呼吸で感得出来る学生もいます。それも教育です。そうでない学生もいます。そのときは「気」を前提としながら、それを少し説明する言葉が必要となります。それも教育です。国立系教育学部の学生は、もちろんそれぞれの大学で異なるでしょうが、基本的には同じようなメンタリティと知性を持っていると想像できますから、今このブログで行っている内容学に向けての議論は、大学間を問わず普遍性を得ていると考えます。

教育とは、教える側も教えられる側にとっても、「自分自身とは何だ」という自己あるいは人間自体へのたゆまぬ洞察を喚起する手立てであり、その意味では一方通行のものではなく、二者は相関し相乗的に作用すると結論したいと思います。自己理解と他者理解、総じて人間理解、それを超えた全自然の理解、その結果得られるであろう豊かさ、安らぎ、幸福な宇宙像。

少し抽象的過ぎる意見となってしまいました。石井先生、これで勘弁ください。

埼玉大学 小澤基弘


| 小澤基弘 | 2009/05/12 11:37 AM |

学芸大学の石井です。

 5/8の横国・渡辺先生ご所望の幼児教育系の事に幼児・教育保育の専門「でも」ない私が恥ずかしくも触れようとしましたが、その前にひとつ気になる事が出て参りましたのでおうかがい致します。
 横国・渡辺先生、そして小澤先生、さらにこのワーキングに参加なさってこの書き込みをご覧になっている方々でこの『全体議論』に参加なさる方には、簡単で結構ですのでおうかがいします。『教育』と『教育者』をどのようにお考えになっているでしょうか?『教育』とはどのような事なのか、『教育者(先生)』はどの様な職業なのか、一般的な概念としてではなく、それぞれのお考え(所見でも構いません)を今後の議論の前提としてうかがってみたいと素朴に思いました。
 美術の内容学のワーキングですから、美術のお話しが中心なのはあたりまえなのですが、『美術教育』の片方の『教育』側の議論前提を設定されていないのだという事に今更気がつきましたので、閑話休題の意味も込めましていかがでしょうか?
 横国・渡辺先生はどのお書き込みも非常に教育的でその事にもご熱心だという事は伝わって参ります。ですからそのご本人ご自身の『教育観』は是非ともうかがいしたいと思います。(済みません・Mailでもよかったのですが、このブログ全体にも関わる事だと思いましたので)
 
 ブログ構築のご褒美とお考えになって頂いて、宜しくお願い致します。
(松浦先生申し訳ありません、これくらいは許してください。)


(おまけ:ノマディック美術館はDVDまで持ってます。)

| 石井壽郎 | 2009/05/11 11:41 PM |

渡辺です。毎度、誤字訂正ありました。すみませんでした。

21世紀のキワード → 21世紀のキーワード
21世紀のキーワードである環境教育は美術教育とは関係ないと言うことのできない教育全体の問題であると認識すべきではないかと思います。

自分自身に今日見いが無いのだ。 → 自分自身に興味が無いのだ。
「私は自画像は描かない。自分自身に興味が無いのだ。別段、面白みのある人間では無い。言葉は…書くのも喋るのも苦手だ。私の事を知りたいと思う人は…私の絵を丹念に注意深く見て欲しい」「私が何者で何を求めているのか…絵から知るように努めて欲しい」グスタブ・クリムト(生涯に一度だけ自分に触れた文章に)

小澤先生
ご賛同ありがとうございます。心強いです。論議を継続して参りましょう。

美術を主要教科にまで引き上げるのは困難でも…美術という教養や素養が『人生を幸せにするもの』であることを訴えたいです。
理論武装というと…やや戦闘的で物騒ですから…私は…芸術立国/フランス、デザイン立国/フィンランドの様に…国民全体が美術の必要性を認識出来る様な…正に『教育論』を導き出せば良いのだと思います。フィンランドについては後述するつもりです。


皆様へ

東京都庁が竣工した際、日本で始めて総予算の3%を周辺に設置する現代彫刻に出費したのは有名ですが…欧米では既に一定規模以上の建築には壁画や環境彫刻に費用捻出が条例で定められています。更に芸術の国=フランスでは国家予算費の芸術に関する予算規模は群を抜いています。
イサム・ノグチのキューブもルーブルもオルセーもポンピドーも、それら芸術を本当に愛し理解する国民の総意によって設置され運営されていることを注視せねばなりません。
国家が芸術や美術を…生涯、愛せない理解できないでは…その国の文化的レベルが問われましょう。日本という国が受け継いで来た類い稀な美を諸外国の第一線級のクリエーターにその価値を絶賛されて…尚、国民自身の多くは、その美を本当には理解できていない…という点が問題だと思うのです。美術品というと…某鑑定団で幾らの値段が付くかに興味が集まるだけが一般人の関心時…本来、鑑定人だけでは無く、広く国民が芸術の価値を理解できることの方がより価値あることでしょう。修学旅行の学生達等が『世界遺産の姫路城やフィレンツェのドォーモ(花の大聖堂)に落書きをする』という悲しい現実が…その問題点を世界周知の恥として曝しています。

京都で東寺、大徳寺など作庭家/重森三玲の禅寺を見て回った時、よく出会ったのは老齢のフランス人ドイツ人等、欧米人でした。東洋の思想、自然と共に生きる、禅の思想、色即是空、等…地球環境破壊の窮地に或る今『際限の無い物欲の世界』から決別し新しい価値観としての『心の世界』を見出そうとしていると感じました。フランスは現在、第二の禅のブームだと聞きます。

私が見た中で生涯最高の衝撃を受けた展覧会ノマディック美術館を紹介します。
世界各国を14年の歳月を掛けて周り…象の眼から世界を新たに見た作品『Ashes and Snow』を発表した偉大な映像作家/グレゴリー・コルベールは言いました「ナルシストである人間は人間の世界にしか興味が無い。人間は自分達の物語にしか関心が無く自然という偉大な著作を読もうとはしない。人間は愚かで世界は人間の為に有るとしか考えない。人間はくだらないオモチャばかりを集めては喜んでいる。もうそんな時代は終わりにしなければいけない」http://www.ashesandsnow.org/jp/

もしも日本で彼の作品を見そびれた方は…上のURLで本物は巨大な作品の雰囲気を見ることができます。
全く特撮合成CGを使用せず…彼は象と、ジュゴンと、座頭鯨と一緒に泳ぎ…写真映像に収まっています。

我々人間は 一体、何なのか
その大きな根源的な問いに…彼は全身全霊を掛け…この作品で1つの答えを我々に投げかけています。

横浜国立大学 渡辺邦夫

| 渡辺邦夫 | 2009/05/11 10:36 PM |

国大 渡辺先生

 いつも先生のご議論は熱を感じて、とても感化されます。
まさに「実感」ですね。

 「地域」の問題、あくまでも私の経験地の無さに起因する問題です。これを柱の一つに据えることには全く異論はありません。

 渡辺先生のご指摘された派閥の問題、よく分かります。しかし、この美術教育が窮地に立たされている現在、そんな問題に翻弄されている場合ではないと思います。本質論で語り合わねばなりません。要は美術教育という曖昧模糊として一般には受け取られがちな学科目を、主要教科にまで引き上げるための理論武装こそが、今必要なのだと思います。美術は、渡辺先生の主張にもあるように、最も重要な学科目だと私も信じる一人です。

 もう一つだけ。クリムトの話、確かにその通りだと思います。言葉に語れないから絵で表すということ、よく分かります。私は最初から絵のすばらしさを100%言葉で語れるとは考えておりません。どうしても言葉は蓋然的にならざるを得ません、が、だからと言って、それをしないということは、やはり敵前逃亡のように私には感じられてしまいます。要は語り様だと思います。科学のように客観的には到底無理です。感想程度でもいいのかもしれません。要は、言葉にするということは、作品を振り返るよすがを与えます。それが大事なのだと思います。

埼玉大学 小澤基弘



 
| 小澤基弘 | 2009/05/11 6:52 PM |

再び渡辺です。少しだけ続きです。

教員養成系大学に於ける某大学(芸術系)と某大学(芸術+理論系)派閥抗争の歴史(私はあまり現実的には知りません)も、此処に由来するものと感覚的に理解しています。しかし結論として…その様な悲しい過去の時代に終わりを告げ…我々は新たなる美術教育の新時代を切り開くべき本WG職責に或ると自覚せねばなりません。その様な旧来は乖離し時には敵対?してさえ居た学閥?が…しがらみの枠を超え1つの共通理念=教科内容学構築の元、闊達な意見を言い合える『場』を共有しているのですから…本当に貴重で有り難いと私は思います。小澤基弘先生、渡邊晃一先生、そう思いませんか?

唯、中には上手く言葉には出来ない優れた感性の教育者が潜在していることも忘れてはならないと思います。
逆に、だからこそ「短文であっても発すべき」私は考えます。そこに志向性の相違が理解されると信じます。

学科目分野を超えて委員諸氏の忌憚なき御意見をお伺いできるなら幸いに存じます。

追伸/2.横断的な分野、総合的な分野の検討が必要について 難しい点も含むので…次回にしたいと思います。
   3.賛成です。4.「西洋美術史の偏重」の指摘について 既発言に既に示唆が含まれていると考えます。
   6.美術教育における「感性」について これは、非常に重要な問題と認識します…次回以降に致します。

横浜国立大学 渡辺邦夫
| 渡辺邦夫 | 2009/05/11 6:02 PM |

渡辺です。続きです。

過日、冨安敬二先生に呼ばれ「伝統工芸品絵画コンクール」中央審査委員をしましたが、日本が誇るべき伝統工芸は需要減少に日本各地の産地で夫々に困窮、更に深刻な後継者不足に悩んでいる窮状は、我々美術教育にとって無縁なことでは無く、早急に検討すべき課題ではないでしょうか。美術という分野は『国民の生活を生涯幸せにする力を持っている素晴らしい教科である』にも関わらず、ブルーノ・タウト(桂離宮を絶賛)やフランク・R・ライト(浮世絵をヒントに落水荘を設計)達に絶賛して貰えなけらば…自国の素晴らしい美の価値が理解できない自信が持てないという日本人、しいて云えば…それらの史実を教育現場で十分に教育されていない現状に問題が有ると言えるのではないでしょうか。

1.3)自己実現や志向性に結びつく(制作学)について
本項目には小澤先生が非常に積極的な観点から提言をされており、今後の展開に期待する処です。
私は「体験による「実感」をどう与えうるかという美術の教育的視座」に関する元論を述べてみたいと思います。
我々教員養成系大学で美術教育に従事する教員は…大きく実技系、学科系の2つに大別され、実技系が絵画・彫刻・工芸・デザイン、学科系が美術理論美術史・教科教育に弁別されています。制作学なら当然、実技系の話が中心になろうかと考えがちですが…小澤先生ご指摘の如く…実は制作の意義や構想、作品の発表形態など、美術史や美術理論に深く関わってくる問題であり短絡的な自己表現や志向性に陥らないという観点からも様々な論議が必要であろうと思われます。

ここで「作家の作品制作」と「作品に付随する執筆」について考える処を述べ…一石を投じてみたいと思います。

工芸/石井壽郎先生のみならず、私も画集を集める程、好きな画家…クリムトが居ます。
彼はウィーン郊外に金細工職人の子として生まれ、博物館附属工芸学校に学び『抱擁』『接吻』『ダナエ』『生命の樹』等、装飾的な美に官能的なエロスを結実した素晴らしい画家ですが…彼も又、日本の淋派/尾形光琳『紅白梅図屏風』等、日本の優れた美術品から多大な影響を受けています。背景に大胆に用いられた金地、完全に平面化された装飾文様に日本美術の影響が顕著に見られます。つまり、彼の作品は…絵画であり工芸でもあるのです。又、西洋画であり日本の美意識が異花受粉しているからこそ、我々日本人の感性の深淵なる部分に『美』として強く響くのです。そして、彼は画家として本論議に対し…非常に逆説的に興味深い言葉を残しています。
「私は自画像は描かない。自分自身に今日見いが無いのだ。別段、面白みのある人間では無い。言葉は…書くのも喋るのも苦手だ。私の事を知りたいと思う人は…私の絵を丹念に注意深く見て欲しい」「私が何者で何を求めているのか…絵から知るように努めて欲しい」グスタブ・クリムト(生涯に一度だけ自分に触れた文章に)
よく社会では芸術家は変わり者として扱われますが…天才の彼も又、そうであって、典型的な内向的性格を持ち…作品に込めた死と性とエロスの怪しい美に「神秘的な本質を隠して」非言語として存在しているのです。
私が此処で言いたいのは「その様な「非言語性によって」芸術とはその価値を保っている場合も有るのではないか」ということです。評論家が作品を語って芸術は理解される場合も有りますが、作家は…自身の作品を語らない場合も有るのではという考えに立脚しています。
勿論、小澤先生の先の貴重なご意見に反対する分けではありません。大学教員ならば…発言や執筆の力量が問われるは必定ですから。実は、この問題には「脳」が深く関係しています。近年、宇宙に次いで未研究領域と称される「脳」が新たな研究よって明らかになりつつあります。右脳は感覚脳(音楽・美術・芸術など)、左脳は記憶脳(言語、会話、記憶など)を担っているのは周知の通りです。忌野清志郎の名曲『僕の好きな先生』ではないですが…美術室の脇の部屋で独り絵を描く高校美術教師は言葉が少なく人前で話しが苦手でも…だからこそ「他教科の先生には無い直感的な包容力や観察眼を持って人智なすべき事を諭せる」ような気もするのです。美術の学習にもっとも大事なことは、体験による「実感」であるのだけれど…その「実感」すら言葉にするのが苦手な人が…芸術家には多く存在するのは事実です。言葉では表すことのできない感動を描き止めるのが絵画…という先の私の言葉に繋がるものです。勿論、異論もございましょう。
クリムトは55歳で病で没しますが、友人シーレは彼の死顔をスケッチし…こんな言葉を残しています。
「信じられない程、完成した画家。稀に見る奥深い人物。その作品は聖なる宝」エゴン・シーレ
| 渡辺邦夫 | 2009/05/11 5:57 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

小澤先生、早速に示唆溢れる非常に勉強になる書き込みをありがとうございます。
私の5/8付けのコメントに…肝心な前提が抜けていましたので補足させて戴きます。
勿論、…松浦委員長福島大学渡邊先生のご提案を軸として問題提起されている点について私も賛成です。

前回は、1.1)発達段階に応じた美術教育という観点について のみになってしまったのですが…
雑感を述べた処、小澤先生が「美術の学習にもっとも大事なことは、体験による「実感」である」と私の雑感の核心を抽出提言して戴き感謝です。そうです。私が言いたかったのは体験による「実感」をどう与えうるかという美術の教育的視座に他なりません。此処では先のコメントに述べられなかった点について記します。

1.2)地域づくりについて
私は違和感は全く感じません。夫々に地域と連携する美術の考え方は存在しているでしょう。私は横浜市営バスのデザインを教員学生共同で産学連携で取り組んだ経験(関東地区二部会/横国大で発表)がありますが…地域の特徴に応じた美術教育に携わる教員の活動貢献は必要と思います。幾つかの部門で私が述べているように…我々は日本、自分の生活する土地の文化的背景について「もっと意識し誇るべき文化や美として自覚せねばならない」と既に主張しています。但し私は決して右翼でも国粋主義者でも有りません。ですが…明治開国以来、日本は欧米列強に追いつけ追い越せとやっきになり…海外から輸入した材料で製品を作っては売る経済最優先の世界に冠たる工業経済大国となり…自国の優れた伝統や美、生活に関する美意識や良識をある意味では軽視し見落とし続けてきた経緯が有ります。江戸期の循環可能型社会は捨て、資源消費大国になったようにです。
美術の変遷に眼を向けた時、印象派・ナンシー派・分離派等の素晴らしい芸術活動は…実は日本の浮世絵や淋派等の美術工芸品から影響を受け…全く異なる発展を遂げて来た「西洋と東洋が異花受粉して新しい芸術が生まれた」のは周知の如くですが…何と!現代の殆どの若い大学生達(例えば建築専攻や美術専攻であってさえ…)は、それらの美術史上の経緯を知らずに居ます。そのことは色彩論等、教養授業のレポートで多く見られ…例をあげると「今迄、欧米に対して劣等感を持っていたが、浮世絵を印象派の巨匠達が模写し模倣する姿を知る事で日本人であることに自信が持てた」「先生が授業で日本人は元々、侘び寂びなど優れた色彩感覚を有する高い感性を持つと言われて正直ハッとした」「世界最高ファション・ブランド/シャネルのトップデザイナーが日本の伝統工芸である草木染めや浮世絵に使用されていた紅花に含まれる蛍光性に着目して学ぶ姿を見て日本人である事に誇りを感じた」等です。現代の若者が日本の本質的な美を十分理解できずに居るのが…私は教育者として我慢なりません。日本の類い稀な美術に存在している『繊細で智慧に溢れた伝統美』をもっと我々は見直すべきではないでしょうか。

予備校(正確には石井先生の居た某予備校から前理事長/冨安敬二先生に引き抜かれた先の某予備校です)の共通の教え子で芸大助手後輩/木下史青(国立博物館)が取り組んでいる国宝(現在、阿修羅展開催中)に秘められた思想性美的造形性を再認識する展示活動は、正に本項目に該当する国民への美術教育に対する大きな貢献と評価すべきです。

又、地球環境保護の観点からも、工芸は元来、地産池省(地元で産出する材料を加工して製品とする)に派生したものなのであって…木材について言えば、森林面積は国土の約66%が森林である我が国は林業の疲弊で人工林を放置し…木材自給率は約19%にしか過ぎないのが現状です。大問題となっている食料自給率は僅か28%、全体で見た時の日本の資源自給率は僅か4%というのが…悲しきこの国=日本です。勿論、これら切迫する問題は、社会構造や産業構造に関する非常にポリティカルな問題であって、我々、美術教育だけでは到底解決することは不可能な大きな社会問題なのです。しかし、21世紀のキワードである環境教育は美術教育とは関係ないと言うことのできない教育全体の問題であると認識すべきではないかと思います。その考えは、先の岡山大学/山本和史先生への木工芸のコメントに繋がっています。
| 渡辺邦夫 | 2009/05/11 5:52 PM |

松浦先生のご提案を受けて(続き) 埼玉大学 小澤基弘

松浦先生のご提案の6番目の「感性」の問題について書き込ませていただきます。

2年前、絵画の教育内容を知るために、全国国立大学教育系の絵画教員の先生方にアンケートを実施させていただきました。66名の先生方にお送りし、27名の先生方から回答を得ました。そのなかの質問の一つとして「感性」についてアンケートしました。

アンケート事項
「〈感性〉という語について、その定義や捉え方についてどうお考えですか」

多くの先生が積極的な回答を寄せてくださいました。そのなかから内容を要約したものを以下に記します(できる限り原文に忠実)。

・美術教育が立脚する人間的価値の一つと押さえ、美的感性として狭く捉えるのではなく、物事に対する関心の寄せかたまで含めたものとして考えている。
・コンセプトを提示するにあたっての各個人の思考こそ感性の本質。
・目と手と関連する脳機能のことである。
・感性とは曖昧な感情の波ではなく、むしろ明確な命題に対する思考の方向性を指す。
・感性とはむしろ〈情報の拡大〉を意味する言葉である。

まだ他にも回答例がありましたが、傾向としては上記に抽出した内容が多くを占めていました。つまり、感性とは、フィーリングというような決して曖昧なものではなく、「物事への関心の寄せ方」、「思考」あるいは「目的への思考の方向性」だと捉える先生が少なからずいるという結果を得ました。脳機能とまで考えている先生もありました。これを学習指導要領の文脈で考えれば、「感性を働かせながら」とか「感性を豊かにし」ということは、つまりは目的を設定しそれに向けていかに思考力を高め主体的に方向付けられるか、ということとも言い換えられるのではないでしょうか。一般的には、感性と思考力とは分け隔てて捉えられているきらいがあり、それゆえに感性という語に実に曖昧な付加価値が付けられてしまっているように思います、が、大学の絵画教員の多くが、そうではなくて感性と思考力とはかなり近いものとみなしている傾向にあるようです。この視座から考えると、ある程度学校現場において感性というものを測ることができるように思われます。

他方で、やはり感性とは「物事に感じる能力」であるとする考え方もみられました。確かに一般的に捉えられている感性の定義はこちらに拠っているかもしれません。しかし、そうであると、「感じる能力」の尺度がどこにどうあるのか、それを明確にする必要性が出てきます。ここが悩ましい点です。例えば、画面いっぱいに木をカラフルに描いた絵が、画面のなかに小さくモノクロームで描いた木の絵よりも、感じる能力を高く提示しているとは、一概に判断できません。そうなるとジャコメッティなどの人物画や静物画などは、どう判断すればいいのか、ということになります。感じる能力の定義はとても微妙です。

現実として、大学の絵画教員の多くもこの感性という語にはてこずっており、ただし、それを曖昧なものとしては留めておきたくないという意思は強くもっている傾向にあるといえます。

とても中途半端な発言になってしまいました。私の中でもまだ整理のついていない問題であります。

埼玉大学 小澤基弘
| 小澤基弘 | 2009/05/11 3:30 PM |

(続き)埼玉大学 小澤基弘

2)地域つくりについて
 「地域つくり」と言うと若干違和感を私は感じます。要は、その土地と表現との関係への視座ということだと思います。このヴィジョンは私には皆無です。ですからコメントはできません。町おこしとか、そういう問題を越えた観点、「ゲニウス・ロキ」というラテン語があります。「土地の神」という意味です。風土的自然のあり方(光、気温、湿度等々)だけではなく、土地それ自体が放つ「気」のようなものも含んだ、実に奥の深い問題が内包されます。その視座は美術表現にはとても重要だと思います、が、具体的にそれを教育内容学の柱とする場合、どのような内容構成となるのか、どういう授業形態が考えられるのか、これもまた福島大学渡邊先生のご知見を伺えればと思います。

3)自己実現や志向性に結びつく(制作学)について
 国大の渡辺先生もご指摘のように、美術の学習にもっとも大事なことは、体験による「実感」であることは、言うまでもありません。ただ、「実感」とは実に曖昧なものです。自分はこう思う、こう感じると指導するだけでは、「熱」みたいなものは伝わりますが(それが一番大事なのですが)、やはり大学での指導ですから、そこには教育へと普遍していく客観的言説が必要となります。つまり、自身の「実感」を他者に言葉で伝える視座、それが「制作学」の本質です。それは自身の制作に対する「反省」が出発点となります。「反省」という語は、実に深い哲学的意味を内包します。つまり、いかに学生に自己制作を反省(内省)させるか、それが「制作学」の目的です。高校生に対して筑波大が実施しているアートライティング大賞などの動きは、その一貫として大いに意味のあることだと思います。
 昨年私が4ヶ月間勤務した西オレゴン大学では、A Short Guide to Writing about Artと題したSylvan Barnet(タフツ大学教授)のテキストを学生たちは使用していました。他にカリフォルニア大学サンタバーバラ校のMashey Bernsteinらが書いたWriting for the Visual Artsも使われています。それらのテキストの基調は全てpeer review、つまり「鋭い自己省察」です。こうした既にある知見をまずはきちんと整理して、日本的文脈の中に読み替えたテキスト作成が急がれます。もしこの点に興味をもたれている先生がみえましたら、是非これらのテキストの共同翻訳を致しましょう!日本では未だにこの分野は未開拓です。この系統の本は皆無です。この問題は、千葉大学の神野先生が言われる「美術文化」への視座ともつながると思います。「制作学」は座学ではありますが、その基盤は実技制作にあり、その意味で「描くこと」と「知ること」の相関のなかに位置づけられます。先の発達段階の問題とも絡みますが、実技系教科内容学の場合、一番求められる視座は、この両者の相関にあると思います。ですから、やはり指導する教員は基本的に作家であることが必要です。本人が常に制作にまみれ、そのなかからまずは自身の問題となっているものを抽出すること、それが全ての基点です。そして当然、学生にもそれと同質の視点を求めねばなりません。つまり「制作学」とは受身の学ではなく、能動的な学といえます。

ここまで書いて、少し疲れてしまいました。続きの「総合的な分野の検討」と「造形遊び」、「美術史」についてはまた後日書き込ませていただきます。

追伸:国大の渡辺先生、「絵画の教科書」の宣伝をしていただき、恐縮しております。ありがとうございました。

埼玉大学 小澤基弘
 
| 小澤基弘 | 2009/05/10 12:53 PM |

松浦先生をご提案を受けて・・・・埼玉大学 小澤基弘

しばらく赤城山にこもっており、本日下山しました。

活発な議論が展開されている様子、まだ頭が回転できていませんが、とても勉強になります。

松浦先生のご提案に関する私の考えを簡単に述べさせていただきます。

まず、松浦先生が福島大学渡邊先生のご提案を軸として問題提起されている点について、私は賛成です。特に3つの観点を機軸として、「絵画」だけでなく、他領域の内容学をも同時に考えていくことは、問題が相関化・相対化されます。

1)発達段階に応じた絵画教育という観点について
 この観点は、おそらく今現在日本の教育系大学の実技系では殆ど行われていないと思います。その最大の理由は、指導する教員に、それについての経験も知識も乏しいからだと思います。かく言う私もその部類です。
 この観点を考える際にもっとも重要な点は、「絵画」分野で考えた場合、発達段階と描画のあり方との相関の「確からしい根拠(臨床例の集積による)」が今現在どこまで得られているのかということです。単に身近で乏しい臨床的経験からだけでは、それを普遍的真理として大学の教育内容に安逸に入れ込んでしまうと、それが既成概念となり、実際の学校教育での指導の際に縛りとなってしまう危険性もあります。

 描画投影法やバウムテスト等々、絵画においては、発達段階と表現との関係、そこから読み取れる児童生徒の心的発達や心理的有り様の研究は、かなり以前から行われています。私はまだこの分野の知見にはうといですが、もしこの観点を教科内容学のなかの大きな柱として入れ込むのであれば、「根拠」の確立が必要不可欠です。この点について、是非とも福島大学渡邊先生のご知見を伺いたく思います。

 もし発達段階と描画表現との相関を教育系大学の「絵画」の教科内容学として入れ込む場合、それを行う指導者の質が、これまでの絵画教員とは異なるものになることは必然です。前述のように、現在この観点がなされていない理由は、絵画教員の殆どが作家という立場に傾きすぎているが故だと思います。現段階でこの観点を教育内容として盛り込んだ場合、殆どの現在の絵画教員は、この観点をゼロから勉強しなければなりません。かく言う私もその一人です。横浜国大の渡辺先生が述べられているように、知識としてではなく、あくまで「実感」を伴う経験的知見が、この観点のためには一番大事と思います。つまり、学校現場での臨床例の網羅的検証を根拠とする発達ステップと描画との相関です。しかし、その確立には、長い時間がかかると思います。あるいは私が知らないだけで、既にこの理論が確立されているのかもしれません。どなたかお知りでしたらご教示ください。
 
 この観点を教科内容学の柱とするのであれば(私は必要と思いますが)、発達心理学・認知心理学等の科学的分野、学校現場(臨床)、そして大学教員との連携的研究が必至です。私は個人的には、この分野の興味に目覚めてきており、うちの大学の心理学の先生と今後連携を密にして、その分野での知見を得たいと思い始めているところです。

 もう一つ、この観点を内容学の柱とするならば、これまでの実技を絶対的中心としている「絵画」分野の授業のあり方そのものの見直しともなります。つまり、絵画領域の中で、「描くこと(実技)」、そして、「知ること(座学)」という二つの大きな柱による授業構成が必至です。もちろん「描くこと」が全ての基盤にあることは言うまでもありません。学生自身の「描くこと」の際に得られる様々な実感(材料感、技法や創造過程の諸相から来る困難、克服、実現等々)を機軸としながら、それを単に個人の問題に留めるのではなく、自分の問題からそれを他者の問題へと客観化できる目を養うこと、そのための重要な着眼点の一つとして、発達段階と描画との相関の学習が位置づけられるのだと思います。その意味では、この問題は、3つの観点の三番目の「制作学」とも密接にリンクしていると言えます。
 要は、もはや教育系大学における実技系授業は、実技だけを漫然と行わせるのではなく、大学教員も常に自己制作から生ずる様々な気づきを、普遍的問題として明文化し他者へと啓蒙する視座をもつ必要性があるということです。(たとえそれが我田引水だと言われようが、それをやらないよりはいいのだと思います)

(続き)
| 小澤基弘 | 2009/05/10 12:26 PM |

横浜国立大学の渡辺です。続きです。

その様な幼児を取り巻く急速な環境の変化が免疫機能障害という現代病の元となるなら…我々が幼少期に母親や祖母に普通にして貰えた「絵本の読み聞かせ」や「わらべ歌の歌い聞かせ」といった…ごく当たり前に与えられていた幼児期の学習機会の急速な減少は…現代人の情緒不安定や健全な心身発達にも少なからず悪影響を与えているとの学者の指摘もあります。

子供が玩具で遊び、絵本が大好きなのは古今東西共通ですが「親達がどんなものを与えるのか」に起因する処が大きく、その意味で美術の大切な素養となる「形」や「色」への学習は、十分0歳児から始まっています。その観点を美術教育が認識することが重要ではないでしょうか。

子供に与えるべきもの…音楽の幼児教育であるのなら楽器、北欧には素晴らしい音色(正確な音階の音を奏でる)の優れた鉄琴(正確には真鍮+木製)があります。これは是非、一度、聴かれたら…日本に有る音の出る幼児用玩具が如何に粗悪なものか良く解ります。又、体育であるのなら身体発達遊具なら…古来、日本には剣玉等(完全な木製)優れた身体学習性玩具が有ったのですが、現在ではマニアの遊具として玩具屋の隅に追いやれているのが現状です。これらは、唯、知らないや、有ったのに見落としているなどの優れた玩具教材の一例です。美術教育の観点で優れた知育玩具に何が有るのか?幼児期に与えるべき玩具や教材について良く考えてみることも大切ではないかと思います。

私の幼少期には…幼稚園の庭でよく泥団子を作りぶつけ合いの勝負したり、竹薮で竹を取って弓矢を自作したり、細い竹の先に針金を丸くして付けては蜘蛛の巣を絡め「虫取り網の代用品」を作っては虫取りをしました。家で、コオロギ、カブト虫、メダカ、金魚、亀、蜥蜴、チャボ、兎、猫、犬…興味ある生き物を飼える環境が未だ横浜でも有りました。今では…落とし穴を掘れる原っぱも殆ど無くなり都会の生物採取は困難なものとなり…遊ぶ道具を自作する材料も自作方法を伝授する年かさも見当たらず…唯一、年齢を超えた繋がりが持てるのは少年野球チーム等のスポーツに属すしか手段が無くなりつつあるのが都会の遊びの現状で、それらに属さない子供達は仮に集まっても草野球をする広場も無く、放課後の校庭は安全の為に時に立ち入り禁止…群れてさえ尚、個人の保有するゲームに興じ…会話や相互の他者理解が極めて乏しいというのも悲しい現実ではないでしょうか。

文科省は『生きる力』とか机上の理想論を言いますが…都会では環境そのものが自然を失ってしまったことによる遊び場や素材自体の消失に起因する困難が生じていると思います。学びに相応しい環境を整備することは教育の第一歩と心得ますが、都会は非常に困難な教育の場だと言わざるを得ません。自然に親しむことのできる環境に幼児児童を置き…玩具を自作する発想や知恵を育てる活動が美術教育にできないかとも考えます。遊びを遊び道具そのものを自作することは、非常に有効な美術教育たり得ると感じます。

横浜の実家の物置で…昨年、年老いた母が私の小学校時代に描いた絵、版画、書道、作文、理科教材等を大切に保管していたことが解り…懐かしく恥ずかしく当時を振り返えりました。小学校で風景画、静物画、ペン画による貝、エッチング、多色刷木版画もしてました。得意だった工作は残っていないのですが…竹で工芸をしたり、何と…木の廃材で実際に股がって遊べる木馬を作った思い出は鮮明であり…当時の担任/野崎とみ先生(福島県出身)に深い感謝の念が蘇りました。

幼児教育の門外漢が単なる自己の経験や体験を元に単なる持論を述べましたが、石井先生に様に幼児期の造形教育にご精通する委員の先生のご意見ご指摘をお伺いできるなら幸いに存じます。

横浜国立大学 渡辺邦夫

| 渡辺邦夫 | 2009/05/08 5:09 PM |

横浜国立大学の渡辺です。

先の松浦委員長提案に関して私なりの所見を述べさせて戴きます。

先ず…1. 保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学で学ぶ『美術』(ここでは…敢えて各学科目としていません)について
美術という実技系教科(けして絵画・彫刻・工芸・デザイン4実技学科目のみという意味では無く)の特性しとして、他の一般教科とは大きく異なる身体性を伴う学習状況の特性が有ると思います。つまり、同じ実技系教科に音楽と体育がありますが…特に音楽教育が幼少期に如何に大切であることは周知の如くであり「絶対音感の習得は本来3歳児迄に養われる」と言われています。又、赤ん坊の「はいはい〜つかまり立ち〜二足歩行への進歩も身体訓練が獲得する反復学習で成立するもの」で、幼少期からの優れた音環境や身体運動環境は子供にとって極めて有意義な学習でありましょう。

それでは美術はどうか?と考えた時…0歳児に与えるべき玩具は存在しても…絵の具や粘土は誤飲の危険性から困難と言わざるを得ません。私の経験ではやはり最初は2〜3歳の頃、口に入れても安全な色料の特別なクレヨンや小麦粘土等を与えた記憶があります。
唯、幼児の発達は日々目覚ましいものがあり…優れた音環境が優れた音感を養う事実と同義に、私の経験では「優れた絵本を読み聞かせた」ものです。つい先日迄、横浜で原画展が開催されていた絵本の世界的代表作家にエリック・カール(代表作に『はらぺこあおむし』『だんまりコウロギ』『お父さんお月さまとって』等)が居ます。彼の絵本は幼児に圧倒的な人気があります。何故でしょうか。逆に非常にリアルに描かれた絵本より、それは…幼児が見える世界は我々のように現実の透視空間として未だ認知していないという理由が考えられます。このことは福島大学/渡邊晃一先生が『絵画の教科書』http://www.nichibun-g.co.jp/product/book/kaiga/にも空間の認識と発達の項で解析的に述べておられます。(この御本は非常に評価が高く…その殆どを執筆されておられる埼玉大学/小澤基弘・福島大学/渡邊晃一両先生は本当に素晴らしいと思います…未だ購読されておられない委員の先生方には是非、お勧めします!)

一方、幼児は、何でも手で触って握り迷いも無く口に入れて確かめるのは視覚より触覚が感覚的に優位にあるからと考えることが出来ます。その意味で…石油生成品であるプラスチックより旧来の『木』の玩具、それも彩色されたものより『無垢材』が優れた情緒や感性を育てるとの指摘もあり、近年はドイツで派生したフレーベル教育論(10の福音形体)に準じた素朴な積木も…触覚性、バランス感覚、みたての能力、造形感覚、美への感受性等への効能が見直されつつあります。一部の大人になれないオタクがハマるフィギュアに代表される様な…あまりにリアルな玩具ばかりが溢れる現代の玩具市場では…子供の自由な想像力は逆に限定されていっているのです。

お稽古、習い事としての幼児教育に眼を向けると…音楽教育に於いて全国展開する某音楽教室が3歳児から非常に隆盛であるのに対して…お絵描き教室に通わせる親はごく少数です。又、その多くは小学校低学年あたりからが普通だと思われます。その理由は、つまり、画材の保有時期にあるのではないかと私は予想しています。幼児期の音楽教育が段階的なレッスン形式であるのに対して…幼児期の美術教育は好きに自由に描かせる形式が普通であるのもまた…同じ芸術実技系/音美の決定的差異であろうかと思います。

保育園や託児所に預けられた幼児も…男児ならポケモン怪獣やミニカー、女児ならぬいぐるみやキャラクター人形に興じ…年上の子供が興じるTVゲームを傍らでボーッと見るという…悲しい幼児の実情(これは家庭でも同じこと)では…本来なら幼児の無限大である筈の創造性は…商業主義に毒されて…ある偏った方向へと既に制御されてしまっているのではないでしょうか。

都会に於いては自然との乖離も大きな問題です。余談かも知れませんが…最近、明らかになったことですが…急増する現代病=アトピー性皮膚炎の原因は…実は、幼児期に馬小屋や牛舎に近い環境に行った経験が無い人に限って発症し…その対策は、幼児期に敢えて家畜の屎尿にまみれた藁の中に住む雑菌の死骸を通常の呼吸により体内に摂取させさえすれば解決し、それら免疫機能異常による現代病は発症しない…という非常に興味深いものです。土、草、樹木、虫といった都会で排他されて来たものの中に住む雑菌から体得する生体抵抗力こそ…実は健康な生活に大きく貢献していたことが解って来たのです。

| 渡辺邦夫 | 2009/05/08 5:08 PM |

学大・石井です。

1. については『人側から開かれる美術』と理解しますので大賛成です。保育域では自然な事ですし、『美術』を超人のチカラと捉えるか、万民の底の力と捉えるかの違いですよね。それから、三点のポイントの発言をうけて考えつづけてみて、このように自己解釈してみたのですが、
1)自己の内面性(発達のみではなく、言語化は記号化で人が成人に向かう事は社会化に他ならないので)
2)自己の外面性(関係性・環境性・自分というローカルからグローバルへ)(身体、道具、日常、地域、社会への方向性・アフォーダンス要素も入れ込みたいので。)
3)自己の対象化(制作の直接の効能性、小澤先生論含む、自分で自分を実感し確認し自覚する、現状の自分を見つける(変化した自分をも)、それは世界を見つける事とも言えるので)
 以上3座標、自覚されていない自分、その置かれた状況、自己意識と言い換える事も出来ます。全て『実感』がポイントです。この『実感』こそ美術(芸術とまで)が他の領域(教育域における)にたいして引き受けべき核なのだと考えています。
 それから、特に0歳から2、3歳までは美術の形をなさない事(表現の芽はありますが)、さらに美術内の分野も意味を成さない思いますので、このままの議論構造では難しいのではないでしょうか?
 ですが、石井は最初から美術内分野分けには不自由を感じ、社会的美術から段取られる美術教育ではなく、人側から段取られる美術教育には、やはり大賛成です。

2.については上記1と同様で小学校以下の場合、横断的というよりも根源的な美術要素しか適応出来ず、各専門的分野分けは限りなく混じり合うと同時に打ち消し合うと思います。モノを作る(創る)ことは歴然と存在すると思いますが、所謂『現代美術』(何でもありで規定出来ない為の命名として)と社会的に呼ばれる事に近く、そのてんを引き受けるのが『造形遊び』ではないでしょうか。しかし、それをも『自己痕跡』としての美術と考えればまとまってしまいますが。もともと私にとっての見解は美術全体をコンペイ糖と考えると表面の突起が分野と呼ばれる部分にあたり、その突起の数も増え続けていますが。

3.についてですが、上記の様に考えているため、私自身はオプショナルとは考えておらず、繋ぎとして現況の委員で全体議論出来れば幸いと、カテゴリに含めて頂いたのですが、そうはいかず、というよりもそこまで議論の方向が向きませんでした。工芸ブログにて高石先生がご発言した、『このような過程の話をすると、不思議と「造形遊び」の存在意義と結びついていくように思います。しかし、この過程を目的として捉えることは、子どもや私たち大人の学びの捉え方、自己の制作の捉え方などなど、教員として今まで支えてきた価値観の改革つまり自己変革を伴うように感じています。』とのご発言に対する反応は薄かった様ですし。現況でこの議論が難航する様でしたら、人員追加も余儀ないのでしょうか、私自身はどのようなご相手でも前向きにご議論くださればありがたいです。(何ぶん指導要領に明記されていますから、使わないテはないので)

4.についてはもともと近代化(西洋化)から始まった『美術』ですから根が深く、払拭する為には相当な覚悟が必要かと。これも自己→身体→道具→地域(他者含んだ)→社会→世界と言う様に人から開かれる美術と考えると必然駅的に解消できるのですが、かくいう私もちょっと余裕があれば外車に目がいくので。

6.については現況では議論の時期は早いのではないでしょうか?人間の内面を考えれば必然的に時間を経れば此処へ至ると思います。

| 石井壽郎 | 2009/05/08 2:16 PM |

金沢大学・松浦先生よりのご提案

1. 福島大学の渡邊先生のご意見、「生まれてから保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学で学ぶ『絵画』の一連の教科内容の具体的なステップに関する目安、物差しを明確にすることが急務だと思う。」は、まさにこのワーキンググループが検討しようとしている『美術教育における教科内容学』ではないでしょうか。ただ、その範囲を0歳児からというのは渡邊先生のご体験からのご意見で大変独創的であり、それが可能かどうか、先生方のご意見をいただきたいと思います。
 もし美術教育の教科内容学が0歳児から可能であれば、それは明確な美術教育の特色となります。
 また、教科内容学を考えるための3つの柱として
1) 人間の発達段階
2) 地域づくり(日本、自身の生活する土地の文化的背景)
3) 自己実現や志向性に結びつく(制作学)
  を指摘されていますが、これについてもご意見ください。

2. 現在、各分野で議論していますが、美術の横断的な分野、総合的な分野の検討が必要というご意見がありますが、これは『表現』の領域を統合的に考えるということでしょうか。今ある分野はどう考えればよろしいでしょうか。具体的なカリキュラム等ご提案いただいて議論を深めたいと思います。議論の進展次第では、美術教育の大きな改革に繋がる問題ではないかと思います。

3.『造形遊び』について、議論の進展を諮るため、橋本部門委員長のご了解の下、  ワーキンググループの委員以外から『造形遊び』に造詣の深い先生に議論に参加していただこうと思うのですが、いかがでしょうか。

4.美術史・美術理論の先生方は、第1回美術教育における教科内容学の検討ワ−キンググループの会合の席上で、「西洋美術史の偏重」を指摘されましたが、その問題も大変重要で議論を深めたいと思いますので、問題提起をよろしくお願いいたします。

5.教科教育分野の先生方にお伺いします。先生方が今までの議論に参加されなかったのは、最近、兵庫教育大学の福本先生、鳴門教育大学の山木先生らが出版された『教育実践から捉える教員養成のための教科内容学研究』等といったように、教科教育分野では教科内容学の研究が充分に成されているので、教科専門分野の検討を見守っていると解釈していいでしょうか。
ではどの段階からご議論に参加いただけるのでしょうか。美術教育の教科内容学の確立は、教科教育と教科専門の連携なくして不可能だと思いますので、教科教育分野の先生方の積極的な議論への参加をよろしくお願いいたします。

6.学習指導要領の中に「・・・感性を働かせながら・・・」「・・・感性を豊かにし・・・」という文言がありますが、教師が授業の中で児童・生徒がどのような時、状態において「感性が働いた」「感性が豊かになった」と判断するのでしょうか。現場の教師間においても判断が曖昧だと聞いています。  
 美術教育における「感性」と他教科における「感性」との違いがあるのでしょうか。美術教育における「感性」について、特に教育現場における共通理解が必要ではないでしょうか。

| 松浦先生 | 2009/05/08 2:15 PM |

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